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砂漠の向こう

 十一度、跳んだ。蓮は数えていた。

 都の南門の上。街道の一番砦。涸れ川の跡。そこから先は、砂と空しかなかった。

 キネシスは見える限りの遠くへ跳んだ。砂丘の稜線から、次の稜線へ。十一度目に、砂の中から石の塔が生えているのが見えた。南の外れの監視塔だった。


「海?」


 ゼノは塔のてっぺんで核を割っていた。鑿を持ったまま、振り返りもしなかった。


「当主様がわざわざ、海を見に来たのか。物好きな」


「ここから見えるか」


 キネシスが訊いた。


「見えん。ここから南東へ、歩いて三日だ。白い砂丘が三つ並んでおる。その三つ目の上から見える」


「行ったことが、あるんですか」


 蓮が訊いた。


「若い頃に、一度な」


 老人は核の欠片を日にかざした。


「青くて、広かった」


 蓮はもう驚かなかった。


「匂いは、しましたか」


「匂い?」


 鑿が止まった。

 老人は初めてこっちを向いた。眉が寄っていた。フィールの時よりも、長かった。


「……書いておらんな」


 ぼそりと、言った。


「わしは、何でも書く男だ。魔物の糞の色まで書く。その日の帳面に、海の色と大きさは書いた。匂いを書いた覚えが、ない」


 皺だらけの指が、こめかみを掻いた。


「妙だな。……まあ、年だ」


 老人はまた核に向き直った。


 蓮とキネシスは、顔を見合わせた。どちらも、何も言わなかった。






 白い砂丘は塔の上から見えた。南東の地平に三つ並んでいた。


 キネシスはすぐには跳ばなかった。


「……ここまでで、十分ではないか」


 独り言のような声だった。


「あの老人も、海は在ると言った。報告書も、三冊ある。この先まで行く用が、本当にあるのか」


「キネシス様」


「分かっている」


 青年は自分の額に手を当てた。


「確かめていないことは、書けない。……妙だな。今朝、館を出る時には、こんなことは少しも思わなかった」


 懐の帳面を、外套の上から押さえた。それから、一つ目の頂へ跳んだ。


 二つ目へ。


 三つ目の手前の谷で足を止めた。今度は、長かった。


「引き返す訳を、三つ考えていた」


 キネシスは砂丘を見上げたまま言った。


「東の篝火。日暮れ。水。……どれも、ここへ来る前に片づけた訳だ」


 蓮は何も言えなかった。蓮の足は少しも重くなかった。


「ここからは、歩く」


 青年は言った。


「見えない所へは、跳べない。稜線の向こうは、上ってみなければ見えない」


 二人は砂を踏んで上った。


 日が高かった。風がなかった。

 蓮はそれに気づいた。砂漠にはいつも風があった。ここには、なかった。


 足元で何かが白く光った。蓮はしゃがんで、砂の中からそれを拾い上げた。

 小さな白い渦を巻いた殻。貝殻だった。

 指でこすると、砂が落ちた。乾ききっていた。ずっと昔から、ここにあったような乾き方だった。


 蓮は周りの砂を見た。白い欠片があちこちに混じっていた。砂丘が白いのはそのせいだった。


「海が近いからだろう」


 キネシスが先に立って上りながら言った。


「貝があるなら、海がある。……見ろ。目盛りは、動かない」


 蓮は貝殻を握った。鼻に近づけた。

 何の匂いもしなかった。潮の匂いも。磯の匂いも。乾いた砂の匂いだけだった。


 稜線が近づいた。


 あと十歩。


 五歩。


 キネシスが先に頂に立った。


 足が、止まった。


 青年は長い間、動かなかった。


「……ああ」


 息を吐くように、言った。


「海だ」


 蓮は最後の三歩を上った。


 キネシスの隣に立った。


 見た。


 砂丘の向こうに砂が続いていた。


 なだらかに下って遠くまで。


 その先で。


 砂が、終わっていた。


 岸ではなかった。


 崖でもなかった。


 ただ、終わっていた。


 紙を刃物で切り落としたように、まっすぐに。


 右の果てから、左の果てまで。


 その先に。


 何も、なかった。


 蓮は、瞬きをした。


 もう一度、見た。


 黒では、なかった。


 黒なら、黒いものが在る。


 白でも、なかった。


 霧でも、闇でも、空でもなかった。


 色が、なかった。


 遠さが、なかった。


 目を向けると、目が滑った。


 焦点を合わせようとしても、合わせる先がなかった。


 見ているのに、見えているものがなかった。


 空も、同じだった。


 頭の上の青は、南東へ行くほど薄くなり、砂の終わりの真上で、同じように終わっていた。


 雲が一つ、その切れ目にかかっていた。


 半分だけの、雲だった。


 向こう半分が、なかった。


 蓮の膝から、力が抜けた。


 砂に、手をついた。


 胃の底から、何かがせり上がってきた。


 吐き気ではなかった。


 体が、あれを見ることを拒んでいた。


 落ちる。


 そう、思った。


 あそこへ向かって、世界ごと傾いているような気がした。


 音が、なかった。


 波の音は、なかった。


 風の音も、なかった。


 自分の息と、心臓の音だけが、耳の中で鳴っていた。


「青いな」


 隣で、キネシスが言った。


 穏やかな声だった。


「広い。……先代にも、見せたかった」


 蓮は、顔を上げた。


 キネシスは、あれを見ていた。


 まっすぐに。


 目を細めて。


 眩しいものを見る顔だった。


 きれいなものを見る顔だった。


 その目に、何が映っているのか。


 蓮には、分かった。


 青くて、広いもの。


 キネシスには、それが在った。


 蓮には、なかった。


 同じ場所に立って。


 同じ方を向いて。


「……波は、見えますか」


 蓮は訊いた。自分の声が、遠かった。


「波?」


 キネシスは、目を凝らした。


「……ある。あるはずだ。遠くて、よくは見えないが」


「音は」


「聞こえない。遠いからだ」


 遠いからだ。


 フィールもそう言った。


 キネシスは懐から帳面を出した。ペンを取って立ったまま書いた。蓮の位置から、その字が見えた。


 ――外周の南東の端にて、海を確認。青く、広し。

 ――移動のキネシス、自ら確かむ。


 確かめた事実だけを書く。あの家の決まり。

 そこに、今、その一行が書かれていた。キネシスの、迷いのない字で。


 蓮は手の中の貝殻を見た。乾ききった、白い殻。


 海は、あったのだ。


 ここに。


 ずっと、昔に。


 蓮は外套の下から木の枠を出した。白い紙の上の、灰色の粉を見た。

 寝ていた。一粒も、立っていなかった。


 今、ここでは、誰も、何の力も使っていなかった。幻を見せている者は、いなかった。

 仕掛けは、ここにはなかった。キネシスの、頭の中にあった。年に一度、広場で、優しい声が書き込んでいく一行の中に。


 蓮は立ち上がった。膝がまだ震えていた。


 言えば、どうなるのか。分からなかった。

 言わなければ、あの一行が、「移動」の家の確かめた事実として、百年先まで残る。


 蓮は息を吸った。


「キネシス様」


「何だ」


 キネシスは、まだあれを見ていた。眩しそうに。


「俺には」


 喉が、乾いていた。


「海が、見えません」


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