紙売り
都に紙の鳥が増えていた。
巡回の日から半月。宿屋の軒先に。パン屋の窓辺に。井戸端の石の上に。首の曲がった鳥や、羽の三枚ある鳥が、あちこちに止まっていた。
テオは近所の子どもを集めて折り方を教えていた。一人につき、干し果物を一つ取っているらしかった。
「レンが流行らせたのよ、これ」
ベルが言った。市場の通りを蓮の半歩前を歩いていた。
「どこ見ても鳥じゃない。そのうち紙がなくなるわよ」
「帳面を買いに来たんだ」
蓮の帳面は最後の頁まで埋まっていた。十の問いと、その前と後。四十八の零。百十四の升目。一年分の数が、一冊に詰まっていた。
「ベルは付いてこなくてもよかったのに」
「二十日近くも留守番させられたのよ。埋め合わせ」
「留守番したのは俺の方だ」
「レンって細かいこと言うのね」
ベルは、ふん、と鼻を鳴らした。機嫌は悪くなさそうだった。
市場の端に見慣れない屋台が出ていた。屋台というより、荷車だった。荷台に板を渡して、その上に紙の束と帳面を並べていた。
店番は若い男だった。二十歳を少し出たくらい。砂色の旅の外套。短く切った黒い髪。背筋が妙にまっすぐだった。
「いらっしゃい」
男は言った。丁寧な声だった。
「帳面ですか。紙ですか」
「帳面を。なるべく厚いのを」
「でしたら、こちらを」
男は革の表紙の一冊を取った。蓮は受け取って開いた。
いい紙だった。目が細かく、ペンの先が引っかからない。今使っているものより、ずっと上等だった。
「いくらですか」
「銅貨三枚で」
蓮は顔を上げた。
「……三枚?」
「高いですか」
「逆です」
今の帳面はもっと粗い紙で銅貨八枚だった。
男は瞬きをした。ほんの一瞬だけ、困った顔をした。
「旅の商いですので。荷を軽くして帰りたいのです」
「どこから」
「『門』の国から」
男は微笑んだ。
「ヤンと申します。紙を売って、国から国へ」
ベルが蓮の脇から顔を出した。男の顔を、じっと見た。下から。遠慮なく。
「……あんた」
目を細めた。
「どこかで会った?」
男の微笑みは崩れなかった。崩れなかったが、荷台の縁に置いた指が少しだけ動いた。
「いえ。お嬢さんのような可愛らしい方にお会いしていれば、忘れません」
「そう?」
ベルは首を傾げた。まだ、見ていた。
「……ま、いいわ。似た顔なんていくらでもあるものね」
蓮は銅貨を三枚置いた。
男はそれを受け取らなかった。代わりに、蓮の外套の胸を見ていた。従士の印を。
「もしかして」
男は言った。
「数を数える、従士の方ですか」
蓮の手が止まった。
「鳥を、子どもたちに教えたという」
「……誰から、それを」
「誰からも何も」
男は通りを手で示した。軒先に。窓辺に。井戸端に。
「この都で紙を売ろうとすれば、三人に一人がその話をします。紙屋として、知らずには帰れません」
男は荷台から紙を一枚取った。両手で蓮の前に差し出した。
「お代は結構です。その代わりに、教えていただけませんか。ただの紙が、どうやって鳥になるのか」
宿屋の裏庭で蓮は紙を折った。向かいでヤンが同じように折った。ベルは塀の上に座って足をぶらぶらさせていた。
「そこは、山に」
「山」
「こっち側に、折り目を出す」
ヤンの指は器用ではなかった。だが、正確だった。
角と角を合わせる時、紙一枚の厚みもずらさなかった。折り目を爪でまっすぐにしごいた。一度言われたことは二度訊かなかった。
蓮はその手を見ていた。ゼノに会ってから、人の手を見る癖がついていた。
白い手だった。中指にペンのたこがあった。それだけだった。
荷車を引いて、国から国へ紙を売り歩く男。その手のひらに、荷車の柄のたこがなかった。
一つ。
帳面の値を知らなかった。
二つ。
外套は旅の色に汚れているのに、その下の襟だけが、白かった。
三つ。
蓮は数えた。数えただけで、何も言わなかった。三つでは何も決められない。
「……できた」
ヤンが言った。
手のひらに、紙の鳥が載っていた。首がまっすぐで羽の高さが左右ぴたりと揃っていた。初めて折ったとは思えない鳥だった。
「へえ」
ベルが塀の上から覗き込んだ。
「テオより上手いじゃない」
「聞こえてるぞ!!」
裏口からテオの声が飛んできた。
ヤンは笑った。屋台で見せた微笑みとは違う笑い方だった。思わず出た、という顔だった。
それから、手のひらの鳥を、長い間見ていた。
「不思議ですね」
ぽつりと、言った。
「切っても、貼ってもいない。開けば、元の一枚に戻る。それなのに、鳥に見える」
「うん」
「誰が、考えたのですか。これを」
「俺じゃない」
蓮は言った。
「俺のいた所で、昔から皆が折ってた。誰が最初かは、誰も知らない」
「あなたのいた所」
ヤンは顔を上げた。
「どちらの国ですか」
穏やかな訊き方だった。世間話の、続きのような。
蓮は、次の紙を手に取った。
「遠い所だよ」
「遠い」
「うん。もう、帰れないくらい」
ヤンはそれ以上訊かなかった。
訊かなかったが、目は、蓮の膝の横に置かれた新しい帳面を見ていた。それから、その隣の古い帳面を。表紙の擦り切れた、最後の頁まで埋まった一冊を。
一瞬だけだった。すぐに、手の中の鳥に戻った。
四つ。
蓮はそれも数えた。
「また、教えていただけますか」
帰り際にヤンは言った。
「しばらく、この都で商いをします。鳥のほかにも、折れるものがあるなら」
「あるよ。舟とか、箱とか」
「舟」
ヤンの目が、少し明るくなった。
「紙が、舟に」
「水に浮く」
「……それは、見たい」
本当に見たそうな声だった。蓮は、少し笑った。
「明日、稽古の後なら」
「ありがとうございます」
ヤンは頭を下げた。背筋のまっすぐな、きれいな礼だった。
紙売りの礼には見えなかった。
五つ。
男が角を曲がって見えなくなってから、ベルが塀から飛び降りた。
「ねえ、レン」
「うん」
「あいつ、絶対どこかで見たのよ」
ベルは腕を組んで唸っていた。
「どこだったかしら。……思い出せないのが、腹立つ」
その夜。市場の裏の、安い宿の二階。
男は机の上に紙の鳥を置いた。外套を脱いで、その下の白い襟を指でゆるめた。
窓辺の籠の中で、灰色の鳥が首を傾げていた。本物の伝書鳥だった。
男は細く切った紙を広げて、ペンを取った。
――当主様。
――「移動」の都に入りました。
――くだんの従士に、接触しました。名は蓮。
ペンが止まった。
何者か探れ。そう命じられていた。
キネシスが、なぜただの従士を傍に置くのか。メンタルが、なぜあの男の名を覚えたのか。あの男が、帳面に何を書いているのか。
男は今日見たものを思い返した。
紙を折る、節の太い指。剣だことペンのたこのある手。子どもに怒鳴られて、笑っていた顔。
――遠い所だよ。もう、帰れないくらい。
そう言った時の、声。
男は続きを書いた。
――数を数え、紙を折る男です。
――今のところ、それ以上のものは見えません。
――引き続き、調べます。
――ヤヌス
紙を巻いて鳥の足の筒に入れた。窓を開けた。
灰色の鳥が夜の空へ飛び立った。「門」の国の方へ。
ヤヌスは窓を閉めた。
机の上にもう一羽、鳥が残っていた。紙の鳥だった。首がまっすぐで、羽の高さの揃った鳥。
報告には書かなかったことがあった。
あの男は気づいている。
手を見ていた。襟を見ていた。数えていた。気づいた上で、明日、舟を教えると言った。
「……妙な男だ」
ヤヌスは呟いた。
紙の鳥を指でつついた。軽かった。
軽いのに、なぜか、握り潰す気にはなれなかった。




