箱
「館の裏に、素性の知れぬ者が出入りしております」
ギードの声だった。
執務室の扉は、半分開いていた。蓮は廊下で待っていた。聞くつもりはなかったが、聞こえた。
「『門』の国の紙売りだとか。従士たちと、水路で遊んでいたと」
「知っている」
キネシスの声は平らだった。
「私が許した」
「当主様のお側近くに、身元の確かでない者を置くのは」
「側には置いていない。水路だ」
しばらく、間があった。
「……当主様」
ギードの声が低くなった。
「貴族付きの席が、二つとも空いたままです」
蓮は息を止めた。
「イライザとクレベスが逝って、もう一年になります。先代は、あの二人しかお側に置かれなかった。その二人が、エスクーダで揃って盾になった。……以来、当主様のお側には、誰もおりません」
「特務班がいる」
「あれは、外で戦う者たちです。館の内でお側を守る者ではない」
「何が言いたい」
「せめて一人。私でなくとも構いません。第一部隊から、腕の立つ者を」
「まだ、決めていない」
キネシスは言った。
「第一部隊長は、第一部隊を見ろ」
長い沈黙があった。
「……は」
足音が扉へ近づいた。ギードが出てきた。
廊下の蓮を見た。一瞬だけ目が合った。何も言わずに歩いていった。
蓮はその背中を見送ってから、中へ入った。キネシスは、窓の外を見ていた。
「聞いたか」
「……はい。すみません」
「構わない」
青年は振り向かなかった。
「貴族付きは、当主が眠っている間も傍にいる者だ。先代は二人しか選ばなかった。イライザと、クレベス。それで足りると言っていた」
窓硝子にキネシスの顔が薄く映っていた。
「あの席に誰を座らせるかは、誰を信じるかと同じことだ。……私は、まだ決められない」
蓮は何も言わなかった。
メンタルを館に迎えた日、借り物の貴族付きの制服を着て、キネシスの斜め後ろに立ったことを思い出していた。
あの制服は誰のものだったのか。
訊かなかった。訊かなくても、分かる気がした。
その日の稽古の後、水路の縁には一人多かった。
フィールが少し離れた石の上に腰を下ろしていた。腕を組んで。紙は受け取らなかった。
「隊長の方ですか」
ヤンが小声で蓮に訊いた。
「うん」
「……見られていますね。ずっと」
「気にしなくていいよ」
「気にします」
ヤンは背筋を伸ばし直した。
蓮は紙を二枚取った。
「今日は、箱。身と、蓋。二枚で一つ」
折った。四隅を立てて縁を内へ折り込む。ヤンの指がそれを追った。三日目の指はもう迷わなかった。
手のひらに四角い箱が載った。もう一枚でひと回りだけ大きい蓋。かぶせると、ぴたりと閉まった。
「……閉まった」
「蓋の方を、髪の毛一本ぶんだけ大きく折るんだ」
「髪の毛一本」
ヤンは蓋を開けた。閉めた。もう一度、開けた。中は空だった。
「箱には、何を入れるのですか」
「何でも。大事なものを」
蓮は自分の箱の蓋を開けた。懐から銅貨を出した。三枚。それから、もう五枚。
箱の中に八枚並べた。蓋を閉めてヤンの前に置いた。
「これは」
「一昨日の帳面の代金」
ヤンは箱を見た。蓮を見た。
「……お代は結構ですと、申し上げました」
「鳥の礼はもらった。帳面の代は、まだ払ってない」
「三枚で、と」
「八枚だよ。あの紙なら」
蓮は言った。
「この都の紙屋はもっと粗い帳面を八枚で売ってる。あれを三枚で売ったら、目立つ。次に来る本物の紙屋も、困る」
本物の。
そう言ってしまってから、蓮は気づいた。言い直さなかった。
ヤンの手が箱の上で止まっていた。長い間。
「……帳面は、八枚」
小さな声だった。
「上質の紙は、一束で銀貨一枚から。安い紙は、銅貨二十。筆は、十五。旅の商いなら、そこに一割か二割、乗せる」
蓮は次の紙を折りながら言った。顔は上げなかった。
「値を知らないと、商いは続かないから」
水路の水が石の間を流れていた。
ヤンは何も言わなかった。箱を両手で持ち上げた。中で銅貨が小さく鳴った。
「……ありがとうございます」
その声は少しかすれていた。
「覚えておきます。……紙屋として」
少し離れた石の上でフィールが黙ってそれを見ていた。
夕方、館の裏門までヤンを送ったのはフィールだった。蓮はテオに呼ばれて宿屋へ行っていた。
二人は並んで歩いた。どちらも口を開かなかった。
門の手前でフィールが足を止めた。
「蓮は、誰にでもああよ」
前を向いたまま、言った。
「養成所の頃から。隣に座った者に、自分の水を半分渡す。相手が誰かを、確かめる前に」
「……はい」
「だから、私が代わりに疑うの」
フィールはヤンを見た。まっすぐな目だった。
「あなたの手に、荷車のたこはない。蓮はとっくに気づいている。気づいた上で、値まで教えた」
ヤンは目を逸らさなかった。
「……正しいと思います。疑うのは」
「何を売りに来たのかは、訊かない。キネシス様が泳がせると決めたことだから」
フィールの左手が腰の剣の柄に軽く触れた。抜くためではなかった。そこにある、と示すためだった。
「ただ、一つだけ。あの人の帳面に手を出したら、私が斬るわ」
静かな声だった。脅しではなかった。事実を先に伝えているだけの声だった。
「覚えておきます」
ヤンは頭を下げた。
フィールは門を開けた。ヤンが通り過ぎる時に、もう一言だけ付け足した。
「箱。……上手に折れていたわ」
門が閉まった。
ヤンはしばらく門の前に立っていた。外套の内側で、銅貨が八枚、鳴った。
その夜、窓辺の籠に灰色の鳥が戻っていた。足の筒に細い紙が巻かれていた。
ヤヌスはそれを広げた。軽やかな、流れるような字だった。笑っているような字だった。
――ご苦労。
――紙を折る男、か。面白いね。
――メンタルが、あの従士のことを話していたよ。段取りが上手い、と。キネシスの手を、あの女から二度守った男だ。
――ただの従士は、そんなことをしない。
――帳面を見ておいで。キネシスが何を書かせているのか。あの家は、昔から、紙に書く家だ。
――急がなくていい。
――だが、遅れないように。
署名はなかった。門の紋が小さく押してあるだけだった。
ヤヌスは紙を机に置いた。その隣に紙の箱があった。
蓋を開けた。銅貨が、八枚。
――帳面は、八枚。
あの男はそう言った。こちらの嘘を知った上で、嘘が上手くなるように、値を教えた。
あの隊長は、言った。手を出したら、斬る、と。
ヤヌスは、二つを見比べた。
笑っているような字の紙と。銅貨の入った、紙の箱と。
「……帳面を、見ておいで」
声に出して、読んだ。
それから、蓋を閉めた。
髪の毛一本ぶんだけ大きい蓋は、音もなく、ぴたりと閉まった。




