軽くなったもの
その夜、執務室の灯りは一つだけだった。
キネシスは椅子の背にもたれて天井を見ていた。珍しい姿だった。
「初めて、最後まで聞いた」
青年は言った。
「去年までは、私も広場の側にいた。継ぐ前の継承候補に、加護はない。皆と同じ顔をして、皆と同じように忘れていたはずだ」
蓮は壁際に立っていた。
「あれが、毎年か」
「はい」
「青くて、広い」
キネシスはその言葉を口の中で転がした。
「私も、そう思っている。今もだ。見たこともないのに、色を知っている。……自分の頭の中に、他人の書いた行がある」
机の端に、三冊の報告書が並んだままだった。キネシスは、それを見なかった。
「続けろ。お前の報告だ」
蓮は話した。
粉が立ったこと。演説の間、立ったまま戻らなかったこと。壇の上で訊かれたこと。答えたこと。それから、最後の囁きのこと。
半拍。
キネシスは長い間黙っていた。
「メンタル殿に、言うと思うか」
「分かりません」
蓮は言った。
「ただ、言うつもりなら、あの場で言えたはずです。あの人は、言わずに笑っていました」
「玩具を、棚に戻したか」
「たぶん」
「来年、また手に取るために」
蓮は、答えなかった。
キネシスはようやく天井から目を下ろした。
「来年までに、瞬きを直しておけ」
「……はい」
「冗談だ」
青年は笑わなかった。
それから三日で、蓮は十人をもう一度回った。同じ問いを、同じ順番で訊いた。升目の右に、新しい列が埋まっていった。
今年の巡回の言葉。十人とも、覚えていなかった。十人とも、いいお言葉だったと言った。
王。十人とも、お城においでだと言った。変わらなかった。
海。十人とも、青くて広いと言った。変わらなかった。宿屋の息子だけが、やはり、しょっぱい匂いがすると言い張った。
変わったのは、二番目の問いだった。
悪魔は怖いですか。
門番は言った。
「そりゃ怖いさ。だが、遠い話だろう」
料理番は言った。
「貴族様方が守ってくださるよ」
鍛冶屋も、馬丁も、宿屋の主人も。十人が、同じことを言った。
巡回の前、カルの村の名を口にしたのは八人だった。
今日は、零だった。
蓮はその零を書いた。それから、九人目の所へ行った。
荷運びの女だった。市場の裏で、荷車に麻袋を積んでいた。
巡回の前、この女は、三番目の問いの途中で泣いた。
弟が、カルの村にいた。あの夜、悪魔に戸を破られた家の一人だった。その家からは、誰も攫われはしなかった。だが、姉を頼って都へ出てきた弟は、夜になると叫ぶようになった。東の空を見ると、震えて動けなくなった。
あたしがついていてやらなきゃ、と女は言った。仕事の合間に、毎日様子を見に行っている、と。
蓮は訊いた。
「弟さんは、どうしていますか」
「弟?」
女は麻袋を担いだまま振り返った。汗を拭って笑った。
「ああ、元気だよ。昨日も広場で会った。いいお言葉だったって、にこにこしてたよ」
「夜は」
「夜?」
「夜、叫ぶと言っていました」
女は、きょとんとした。
「誰が、そんなこと言ったんだい。あの子は昔から寝つきがいいんだよ」
麻袋が荷車に載った。
「村に、帰るってさ。カルに。畑が待ってるからって」
蓮の手が止まった。
「……カルに」
「東の外れだよ。何もない所だけど、静かでいい村さ」
女は次の袋に手をかけた。軽い手つきだった。
巡回の前、この女の肩は何かを背負っているように落ちていた。今は落ちていなかった。
蓮は礼を言って市場を出た。歩きながら、書いた。
弟。叫ばなくなった。
姉。案じなくなった。
弟は、カルの村へ帰る。
ペンが紙の上で止まった。
夜に叫ぶ男が、叫ばなくなった。それは、良いことのはずだった。
震えて動けなかった男が、畑へ戻る。それも、良いことのはずだった。
その畑は東の外れにあった。
悪魔が、夜に来る所に。
キネシスは升目を端から端まで読んだ。今度は黙って読み終えなかった。九人目の所で、指が止まった。
「帰るのか。カルへ」
「はい」
「止める理由が、ない」
キネシスは言った。自分に言い聞かせるような声だった。
「あの村には、従士を置いてある。篝火も燃やしている。本人が帰ると言うものを、当主が止める筋はない」
「はい」
「民は、軽くなった」
青年は升目から目を上げなかった。
「眠れなかった者が眠れる。叫んでいた者が、叫ばなくなる。……蓮。それは、悪いことか」
蓮はすぐには答えられなかった。
パン屋の老婆の、晴れ晴れとした顔を思い出していた。荷運びの女の、軽い手つきを。
「分かりません」
正直に言った。
「俺は、あの人たちが泣いている所を見ました。今は、笑っています。笑っている方がいい、と思います」
「だが」
「東の篝火が上がっても、誰も逃げる支度をしません」
蓮は言った。
「怖いと思えない人は、逃げません。巡回の前なら、あの弟さんはカルへ帰らなかった」
キネシスは、長い間、黙っていた。
「王の定められたしきたりだ」
やがて、言った。
「悪魔のいない頃に定められた。恐れても仕方のないものを恐れずに済むように。それは、慈悲だったのだろう」
指が、九人目の升目を叩いた。
「今は、悪魔がいる。……私の一存で止められるものではない。止めるべきなのかも、私には分からない」
帳面が、蓮の手に返ってきた。
「分からないことは、分からないと分かった所までを書く」
「はい」
「他には」
蓮は帳面を閉じなかった。十番目の問いの頁を、開いたままにしていた。
「海を、見に行かせてください」
キネシスの眉が動いた。
「目盛りは、動きませんでした。十人とも、前も後も、青くて広い。動かないのは、消されなかったからじゃない。毎年、同じ言葉で書き直されているからです」
「……続けろ」
「見たことのない人と、見た人が、同じ言葉を使います。三十年分の報告書が、同じ一行で終わります。海が在るのかどうか。在るなら、どんな海なのか。誰かが自分の目で確かめたことが、一度でもあるのか」
蓮は机の端の三冊を見た。
「確かめた事実が、どこにもありません」
キネシスも三冊を見た。長い間。
それから、立ち上がった。
「家の決まりだ」
青年は言った。
「最初の頁には、確かめた事実だけを書く。……『移動』の当主が、国の端に何があるかを確かめていない。それは、先代に叱られる」
懐から、自分の帳面を出した。
「明日、跳ぶ」
「キネシス様が」
「お前一人では、砂漠で干からびる。南の外れの監視塔だ。あの老人のいる所が、いちばん海に近い」
ゼノの塔。
――分かったら、塔へ知らせろ。
老人の声が蓮の頭の中で鳴った。
「ギードを残す。東の篝火が上がれば、南の塔の鳥舎へ鳥が飛ぶ。日のあるうちに行って、日のあるうちに帰る」
キネシスは窓の外を見た。南の空だった。
「海か」
青年は言った。
「青くて、広いのだろうな」
その声には、何の疑いもなかった。
蓮は、それが恐ろしかった。
その夜、蓮は井戸のそばで、木の枠に新しい紙を張った。灰色の粉を、薄く撒いた。
明日。
この世界に来て、初めて。
砂漠の向こうにあるものを、自分の目で見る。
蓮の知っている海には、匂いがあった。音があった。風があった。
明日、それがあればいい、と思った。
本当に、そう思った。




