読まれる頁
四日目は、風車のはずだった。
蓮は水路の縁に紙と細い枝を並べていた。ヤンは向かいにしゃがんでいた。
ベルは塀の上にいた。今日は足をぶらぶらさせていなかった。頬杖をついて、ヤンの背中をじっと見ていた。
「……その座り方」
ベルがぼそりと言った。
「背中に板でも入ってるの? あんた」
「癖でして」
「ふうん」
ベルはまだ見ていた。思い出せそうで思い出せない、という顔だった。
裏口からロイが顔を出した。
「蓮。キネシス様がお呼びだ。今すぐ」
蓮は立ち上がった。膝の横に新しい帳面が置いてあった。革の表紙の四日前に買った一冊。
蓮はそれを拾わなかった。
「悪い。少し待っててくれ」
「はい」
「ベル、ミラが石のことで探してた」
「えー。今?」
ベルは塀から飛び降りた。ぶつぶつ言いながら、館の方へ歩いていった。
蓮も裏口へ入った。扉が閉まった。
水路の縁にヤンだけが残った。
紙と枝と。石の上に置かれた、一冊の帳面と。
水の音だけがしていた。
ヤヌスは帳面を見ていた。手を伸ばせば届く所にあった。
――帳面を見ておいで。
笑っているような字が頭の中に浮かんだ。
――あの人の帳面に手を出したら、私が斬るわ。
静かな声も浮かんだ。
ヤヌスは周りを見た。誰もいなかった。裏口の扉は閉まっていた。塀の上にも窓にも人の影はなかった。
あの男はわざと置いていった。それくらいは分かった。
古い方はとうに隠した。これは見られてもいい方だ。見せるために置いた。
なら、見ても何も出てこない。見なくても同じことだった。
ヤヌスの手は膝の上から動かなかった。
十、数えた。
二十、数えた。
いつの間にか数えていた。あの男の癖がうつっていた。
三十で、手が動いた。
帳面を取った。開いた。
一頁目。舟の順番が書いてあった。
一、ミラ。二、ヤン。三、ヴァイス(息)。四、ベル(氷)。五、蓮。六、ロイ(氷に乗り上げ)。七、リアム(沈没)。水汲み、リアム。
ヤヌスは瞬きをした。
二頁目。
帳面、銅貨八。上質の紙一束、銀貨一。安い紙、銅貨二十。筆、十五。
昨日、あの男が言った値だった。
三頁目。
テオの干し果物。昨日までに二十三。食べすぎ。
四頁目。
今日の稽古。素振り五百。フィールに三本取られ、一本取った。魔法、二発。
どの頁も数だった。数と短い言葉だけだった。
窓のことも。悪魔のことも。当主キネシスのことも。一行もなかった。
それはそうだ、とヤヌスは思った。見せるための帳面なのだから。
五頁目をめくった。
手が止まった。
頁のいちばん上に名前が一つ書いてあった。
――ヤン。
その下に数が並んでいた。
一、手。荷車のたこがない。
二、値。帳面の値を知らなかった。→ 三日目に教えた。
三、襟。外套の下だけ白い。→ 二日目に直っていた。
四、目。古い帳面を見た。
五、礼。紙売りの礼ではない。→ 少しずつ浅くなっている。
ヤヌスの喉が鳴った。
全部、数えられていた。直した所まで、数えられていた。
その下に線が一本引いてあった。線の下に数ではない行があった。
――鳥が折れた時の顔。嘘ではなかった。
――舟の競走で笑った。嘘ではなかった。
――負けたら水汲み、と言われたのは初めてだと言った。たぶん、嘘ではない。
――嘘が五つ。嘘でないものが三つ。
――まだ、どちらとも決められない。
そして、頁のいちばん下に。他より少しだけ大きな字で。
――風車は、明日にする。枝を削っておいてくれ。
ヤヌスは長い間、その頁を見ていた。水の音が遠くなっていた。
探れ、と言われて来た。帳面に何が書いてあるか、見てこいと。
見た。書いてあったのは、自分だった。
自分が探られていた。それはいい。それは覚悟していた。
覚悟していなかったのは、その下の三行だった。
嘘でないものを数えている者がいた。
嘘の数と同じように。
同じ頁に。
同じ重さで。
ヤヌスは帳面を閉じた。元の石の上に戻した。置いてあった向きを思い出しながら。
指一本ぶんだけずれた。直そうとしてやめた。
細い枝を一本取った。懐から小刀を出した。
削り始めた。
蓮が戻ってきた時、ヤンは枝を削っていた。膝の前に削り終えた枝が三本並んでいた。どれも、同じ太さだった。
蓮は石の上の帳面を見た。指一本ぶん右にずれていた。
拾い上げた。何も、言わなかった。
「……風車は」
ヤンが言った。手を止めずに。顔を上げずに。
「明日、ですか」
「うん」
蓮は言った。
「明日」
ヤンの小刀が枝の先を薄く削いだ。
「枝は、これで足りますか」
「足りる。上手いな」
「刃物は、少し習いましたので」
六つ目だ、と蓮は思った。紙売りは刃物を習わない。
ヤンも言ってから気づいたようだった。小刀が一瞬止まった。
それから、口の端が、ほんの少しだけ上がった。
「……書きますか。それも」
「書く」
蓮は言った。
「嘘じゃない方の欄に」
ヤンは初めて顔を上げた。何か言おうとして、言わなかった。ただ、小さく頭を下げた。
礼は、もう、ほとんど紙売りのものだった。
「読ませたのか」
キネシスは言った。その夜の執務室だった。
「はい」
「何を」
「あの男について、俺が数えたことを」
キネシスはしばらく黙っていた。
「相手に、手の内を見せたのか」
「嘘が五つあると知っている、と伝えただけです。こっちが何を知っているかは、一行も書いていません」
「それで、何が変わる」
「分かりません」
蓮は正直に言った。
「ただ、前にいた所で覚えました。探りに来た相手は、追い返しても次が来ます。来た者を迷わせる方が、長く効く」
「迷ったか」
「枝を、三本削ってくれました」
キネシスは蓮の顔を見た。呆れているのか、感心しているのか、分からない顔だった。
「……お前のやり方は、先代の帳面のどこにも書いていない」
「すみません」
「褒めている」
青年は窓の外を見た。
「私には、できないやり方だ」
同じ夜。宿の二階でヤヌスは細い紙を広げていた。
――帳面を見ました。
――紙の値、舟の順番、稽古の数。それだけです。
――キネシスに関わることは、一行もありません。
嘘は、一つも書いていなかった。書かなかったことが、一つあるだけだった。
紙を巻いて、鳥の足の筒に入れた。窓を開けて、鳥を放した。灰色の翼が、夜の屋根の上を越えていった。
ヤヌスはそのまま窓辺に立っていた。
机の上に削りかけの枝が一本あった。明日の分だった。
明日。
そんなものを任務の先に置いたのは、初めてだった。
窓を閉めようとした。
その時。
東の空が、赤かった。
朝焼けには、早すぎた。
屋根の連なりの、ずっと向こう。
地平の上に、小さな火が一つ、灯っていた。
二つになった。
三つになった。
鐘が、鳴った。
都の鐘楼の鐘だった。
昼の刻限の鳴り方ではなかった。
速く。続けざまに。
通りに、足音が湧いた。
従士たちが、館の方へ走っていた。
ヤヌスは、窓枠を掴んだ。
東の篝火。
悪魔が、来た合図だった。
館の見張り塔の上に、人影が見えた。
一人ではなかった。
八つ。
真ん中の一人を囲んで、七つ。
遠くて、顔は見えなかった。
見えなくても、分かった。
負けたら水汲み、と笑った者たちだった。
氷で舟を止めた娘と。息で舟を進めた男と。
手を出したら斬ると言った隊長と。
枝を削っておいてくれ、と書いた男だった。
八つの影が。
消えた。
塔の上には、もう誰もいなかった。
鐘だけが、鳴り続けていた。
ヤヌスは東の空を見ていた。赤い火は、三つのまま、揺れていた。
当主様はこういう夜を待っている。
キネシスが帰ってこない夜を。
その隣で、盾になった者たちが、帰ってこない夜を。
机の上で、削りかけの枝が、蝋燭の火に照らされていた。




