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届いている

 メンタルの言葉は、労いから始まった。

 この一年の、民の働きへの。東の開拓地で汗を流す者たちへの。砂漠を越えて荷を運ぶ者たちへの。一つ一つ、名指しするように。

 広場のあちこちで、人々が頷いていた。自分のことを言われている、という顔だった。


「そして、カルの村のこと」


 メンタルの声が少し低くなった。


「恐ろしい夜でしたわね。あの夜を、皆様も耳にされたでしょう。東の空の篝火を、毎晩見上げてしまう方も、おいでになるでしょう」


 蓮の前で、パン屋の老婆の小さな背中が震えていた。孫が、東の開拓地にいると言っていた。


「眠れない夜を、過ごされたでしょう」


 すすり泣きが聞こえた。一つではなかった。


「よく、耐えましたわね」


 優しい声だった。胸の奥の、いちばん固く握りしめていた所に、そっと手を添えるような声だった。


 蓮はそれを知っていた。回復の国のあの夜と同じ声だった。

 だからこそ、恐ろしかった。


 メンタルは紙の鳥を抱いたまま、広場を見渡した。端から、端まで。


「――さて」


 蓮は外套の下で息を止めた。


「皆、こちらを見なさい」


 その一言を境に。


 口調が、変わった。


 蓮は目だけを下に落とした。


 外套の合わせ目の隙間。腰の高さ。


 手のひらほどの白い紙の上で。


 灰色の粉が、立っていた。


 一粒残らず。


 紙の端から端まで。


 キネシスが跳んだ時と、同じだった。


 線にも輪にも、寄らずに。


 ただ、その場で。


 違うのは、一つだけだった。


 寝なかった。


 粉は、立ったまま、戻らなかった。


 ――届いている。


 蓮は目を上げた。


 この力は、俺の所まで、届いている。


 届いて。


 効いていない。


「砂漠の向こうには、海がある」


 メンタルが言った。


 経を読むような声だった。幼子に寝物語を聞かせるような、柔らかな声だった。


「青くて、広い海がある」


 蓮の背中を、冷たいものが這い上がった。


 青くて、広い。


「あなた方は、それを知っている」


 前の老婆の唇が、動いていた。


 声は出ていなかった。


 だが、蓮には読めた。


 あおくて、ひろい。


 右の男の唇も。


 左の女の唇も。


 その向こうの、肩車をされた子どもの唇も。


 何千の唇が、同じ形に動いていた。


 升目の中に、九つ並んだ言葉。


 三十年分の報告書の、最後の一行。


 あれは、ここから来ていた。


「王は、お城においでになる」


 メンタルは続けた。


「あなた方が、お姿を知る必要はない」


 ――お城においでだよ。あたしらが知っていいことじゃない。


 十人が十人、そう答えて、そこで話をやめた。


 蓮は歯を食いしばった。


 顔には出さなかった。


 力を抜いた。瞬きを止めた。焦点を、ぼかした。


 唇だけを、周りに合わせて、かすかに動かした。


「悪魔は、遠い」


 メンタルの目が、広場の上を滑っていた。


「カルの村の夜は、遠い国の、古い噂」


 老婆の背中の震えが、止まっていた。


「貴族様方が、あなた方を守る」


「夜は、安らかに眠りなさい」


「東の空を、見上げなくていい」


 一つ、言葉が落ちるたびに。


 広場から、何かが抜けていった。


 握りしめていた拳が、開いていった。


 強張っていた肩が、下がっていった。


 何千人が、同じ顔になっていった。


 穏やかな、何もない顔に。


 壇の上で、キネシスが立っていた。


 五歩離れた所から、自分の民を見ていた。


 顔は、動いていなかった。


 体の横で、拳だけが、白くなるほど握られていた。


 その半歩後ろで、ギードが、虚ろな目でメンタルを見ていた。


 唇が、動いていた。


 あおくて、ひろい。


 メンタルの目が、こちらへ滑ってきていた。


 老婆の顔の上を。


 その後ろの、蓮の顔の上を。


 一つ。


 二つ。


 通り過ぎた。


 止まらなかった。


 蓮は、まだ息をしなかった。


 メンタルの半歩後ろに、もう一対の目があったからだ。


 エスピリだった。


 紙の鳥を山ほど抱えたまま、広場を眺めていた。


 メンタルとは、見方が違った。


 端から順に、ではなかった。


 あちこちを、気まぐれに。


 何千の同じ顔の中から、違う一つを探すように。


 楽しそうに。


 その目が、広場の真ん中あたりで、少しだけ遅くなった。


 蓮は、唇を動かし続けた。


 あおくて、ひろい。


 あおくて、ひろい。


 外套の下で、枠を握る手に汗が滲んでいた。


 エスピリの目が、離れた。


 離れたように、見えた。


「――はい」


 メンタルが言った。


 いつもなら、手を叩く所だった。


 メンタルの両腕は、紙の鳥で塞がっていた。


 叩かなかった。


 叩けなかった。


 代わりに、小さく首を傾けた。


「お目覚めなさい」


 広場が、息を吹き返した。


 何千人が、一斉に瞬きをした。誰かがほうっと息をついた。誰かが笑った。それが波のように広がって、歓声になった。


 パン屋の老婆が、振り返った。皺だらけの顔が晴れ晴れと笑っていた。


「ああ、いいお言葉だったねえ」


 老婆は言った。


「胸のつかえが、すうっと取れたよ」


 蓮は笑い返した。それから、訊いた。十日前と、同じ問いを。


「悪魔は、怖いですか」


「悪魔?」


 老婆はきょとんとした。


「ああ、怖いねえ。でも、遠い話だろう。貴族様方が守ってくださるよ」


「カルの村のことは」


「カル? さあ、何かあったかねえ。古い噂なら、聞いたような気もするけど」


 老婆は首を傾げた。困った様子は、なかった。


「お孫さんは、東の開拓地でしたね」


「ああ、そうだよ。元気でやってるだろうさ。あの子は丈夫だから」


 老婆はにこにこと笑っていた。


 十日前、この人は言った。毎晩、篝火の方を見ちまう、と。

 その目はもう東を向いていなかった。


 軽くなったのだった。確かに、軽くなっていた。

 孫の身を案じる重さごと、持っていかれていた。


「兄ちゃん!!」


 人波をかき分けて、テオが走ってきた。頬がまだ赤かった。


「聞いた? いいお言葉だったな!!」


「ああ。何て仰ってた」


「え?」


 テオは口を開けて、閉じた。


「……忘れた!! でも、いい言葉だった!!」


 少年は笑って駆けていった。蓮はその背中を見送った。


 外套の下で粉は、もう寝ていた。


 届いている。届いて、効かない。

 なぜなのかは、まだ分からなかった。


 分かったのは、一つだけだった。


 歓声の中で。何千人の晴れやかな顔の中で。

 あの言葉を覚えている民は、一人だけだった。


 一年間、ずっと、一人だった。


 今日も、一人だった。


 蓮は、壇の上を見た。


 エスピリが、まだ広場を見ていた。


 紙の鳥の山の向こうで。


 誰かを探すように。


 笑っていた。


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