知っているだけ
キネシスはすぐには振り向かなかった。ペンが帳面の上で止まっていた。
「……もう一度言え」
「俺には、海が見えません」
蓮は言った。
「砂が、あそこで終わっています。まっすぐに。その先には、何もありません」
「何も、とは」
「何も、です。水も。岸も。色も。空も、同じ所で終わっています」
キネシスは南東を見た。それから、蓮を見た。もう一度、南東を見た。
「私には、海が見える」
「はい」
「青くて、広い」
「はい」
青年は帳面を閉じなかった。書いたばかりの一行に、指を置いていた。
「粉は」
「寝ています。ここでは、誰も、何の力も使っていません」
キネシスは長い間、黙っていた。風はやはりなかった。
「訊け」
やがて、青年は言った。
「お前が十人に訊いたように。私に訊け」
蓮は息を吸った。
「どんな青ですか。空より濃いですか。薄いですか」
キネシスは口を開いた。南東を見たまま。
答えは出てこなかった。
「……青い」
「空と比べて」
青年の眉が寄った。目を凝らしていた。すぐそこに在るはずのものを、見ようとしていた。
「岸は、砂浜ですか。岩ですか」
「……」
「波は、右から来ますか。左から」
「……」
「鳥は、飛んでいますか」
キネシスの唇が動いた。
声にはならなかった。
だが、蓮には読めた。
あおくて、ひろい。
その形にしか、動いていなかった。
キネシスは、自分の口に手を当てた。そこから何が出ようとしたのかを、確かめるように。
「……出てこない」
低い声だった。
「目の前に在る。在るのに、色の濃さ一つ言えない。青くて広い。それしか、出てこない」
手が下りた。
「見えているのでは、ないな」
青年は言った。
「知っているだけだ」
蓮は何も言えなかった。
キネシスはまだ南東を見ていた。眩しそうな顔はもうしていなかった。
「お前の言うものは、私には見えない。今も、青くて広いとしか思えない。……だが、それ以外が何一つ出てこないことは、今、確かめた」
帳面が開かれた。さっきの一行は消されなかった。その下にペンが走った。
――同じ場所、同じ刻。従士蓮は、砂の先に何も無しと言う。
――色の濃さ、岸の形、波の向き、鳥。問われて、当主は一つも答えられず。
――これも、自ら確かむ。
キネシスはその三行を見下ろした。上の一行と、下の三行。同じ頁に、並んでいた。
「記録も、間違うことがある」
青年は言った。継いだ年に、キネシスが機密書の余白に自分で書き足した言葉だった。
「どの行が間違いかは、後の当主が決める。私は、確かめたことを全部書く」
帳面が閉じられた。
キネシスは一歩、前へ出ようとした。砂丘を南東へ下る方へ。
足が、止まった。
「……まただ」
「キネシス様」
「塔を出てから、ずっとだ。行かなくていい、と頭のどこかが言う」
青年は自分の足を見下ろしていた。
「ここまでは、帳面を握って足を出した。ここから先は、出ない。海がそこに在るのに、波打ち際まで行ってみようと、少しも思わない。……第二部隊も、ここから見て帰る。三十年分、誰も浜へ下りていない」
蓮は、キネシスの袖を掴んでいた。いつ掴んだのか、自分でも分からなかった。
「行かないでください」
声がかすれた。
「あそこから先は、足を置く所がありません」
キネシスは、掴まれた袖を見た。それから、蓮の顔を見た。青ざめているのが自分でも分かった。
「行かない」
青年は言った。
「行く気が起きないことも、書いておく」
二人は、しばらくそこに立っていた。
一人は、海を知っていた。一人は、何もないものを見ていた。
「蓮」
「はい」
「なぜ、お前には見える」
「分かりません」
「あの力が効かない者にだけ、見える。なら、お前の見ているものが、この国の本当の端か」
蓮は答えなかった。答えたくなかった。
キネシスはそれ以上訊かなかった。
「人には、言うな」
静かな声だった。
「サナトス殿にも。フィールにもだ。誰の目にも、あれは海だ。お前が何を言っても、お前が狂ったことにしかならない。……私も、帳面がなければ、そう思っていた」
「はい」
「帰るぞ」
キネシスは北を向いた。一度だけ、肩越しに南東を見た。
青くて広いものを見る目だった。その目がほんの少しだけ、揺れていた。
五日後、東の街道から馬車が戻ってきた。
荷台から最初に飛び降りたのは、リアムだった。
「帰ったぞ!! 悪魔は一匹も出なかった!! 退屈で死ぬかと思った!!」
ロイがその後ろから荷を担いで降りた。ヴァイス。ミラ。ベル。
最後にフィールが降りた。まっすぐに、蓮の前へ来た。顔を、じっと見た。
「一つでも」
「忘れてない」
蓮は言った。
「全部、覚えてる」
フィールの肩から力が抜けた。長い間止めていた息を、やっと吐いたような顔だった。
「……よかった」
それから、少し笑った。
「約束。帰ってきたら、また訊いてって言ったでしょう」
蓮の胸の奥が冷たくなった。
「……砂漠の向こうには、何がある」
「海よ」
フィールは言った。迷いのない声だった。
「青くて、広いわ」
「うん」
蓮は頷いた。
「そうだな」
笑い返した。
嘘をつくのはもう慣れていた。
フィールに嘘をつくのは、慣れていなかった。
その夜、井戸のそばに足音が来た。軽い足音。小さな歩幅。
ベルは今度は隣に座った。膝を抱えて井戸の水面を見ていた。
「ただいま」
「おかえり」
「二十日近くよ。二十日近くも、砂と畑しか見てないのよ。あたし」
「うん」
「何か言いなさいよ」
「……無事でよかった」
ベルは、ふん、と鼻を鳴らした。耳が、少し赤かった。
しばらく、二人とも黙っていた。
「ねえ」
ベルが言った。
「フィールに訊いてたでしょ。海のこと」
「ああ」
「レンは、見たの?」
蓮は水面を見ていた。キネシスの声が、頭の中でした。
――人には、言うな。
「……見に行った」
「どうだった」
青くて、広かった。
そう言えば、済むことだった。皆が、そう言っている。
蓮は口を開いた。その言葉は、出てこなかった。
「……匂いが、しなかった」
代わりに、そう言っていた。
ベルは蓮の横顔を見ていた。長い間。
「ふうん」
それだけ言った。それ以上は、訊かなかった。
ただ、立ち上がる時に、小さな声で言った。
「いつか、あたしも連れてって」
足音が宿舎の角を曲がっていった。
蓮は帳面を開いた。
なぜ、俺だけ消されないのか。巡回の知らせが届いた夜に、書いた頁だった。その下に、書き足した。
あの力は届いている。届いて効かない。
砂漠の向こうに、海はない。
何も、ない。
皆は、海を知っている。見てはいない。
ペンが、止まった。
懐から、白い貝殻を出した。井戸の縁に、置いた。
海は、あった。ずっと昔に。
誰が、それを消したのか。
なぜ、俺にだけ、消えた跡が見えるのか。
答えは、どこにも書いていなかった。
蓮は最後に一行だけ書いた。
覚えているのは、一人。
見えているのも、一人。
帳面を、閉じた。
東の空に、篝火は燃えていなかった。頭の上に、星が出ていた。
やけに近い、星だった。




