私塾
真木は三歳の定期検診で、AIネットワークが展開していなかったとの診断を下され、中学三年生の今、非AI組としての人生を歩んでいた。
十二月、中学最後の定期試験が終わった後、塾へ行く途中、真木は近くの楽器店に立ち寄った。
弦を張り替えた。
この店は古く、真木の通塾している塾長に紹介された。実際どこまで塾長が店主と関係していたかもわからないのだが、七十を超えたてっぺんが禿げて白髪の店主が、枯れ枝のような指でいろいろと見てくれた。
「いつものでいいのかい」
「はい」
「このギターも幸せもんだ。今じゃアンプもこんな小さくなってな」
スマホサイズにスピーカーとアンプが付いていて、エレキギターから電波で飛ぶようにできていた。
老店主は高々と掲げた。蛍光灯の光に照らして、赤いギターに塗られたラメがキラキラ輝いていた。
「そろそろ返そうかと」
「そうかそうか。塾長にな」
「以前話してたものありますか」
「あるよ」
「お願いします。高校合格したらお祝いに足してもらえそうなんで」
「ここで買うよりもよその方がポイント還元とかあるんじゃないのか」
「お世話になるんで」
「義理堅い。森さんの生徒だな」
弦を張り替えて調律した。他の高そうなギターを見ながら待っていると、店主は「このギターは先生の付き合っていた人のもんだ」と教えてくれた。女の子が弾きやすいようにネックが細いものを選んであるらしい。もっとも塾長もFやらのコードが弾きにくいので細いものと柔らかい弦を選んでいたということだ。
「彼女さんのなんですか。知りませんでした。悪いことしたかな」
「悪いことなら勧めとらん。明るくていい子だったからね。二人でよく来てくれて、どちらかというと彼女さんが引っ張られてた気がするな」
「塾長が?」
「驚くことかい。森さんもどちらかというとレディース使ってたし」
塾長が言うには、人の脳は過去・現在・未来とx軸・y軸・z軸と飛び跳ねる。夢も現実もなく自由に振る舞うからこそ、いいこともあれば、ときには悪いこともある。AI組にも非AI組にも言えることだと話していた。静かで、少し重い声が耳から染み込むように腹の底に溜まる。
「ここ三年らコードだけしか練習してなくて。曲は全然。まだ弾けないコードもあるし」
「曲弾きたくならないかな」
「コード、美しくないですか?」
「そのことは森さんに話したことはあるのかい?」
「軽く笑われました。美しいものだけ並べて満足している意味がわからないと言われました」
店主は笑った。張り替えたギターを布で拭いて指紋まで消えるくらい仕上げてくれた。
「孤立したコードなんて美しくても意味がないとか。どういう意味なのかわかりますか」
「わからんな。早く曲弾いてみろということかな。ステージに立てとか?」
真木はステージに立つことなど考えてもいなかった。誰かと一緒に音を合わせて、互いに意見の違いを押し殺しながら演奏するなど、いろいろしなければならないが面倒だ。こうしてコードを弾くことは、整然とした行為のように思えていた。
(乱れたくない。一人ですべてやってしまえる爽快感があるんだ)
真木は小学生のはじめの頃から一人で生きていくことに憧れを持つようになった。少人数の塾で、誰にも邪魔されずに自分の好きなように勉強できるところに通い、成績を維持し続けることで、一人で生きていくことへの憧れを満たしていた。AI組の落ちこぼれには落ちこぼれの生き方もあるし、気概もあると信じた。
「あなたは落ちこぼれなんかじゃないのよ。AI組がすべてじゃない」
母に言われた。
いつの頃だろうかと思い出そうとしても思い出せない。
小学校を六年、中学校を三年通い、この冬にはすでに私立の進学校への内定らしきものも得られた。
「AI組なんて勉強だけじゃない」
「勉強ができても社会で役に立たない新社員なんていくらでもいる」
いつも両親は定期テストや模擬試験の成績表を見て喜んでくれた。親にもAI組に入れてやれなかった申し訳なさもあるらしい。うまくネットワークが形成されるかどうかは、遺伝によるものか環境によるものなのか今のところわかっていない。
□ □ □
モサモサ髪の塾長がネクタイの長さどうにかこうにか整えていた。
小学二年の冴子は塾のボックス席で勉強していた。ただひたすら解けることを楽しんでいた。
「勉強おもしろいのか?」
「はい」
「そうか」
特に気にすることはない会話だと思っていた。数十年前、脳内展開型生成AIが開発された。チップを乳児の脳に埋め込むことで、本人の脳神経の成長とともにAIに組み込まれた知識系ネットワークも爆発的に脳を発達させることに成功した。
(どうやって埋め込むんだろ)
頭にキズもない。
(注射器のようなものかな?)
世界は初等教育の短縮化、成人年齢の低年齢化へと舵を切った。
三歳児健診で、診断結果が出ると言われている。AIが展開されたと診断された子どもは、特別なカリキュラムに進むことができた。俗に言われるAI組みである。
冴子は小学二年の午後から業務委託された個人塾で勉強していた。たいていは駅前の大手、政府系と陰で言われる塾に行くが、人づきあいの苦手な子どもやそもそも対面授業のいらない子どもたちには、委託系と呼ばれる個人の塾に通える。
冴子は小学三年生のときには中学生レベルのカリキュラムは終えようとしていたので、ひたすらボックス席で中学受験問題を解いていた。
「え……?」
肩越しに様子を見た。後ろでは塾長が黒いスーツの衿を整えてネクタイを締め、長さを調整していた。卓上デジタル時計に映る彼を見ていたのだが、突然そのときがやって来た。見たことも覚えたこともない知識が浮かんできた。中学受験算数を解いていたとき、二次不等式が使えと呼んできて、実際に正解した。
「そろそろか……」
「え?」
「高尾さん、休憩したら?」
塾長は腕時計を見た。時間を気にしているのではなく、冴子は彼が何か閃いたときの癖だと知っていた。
(わたしの中に誰かいる)
「しかしくそ暑いね。生まれてこの方ずっと暑い気もするけど」
「は……い……」
(二〇二〇年九月……平均温度三十六度。生まれてない。どうしてこんなこと出てくるの?)
「去年も暑かったのかな」
「たぶん……」
翌日、学校へ行くと中学生の問題集の英単語も読めたし訳せた。ハイレベルの数学は少し考えたが、いくつも解けたし、日本史や世界史は知らない語句はないくらいで驚いた。
(これは隠すべきなの?)
夜、塾長は気づいた。
担任や養護教諭、AIプログラム担当教諭をごまかしていたが、塾長は隣に腰を掛けて穏やかな表情で言葉を選ぼうと俯いていた。
(ヤバいよ)
塾長はお姫様に一輪の花を渡すように丁寧にロリポップをくれた。しわしわの包み紙にくるまれた棒つきのキャンディを冴子は震える手で受け取ったことを覚えている。
「今の気持ちは?」
冴子は首を横に振った。
なぜか涙が左右にこぼれた。
「誰かが頭の中にいるみたい」
「君は君だけのものだ。他人なんていない。誰もいない。いるのは高尾さんだけだ」
「誰にも言わないで」
冴子は必死で訴えた。しかし塾長は悲しそうな顔をした。静かに視線が地面を落ちて、暗く泣いているようにも思えた。
「これから君は嵐に巻き込まれることになると思う。その嵐は一人では立ち向かえない。だから話さないといけない」
塾長は外へ連れ出してくれた。
月が浮かび、太陽が月を照らしている映像が頭に閃いた。ベンチに腰を掛けると、だから月は満ち欠けするのだということに気づいた。
冴子は瞼を力の限り閉じた。
「アメは嫌いか?」
「今いらない」
塾長は「そうか」と、ポケットから煙草を出して、くわえたまま両手で髪を後ろに撫でつけた。背もたれにもたれたときベンチが軋んだ。
「煙草はよくないですよ」
(何で?こんなこと言うの?)
「健康にはね。でも人は体だけで生きているわけじゃない。確か名探偵の言葉だ」
「シャーロック・ホームズ」
(知らない。人の名前なの?)
アーサー・コナン・ドイルが生んだ探偵小説の主人公。ヴィクトリア朝時代を中心に推理を駆使する。
「ホームズか。でも君は九歳だ。先生もロリポップで我慢するかな」
塾長は煙草をポケットに入れてロリポップの包みをほどいた。しばらく塾長はキャンディを舐めながら背もたれに肘を置いて、コンクリートの剥げ落ちた空き地を眺めていた。
黒猫が現れた。
「これは映画じゃない」
「現実……」
猫は撫でろと塾長の足に頭を寄せてきた。塾長は顎を撫でた。寝転んで腹を見せると、足を高く上げて毛づくろいをはじめた。
「このことは隠していれば余計につらくなるんだ。今高尾さんの頭の中で起きていることは」
生成AIが実際の脳神経とともに爆発的に増えようとしていて、組み込まれていた情報が信号として頭の中を何度も何度も回っている。
「どうなるの?」
「見たこともない言葉なんかが出てくる。以前九九を覚えた?漢字もアルファベットも。あんなものが覚えなくても出てくるようになる」
「勉強が楽になる」
「そうだ。コナン・ドイルのシャーロック・ホームズは、高尾さんは読んだこともないはずだ。黒猫の話はデータにも入ってないのかもな」
塾長は自分で親や担任に話すか先生から話すか尋ねてきた。
「自分で」
「そうか。これから君にはたくさんの時間ができる。隠してはいけないんだ。怖いかもしれないけど、君の頭は君のものだ。悩むこともあるかもしれない。時間は無限じゃないことは覚えておいてほしい。これが君へ贈れる僕の精一杯の言葉だ」
塾長は力の抜けた猫を抱き上げて撫でてみろと近づけてきた。冴子は恐る恐る撫でた。するとだらんとしていた猫のは全身が緊張した。
「今の君はこの猫のように緊張してるんだ。大丈夫。安全だとわかれば緊張がほぐれる。君もだ」
毛がやわらかい。
(でも触れちゃいけない)
冴子は手を引っ込めると、塾長は足の下に猫をそっと置いた。猫はしばらく冴子を見てから、ゴロンと横たわって空き地を見つめていた。
「君は猫のことを思って手を引っ込めたよね。でも世の中そうしてくれる人ばっかりじゃないんだ」
冴子は今てはあの塾長がいなければスムーズに移行できていないことは理解していたが、彼を恨んだ。
小学教育を終え、八歳から特別高等教育プログラムリストに名前を連ねた。これまでの友だちと離れて同じAI組で中学高校、大学受験レベルを学べる塾へと通いはじめた。
いくらでも理解できた。
「よかったわね、冴子。これから勉強して好きなことできるね」
(稼げるねじゃないの?)
両親は褒めてくれた。しかし冴子は怖くて緊張したまま疲れて眠ることしかできなかった。そんなとき思い出すのは、なぜか塾長だ。彼は喜んでもいなくて、むしろ悲しんでいた。他の学校関係者は手放しで喜んでいたことを思うと、彼の反応は正反対だ。こうなることを知っていたかのようで、それなら傍に置いてくれていてもよかったのにと恨んだ。
たかだか八歳の冴子に自己主張できる力はなく、親や学校関係者が敷いたレールに導かれ、十七歳の今でも緊張したままでしか眠れない。




