紙の舟
「五つ、か」
キネシスは言った。朝の執務室だった。
蓮は昨日数えたものを順に話し終えた所だった。荷車のたこのない手。帳面の値。白い襟。古い帳面を見た目。紙売りに見えない礼。
「『門』の国から来た、と自分で言ったのだな」
「はい」
「隠す気があるのか、ないのか」
キネシスは机の上で指を組んだ。
「追い払うのは簡単だ。だが、追い払えば次が来る。次は、五つも数えさせてくれない者が来る」
「はい」
「泳がせる。何を見たがるかを、数えろ。見せるものは、こちらで選ぶ」
蓮は頷いた。それから、懐の古い帳面を出した。表紙の擦り切れた、最後の頁まで埋まった一冊。
窓のことも。十の問いも。砂漠の向こうのことも。全部、ここに書いてあった。
「これを、預かってください」
キネシスは受け取った。重さを確かめるように、手の上に載せた。
「隠し部屋に入れておく。……あの男が見たがっているのは、これだろう」
「たぶん」
「お前は、どう見た」
キネシスが訊いた。
「数ではなく、お前の目で」
蓮は、少し考えた。
「嘘は、五つありました」
「ああ」
「でも、鳥が折れた時の顔は嘘じゃなかったと思います」
キネシスは蓮を見た。しばらく、何も言わなかった。
「顔は、数に入れるな」
「数えた上で、言っています」
青年の口の端が、わずかに動いた。
「……好きにしろ。舟とやらを、教えてやれ」
館の裏に洗い場の水路があった。石で囲った浅い流れで、膝までの深さもなかった。
稽古の後、蓮はそこで紙を折った。向かいにヤンがしゃがんでいた。
今日は外套の下の襟まで砂色だった。
一つ、減っていた。
「ここを開いて、底を作る」
「底」
「水に触れる所だから、折り目をしっかり」
ヤンの爪が折り目をまっすぐにしごいた。手のひらに小さな舟が載った。舳先がぴんと尖っていた。
「これが浮くのですか」
「浮かべてみれば分かる」
ヤンは水路の縁に膝をついた。舟をそっと水に置いた。手を離した。
舟は沈まなかった。浅い流れに乗って、ゆっくりと動き出した。
ヤンは息を止めて見ていた。子どものような顔だった。
「……浮いた」
「うん」
「紙なのに」
「紙だから、軽いんだ」
後ろで足音がした。
「おい、何だそれ!!」
リアムだった。その後ろにロイ。ミラ。ヴァイス。
ベルが一番後ろから人をかき分けて出てきた。
「ずるい。あたし抜きで何やってるのよ」
「舟だよ」
「舟?」
ベルは水路を流れていく紙を見た。目が、丸くなった。
「……レン。それ、あたしにも」
そこからは、早かった。
蓮は紙を配った。七人が水路の縁に並んで紙を折った。
リアムの舟は底が歪んでいた。ロイの舟はやたらと大きかった。ミラの舟はヤンのものと同じくらいまっすぐだった。ヴァイスは一度も顔を上げずに折った。
「並べろ並べろ。競走だ」
リアムが言った。
「あの橋の下まで。一番遅かった奴が、今夜の水汲み」
「乗った」
ロイが言った。
ヤンは周りを見回した。自分も数に入っているのかどうか分からない顔だった。
「紙屋の兄ちゃんもだぞ」
リアムが当たり前のように言った。
「舟持ってんだろ」
「……私も、ですか」
「負けたら水汲みな」
ヤンは瞬きをした。それから、自分の舟を列の端に置いた。
「せーの!!」
七つの舟が流れに乗った。
リアムの舟は、三歩で傾いて沈んだ。
「嘘だろ!?」
「底が歪んでるからよ」
ベルが鼻で笑った。
ロイの大きな舟がどっしりと先頭を行った。ミラの舟と、ヤンの舟が、その後ろに並んでいた。ベルの舟は四番目だった。
ベルの右手が背中に回った。蓮はそれを見た。
「ベル」
「何もしてないわよ」
三つ数えた。
ロイの舟の前の水が薄く凍った。大きな舟が氷に乗り上げて止まった。
「おい!!」
「知らない。寒い日なのね、今日」
「汚ねえぞ!!」
ヴァイスが黙って水路の脇を歩いていった。自分の舟の後ろにしゃがんで、ふう、と息を吹いた。
舟が、すうっと前へ出た。
「俺は、魔法は使えない」
ヴァイスは言った。
「息は、吐ける」
「お前もかよ!!」
笑い声が水路に響いた。ミラが声を出さずに肩を震わせていた。
蓮は隣を見た。
ヤンが笑っていた。口を押さえて。肩を揺らして。
こらえようとして、こらえきれない笑い方だった。
橋の下に最初に着いたのは、ミラの舟だった。二番目がヤンの舟だった。
水汲みはリアムになった。
日が傾いていた。
皆が引き上げた後も、ヤンは水路の縁に座っていた。濡れた舟を手のひらに載せていた。紙は水を吸って柔らかくなっていた。
「子どもの頃に」
ヤンは言った。
「こういう遊びは、なさらなかったのですか。……いえ。逆ですね。私が、したことがなかった」
「一度も?」
「一度も」
ヤンは舟を見ていた。
「負けたら水汲み、と言われたのは、生まれて初めてです」
「負けなかったけどな」
「ええ。惜しいことをしました」
少し笑った。それから、蓮の方を見た。
「一つ、訊いてもいいですか」
「うん」
「なぜ、数えるのですか」
穏やかな声だった。昨日の訊き方とは少し違っていた。探る声ではなかった。ただ、知りたい、という声だった。
蓮は水路を見た。どこまで言うか、頭の中で選んだ。選んでから、嘘ではないことだけを言った。
「数えたものは、なくならないから」
「なくならない」
「人は、忘れる。大事なことでも、忘れる。でも、数えて紙に書いておけば、紙は忘れない」
ヤンの指が濡れた舟の上で止まった。
「忘れたくないことが、あるのですか」
「あるよ」
蓮は言った。
「たくさん」
北の国に並んだ四つの墓標。木の枝一本で蓮を転がした人。砂漠の窪地から、背負われて帰ってきた斥候。
名前は、言わなかった。
「一緒に戦って、帰ってこなかった人たちがいる。あの人たちが何をしたか。何人いたか。俺が忘れたら、誰も覚えてない」
ヤンは長い間、黙っていた。顔が少し白かった。
「……紙は、忘れない」
小さな声で繰り返した。
「そうですね。紙屋が、それを知らないのは、恥ずかしい」
立ち上がった。濡れた舟を捨てなかった。外套の内側にそっとしまった。
「明日は、箱を」
「うん。稽古の後に」
ヤンは頭を下げた。
昨日より少しだけ浅い礼だった。紙売りの礼に少しだけ近づいていた。
その夜、宿の二階でヤヌスは紙を広げていた。
伝書鳥はまだ戻っていなかった。それでも、書いておくことにした。
――従士たちと、紙の舟を流しました。
そこまで書いて、ペンを止めた。線を引いて、消した。
当主様が知りたいのは、そんなことではなかった。
――帳面は、今日は持っていませんでした。昨日とは別の、新しいものだけです。
――古い方は、どこかへ預けたと思われます。
――こちらの目に、気づいています。
それは、書いた。書かなければならないことだった。
ペンがまた止まった。
机の端に二つ並んでいた。乾いた鳥とまだ湿った舟。
――一緒に戦って、帰ってこなかった人たちがいる。
あの男はそう言った。
その人たちが、なぜ帰ってこなかったのか。誰があの戦場へ送ったのか。
ヤヌスは知っていた。
敵に回りそうな貴族を悪魔にぶつける。当主様がそう言うのをこの耳で聞いた。
貴族の盾になって死ぬのは従士だった。負けたら水汲み、と笑っていたような者たちだった。
――俺が忘れたら、誰も覚えてない。
「……紙は、忘れない」
ヤヌスは呟いた。
書きかけの紙を見下ろした。
これも、紙だった。
自分が何を書いて、誰に送ったか。これも、どこにも消えずに残る。
ヤヌスは、長い間、ペンを持ったまま動かなかった。
蝋燭が、短くなっていった。




