由井荘2
スマートフォンの着信音は北山が手に持っているリュックサックの中から聞こえてくる。鮫島は北山に向かって顎をしゃくって出ろと合図した。
「はい」
「お前は浅井孝輔か」
「浅井孝輔はいまここにはいない。私は元五郎丸で手伝いをしている北山だ」
「浅井孝輔に伝えろ。婆さんは預かった、無事に返してほしかったらブツを持ってこいとな。時間は明日の朝五時、場所は庄内空港の横にある鳩山神社の境内だ。場所はカーナビででも調べろ」
「ちょっと待ってくれ、浅井孝輔はいまここにはいないって言っただろう。直ぐに連絡が付くかどうかも分からないんだ、勝手に時間を指定されても困る」
「お前が浅井孝輔や婆さんとどんな関係なのかは知らない。但し、時間に遅れれば・・・そうだな、一時間遅れるごとに婆さんの指を一本切り落とす。可哀そうだと思ったら頑張りな」
「浅井孝輔は・・・ある場所に監禁されているんだ。解放しようにも、私の手には負えないんだよ」
北山のやり取りを横で聞いていた高倉がギョッとした顔をした。加奈と鮫島もあっけにとられた顔をして北山を見ている。
「監禁されているだと、バカバカしい。そんな言い訳を誰が信用するんだ、もっとましな嘘を吐きな」
「本当だ、浅井孝輔は神月という麻薬取締官に身柄を拘束されて、ある場所に監禁されて取り調べを受けているんだ。嘘じゃない」
「麻薬取締官だと! クソッ・・・監禁場所はどこだ」
「酒谷市から南に二十キロほどの所に由井温泉がある。浅井孝輔は町はずれの由井荘という廃業した民宿の中にいる。そこは麻薬取締官の仮事務所だから私には手が出せないんだ」
「お前の言ったことが嘘なら、婆さんの命はないぜ」
「もちろん本当だ。お婆さんの命を危険にさらすような嘘はつかない」
「お前はなぜそのことを知っているんだ」
「私は・・・神月の下で働いている情報提供者なんだ」
「・・・分かった。浅井孝輔の方はこっちで何とかする」
「浅井孝輔の身柄を確保すれば、お婆さんは解放してくれるんだろうな」
「考えておく」
「考えておくって、そんな・・・オイッ」
鬼頭からの電話が切れた。北山はスマートフォンをテーブルの上に置くと、鮫島の横に座ってガクリと頭を下げた。高倉の金壺眼がギラリと光って北山を睨みつけている。
「北山、どういうことじゃい。説明せい」
怒りを押し殺したように腹の底から絞り出された高倉の声が低く響いた。
北山は頭を下げたまま、観念したように淡々と言った。
「研さん、すいません。私はしばらく前から麻薬取締官に情報を提供していたんです。神月という麻薬取締官に、逮捕されるのが嫌なら情報提供しろと脅かされて仕方なく」
「きさまは泳がされていたのか・・・なぜいまになってそれをばらすんじゃ」
北山の頭がますます下がる。高倉とは目を合わせることもできない。
「今回の取引の日本側の買い手が崎田組だと聞いて・・・神月は酒谷北港でヘロインを持って船から上がった加奈も、迎えにきた組長の知世もその場で一網打尽に逮捕しようとしています。知世や加奈を逮捕させたくないが、今更取引を止めることもできません」
高倉はフンと鼻から息を出すと、腕を組んだ。何を言ってやがるという顔だ。
「当り前じゃ、既にロシアからブツを持って船が出ている以上、金を持って行かなけりゃこっちが消されるぞ。これまでだってヘロインを受け取った後に逮捕されたやつはおるじゃろう。船から上がった後は、こっちは関知しないという契約だ、放っておけばいいんじゃ」
「知世と加奈を見殺しにできないんです」
北山の声は震えている。
「なぜじゃい、お前は崎田組とは何の関係もないじゃろうが」
吐き捨てるように言った高倉は、金壺眼で北山を睨みつけた。北山はキッと顔を上げると正面から高倉の目を真っ直ぐに見た。
「知世は私が捨てて逃げた妻で、加奈は私の娘なんです」
帳場に座って、黙ってふたりの話を聞いていた加奈がいきなり立ち上がった。
「ハアッ? あんた何言ってんの?」加奈の声が裏返っている。
北山は加奈の方に身体を向けると、加奈の目をじっと見つめた。北山の目には思い詰めたような光が浮かんでいる。
「ビックリしただろうが本当のことだ。加奈の顔を初めて見たとき、知世の若い頃にそっくりなのに驚いたんだ。生まれてすぐの加奈を捨てて女と逃げた私に、父親を名乗る資格がないのは分かっている。だからこそ、知世と加奈が逮捕されることは何が何でも阻止しなければならないと思ったんだ。鮫島さんから極村組が浅井孝輔を追っているという話を聞いて、極村組なら麻薬取締官の仮事務所ぐらいは平気で襲うだろうと思った。そうなれば明日の取引の摘発どころじゃなくなる。知世と加奈はヘロインを持って無事に東京へ戻ることができる」
北山はすがるような目で加奈を見上げている。加奈は腰に両手を当てて、仁王立ちで北山を見下ろしている。人一倍勝気な加奈の身体から強い意志の炎がメラリと立ち昇った。
「そんなことになったら、よっちゃん・・・孝輔もお母さんも、どうなるか分からない。殺されるかも知れないわ。あんた何を考えているの!」
「私は知世と加奈のことを・・・」
加奈は北山の前に立つと、いきなり北山の右頬を思いっきりビンタで張った。北山がガクリと項垂れた。加奈の目が燃えるように光っている。
「情けない男ね、父親失格なのも分かるわ。孝輔もお母さんも絶対に助ける、ママもあたしも麻薬取締官には捕まらない。ついでに鮫島さんのケリもつける。やって見せるわ!」
加奈の声が元五郎丸の土間に凛と響いた。加奈の姿は小さな火の玉だ。
鮫島が感心したような顔で加奈を見た。高倉は金壺眼をギョロつかせてから、コップ酒をグビリと飲んで、酒臭い息を吐きながら言った。
「でも加奈よう、どうするつもりじゃ」
「とにかく、極村組が麻薬取締官の仮事務所を襲う前に、先回りして孝輔を救い出すのよ。お母さんを助け出すには、孝輔の身柄・・・というより、孝輔が持ち逃げしたヘロインを手に入れなきゃ話にならないわ。そこから先のことは後で考えましょう」
「大した玉だ、母親譲りって訳か・・・ん? 待てよ、孝輔は崎田組の若いもんじゃなかったのか」
鮫島が首を捻る。加奈が間髪を入れずに打ち返した。
「あんなとぼけた顔をして、うちの組じゃ電話番にもなれないわよ」
鮫島はそりゃそうだと納得した。
元五郎丸の入口のアルミサッシが、突然ガタガタと揺れた。鍵を開ける音がしている。中にいた全員が顔色を変えて一斉に身構えた。極村組の襲撃か、麻薬取締官の突入か・・・。
高倉は入ってきた男を見ると息を吐いて力を抜いた。
「何じゃい昇造か、脅かすなぃ。どうしたんじゃ、こんなに遅い時間に。新潟での仕事は終わったんかい」
津田昇造は「なんだ珍しくお客さんかい」と言いながら帳場の前まで歩いた。
「お兄よう、儂が紹介した孝輔君とお母さんはいるかい。どうも気になってなあ。仕事が終わったその足で、新潟からこっちへ急いで戻ってきたのよ」
「おお、いまちょっと・・・色々あってここにはおらん・・・」
高倉が狼狽えたような表情を浮かべたのを見て、津田は眉をひそめた。
「何だかしきりに胸がドキドキして落ち着かんのよ。お母さんの顔もチラつくし、胸の奥から誰かが『お母さんを助けろ』ちゅう声が聞こえるんじゃ。こんなことは生まれて初めてじゃ」
そういった津田の目は、狂気を宿したかのようにギラギラと光っている。『お母さんを助けろ』という言葉を聞いた加奈が、不思議そうに津田の顔を見た。その声は、確かに加奈も聞いたのだ。何かが繋がっている。
「そうかい、虫の知らせっちゅうんかいの・・・いやいや、昇造には関係のない話なんじゃ。危ない筋も絡んどるから、昇造は深入りせんでええ」
諭すような口調の高倉に向かって、津田が声を荒げた。
「虫の知らせって何じゃい。このままじゃ頭が変になりそうなんじゃ。お兄、教えてくれ」
津田は高熱に浮かされたような、いや、何かに取り憑かれたような顔をしている。弟のそんな顔を初めて見たのだろう、高倉は気圧されている。
「昇造、いったいどうしたんじゃ」
津田はブルブルと首を横に振った。
「儂にも分からん・・・ただ、もしお母さんが困っとるようなら、放っておけん。お母さんを助けにゃいかんのよ。そして、お母さんとの約束を果たすんじゃ・・・お母さんと一緒に北へ・・・竜飛岬へ行くんじゃ」
津田は腹の底から言葉を絞り出した。それは理性の声ではなく、魂の声だ。
加奈の心に津田の言葉が鋭利なナイフのように刺さった。
・・・お母さんとの約束・・・忘れていた・・・何を?・・・竜飛岬?・・・加奈の心臓がドクリと音を立てた。
津田の思いつめたような顔を見て、高倉は分かったと言った。そして、恵子が拉致されたことや孝輔が麻薬取締官に身柄を拘束されたことなど、これまで起こったことをかいつまんで話した。津田はウンウンと頷いてから、一緒に孝輔の救出に行くと言った。
由井温泉の町はずれにある由井荘の玄関の前に立った北山は、扉の横にあるインターホンを押した。二度三度と押し続けていると、スピーカーからガサガサと音がして金属的な声が響いた。
「はい、どなたですか?」
「Kです。こんなに遅い時間にすみません、どうしてもお話ししなければならない情報がありまして」
「わざわざこなくても、スマホで連絡すればいいだろう。目立つじゃないか」
「私のスマホが壊れてしまって仕方なく、あのう・・・大変なことになっているんです。このままじゃあ・・・」
「分かった、ちょっと待て」
ガチャリと鍵を外す音がして入口の扉がギギギと軋みながら少し開いた。扉にはチェーンが掛けられている。広沢は扉の隙間から周囲を見回して、北山以外に人影がないことを確認するとチェーンを外した。北山は扉の隙間から身体を滑り込ませるようにして中に入った。
由井荘の中は塩と魚の臭いの入り混じった埃っぽい空気が充満していた。広沢が扉を閉めるとガチャリとオートロックの掛かる音がした。
北山が積み上げられた漁具の横を抜けて、その先の部屋に入ると、簡易ベッドの上で手足を縛られたまま孝輔がグウグウと鼾をかいて寝ていた。簡易ベッドの下には、食べ終えたカップラーメンの容器が転がっている。部屋の照明は落とされていて、机の上のスタンドライトだけが室内をボンヤリと照らしている。キャビネットの上の小さなテレビモニターには、由井荘の周辺に設置されている防犯カメラの暗視映像が流れている。
広沢は机の横の椅子に腰掛けた。
「北山、情報とはなんだ」
北山は部屋の中をチラチラを見回したが、神月の姿が見えない。
「あのう、神月さんはどちらに?」
オドオドした様子の北山を前に、広沢は椅子の背もたれに背中を預けた。やってやれないぜと言いたげな顔をしている。
「明日の捕り物の打ち合わせだと言って警察に出向いて行ったきり、まだ戻ってこない。きっと警察の連中と一緒にどこかで酒でも飲んで、コンパニオンのお姉ちゃんと騒いでいるんだろう。ちぇっ、こっちはひとりで留守番なのに」
机の上には缶ビールの空き缶と柿の種の袋が転がっている。コンパニオンのお姉ちゃんの嬌声を想像しながら、やけ酒を呑んでいたのだろう。
「それで、情報とは何なんだよ。早く言えよ」
「そうですか神月さんはいない・・・いや、あのう・・・実は神月さんにお伝えする情報だったものですから、また、出直してきます」
広沢が不満げに北山をジロリと見た。
「何だよ、私には言えない情報なのか」
「あのう・・・神月さんのコッチに関する情報でして、他の方にはちょっと」
北山は広沢に小指を立てて見せた。広沢はハアンと頷くとニヤニヤしながら顎を指で撫でた。
「全く、神月君はモテるからって遊びが過ぎるんだよな。この前だって目の前で女の子ふたりがつかみ合いのケンカを始めて・・・いや、やめとこう」
広沢は立ち上がると、部屋の隅に置いてある小型冷蔵庫のドアを開けて缶ビールを取り出した。北山は広沢の視線が下を向いた隙にキャビネットの上のテレビモニターのスイッチを切った。机に戻って缶ビールのプルトップを引く広沢に向かって、北山はそれじゃあと声を掛けて部屋を出た。
北山が由井荘の入口の扉を開けると、黒い目出し帽で顔を隠した加奈と鮫島と津田が、足音を忍ばせて中へ入ってきた。北山は津田から受け取った目出し帽を被ると小声で囁いた。
「中に居るのは広沢という麻薬取締官ひとりだけです。神月は外に出ているようです。孝輔君は縛られたまま寝ていました」
「よし、それじゃあ手筈どおりいくわよ。GO!」
加奈は先頭に立って走り出した。北山と津田が後を追い、鮫島は腹に手を当てながらゆっくりと歩いている。
部屋の襖を開けた津田が広沢に向かって「動くな」と叫んだ。同時に加奈と北山が部屋の中に飛び込む。
広沢は飲みかけの缶ビールを津田に投げつけ、弾けるように椅子から立ち上ると、キャビネットに向かって走った。キャビネットの中には護身用の拳銃と警棒が入っている。キャビネットを開けた広沢の脇腹に津田がタックルをした。広沢と津田は折り重なるように床に倒れた。柔道の心得がある広沢は床に倒れたまま、あっという間に津田の腕を取ると関節を締め上げた。加奈と北山が広沢に組み付こうとするが巧みにかわされてしまう。関節技を決められた津田がイテテと悲鳴を上げた。
部屋に入ってきた鮫島は、キャビネットの中に置かれている拳銃を手に取った。
広沢のこめかみに銃口がコツンと当たった。広沢が石のように固まる。
「動くんじゃねえ、ズドンといくぜ。その手を放しな」
鮫島はどすの利いた声で静かに言った。手慣れているところは、さすがにやくざだ。
広沢は諦めたようにフウッと息を吐くと、津田の腕を放して床の上に胡坐をかいた。広沢の肩が上下に揺れている。広沢は覆面を被った鮫島たちをジロリと睨んだ。
「何だお前たちは。ここがどこだか知っているのか」
鮫島は拳銃を構えたままフンと鼻で笑った。
「俺たちは由井温泉の外湯めぐりをしていたんだが、いつの間にかこんな所に迷い込んじまったんだ。ここがどこかは知らねえな。おっと、湯冷めしそうだ、すぐに失礼するぜ」
北山と津田が結束バンドで広沢の手足を縛り、猿轡を噛ませると頭からすっぽりと目隠しを被せた。加奈が簡易ベッドの脇に走り寄ると、先程の乱闘騒ぎをものともせず孝輔はまだ鼾をかいて寝ていた。大物なのか、バカなのか、合体して大バカなのか・・・。
加奈が乱暴に肩をゆすった。孝輔は顔を上げるとボンヤリとした目で辺りを見回した。
「ああ、お早うござい・・・何です、あなたは?・・・ええ! 強盗! 僕、お金は持っていないんです・・・命だけは・・・うん?」
加奈は孝輔の唇の前に人差し指を当てて静かにしろというジェスチャーをした。
加奈は孝輔の結束バンドを切り、静かになった孝輔の手を引いた。津田と北山は広沢を担ぎ上げると孝輔の代わりに簡易ベッドの上に寝かせた。
目隠しの下から広沢のくぐもった呻き声が聞こえた。覚えてやがれと言っているようだ。
加奈は孝輔の手を引いて由井荘の入口の扉の前まで走った。孝輔の後ろに津田たちが続いている。
「あなた方はいったい?」
「あたしよ、加奈。よっちゃ・・・いや、孝輔を助けにきたのよ」
「加奈? なぜ加奈が僕を助けにきてくれたんです? それに、なぜここが分かったんです?」
突然の展開に孝輔の頭がついていかない。
「いろいろあってね。とにかくいまは忙しいから、詳しいことは後で説明するわ」
加奈の声には苛立ちが混じっている。いつもなら『うるさい!』と一喝するところだ。
「うん? 孝輔・・・いま孝輔と呼びましたよね。加奈がどうして僕の本当の名前を知っているんです?」
「俺が教えたんだよ」
鮫島は頭の天辺から抜けてくるような甲高い声を出すと、目出し帽を額まで引き上げて孝輔に顔を見せた。
孝輔は驚愕で両目をいっぱいに見開くと、ガタガタと震え出した。海水浴場でいきなりホオジロザメに出くわしたような気分だろう。上手に逃げなければ・・・。
「ヒッ、鮫島さん・・・。誤解なんです、ヘロインを持ち逃げなんかしていないんです。リュックサックに入っていたのは小麦粉だったんです。証拠はもうないけど信じてください・・・命だけは・・・できれば指も・・・勘弁して下さい・・・」
孝輔の胸ぐらをつかんで、鮫島が拳骨を振り上げた。
「小麦粉だっただと! コノヤロウ、ふざけたことぬかすと・・・うん? 車の音だ」
鮫島は扉に耳を当てた。扉の向こうからガラガラというダンプカーのディーゼルエンジン音が響いてくる。エンジン音が大きくなり、床が微かに振動を始めて埃がゆらりと立ち上った。ダンプカーが扉に向かって突進しているのだ。
「いけねえ、扉から離れろ! 車が突っ込んでくる!」
鮫島は孝輔と加奈の手を掴むと、ふたりを抱えるようにして扉の横にある漁網の山に倒れ込んだ。
バックで突進してきたダンプカーが由井荘の扉に激突した。
耳を聾するような轟音とともに扉と壁の一部が吹き飛び、ダンプカーの荷台が由井荘の中に飛び込んだ。由井荘の中はもうもうと埃が舞い上がり、天井からバラバラと金属片や木くずが雨のように降っている。悲鳴を上げるような音と共に、天井の梁が折れて氷柱のように垂れ下がった。ダンプカーの荷台の三分の二ほどが由井荘にめり込んでいて、建物全体が歪んでいる。
漁網の山の中から鮫島が顔を上げた。
「加奈、孝輔、大丈夫か」
漁網を掻き分けるようにして加奈が身体を起こした。
「何とか・・・怪我はなさそう・・・ちょっと、孝輔、どこ触ってんのよ」
「誤解・・・いや、不可抗力です。ああ、でも柔らかい・・・」
加奈に小突かれた孝輔が、嬉しそうに鼻の下を伸ばしている。不可抗力だという言い訳は疑わしい。鮫島が孝輔の頭に火の出るような拳骨を食らわせた。
「極村組の襲撃だ。クソっ、思ったより早かったな・・・まあいいや、鬼頭の野郎とカタをつけるいい機会だ」
鮫島は先程手に入れた拳銃をポケットから取り出した。
「俺が飛び出して、鬼頭目掛けて拳銃をぶっ放す。お前たちはその隙に逃げろ」
加奈が呆れた声を出した。
「あんたバカ? 外に何人の敵がいるかも分からないし、鬼頭がいるかどうかも分からないじゃない。そんなことしたら鮫死、いや、犬死よ」
加奈にポンポンと言葉を浴びせかけられて、犬島、いや、鮫島がムウウと唇を突き出した。正論なだけに、言い返せないのが悔しい。
「じゃあ、どうやって逃げるんだよ」
由井荘に車体をめり込ませて止まっているダンプカーのガラガラというエンジン音が急に大きくなり、バックから前進へとギアの切り替わる金属音がした。侵入口を塞ぐダンプカーを移動させようとしているのだ。マフラーから吐き出される排気ガスの黒煙が由井荘の中に広がった。
加奈は素早く立ち上がると、動きだそうと藻掻いているダンプカーの荷台によじ登った。荷台は衝突の衝撃でひしゃげていて、荷台の上には崩れた壁の一部が屋根のようになって荷台の縁に寄り掛かっている。
「みんな早く! 荷台に登って! ここに隠れて外に出るのよ」
加奈の声に鮫島は頷くと腹の痛みに顔をしかめながら荷台に手を掛け、一気に身体を引き上げた。続いて孝輔と津田が荷台に転がり込む。北山の姿が見えない。孝輔が周囲を見回した。
北山は荷台から五メートルほど離れた床の上で、倒れてきた柱に右足を挟まれて呻いていた。
ダンプカーの荷台の上から孝輔が叫んだ。
「北山さん!」
「いいんだ、孝輔君。私は動けない、君たちだけで逃げろ。加奈を、加奈を頼む」
座っていた加奈が立ち上がり北山を見た。ダンプカーがゆっくりと動き出した。ダンプカーの車体で支えられていた由井荘の壁や梁が、ダンプカーの移動と共に崩れ始めた。北山の頭上へ大きな壁が倒れていく。
スローモーションのような動きの中で、北山は加奈の目をしっかりと見つめた。
「お父さん」
北山の目に加奈の唇がそう動いたように見えた。
ダンプカーが由井荘から離れると、由井荘は悲鳴のような音を立てて斜めに傾いた。ダンプカーが突っ込んだ跡は、洞窟のような黒い穴がぽっかりと開いている。ダンプカーは由井荘から二十メートルほど離れて止まり、運転席から跳び降りた男が由井荘に向かって走って行った。
荷台から外の様子を覗っていた津田は、男が走り去ったことを確認すると荷台から降りた。荷台に残っている孝輔たちに大丈夫だと合図をしてから、津田は静かに運転席に乗り込んだ。
由井荘の前では二台のBMWの横に七人の男が立っていた。中心にいるのは鬼頭だ。
「よし行くぞ、中にいるやつは全員始末しろ。五分で片を付けるぞ」
鬼頭は拳銃を持ってダンプカーが開けた穴を潜り抜けた。七人の男が後に続く。鬼頭は瓦礫の散乱するフロントを抜けて、その先の部屋に飛び込んだ。机の上のスタンドライトの明かりの中で、簡易ベッドの上に横たわっている人影が見えた。手足を縛られて頭から目隠しの袋を被せられている。それ以外に人影は見えない。
鬼頭は周囲に目を配りながら簡易ベッドの前まで進むと、ためらいなく拳銃の引き金を引いた。パンパンという発砲音がして、横たわった人影がビクリビクリと跳ね上がる。鬼頭は目隠しの袋を剥ぎ取って、撃たれて死んだ男の顔を見た。
鬼頭の眉間にしわが寄った。
「違う、こいつは浅井孝輔じゃない」
鬼頭は誰にともなく呟いた。
ものの五分も経たないうちに鬼頭たちが由井荘から出てきた。
BMWの横に立った鬼頭は、顔を曇らせて首を傾げている。
「なぜだ、拘束されていた男は浅井孝輔じゃなかった。ガセネタだったのか・・・婆さんが殺されるかも知れないってのに?」
「おかしいな。鬼頭さん、ダンプカーが消えちまった」
「なに!・・・クソッ、やられた。誰かが俺たちより先回りして孝輔を救出したのか。ダンプカーの荷台に隠れてやがったな。まさか崎田組が・・・とにかく逃げたダンプカーを追うぞ! 必ず捕まえるんだ!」
崎田組に孝輔が奪われ、孝輔の持ち逃げしたヘロインが実は小麦粉だったことがバレれば、鬼頭の首どころか極村組の存亡にもかかわる。鬼頭の胃袋がギリリと痛んだ。
鬼頭たちは道路の上に残っているタイヤの跡とポツリポツリと落ちている由井荘の瓦礫を目印にダンプカーの後を追った。
津田の運転するダンプカーは由井荘の前から三百メートルほど走り、路肩に止めてある大型トラックの後ろに止まった。ダンプカーが止まるやいなや荷台から跳び降りた孝輔と加奈が大型トラックに向かって走った。鮫島は腹の傷を庇うようにゆっくりと荷台から降りた。津田はダンプカーの運転席に座ったまま、大型トラックに向かって歩き始めた鮫島に声を掛けた。
「鮫島さん、大型トラックの運転はできるかね」
「ああ、若い頃に長距離トラックの運転手をしていたから何とかなるぜ」
「それじゃあ、儂の大型トラックは鮫島さんが運転してくれ。孝輔と加奈を乗せて元五郎丸に送り届けてほしい」
津田は自分の大型トラックのキーを鮫島に投げた。
「あんたはどうするんだ」
怪訝な顔をした鮫島に向かって、津田は精悍な顔をした。
「こんな夜中に田舎道を大型トラックが走っていればやつらに気付かれちまうし、BMWが相手なら大型トラックでは逃げきれん。儂はこのダンプカーでやつらを引き付ける」
鮫島が驚いたような声を上げた。
「引き付けるって・・・それからどうするんだ。やつらに捕まっちまうぜ」
津田は自信ありげに頷いた。顔に任せろと書いてある。
「まあ、何とかするさ。儂はプロのドライバーだし、ここら辺の道は知り尽くしているから大丈夫だ。それじゃあ、先に出発してくれ、やつらが追っかけてくる頃だ」
県道五十号線は海岸線に沿って、由井から油石漁港を抜けて加美の町に向かって延びている。海岸近くまで山がせり出していて右手は山肌、左手は海に落ち込む崖となっている片側一車線の細い道だ。津田の運転するダンプカーは真っ黒な排気ガスを吐き出しながら、何かを待っているようにゆっくりと走っている。
バックミラーに二台の車のヘッドライトが映った。津田は運転席の窓からチラリと後ろを振り向いて、ダンプカーのすぐ後ろに迫ってきたのが二台のBMWだと確認すると、おもむろにアクセルを踏み込んだ。ディーゼルエンジンが吠え、ダンプカーが急加速を始めた。
右に左にクネクネと続くカーブを、ダンプカーは大きな車体を揺らしながら走り抜ける。津田の運転するダンプカーは、細い道路のセンターライン上を走りながら巧みに左右に幅寄せをするため、BMWはダンプカーの横をすり抜けて前に出ることができない。
庄内水産試験場の前を通って加美市街地に入ったダンプカーは、加美港に沿って左に直角に曲がる県道五十号線から離れると、車一台分の幅員しかない細い脇道を直進した。二台のBMWはダンプカーの後ろにピッタリと貼り付いている。
深夜の住宅街を、轟音を上げながら走り抜けたダンプカーは、脇道を出て国道百十二号線に入った。
通称加美バイパスと呼ばれる国道百十二号線は、鶴丘市街から高倉山の山塊を越えて加美に抜ける峠道である。整備された広いバイパス道路に入ると、二台のBMWはダンプカーの左右から追い抜きを掛けようとスピードを上げた。津田はハンドルを左右に回してダンプカーの車体を左右に大きく振り、車体をぶつけるようにしてBMWの進路を阻んでいる。
一瞬の隙を突いて反対車線に出たBMWが、加速してダンプカーの横に並んだ。追い越そうとした直前に、正面からワンボックスカーが迫った。ワンボックスカーが狂ったようにクラクションを鳴らす。BMWは急ブレーキを掛けてダンプカーの後ろに戻り、間一髪で正面衝突を免れた。
緩い左カーブの先に、国道百十二号線から高倉山の山頂に向かって延びる細い山道の入口がある。津田はブレーキを思いきり踏み込んでハンドルを左に回した。ダンプカーの太いタイヤから煙が上がり、後輪をスリップさせて道路を塞ぐようにほぼ真横になって方向転換したダンプカーが山道に滑り込んでいく。追突直前でハンドルを切ったBMWもダンプカーを追って山道に入った。
未舗装の山道はダンプカーの車幅とほぼ同じ幅員しかない。左手の山肌は垂直に切り立って窓の外に迫り、垂れ下がった木の枝や山肌の雑草がダンプカーのサイドミラーをバサバサと叩いている。津田の目の前に、ヘッドライトの光を飲み込むようなぽっかりとした黒い穴が迫ってきた。長さ三百三十メートルの加美隧道である。このトンネルを抜けると高倉山の山塊を抜けて鶴丘市内に出ることができる。
ダンプカーは左右のサイドミラーをトンネルの壁面にこすりつけながらトンネルに飛び込んだ。火花が散って左のサイドミラーが捻じれ飛んだ。ダンプカーの荷台に付いている鳥居の先端がトンネルの天井を擦るガリガリと言う音が車内に響く。津田は時速二十キロまで速度を落として慎重にダンプカーを走らせた。照明設備のない真っ暗なトンネルをヘッドライトの光が切り裂いていく。
永遠に続くかと思うような長いトンネルがようやく終わり、出口がゆっくりと近づいた。
津田はダンプカーの車体がトンネルからすべて出てしまう直前に停車した。トンネルの出口はダンプカーの荷台で塞がれている。津田はクラッチを踏んでからPTOスイッチを押しダンプレバーを上げた。ダンプカーのエンジン音が高まり油圧ポンプが作動すると荷台が徐々に傾き、荷台の上に乗っていた由井荘の壁や柱の残骸などの瓦礫が、土煙を上げながらトンネルの出口にドサドサと落ちていく。トンネルの出口の半分ほどが建物の瓦礫で埋まった。
ダンプカーのすぐ後ろで停車した一台目のBMWは、車体の半分が瓦礫に埋まり動けなくなった。二台目のBMWはトンネルの中で立ち往生している。
津田はダンプレバーを下げるとPTOスイッチを切り、鶴丘市内に向けてダンプカーをゆっくりと発進させた。二台のBMWの追撃をかわした津田の顔は、どうだと言わんばかりに輝いている。




