元五郎丸2
酒谷港と最中川河口の間を仕切るように沖に延びる上瀬の堤防の上で、孝輔と高倉は釣り糸を垂らしていた。堤防はふたりのいる場所から更に北西に向かって日本海に三キロほど突き出している。午後四時を過ぎて日の陰り始めた堤防では、孝輔たち以外にも十人近くの釣り人がいて、思い思いの格好で竿を握っている。時折潮風がサアッと水面を走り抜けていく。波は穏やかで堤防に打ち付けるチャプチャプという音が足元から絶え間なく聞こえてくる。
「そらきた」
高倉が弓のようにしなった釣り竿をグンと立てると、釣り糸に引っ張られた鯵が海面から飛び出してきた。高倉は満足気に目を細めると、釣り糸の先でピチピチと踊る鯵を掴んだ。高倉の足元に置いてあるクーラーボックスには既に鯵が二十匹ほど入っている。
「大漁大漁、これで晩飯のおかずができた。良夫君の調子はどうだい」
堤防の上にいる多くの釣り人たちが次々と鯵を釣り上げる中で、なぜだかひとりだけ一匹も釣れない孝輔はむくれている。
「全く釣れません。高倉さんと同じ餌なのに。プロとアマチュアの違いがハッキリと分かりました」
「ハハハ、そんな大したもんじゃないよ。ほれ、向こうの人たちも、みんな入れ食いじゃないの。おかしいな、なんで良夫君だけ・・・針は付いているよな」
「高倉さんが付け忘れてなければ」
孝輔が恨めしそうに高倉を見た。完全な責任転嫁である。
「やはり腕か・・・よし、諦めてそろそろ引上げるとするか」
孝輔には徹頭徹尾釣りの資質がないと見極めたのだろう、これ以上は時間の無駄だと高倉が腰を上げた。孝輔がしぶしぶと後に続く。
孝輔と高倉は釣竿をしまうと、ふたり並んで堤防を歩き始めた。夕日を受けてふたりの影が堤防の上に長く延びている。既に孝輔の頭の中は、夕食に上るであろう鯵のたたきと鯵フライでいっぱいになっていた。自分が釣った魚だろうが、他人が釣った魚だろうが、腹に入れば一緒だ。
鮫島を乗せたベンツが最中川の河口に架かる出波大橋に差し掛かったところで、鮫島の手の中のスマートフォンが鳴った。
「鮫島だ。・・・おう、前田か、ちゃんと見張っているんだろうな。・・・いま? ああ、丁度目の前に出波大橋が見える、もう直ぐ到着だ。・・・釣り? 孝輔は堤防に・・・分かった」
鮫島はスマートフォンを切ると運転手の神崎の頭を拳骨で小突いた。
「元五郎丸って船宿の場所は調べてあるな。よし、この車はその近くの適当な場所に目立たないように止めろ。船宿の先の堤防で前田が待っているから、神崎と斎藤はそこで前田と合流して、堤防で釣りをしている孝輔を捕まえろ。俺は船宿で待機している。いいな、これが最後のチャンスだ、孝輔を絶対に捕まえるぞ」
道路沿いにある小さなドラッグストアの駐車場にベンツを止めると、鮫島たちは車から降りて出船町に向かって走った。
出船町の先にある上瀬の堤防の入口で、前田が貧乏ゆすりをしながら、液晶画面をのぞき込むようにして両手でスマートフォンを操作していた。前田はゲームに夢中になっていて、走ってくる神崎と斎藤に気が付かない。
神崎が前田の肩をポンと叩くと、前田は吃驚してスマートフォンを落とした。
「何するんだ! やっとクリアできそうだったのに」
前田がスマートフォンを拾い上げると、目の前に神崎と斎藤が肩で息をしながら立っていた。
「何だ神崎と斎藤か。久しぶりじゃねえか」
現状が理解できていないのだろう、前田の声には緊張感が微塵も感じられない。それに対して緊張感が身体中から滲み出ている神崎が前田を睨んだ。これに失敗すれば命はないのだ。
「前田、そんなこと言っている場合じゃないぞ! 孝輔はどこだ!」
「孝輔? ああ、孝輔ならこの先の堤防で釣りをしてるぜ」
神崎に言われて自分の役目を思い出した前田が、堤防の先に向かって指を差した。前田が指差す先には、釣竿を持ちクーラーボックスを肩から下げた孝輔と高倉の姿があった。前田たちと孝輔の間の距離は二百メートルほど。
孝輔と前田の目が合った。
「いた! 孝輔だ、いくぞ!」
神崎が叫び声を上げるや否や走り出した。「オオ」と声を上げて前田と斎藤が続いた。
孝輔は堤防の入口でかたまっている三人組に気付いた。その中のひとりが孝輔を指差している。あれは・・・江渡神組の前田だ! 見つかってしまった、捕まれば殺される。
孝輔はその場に釣り竿を放り投げると、回れ右をして堤防の上を走り出した。吃驚した高倉が孝輔に声を掛けた。
「良夫君! どうしたんだ」
「東京からの追手です・・・高倉さん、お母さんを頼みます・・・」
「頼むって・・・オーイ良夫くーん、そっちは行き止まりだぞー・・・ああ、行っちまった」
遠ざかっていく孝輔の背中を見ている高倉の横を、前田たちが必死の形相で駆け抜けた。風体からすると暴力団のチンピラのようだ。捕まるのは時間の問題だと思いながら、高倉は孝輔が放り投げた釣り竿を拾い上げた。
孝輔は堤防の上を全力で走っていた。
捕まったら殺される。そのことしか孝輔の頭の中にはなかった。鮫島の凶暴な顔が目の前に浮かび、頭の天辺から抜けてくるような甲高い怒鳴り声が耳元で鳴り響いている。ハアハアという自分の呼吸音が周囲の物音を掻き消して不思議な静寂に包まれている。ゴクリと生唾を飲み込もうとするが、喉はカラカラで唾が出てこない。太ももの筋肉は疲労してピリピリとした痙攣が始まり、腿が思ったように上がらない。ちょっとしたコンクリートの凹凸に足を取られて何度も前につんのめりそうになった。
酒谷港の沖に向かって延びる堤防は進むほどに幅が狭くなり、やがて幅一メートルほどのコンクリートの塀のようになった。塀の上は遥か遠くまで真っ直ぐに延びる平均台のようで、その上を走る孝輔は両腕を広げて必死にバランスを取っている。一歩踏み間違えれば海に転落してしまう。足元だけを見つめて必死に走る孝輔の目の前に、突然海が広がった。堤防が途切れたのだ。
「ウワッ、落ちる!」
孝輔は身体を弓なりに反らし、両腕をグルグルと回して転落する直前で何とかバランスを保った。
立ち止まった孝輔がゆっくりと顔を上げると、そこは堤防の突端だった。
周囲は全て海で、西に傾いた夕日が海面に茜色の帯を伸ばしている。遥か先に酒谷港の出入口を形作っている反対側の堤防が見える。その酒谷港の出入口を何隻もの漁船が波しぶきを上げながら往来している。突然、孝輔の耳に音が戻ってきた。船の汽笛や風の音が聞こえる。
孝輔はゆっくりと後ろを振り向いた。孝輔に向かって走る前田たち三人の姿が見えた。前田たちも疲労困憊なのだろう、身体がフラフラと揺れている。孝輔と前田たちとの距離はあと百メートルもない。もうダメだ逃げられない。孝輔は観念するとフウッと大きく息を吐いて目を瞑った。
エンジン音が聞こえてきた。孝輔が音のする方に眼を向けると、沖から現れた一隻のレジャーボートが波を蹴立てて堤防の突端目掛けて進んでいる。ボートの舳先がうねりを切り裂いて白い波しぶきが上がる。近づくにつれてレジャーボートのエンジン音はますます大きくなった。
堤防の突端まで近づいたレジャーボートは突然スピードを落とした。上下に揺れながら惰性でゆっくりと進んでいるレジャーボートの舷側と、堤防の上に立っている孝輔との距離は一メートル足らずしかない。レジャーボートの運転席からサングラスをかけた若い男が孝輔に向かって声を掛けた。
「浅井孝輔君だね、乗りなさい」
孝輔は自分の名前が呼ばれたことに気付かなかったが、乗りなさいという言葉に身体が反応した。孝輔は反動を付けると堤防からレジャーボートに跳び移った。レジャーボートのエンジン音が吠えるように高まった。急加速したレジャーボートはUターンすると、白い航跡を引きながら酒谷港の沖に向かって走り出した。
レジャーボートが走り去った堤防の突端に、前田たち三人は声もなく立ちすくんでいた。滴り落ちる汗を拭おうともせず、顔色は青を通り越して死人のように土気色をしている。また孝輔に逃げられた。三人の耳の奥には頭の天辺から抜けてくるような甲高い鮫島の怒鳴り声が鳴り響いている。前田の左手の小指が別れを惜しむかのようにチリチリと痛んだ。今日の晩酌のつまみは小指のから揚げ、いや、小海老のから揚げに違いない。
元五郎丸の入口のアルミサッシがガラガラと音を立てて開き、やや頭を屈めるようにして鮫島がのっそりと土間に入ってきた。帳場に座ってテレビを見ていた恵子がいらっしゃいと声を掛けた。
「邪魔するぜ、俺は東京からきた鮫島ってもんだ。浅井孝輔を探してここへきたんだが、孝輔は今釣りに行っているんだな? やつの荷物はどこだ」
「アサイコウスケ?」
恵子がポカンとした顔で首を傾げた。
「しらばっくれても無駄だ、こっちにはちゃんと情報が入っているんでね。チョット中を見せてもらうぜ」
「人の家に勝手に入っちゃだめよ、警察に捕まっちゃうわよ・・・あ、警察はダメか」
鮫島は恵子の言葉を最後まで聞かずに帳場の奥に進むと、その先の十畳間をざっと見まわし、リュックサックがないことを確認すると二階に向かう階段を上った。
恵子の頭の中で何かがピカリと光った。頭の中の回路が・・・混線した。
「何て失礼な人かしら、さ、め、じ、ま?・・・誘拐犯の? そうだ、思い出した。私、鮫島って男に誘拐されたのよね。そういえば、ここはどこかしら? いつから私ここにいるんだっけ。警察・・・警察はダメって誰かが言っていたような・・・よし、町内会長さんに連絡しよう」
恵子は帳場にある黒電話の受話器を手に取った。
「もしもし、町内会長さんですか。・・・三丁目の佐木田恵子です。ええ、鮫島って犯人に誘拐された・・・え? またかって何ですか。・・・新潟? さあ、ここはどこかしら。・・・とにかく、鮫島って誘拐犯は背が高くて顎がしゃくれていて怖い顔しているの。何とかしてくださいな。・・・え? 警察? だから警察には連絡しちゃいけないの、分からない人ね。町内会長さん、まさか認知した子供がいるんじゃあ・・・え? 何で知っているんだって? 知りませんよそんなこと・・・そんなに怒らなくたって・・・あ、切れた」
恵子が通話の切れた黒電話の受話器をボンヤリと見つめていると、二階から鮫島が下りてきた。鮫島の手にはリュックサックと衣文架けに掛かっていた紺色のジャケットが握られている。
「畜生め、リュックサックはあるがブツは入ってねえ。孝輔の野郎どこに隠しやがったんだ。それに、これは俺のジャケットじゃあねえか、マッタク、勝手に持ち出しやがって・・・」
鮫島の目に黒電話の受話器を持ったままの恵子の姿が映った。鮫島は舌打ちをした。
「くそっ、婆さん、警察に通報しやがったな」
鮫島は土間を足早に横切って元五郎丸の入口のアルミサッシに手を掛けた。その背中に恵子が声を掛けた。
「誘拐犯さん、どこへいくの」
「警察がくる前に逃げるんだよ」
恵子が目を丸くして驚いた。
「え? ここに警察がくるの」
「何を言ってやがる、婆さんが呼んだんだろうが」
「婆さんだなんて失礼な、お嬢・・・奥さんと呼びなさいよ。私は警察なんて呼んでないわよ・・・たぶん・・・あれ、呼んじゃったかしら? 貴方ご存じ?」
鮫島は思わず目を瞑った。全く話がかみ合わない。しかし、半分は鮫島のせいなのだが・・・。
「ダメだこりゃあ、付き合っていられねえ。それじゃあな」
「ねえ誘拐犯さん。私を連れて行かなきゃ誘拐にならないじゃない。荷物を取ってくるから、ちょっと待ってて頂戴」
恵子はバタバタと二階に駆け上がった。鮫島はダメだと言わんばかりに首を横に振りながら入口のアルミサッシを開けた。鮫島は元五郎丸の前に立って神崎と斎藤が走って行った堤防の方角を見たが、まだ誰も戻ってくる気配がない。とにかくここに長居は無用だ。鮫島はベンツを止めたドラッグストアの駐車場に向かって足早に歩き始めた。
ベンツの横に立ち屋根に両肘をついて身体を預けた鮫島は、時々腕時計にチラッと目をやりながら、イライラと貧乏ゆすりをしていた。あれから三十分以上経つが、誰も戻ってこないどころかスマートフォンにも連絡がない。失敗したのではないかという思いが頭の中をグルグルと巡って、胃がキリキリと痛んできた。鮫島が顔をしかめた。
「いたいた、ほら、鮫ちゃんがいたわよ。何よ貴方たちシャンとしなさいよ」
素っ頓狂な声がした。
鮫島が振り返ると、駐車場の入口で巾着袋を首から下げて右手に小さな旅行鞄を持った恵子が鮫島を指差していた。恵子の後ろでは、神崎と斎藤が両肩をすぼめてオドオドとした様子で下を向いて立っている。神崎と斎藤を引き連れるようにして、恵子がいそいそと鮫島の前に歩いてきた。何とも場違いな恵子の明るい声が響いた。
「良かった、置いて行かれるかと心配したわ。このふたりが案内してくれなきゃ迷子になるところだったのよ」
「何で婆さんが・・・。それよりもお前たち、孝輔はどうした。まさか・・・」
どす黒く変化し始めた鮫島の顔を見ながら神崎が震える声で言った。
「鮫島さん、すみません、孝輔に逃げられました。堤防の突端に追い詰めたんですが、どこからともなくレジャーボートが現れて、孝輔を乗せて逃げました」
鮫島の鬼のような目で神崎を睨みつけた。
「レジャーボートだと! それが元五郎丸って船なのか」声に怒気が含まれている。
「船の名前・・・すみません見ていません」
「このバカヤロウ!」
鮫島が罵声と共に拳を振り上げると、神崎はヒッと小さく声を上げて恵子の背中に隠れるように首をすくめた。恵子が両手を広げて神崎と斎藤を庇った。
「鮫ちゃん、暴力はだめよ。ほら、可哀そうに神崎ちゃんも斎藤ちゃんもこんなに震えているじゃない。何があったか知らないけど許してあげなさいよ」
「何でこの婆さんがいるんだよ!」
「この駐車場の近くをひとりでウロウロとしていたんで・・・」
神崎が消え入りそうな声で答えた。鮫島が眼を剝く。
「だからって、何で連れてくるんだよ!」
「でも、鮫島さん。この婆さん、孝輔と一緒に逃げていたあの婆さんですぜ」
「何だと、孝輔と一緒に逃げていた・・・」
神崎の声に鮫島は一瞬虚を突かれたように瞳を宙に泳がせた。
「・・・そうか、孝輔との唯一の接点ってことか」
鮫島はしゃくれた顎を擦りながら考えを巡らせている。
「なるほど、この婆さんを使って孝輔をおびき寄せられるな。うん、希望が出てきた。神崎、斎藤、よくやった。・・・そういや、前田はどうした」
「前田のやつはまた失敗したんで、鮫島さんに殺されるって言って逃げました」
鮫島はフンと鼻で笑うと、それじゃあ行くかと言った。この際、根性なしの前田など、どうでもいい。
後部座席に恵子と鮫島を乗せたベンツはドラッグストアの駐車場からゆっくりと走り出た。辺りには静かに夜のとばりが下り始めているが、西の空には微かに茜雲が残っている。
「神崎、この先でちょっと停めろ。斎藤、お前のスマホをこれと一緒にリュックサックに入れて元五郎丸の前に置いてこい。俺との連絡手段だと分かるだろう」
鮫島は紺色のジャケットのポケットに入っていた代紋を斎藤に渡した。
孝輔を乗せたレジャーボートは、酒谷港から二十キロほど南に離れた由井漁港に入った。漁船に並ぶようにして船溜まりに停船すると、操船していた若い男は孝輔を促してレジャーボートから岸壁に上がった。岸壁には四十歳位のがっしりとした体形の男が孝輔を待っていた。
孝輔はふたりの男に挟まれるようにして岸壁を歩き、奥の空き地に止められている軽トラックに乗り込んだ。誰も口を開かなかった。孝輔はだんだんと心配になり、首を回してキョロキョロと周りを見回したが、漁の時間が過ぎているせいか漁港には三人以外に人影はなかった。今更逃げ出すこともできそうにない。
軽トラックは五分ほど走り、由井の街はずれにある古い民宿の前で止まった。民宿の入口には『由井荘』と書かれた朽ちた看板が斜めに掛かっていた。由井荘は閉鎖されてずいぶん経つのか窓ガラスは曇り、ひびの入った壁には茶色い染みが浮いている。
由井荘の中に入ると、元はフロントだった場所には漁網や蜻蛉玉などの漁具が雑然と積まれていて、塩と魚の臭いの入り混じった埃っぽい空気が充満していた。その一角を抜けると、その先に襖で仕切られた部屋が並んでいる。その中の一室には机と椅子、簡易ベッドやキャビネットが運び込まれていて、机の上にはラップトップパソコンが置かれている。
椅子に座らされた孝輔の前に、レジャーボートを操船していた若い男が立った。もうひとりの男はさりげなく孝輔の背後に回り、机に寄り掛かるようにして腕を組んで孝輔を見ている。下手をすれば背後から首を絞められるかも知れない。
「あのう・・・」
沈黙に耐え切れないように孝輔が口を開いた。何が何だかさっぱり分からない。
目の前の若い男は色白の引き締まった顔を孝輔に向けると、サングラスを外して涼しげな目元を少し緩めた。
「浅井孝輔君ですね、初めまして。私は神月省吾と言います。後ろにいるのは同僚の広沢です。突然のことで吃驚されたでしょう」
神月の穏やかな声を聞いてホッとした孝輔は、状況が分からないものの取りあえず礼の言葉を口にした。
「いえ、危ないところを助けて頂いて有難うございました。いろいろと事情がありまして人に追われているものですから」
神月は全て承知しているという顔で頷いた。
「江渡神組の鮫島でしょう。あなたが江渡神組から持ち出したヘロインを、奪い返そうと躍起になっている」
ヘロインと聞いて孝輔の頭の中に警報が鳴り響いた。孝輔の声が震えている。迂闊なことは言えない。
「なぜそれ・・・アウッ・・・あなた方はいったい・・・?」
「私は関東信越厚生局麻薬取締部の麻薬取締官です」
神月はジャケットの内ポケットから黒い革のケースに入った身分証明書を取り出すと、テレビドラマの刑事がするように、革のケースを開いて孝輔の目の前に突き出した。
本物のようだと孝輔は思った・・・といっても、本物の麻薬取締官の身分証明書を見たのは初めてなのだが。孝輔の背筋がスッと寒くなった。
神月は鮮やかな手つきで身分証明書をジャケットの内ポケットに仕舞うと、一度前髪を掻き上げてから、これから言うことをよく聞けとばかりに顔を引き締めた。
「私のチームは関東で流通している関東弘心会を中心としたヘロインのルートを追っていましてね。関東弘心会の会長から極村組の極村泰道組長にヘロインが渡ったという情報を入手して極村組にガサをかけたんですが、事前に情報が漏れていたらしく空振りでした。どうもそのヘロインはガサ直前に江渡神組に預けられたらしい。
そこで警察に協力して貰って江渡神組にもガサもかけたんですが、なぜかヘロインが出てこない。鮫島のスマホを盗聴して、あなたがヘロインを持ち逃げしていることを知ったのです。
鮫島は預かったヘロインを極村泰道に返さないと組が潰されると思って、あなたを血眼になって探している。あなたは実は関東白井会崎田組の組員で、本来なら持ち出したヘロインを崎田組に持ち込むはずが、欲の出たあなたは他の組にも声を掛けて高値でヘロインを売り捌こうとしている。酒谷市にきたのはロシアルートのヘロイン取引があることを聞きつけて、いい買い手がいないか探しているからだ。違いますか」
驚いた孝輔の声が裏返った。
「じょ・・冗談じゃないですよ! 全く違います! 僕はしがない・・・」
冷静な声で神月が畳み掛ける。
「オレオレ詐欺のかけ子で、そして誘拐犯だ、ですか。まだ身元の確認は取れていませんが、あなたが崎田恵子さんを誘拐して連れ回しているのは、恵子さんが崎田組の女組長崎田知世の母親だからでしょう。崎田組からの追及を躱すためには持ってこいだ。そのせいでしょう、崎田組にはヘロインを持って逃げたあなたの後を追っている様子が見えない」
「違います! お母さんは佐木田恵子、『さ、き、た』です。崎田組は、『さ、き、だ』、最後が濁るんです」
「ほぼ同じじゃないですか。まあ、世を忍ぶ仮の姿ってとこでしょう」
神月は気にも留めない。孝輔が言い逃れをしていると思っているのだ。
「そんな馬鹿な・・・」
神月は少し語気を強めて、止めを刺すように言った。
「それと、元五郎丸に宿泊していることも、あなたがヘロインを所持していることを裏付ける証拠だ。元五郎丸の高倉はロシアルートのヘロイン取引の仲介役だ。だからあなたは元五郎丸に宿泊して、ヘロイン取引に関心のある暴力団が顔を出す機会を待っているのでしょう。そうでなければ、釣り客でもないあなたが、あんな汚い釣り船宿にわざわざ宿泊するはずがない」
孝輔は耳を疑った。思わずポカンと口が開く。
「そんな・・・高倉さんがヘロイン取引の仲介役だなんて・・・」
絶句した孝輔の顔を見て神月は真顔になった。神月の目に力がこもる。
「さて、これからが本題です。あなたの持ち逃げしたヘロインはどこにあるのですか。いや、私はあなたのような小物を違法薬物所持で逮捕するつもりはありませんから安心してください。あなたの持っているヘロインを使って罠を仕掛けて、関東弘心会極村組の極村泰道を逮捕したい。あなたにはその手助けをして貰いたいのです。そうすれば、あなたは引き換えに詐欺の実行犯、誘拐監禁、違法薬物所持の罪には問われません。どうです、いい取引でしょう」
孝輔は訴えるような目で神月を見ると、泣きそうな声を出した。
「ヘロインなんか元々ないんです。僕が持ち出したリュックサックの中に入っていたのは小麦粉だったんです」
神月の顔に薄ら笑いが広がった。
「ほう、小麦粉ねぇ。それじゃあ江渡神組の鮫島から命がけで逃げているのはなぜなのです? 小麦粉ならそのまま鮫島に返せばいい」
「食べちゃったんです。僕が寝ている間にお母さんがうどんにして、それを僕とお母さんで全部。美味かった・・・いやいや、だから返したくても返せないんです」
神月はブウッと吹き出すと、腹を抱えて笑い始めた。背後から広沢の笑い声も聞こえてくる。神月は身を捩りながら目に涙まで浮かべている。
「アハハハ、そんな・・・そんな言い訳・・・腹が痛い、いい加減にして・・・ハハハ、ダメだ・・・うどんにして・・・ハハハ・・・バカな・・・腹が痛い・・・」
ひとしきり笑って爆笑の発作が治まると、神月はハンカチを出して涙を拭いた。
「私も、この世界に入って十年以上になりますが、こんな面白い言い訳を聞いたのは初めてだ。あなたがヘロインの隠し場所をしゃべりたくないということは分りました。まあ、時間はたっぷりとありますから、暫く頭を冷やしてよく考えてください。今日はここまでにしましょう。広沢さん、後はよろしく」
孝輔の背後に立っていた広沢がおもむろに近づくと、孝輔の両手と両足を結束バンドで縛り、肩で担ぐようにして簡易ベッドに運んだ。簡易ベッドの上に寝かされた孝輔が呻き声を上げると、広沢が孝輔の耳元で囁いた。
「大人しくしていれば飯も食わせるし水も飲ませる。騒ぐようなら飯は抜きだし痛い目にも遭うぜ。手間を掛けさせるなよ、いいな」
孝輔は両目を一杯に開いてゆっくりと頷いた。飯は食いたいし、痛い目に遭うのはごめんだ。広沢はパイプ椅子を持ってきて簡易ベッドの横に座り、スマートフォンをいじり始めた。神月は机の上のパソコンに向かいパタパタとキーボードを叩き始めた。
一時間が経過した頃、神月のスマートフォンに着信が入った。
「はい、神月です。・・・Kか。連絡が遅いじゃないか。明日の夜の取引の情報はどうなっているんだ。・・・ヘロイン一キロ。ロシア側の運び屋はデミトリか。日本側の買い手は・・・崎田組? 関東白井会の崎田組か。なるほど、あの女組長、いよいよ本格的に薬のしのぎに手を出すことにしたな。よし、その前に明日逮捕してやる。元五郎丸の接岸時間と接岸場所は?・・・よし、分かった。ああ、それと、元五郎丸に宿泊していた男がいただろう・・・よっちゃん? それは偽名だな、本名は浅井孝輔だ。東京の江渡神組っていうやくざの事務所からヘロインを持ち逃げして酒谷市にきたんだ。こっちで確保しているから、いなくなったことを高倉が気にするようなら適当にごまかしておいてくれ。・・・婆さん? ああ、崎田恵子はそのままにしておけばいいだろう。それじゃあ」
神月はスマートフォンを切ると、広沢に話しかけた。
「広沢さん、明日のロシアルートの取引、日本側の買い手は関東白井会の崎田組だそうです。久しぶりの大物だ。私はこれから警察に行って明日の捕り物の打ち合わせをしてきますので、ここをよろしく。浅井孝輔は明日の朝にもう一度尋問しましょう」
広沢が簡易ベッドの横のパイプ椅子に座ったまま、返事とも呻き声ともつかぬ声を上げた。神月はラップトップパソコンを手に持って部屋を出て行った。
高倉が釣竿とクーラーボックスを持って元五郎丸に戻ると、帳場で留守番をしているはずの恵子の姿が見えない。二階に上がると、六畳間に置いてあった孝輔と恵子の荷物がなくなっていて、衣文架けに架かっていた紺色のジャケットも消えていた。
高倉が首を傾げていると、源五郎丸の入口のアルミサッシが開く音がした。高倉が一階に下りると帳場の前に北山が立っていた。
「おう、北山、加奈は無事にホテルに入ったな? よし、それよりも北山、驚くなよ。昨日からここに泊まっていた良夫君と恵子さんがいなくなった。良夫君は東京からの追手とやらに追いかけられて堤防を走って行ったが、あの先は行き止まりだから逃げられん。恵子さんは儂がここに戻ってきたらいなかった。荷物も残っていない。恵子さんも追手とやらに連れて行かれたのかなあ。面白い親子じゃったが」
高倉の声は淡々としていて、心配している素振りは見えない。
「研さん、ふたりがいなくなったって? 東京の追手というのは・・・」
北山の声は困惑している。
高倉は『さあなあ・・・』と呟きながら首を振った。
「儂も、東京から逃げてきたとしか聞いておらんのよ。ふたりは誰に追われとったんかな。良夫君を追っかけて行ったのはやくざもんに見えたが・・・。まあ、これ以上儂らが心配しても始まらん。それよりも明日の取引が上手くいくよう準備じゃ。加奈の上陸場所の酒谷北港のコンテナヤードの準備を頼む。今日中にやっといてくれ」
高倉は話を切り上げると、釣ってきた鯵の入ったクーラーボックスを抱えて奥の台所に向かった。北山は暫くその場で下を向いて何か考えごとをしているようにジッと動かなかったが、やがて思い詰めたような顔をして帳場を離れた。
北山が元五郎丸の入口のアルミサッシを開けると、アルミサッシに寄り掛かるようにして地面に置かれていたリュックサックが北山の足元に倒れ込んできた。リュックサックを手に取った北山は後ろを振り返り、中にいる高倉に声を掛けようと口を開きかけて止めた。
北山はリュックサックを手に持ったまま元五郎丸を後にした。




