半拍
歓声はなかなか止まなかった。メンタルは紙の鳥を抱いたまま、それを微笑んで聞いていた。
やがて、キネシスの方へ向き直った。
「キネシス様。段取りでは、この後はお見送りでしたわね」
「ああ。刻限の鐘が鳴れば、門が開く」
「その前に、一つだけ」
メンタルは言った。
「この鳥を、子どもたちに教えてくださった方に。お礼を申し上げたいのですけれど」
キネシスの顔は動かなかった。
「ただの従士だ。礼には及ばない」
「あら。子どもたちの贈り物の、いちばんの功労者ですのに」
メンタルは壇の下を見た。
「どなただったかしら。数を数える、従士の方」
「あそこ!!」
テオの声だった。人波の中から、まっすぐに指が伸びていた。
「あの兄ちゃん!! 外套の!!」
何千の顔が、一斉に蓮を見た。人の肩が、左右に割れた。壇まで、一本の道ができた。
逃げ場はなかった。
蓮は外套の下の枠を、背中の帯に差した。歩いた。
一歩ごとに、顔を作った。さっきの老婆の顔。テオの顔。晴れ晴れとした、何も覚えていない顔。
壇の階段を上り、メンタルの三歩手前で止まった。右の拳を、左の胸に当てた。
「蓮、でしたわね」
メンタルは言った。覚えていた。
「はい」
「今日の言葉は、いかがでした?」
蓮は笑った。老婆が笑ったように。
「胸のつかえが、すうっと取れました」
「まあ。嬉しいこと」
メンタルは目を細めた。
「私、何と申し上げたかしら。覚えていらして?」
蓮は口を開けた。少し考える顔をした。テオがそうしたように。
「……申し訳ありません。忘れてしまいました」
頭を掻いた。
「でも、いいお言葉でした。それは、覚えています」
十人が十人、去年の言葉をそう答えた。升目の、一番目の問い。蓮は、その答えをなぞっていた。
メンタルは、微笑んだまま頷いた。
その横から。
「ねえ、数える人」
エスピリが進み出ていた。
紙の鳥の山を抱えたまま、蓮の周りをゆっくりと歩いた。右から。後ろへ。左へ。棚から下ろした玩具を、裏返して眺めるように。
「砂漠の向こうには、何があるの?」
「海です」
「どんな?」
「青くて、広い」
「ふうん」
エスピリは蓮の正面で足を止めた。下から、顔を覗き込んだ。色の薄い目だった。
「匂いは?」
蓮の鼻の奥に、潮の匂いが蘇った。
べたつく風。
足の裏の砂が、波に持っていかれる感じ。
耳から離れない、波の音。
全部、知っていた。
全部、飲み込んだ。
蓮は眉を寄せた。あの朝、馬車の前でフィールがそうしたように。
「……匂い、ですか」
首を、少し傾けた。
「さあ。遠いので」
エスピリはしばらく蓮の顔を見ていた。
長い間。
それから、にっこりと笑った。
「そう。遠いものね」
一歩、下がった。
蓮の背中を、汗が伝っていた。
十番目の問い。動かないはずの目盛りとして置いた問いが、今、蓮の命綱になっていた。
「ありがとう、蓮」
メンタルが言った。
紙の鳥を、左の腕に寄せた。
右手が、空いた。
白い手が、伸びてきた。
蓮の頭に、そっと触れた。
「子どもたちに、良いものを教えてくださったわね」
柔らかい手だった。
テオの言った通りだった。
蓮は、数えた。
一呼吸。
二呼吸。
何も、来なかった。
何かが頭の中へ入ってくる感じも。
何かが抜けていく感じも。
ただ、柔らかい手が、髪を撫でているだけだった。
それが、何よりも恐ろしかった。
手が、離れた。
離れた手は、下りなかった。
そのまま、横へ向いた。
五歩先の、キネシスの方へ。
「キネシス様にも、お礼を」
メンタルが、歩き出した。
右手を、差し出したまま。
一歩。
二歩。
キネシスは、下がらなかった。
下がれなかった。
何千人の民が、見ていた。
三歩。
蓮は動けなかった。
ただの従士が、貴族の間に割って入ることはできなかった。
四歩。
その時。
鐘が、鳴った。
広場の鐘楼の、刻限の鐘だった。
壇の上の空気に、縦の線が一本引かれた。
線が、開いた。
「刻限だ、メンタル殿」
キネシスが言った。右の拳を左の胸に当てた。握手の手ではなく、礼の手だった。
「ゲート殿を待たせては悪い。『移動』の民を代表して、礼を言う。来年も、お待ちしている」
メンタルの足が止まった。差し出した右手が宙に残った。
一呼吸。
それから、その手はゆっくりと紙の鳥の上に戻った。
「まあ」
メンタルは微笑んだ。
「本当に、隙間のない段取りですこと」
「段取りの上手い者が、うちにはいる」
「ええ。存じておりますわ」
メンタルの目が一度だけ、蓮の上を通った。それから、門へ向き直った。
「皆様。また来年、お目にかかりましょう」
広場が、どっと沸いた。
白い衣が、門の中へ入っていった。エスピリが、その後に続いた。
蓮の横を通った。
通り過ぎる、その時。
足が、ほんの少しだけ遅くなった。
声がした。
蓮にだけ聞こえる、小さな声だった。
鈴を転がすような。
「さっきね」
エスピリは、前を向いたまま言った。
「皆より半拍、瞬きの遅い人がいたの」
蓮の心臓が、止まりかけた。
「誰だったかしら」
くす、と笑う声がした。
「来年も、数えていてね。数える人」
白い衣が、門の中へ消えた。
線が、閉じた。
歓声だけが残った。
蓮は、壇の上に立っていた。拳を胸に当てたまま。晴れ晴れとした顔を、作ったまま。
瞬きができなかった。
「良いお言葉でしたな、当主様」
ギードが言った。いつもの、落ち着いた声だった。虚ろな目はもうどこにもなかった。
「……ああ」
キネシスは言った。それだけだった。
その目が、蓮を見た。一瞬だけ。
よくやった、とも。危なかった、とも。どちらとも取れる目だった。
蓮は小さく頷いた。膝が震えていた。背中の帯で木の枠が汗で湿っていた。
半拍。
あの何千の顔の中から。
たった半拍を、あの目は拾っていた。




