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由井荘1

 恵子と鮫島を後部座席に乗せたベンツは酒谷市内をグルグルと回っていた。鮫島は神崎たちから逃れた孝輔が元五郎丸に戻る時間を見計らっていた。孝輔が神月に拘束されていることなど知る由もない。恵子は鮫島の横に座って、窓の外を流れる酒谷市内の景色を楽しそうに見ていた。午後六時を過ぎて辺りは薄暗い夕闇が満ちていて、車のライトや街灯がちらほらと灯り始めた。

「ねえ、鮫ちゃん、お腹空いたね。そろそろ晩御飯にしようよ。朝も昼もお魚だったから、夜は焼き肉がいいな」

 能天気な声を出した恵子を見て、鮫島が呆れたように言った。

「何を呑気なこと言ってやがる。自分の置かれている状況が分かっているのかね、マッタク。こっちは孝輔を早く捕まえなきゃ首が危ないってのによ」

「ねえ、鮫ちゃん、その孝輔って人は逃げているの? 悪い人?」

 恵子の声には屈託がない。

「お前さんと一緒に逃げていた男だよ」

 鮫島は仏頂面をしてぶっきらぼうに答えた。

「あら、私は鮫ちゃんに誘拐されて、ずっと鮫ちゃんと一緒にいるわよ。鮫ちゃんが誘拐したんだよね、忘れちゃったの?」

 恵子の記憶は完全に混乱している。鮫島は、全く話がかみ合わない会話に疲労感がこみ上げてきた。鮫島は目頭を右手で揉みながらダメだこりゃと呟いて下を向いた。

 そのとき鮫島のスマートフォンに着信が入った。

「鮫島だ。・・・ああ、鬼頭さん。いま? 俺たちは山形県の酒谷市にいます。・・・ええ、孝輔を追って、あと一歩の所まで追い詰めたんですが、また逃げられまして・・・。はい、極村組長に言われた期限は分かっていますよ・・・そんな、うちの組に責任を取れだなんて・・・そりゃあそうですが。・・・実は鬼頭さん、孝輔と一緒に逃げていた例の婆さんをこっちで確保しているんです。婆さんと引き換えにヘロインを渡せと言えば、孝輔は応じますよ。・・・ええ、今晩中にケリを付けます。ですから明日にはヘロインをお返しできます。・・・え? 鬼頭さんがこっちにくる? そりゃあ構いませんが、鬼頭さんはいまどちらに・・・新潟? 何で新潟なんぞに・・・分かりました。・・・午後九時に北港緑地展望台の駐車場・・・場所はカーナビで分かります。・・・それじゃあ」

「鮫島さん、鬼頭さんは何て?」

 助手席の斎藤が後部座席を振り返りながら聞いた。鬼頭の恐ろしさは斎藤もよく知っている。

 鮫島はスマートフォンをジャケットの内ポケットに仕舞うと、意外に明るい声を出した。事態が好転しそうだ。

「鬼頭さんはいま新潟にいて、こっちにくるそうだ。孝輔からヘロインを回収するのに立ち会うんだと。鬼頭さんがくるまで何もするなとは、全く信用がねえな。でもまあ、これで何とか首が繋がりそうだな、胃のムカムカが治まってきたような気がする。合流時間の九時までだいぶん時間があるな・・・よし、婆さんの言うとおり焼き肉でも食うか」

 恵子の顔がぱっと明るくなった。

「やったあ、モーケッコウと言うまで食べちゃうわよ」

「トンでもないやつだ、ギューと言わせてやる」

 鮫島の冴えないダジャレを聞いた斎藤は一瞬どうしようかと迷った挙句、ワンテンポ遅れて愛想笑いのつもりでウシシと言った。ベンツの車内が氷河期の全球凍結のごとく凍り付いた。


 午後八時五十分に、鮫島と恵子を乗せたベンツは、酒谷北港にある北港緑地展望台の駐車場に着いた。市街地から離れた北港緑地の周辺には人影は全くなく、駐車場の脇にポツンとひとつ街灯があるだけで、その周囲以外は闇に埋もれて何も見えない。陸風が潮の匂いを運んでいる。ヘッドライトを消してスモールライトのままで停車しているベンツの低いアイドリング音が周囲に響いている。

 駐車場の入口から三台のBMWがゆっくりと入ってきた。BMWのヘッドライトが放つ光の輪の中にベンツが浮かび上がる。三台のBMWはベンツまで十メートルの距離に近づくと、横一列に並んで止まった。

 BMWのヘッドライトが消えると、十人ほどの男がゆっくりと車の外に出てきた。その中のひとりがベンツの前に立った。ベンツのスモールライトの光に鬼頭の彫りの深い顔が浮かんだ。

 鮫島はベンツから降りると鬼頭の前に立ちペコリと頭を下げた。

「鬼頭さん、ご苦労様です」

 鬼頭は頷くと小さくオウと答えた。

「鬼頭さん、あんたがこんな所にまでくるなんてどうしたんです」

 鬼頭はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、ジロリと鮫島を見た。

「昨日の定例会の終わった後で、会長からオヤジに直接声が掛かって、預けたヘロインを早く返せと催促されたんだ。うちの組としてものんびりと待っていられなくなってな。とりあえず会長には、ウチの組にガサが入る情報があったんで、ヘロインは江渡神組に預けたとだけ答えてある」

 鮫島の顔に狼狽の色が浮かんだ。

「鬼頭さん、うちの組がヘロインを失くしただなんて会長に言わないで下さいよ。そんなことされたら、うちの組は潰されちまう」

 鬼頭は彫りの深い顔を鮫島に向けると、片頬を歪めて笑った。渋い笑顔だが目は笑っていない。

「そうはいっても、事実は事実だからなあ。オヤジも俺も辛いのよ、分かってくれや。それで、孝輔はまだヘロインを持ったまま逃げているんだな」

 鮫島は首を縦に振ると、弁明するように答えた。ボンヤリと待っているだけだなどと、鬼頭に思われては心外だ。

「孝輔を見つけて堤防の突端まで追い詰めたんですが、レジャーボートで逃げました。誰が手引きしたのか分かりません。ただ、孝輔は婆さんがまだ元五郎丸って船宿にいると思っているから、元五郎丸に戻ってくるか、少なくとも連絡はするでしょう。

 リュックサックに連絡用のスマホと俺の代紋バッジを入れて元五郎丸に置いてきたので、それを見れば婆さんが俺に連れ去られたと分かるはずです。時間を見て元五郎丸に電話を入れて孝輔と繋ぎを付けて、婆さんと交換すると言って孝輔にヘロインを持ってこさせれば終わりです」

「なるほど分かった。念のためだ、連絡用スマホの番号を俺にも教えろ」

 鮫島はスマートフォンを取り出すと番号を見せた。

 鬼頭は番号を確認してから、下からすくい上げるような目付きで鮫島を見た。

「ところで鮫島、孝輔と逃げていた婆さんはどこだ」

 鬼頭の視線に一瞬怯んだ鮫島は、グッと腹に力を入れてから懇願するように言った。とにかくここは江渡神組がキッチリ始末をつけなければ、後々、極村泰道から何を言われるか分からない。

「車の中ですよ。鬼頭さん、孝輔との交渉は俺に任せてくださいよ。孝輔からヘロインを回収したら、その場で鬼頭さんに渡しますから」

「分かっているよ」

 鬼頭は気のない声でそう答えると後ろを振り返り、控えている男に「オイ田中」と声を掛けて、行けというふうに顎をしゃくった。田中と呼ばれた男はベンツに近づき、後部座席のドアを開けると恵子の手を取った。恵子は不思議そうな顔をしてキョロキョロと周囲を見回してから、巾着袋と旅行鞄を抱えて素直に車外に出た。恵子は田中に手を引かれてBMWに乗せられた。

 鮫島は不満げに鬼頭に食って掛かった。

「鬼頭さん、こりゃあどういうことです。ついさっき、孝輔との交渉は俺に任せるって・・・」

 鬼頭は片頬を歪めると、鮫島の言葉を遮るように冷たく言い放った。

「すまねえな、気が変わったんだ」

 恵子を乗せたBMWは低いエンジン音を上げると駐車場から走り出た。呆然とした顔でBMWを見送った鮫島は、鬼頭の方を振り向いた。

「鬼頭さん、気が変わったってどういう意味ですか」

 鮫島が鬼頭を睨みつけた。鮫島の声は怒りに震えている。

 鮫島を傲然と睨み返した鬼頭の目がギラリと光った。鬼頭の顔に邪悪な笑みが浮かぶ。

「こういう意味だ」

 鬼頭はズボンのベルトに挟んであった拳銃を抜くと、鮫島の腹に向けていきなり二発発砲した。パンパンという乾いた音がして鮫島はその場に崩れ落ちた。

 ベンツの周りに立っていた男たちも拳銃を構えると、ベンツの運転席と助手席に向かって発砲した。フロントガラスが粉々に砕け、助手席の斎藤は頭部や胸に複数の銃弾を受けて血まみれになってダッシュボードに突っ伏した。運転席の神崎は咄嗟に頭を屈めた。

「チクショウ、どうなっているんだ!」

 動かなくなった斎藤を見て、神崎が泣きそうな声で叫んだ。頭上を銃弾が掠める音を聞きながら、神崎は必死になってギアをドライブに入れアクセルを踏み込んだ。ガスッガスッと鈍い音がして、運転席のドアを貫通した二発の銃弾が神崎の脇腹を抉った。焼けるような痛みをこらえて、脇腹から吹き出す血を片手で押さえながら神崎は滅茶苦茶にハンドルを回した。ベンツの前に立っていた三人の男が跳ね飛ばされて、地面に伏して呻いている。

 ベンツは左右に大きく蛇行しながら駐車場の中を走り回る。

「あっ!」神崎が叫んだ。

 ベンツは一瞬宙を跳び、駐車場の外周に沿って延びている堀のような深い窪みに転落すると、横転して火を噴いた。

 轟音を上げて炎に包まれたベンツを見た鬼頭は、鮫島に止めを刺そうと後ろを振り返った。そこには腹に銃弾を受けて倒れているはずの鮫島の姿がなかった。

「くそっ、鮫島が逃げた。探せ!」

 拳銃を持った男たちが駐車場の周囲に広がる北港緑地に散った。

 北港緑地の深い草むらの中で、鮫島は地面に身体を伏せ、腹を押さえながらじっと息をひそめていた。ムッとするようなドクダミの臭いが鮫島を取り囲んでいる。腹は火の玉を抱えているように熱く、腹を押さえている手は生暖かい液体でぐっしょりと濡れている。

 ザクザクという草を踏み分ける音が近づくと、鮫島の一メートル前で止まった。

 周囲は真っ暗闇で鮫島の目には男の姿が見えないが、ハアハアという男の呼吸音だけが鮫島の耳に伝わってくる。男は草をかき分けるようにして鮫島の潜んでいる方向に一歩足を踏み出してから、ふと止まると、突然背中を向けて鮫島から足早に離れて行った。鮫島は小さく息を吐いた。遠くから消防車のサイレンが響いてくる。

 鬼頭たちの乗ったBMWが駐車場から走り去ったことを確認すると、鮫島は腹を押さえながらヨロヨロと立ち上がった。


 北港緑地の道路を挟んだ北側に酒谷北港国際ターミナルの上屋があり、近くには外国の客船や貨物船が発着する桟橋がある。桟橋に繋がる酒谷北港岸壁は広いコンテナヤードになっていて、長方形の巨大な積み木のようなコンテナが至る所に積み上げられている。

 岸壁の端には空のコンテナがいくつも置かれていて、その一角に海に向かってコの字型にコンテナが積まれた場所があった。コンテナに囲まれた中の空き地は海上の船からしか見えない。空き地に通じるように車一台分の幅の通路が設けられている。

 大型クレーンを使って明日の加奈の上陸場所のためのコンテナを積み終えた北山は、コンテナでできた峡谷の底を縫うようにゆっくりと軽トラックを走らせていた。カーラジオから演歌が流れてくる。北山はハンドルを握りながら演歌を口ずさんでいた。軽トラックのヘッドライトの光が丸く映し出す視界の先の暗闇で、何かが光った。

 北山は何かに吸い寄せられたかのように軽トラックを止めた。軽トラックから降りて暗黒の深海を泳ぐようにゆっくりと数歩進む。暗闇の中から小さな呻き声と誰かが身じろぐような微細な空気の振動が北山に伝わってきた。北山が闇に慣れてきた目を呻き声のする方向に向けると、そこには地面に腰を下ろして両足を投げ出し、コンテナに背中を預けて項垂れている鮫島がいた。軽トラックのヘッドライトから届く僅かな光に鮫島の腕時計がキラリと反射した。

「おい、あんた、どうした。具合でも悪いのか」

 北山が鮫島の傍に走り寄り、地面に膝をついて鮫島の肩に手を掛けた。ムッとするような血のにおいが鼻をつく。

 鮫島はグウウと小さく呻き声を上げてゆっくりと頭を上げると、焦点の定まらない目で北山を見た。

「・・・大丈夫だ・・・暫くすれば治る・・・構わず行ってくれ・・・」

 鮫島は空気が漏れるようなかすれた声でそう言うと目を瞑った。夜目にも鮫島の腹部が血でぐっしょりの濡れているのが分かる。

「酷い出血じゃないか、直ぐに救急車を呼ぶから待っててくれ」

「・・・救急車はまずい・・・人に言えない・・・怪我・・・なんでね・・・」

 単なる交通事故などではないと、北山は瞬時に理解した。目の前にいるのは表沙汰にはできない怪我人だ。

「あんた、やくざか。・・・よし、知り合いの医者がいる。モグリだが腕は良い。ヤバい業界の御用達だ。そこならいいだろう」

 鮫島はゆっくりと頷いた。


 セントラルホテルの最上階にある豪華なセミスイートルームのベッドの上で、崎田加奈は身を焼かれるような焦燥感に駆られていた。明日の午後六時に元五郎丸で酒谷港を出航して、洋上で行われるヘロイン取引に向かう。それまでの時間を市内観光でもしようとパンフレットを眺めていたが、なぜか恵子の顔がちらついて集中できない。ベッドの上に横になって目を瞑ると、恵子が下を向いて項垂れている姿が瞼の裏に浮かんでくる。高倉に電話をしようかとも考えたが、足が付く可能性があるので直接電話はするなとくぎを刺されている。

 午後九時を過ぎると、焦燥感はますます強くなって、加奈は居ても立っても居られなくなり、部屋の中をウロウロと歩き回った。こんな状態では眠ることができない。加奈は酒でも飲もうとホテルのラウンジに向かった。

 ラウンジのカウンター席で、酒谷の雫というバーテンお勧めのご当地カクテルをグイグイと空けていると、隣の席ににやけた顔の男が座り、馴れ馴れしく話しかけてきた。極村組の梶尾だ。

「今晩は、お嬢さん、ひとり? 良かった、僕もちょうどひとりなんです。奇遇ですね、いや、これは運命の出会いってやつですよ。お嬢さんみたいな美しい女性を見たのは初めてです。東京の方? 奇遇だなあ、僕も東京からきているんです。くだらない人探しの手伝いで嫌になっちまう。酒でも飲まなきゃやってられませんよ、自分のミスを棚に上げて怒鳴り散らすんだから酷いもんだ」

 加奈は梶尾に眼を向けることなく、正面を向いたまま氷のような声を出した。

「消えな」

「え?」

 加奈は怪訝な顔した梶尾を睨みつけると、可愛い顔に似合わぬどすの利いた声を出した。

「消えなって言ってるんだよ! あたしはひとりで飲みたいんだ。そのにやけた面をさっさとどけな!」

 梶尾の顔が引きつり、凶暴な顔に変わった。

「何だとこのアマ、調子に乗りやがって。俺を誰だと思ってやがる。関東弘心会極村組の・・・」

「チンピラかい」

 加奈は畳み掛けるようにそう言うとフンと鼻で笑った。梶尾の顔が朱に染まる。

「このアマ! 女だからって容赦しねえぞ」

「どうするんだい、女に手を上げるのかい。カッコいいじゃないか、やって見な」

 加奈は殴って見ろと言わんばかりに右頬を梶尾に向けた。

「このアマ・・・」

「梶尾! いい加減にしろ! 女の子相手に恥ずかしい。こっちへこい!」

 ラウンジのボックス席で顔中に包帯を巻いた根津が怒鳴った。包帯の隙間から出っ歯がキラリと光った。

 遠巻市民病院で孝輔と間違われて極村組に拘束された根津は、凄腕の殺し屋という素性を買われて、いまは極村組の用心棒に納まっていた。そして極村組と一緒になって孝輔と恵子の後を追っているのだ。

 加奈に手を上げようとした梶尾が固まった。にやけた顔は困惑でひしゃげたように歪んでいる。

「でも、根津さん・・・」

「いいからこっちへこい! お嬢さん、吃驚させてすまなかったね。勘弁してください」

 根津は加奈に向かってペコリと出っ歯を、いや、頭を下げた。根津の出っ歯を見て一瞬ギョッとした加奈は、取り繕うようにニコリと微笑みを返すと、小さく頭を下げた。

 そのとき、ラウンジに男が駆け込んできた。

「根津さん、孝輔と一緒に逃げていた佐木田恵子を捕まえました。いま、鬼頭さんが・・・」

「馬鹿、こんな所で大声を出すんじゃない。よし、部屋へ行こう」

 根津はチラリと左右を見回してから松葉杖を突いて立ち上がり、梶尾に支えられながらラウンジを出て行った。

 カウンターに向かって再びカクテルに口を付けようとした加奈の頭の中に電光が走った。

 ・・・いまなんて言った? 佐木田恵子を捕まえた?・・・関東弘心会極村組・・・出っ歯・・・出っ歯の殺し屋! あいつが・・・

 加奈の心臓がドクリと音を立てた。視界が奇妙にぼやける。

 二十年前、当時六歳だった加奈は交通事故で両目を損傷したが、角膜移植手術を受けて何とか失明を免れた。右目の軽い斜視はその手術の名残である。

 母親の知世が言うには、交通事故に遭うまでの加奈は、病気がちで気の弱い女の子だったが、交通事故が何かのきっかけになったのか、それ以降はメキメキと健康になり、性格も明るく気の強い女の子に変わったのだそうだ。

 ぼやけた視界の向こうに恵子の顔が見えた。加奈の網膜に二重写しのように何かがゆっくりと浮かび上がり像を結んだ。見知らぬ若い男の顔だ。その男は何かを叫んでいる。

『お母さんを助けて』

 加奈の視界が突然クリアになった。

 お母さんを助けなきゃ! 加奈はカクテルを放り出すと、根津の後を追ってラウンジを飛び出した。


 鬼頭を乗せたBMWは、北港緑地を出ると国道百十二号線を南下して、庄内空港の手前にある郊外型のカラオケボックスの駐車場に入った。広い敷地内には避暑地のコテージのようにカラオケボックスの建物が幾つも並んでいる。恵子を拉致したままではホテルに入ることができないが、ここなら車で建物の入口まで乗り付けることができて、十人以上の大人数も収容できる。並んでいる二棟のうちの一棟は鬼頭たちの休憩用、もう一棟は恵子の監禁用として利用している。恵子を乗せて先行したBMWは既に到着していた。

 BMWから降りた鬼頭は、恵子が監禁されているカラオケボックスのドアを開けた。

「つやま~かいきょう~なつもよう~」

 中央のステージに立ってマイクを握った恵子が、身体を捻りながら絶唱していた。天井のミラーボールがキラキラと反射する。ステージ前のボックス席では、ピザをつまみ缶ビールを片手に持った監視役の三人の男が、ヤンヤの喝采を上げている。テーブルにはポテトフライやチキンバスケットが所狭しと並んでいた。

「・・・どうもありがとうございました。それでは次は田中ちゃんね。曲目は・・・」

 歌い終わった恵子が演歌歌手のように深々と礼をしてから顔を上げ、部屋に入ってきた鬼頭と目が合った。部屋の中に鬼頭の怒声が響いた。

「お前たち、何をしている!」

 ボックス席でピザを口に運んでいた田中が飛び上がった。

「あいや・・・鬼頭さん、これは・・・」

 鬼頭は彫りの深い顔を歪めて田中を睨みつけた。

「いまそんなことをしている場合か!」

 田中は中腰の姿勢のまま、オロオロとピザをテーブルの上に置いた。缶ビールは持ったままだ。

「いや、その・・・お母さんが、カラオケの装置があるんだから、もったいないから歌おうって言いだして、それで・・・」

 しどろもどろで弁明する田中の目が泳いでいる。ステージから降りてきた恵子は、田中を庇うように鬼頭の前に立った。

「そうなの、鬼頭ちゃん。私が言い出したの。この子たちをそんなに怒らないで頂戴・・・あ、田中ちゃん、イントロが始まるわよ、ほら準備して」

 鬼頭の怒りを完全にスルーして、恵子は田中にマイクを渡した。田中はマイクを握ると、グビリと缶ビールで喉を湿らせてから、いそいそとステージに向かった。完全に虚仮にされている。鬼頭の血圧が急上昇した。こめかみに蚯蚓腫れのような血管が浮かび上がる。

「鬼頭ちゃんって・・・このヤロ・・・」

 鬼頭が怒鳴ろうとしたとき、入口のドアが開いた。

「はーい、ご注文の上握り寿司五人前、お届けに上がりました・・・? ここに置きますよ。何か、ノリが悪くないですか。ああ、イントロが始まってますよ」

 鬼頭にジロリと睨まれた配達員は首をすくめて部屋を出て行った。恵子は嬉しそうに寿司桶に手を伸ばすとテーブルの上に置いた。

「そんな顔をしてないで。ほら、腹が減っては戦ができぬ。寿司は食わねど高楊枝・・・ん? ちょっと違うか。・・・いただきまーす」

 恵子が無邪気な顔で中トロを頬張った。途端に鬼頭の血圧が急降下して、貧血を起こしたように頭がフラフラとした。鬼頭は恵子の能天気な顔を見ていると、これ以上何も言う気がなくなり、背中を向けた。ドアを閉める直前に田中の調子はずれの歌声が流れてきた。


 根津を乗せたタクシーがカラオケボックスの前で止まった。松葉杖をついてタクシーから降りた根津は、梶尾に付き添われながら鬼頭がいるカラオケボックスに入った。

 もう一台のタクシーが後を追うようにカラオケボックスの敷地に入ると、止まっている三台のBMWの後ろをゆっくりと通り過ぎた。タクシーの後部座席に座っている加奈はBMWのナンバーを確認すると、運転手に元五郎丸の住所を告げた。


 元五郎丸の入口のアルミサッシがコツコツと叩かれた。午後十一時を過ぎて周囲の建物に明かりはないが、元五郎丸のアルミサッシには中の明かりがボンヤリと映っていて、人影が動いている。加奈はもう一度コツコツとアルミサッシを叩いた。アルミサッシに映る人影が大きくなった。

「誰だ」

 高倉の低く押し殺しただみ声が響いた。

「加奈よ、ここを開けて。大事な話があるの」

 ひと呼吸おいてからカチャリと鍵を開ける音がして、ガラガラとアルミサッシが開いた。加奈を見る高倉の金壺眼には訝しげな色が浮かんでいる。

「どうした、こんな時間に。何かあったのか」

「とにかく中に入れて頂戴。話はその後」

 高倉は元五郎丸の外に出て素早く周囲を見回した。そして誰もいないことを確認すると「入れ」と言った。

 元五郎丸の帳場に座った加奈の前で、高倉は土間のテーブルの前の椅子に座りコップ酒をグビリと一口飲んだ。相変わらず肴は炙ったイカだけである。

「加奈も一杯やるか」

 加奈は首を振ると、おもむろに口を開いた。

「お母さんが誘拐されちゃったの。関東弘心会の極村組ってやくざに。庄内空港の近くのカラオケボックスに監禁されているわ。お母さんが言っていた出っ歯の殺し屋もいるの。お母さんが危ない、助け出さなきゃ。よっちゃんはどこ?」

 加奈は咳き込むようにそこまで言うと、高倉の顔を見た。高倉は驚いた様子も見せず、落ち着いた声で言った。

「良夫君はここにはいないぞ。四時頃だったか、東京から追っかけてきたやくざに捕まってどこかへ連れて行かれた。・・・今頃は海の底かもな。恵子さんも、儂が戻ってきたときにはもうおらんかった。そうかい、やくざに連れ去られとったんかい」

 高倉は『なるほど』という顔でコップ酒をグビリと一口飲んだ。高倉の落ち着いた様子に、加奈は苛立っている。

「そんな・・・よっちゃんを連れて行ったのも極村組なの?」

「そこまでは知らん。まあ、面白い親子じゃったが、明日の取引には何の関係もないしな。あのふたりが追われていたのも何かの事情があったんじゃろうから、儂らがこれ以上深入りする必要はないぞ。やくざが絡んでおるんじゃし、加奈も放っておけばええ」

 高倉が冷たく言い放った。高倉は極悪人の顔に戻っている。加奈は思い詰めたような顔をして、高倉に向かって身を乗り出した。

「放っておけないわ。なぜだか分からないけど、目を瞑るとお母さんの顔が浮かんで、どこからかお母さんを助けろって声が聞こえてくるの。ねえ、高倉さん、手を貸してよ」

 高倉は首を横に振ると、炙ったイカを一口齧った。

「相手はやくざじゃろ、儂の手に負えんわ。やくざなら、加奈のところの崎田組から人を出せばいいじゃろう」

 加奈はダメだと首を横に振る。

「そんなことできないわよ。下手したら組と組の全面抗争になるじゃない。高倉さん、お願い・・・」

 加奈の懇願を前にしても、高倉は横を向いて炙ったイカを咥えたまま何も言わない。高倉はプロの麻薬取引仲介人だ、それ以外のことに首を突っ込むつもりはさらさらないのだ。

 そのとき、元五郎丸の前に車の止まる音がした。高倉と加奈が思わず顔を見合わせた。暫くすると入口のアルミサッシが開いて北山が姿を見せた。北山の後ろには左手で腹を押さえて青白い顔をした鮫島が立っている。

 北山の顔を見た高山が怒声を上げた。

「何じゃい北山、こんな時間に車で乗り付けて。取引の前に目立つようなことはするなとあれほど言っておるじゃろうが、バカタレめ!」

 北山はヒョコリと頭を下げると、背後の鮫島にチラリを目をやった。

「研さんすみません。この人がどうしても元五郎丸に連れて行けって言うもんですから。それと、これを届ける必要もあったんで」

 北山は孝輔のリュックサックを目の前に掲げて高倉に見せた。

「うん? それは良夫君のリュックサックじゃないか。なぜ北山が持っておるんじゃい。それに後ろに立っている人は誰だ」

 鮫島はゆっくりと高倉の前に進むと、頭の天辺から抜けてくるような甲高い声を出した。但し、いつもに比べると声に力がないのは怪我のせいだろう。

「俺は関東弘心会江渡神組の代貸の鮫島ってもんで、浅井孝輔を追って東京からきたんだ。浅井孝輔はどこにいる?」

 般若の面の様な鮫島の恐ろしい顔を見ても、高倉は全く動じない。

「アサイコウスケなんて人は知らんが、東京のやくざに追われている良夫君なら知っとるぞ。面白いお母さんも一緒じゃが」

「そいつだ! 良夫と言うのは偽名で本名は浅井孝輔だ。そいつはどこにいる!」

 勢い込んだ鮫島の声が裏返る。それでも高倉は全く動じない。

「東京からきたやくざに見つかって、堤防を沖の方に向かって走って逃げた。その先は行き止まりで逃げられないから、やくざに捕まって連れて行かれたはずじゃ。お前さんたちが捕まえたんじゃないのかね」

「違う! そのやくざは俺たちだが、捕まえちゃいない。孝輔は堤防の突端からレジャーボートに助けられて逃げたんだ。クソッ、やつはいまどこだ」

 鮫島は両目を瞑り天を仰いだ。大量出血のためか、身体がフラフラと揺れている。

 レジャーボートという言葉を聞いて北山がピクリと反応した。高倉は北山の反応を金壺眼でジロリと見てから鮫島に話しかけた。

「鮫島さん、あんた関東弘心会と言ったろう。良夫君、いや孝輔君のお母さんの恵子さんは同じ関東弘心会の極村組に監禁されているんじゃぞ。あんたも仲間か」

 鮫島はギロリと両目を開けた。その両目は血走り、怒りに燃えている。

「極村組はうちの組の本家筋だが、なぜか今回の件ではおかしな動きをしていやがる。理由は分からんが、俺は極村組の鬼頭にいきなり撃たれた。うちの組の若いもんふたりも極村組に殺された。とにかく俺はこの借りを返さなきゃならねえ」

 鮫島の声は腹の底から絞り出すようだ。

「あんた腹を・・・」

 鮫島は不敵にニヤリと笑った。大したことないぜと強がっているのだ。

「至近距離から二発食らったが、一発はズボンのベルトのバックルに当たって勢いが弱まったおかげで腸の手前で止まっていた。もう一発は脇腹を貫通したが幸い腸には大きな傷はついちゃいないらしい。北山さんに連れて行ってもらった医者で応急処置をしてもらって命拾いしたぜ。まだ出血は完全には止まっていないが、そんなこと言ってられねえ、俺は不死身の鮫島だからな。北山さんが持っているリュックサックの中にスマホが入っている。そのスマホにもう直ぐ鬼頭から孝輔宛に連絡が入るはずだ。孝輔が居ないなら仕方がない。婆さんと引き換えにブツを渡せと言ってくるから、引き渡し場所と時間を聞いてくれ。そこで俺が鬼頭とケリをつける」

 不死身だとうそぶいた鮫島はイテテと言いながら高倉の前の椅子に座り、テーブルの上に置いてある高倉のコップ酒をガブリと飲んだ。

「あんたが鬼頭とやらとケリをつけるのは勝手だけど、お母さんはどうなるのよ。お母さんを狙っている殺し屋もいるのよ、下手をしたら殺されちゃうわ。お母さんを助けるのが先よ」

 加奈が鮫島に食って掛かった。鮫島はしゃくれた顎を突き出すようにして加奈を見た。

「やけに威勢がいいが、お前さん誰だ」

「あたしは崎田加奈。関東白井会崎田組の女組長崎田知世の娘よ」

 鮫島はホウという顔で加奈を見てから続けた。

「そんなこといったって、あの婆さんを助けるには孝輔が必要だろう。孝輔がどこにいるのか分からないんじゃ何ともしようがない。鬼頭は孝輔がここにいないことを知らないんだぜ。孝輔が持っているブツでもありゃあ話は別だが」

「ブツって何よ」

 鮫島は痛み止めだという風に高倉のコップ酒をもう一口ガブリと飲んでから、話を続けた。

「孝輔は関東弘心会の会長から極村組が預かったヘロインを持ち逃げしているんだ。極村組は孝輔からヘロインを取り返そうと躍起になっているのさ。いろいろ事情があってウチの組も巻き込まれてこの様だ。鬼頭のことだ、ヘロインを取り返すためなら、あの婆さんがどうなろうと何とも思わないだろうさ」

「それじゃあ、なおさらお母さんを・・・」

 加奈が声を上げたのと同時にスマートフォンの着信音が響いた。

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