表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/14

酒谷北港1

 元五郎丸では、帳場に加奈が座り、土間のテーブルに孝輔と鮫島が肩を並べて座っていた。台所から急須と湯のみをお盆に乗せた高倉が出てきて、テーブルの上にお盆を置くと鮫島の正面に座った。

 高倉は湯のみにお茶を注ぎながら言った。

「それじゃあ、北山は瓦礫の下敷きになって死んだってことかい」

「おそらくな」

 鮫島が答えると高倉は天を仰いで目を瞑った。麻薬取締官の情報提供者になっていたとはいえ、高倉と北島とは幾つもの修羅場を潜り抜けてきた長い付き合いなのだ。帳場に座って下を向いている加奈の表情は見えない。

「孝輔君の代わりに縛られた麻薬取締官はどうなったんじゃろうか」

「ダンプカーの荷台に隠れて逃げているときに、パンパンという銃声が聞こえましたよ」

 孝輔がそう言うと、鮫島が頷いた。

「極村組のことだから、麻薬取締官だろうが何だろうが、見境なしに殺っちまったんだろう」

 何しろ、同じ関東弘心会傘下の江渡神組の組員をいとも簡単に殺す連中だ。目的のためなら誰でも殺すだろう。麻薬取締官だからといってためらうとは思えない。

「麻薬取締官を殺したりしたら、これからここでヘロインの取引なんぞできなくなるぞ。なんちゅうことをしてくれたんじゃ」

 高倉は頭を抱えた。同僚を殺された麻薬取締官たちは血眼になって捜査するだろう。それは、これまでの捜査とは比べ物にならないほど厳しいはずだ。

 孝輔は頭に浮かんだ疑問を口にした。

「広沢って麻薬取締官は縛られて、僕の代わりにベッドに寝かされていたんですよね。襲われたときも抵抗できなかったはずなのに、なぜ殺したんでしょう」

 鮫島が顔を上げた。そう言われればそうだ。鮫島は頭をゴツンと殴られた気がした。

「目隠しの袋を頭から被せられていたから、孝輔だと勘違いして殺ったんじゃねえのか・・・うん? そりゃおかしいな。ヘロインの隠し場所を吐かせるためにわざわざ孝輔を拉致しに行ったのに、孝輔を直ぐに殺したんじゃ目的を果たせない。いったいどういうことだ?」

 鮫島はしゃくれた顎を擦りながら首を傾げた。

「ですから、僕はヘロインを持ち逃げなんてしていませんって何度も言っているじゃあないですか。リュックサックの中に入っていたのは小麦粉だったんです」

 孝輔がここぞとばかりに弁明するが、鮫島は聞く耳を持たない。鮫島の顔がどす黒く変わった。

「孝輔、コノヤロウ。大人しくしてりゃあ調子に乗りやがって、まだそんなこと言ってやがる!」

 鮫島が孝輔に向かって拳骨を振り上げた。孝輔がヒッと首をすくめる。

 帳場で下を向いて何ごとか考え込んでいた加奈がキッと顔を上げた。頭の中の整理がついたようだ。加奈にはこの騒動の全体像が薄っすらと見えている。

「鮫島さん、極村組はヘロインを取り戻そうとしていない。麻薬取締官の仮事務所を襲ったのも孝輔を殺すことだけが目的だったのよ。極村泰道が江渡神組に預けたブツはヘロインじゃなかった。ヘロインを持ち逃げしたことになっている孝輔を秘かに殺してしまえば、江渡神組はヘロインを返せない。そうなれば関東弘心会の会長から泰道が預かったヘロインを失くした責任は江渡神組が負うことになるわ。

 おそらく、泰道は会長から預かったヘロインを横流ししたのね。泰道は江渡神組にヘロインを預けたように見せかけるために、偽物を鮫島さんに渡した。そうしておいて、隙を見て江渡神組からそれを盗み出すつもりだったのよ。ところが、何かの手違いで孝輔がその偽物を持ち出した。だから泰道は必死になって孝輔の後を追わせた。江渡神組より先に孝輔を見つけて始末するために」

 鮫島はまだ半信半疑だ。

「それじゃあ、なぜ鬼頭は俺を撃って、うちの組の若いもんを殺したんだ」

「お母さんを確保して孝輔を捕まえられる算段が付いたからでしょう。孝輔を捕まえたところに鮫島さんがいたら孝輔をすぐに始末できないし、孝輔が持ち出したヘロインを取り戻す気がないことがバレかねないしね。泰道は孝輔も江渡神組も全員始末してから、江渡神組に責任を取らせましたって会長に報告するつもりなのよ」

 鮫島がウウムと唸った。全ての辻褄があう。これ以上疑いようがない。そう思うと、鮫島の腹の底からグラグラと熱い塊が吹き出してきた。怒りで身体が焼けるようだ。

「そんな・・・うちの組は最初から泰道に踊らされていたってことか。泰道はウチの組に責任を負わせて組を潰して・・・ヤロウ俺を虚仮にしやがって、許さねえ」 

 鮫島の顔が怒りでどす黒く変わり、こめかみに蚯蚓腫れのような血管が浮き上がった。鮫島の般若の面のように恐ろしい顔から目を逸らしながら孝輔が言った。

「加奈、お母さんは大丈夫なんだろうか。早く助けに行かなきゃ殺されるんじゃないかな」

「孝輔を捕まえるまでは大丈夫よ。でも、ひどい扱いを受けていたら可哀そうだわ、何とかしなきゃ」

 孝輔も加奈も、恵子がカラオケボックスで見張り役の田中たちと歌合戦を繰り広げていることなど知る由もない。

 高倉が金壺眼を加奈に向けた。怒りも悲しみもない、プロの麻薬取引仲介業者の目だ。

「加奈、ブツはもう船に乗ってこっちに向っとるんじゃ、今更取引は中止にはできんぞ。麻薬取締官の目が厳しくなるが止むを得ん。明日・・・いや、もう今日じゃな、今日の午後6時には金を持って出航だ。分かっているな」

「分かっているわよ。でもそれまでにお母さんを何とか救出しなきゃ。それと、受け取ったヘロインはほとぼりが冷めるまで暫く高倉さんの所で預かって貰えないかしら。ヘロインを持ったまま港に上がったら、ママもあたしもその場で麻薬取締官に逮捕されちゃうわ」

 高倉が眼を剝いた。

「アホウ、そんなことをしたら儂が逮捕されるじゃろうが。加奈を酒谷北港で船から陸に上げた時点で儂の仕事は終わり。どうやってブツを運ぶのかは崎田組の仕事で儂は関知しない。最初からそういう契約じゃ」

 高倉の厳しい口調には有無を言わさぬ迫力がある。

 加奈は口をキュッと結ぶと頷いた。そうだ、そこまで高倉に甘える訳にはいかない。崎田組のメンツもあるのだ。

「そうね・・・分かったわ、自分で何とかする」

 それまで、鮫島の視線を避けるよに身を縮めていた孝輔が、ふと顔を上げた。

「加奈、ヘロインって?」

「ああ、孝輔は知らなかったわね。崎田組が高倉さんの仲介で、ロシアの組織からヘロインを買うのよ。あたしはそのために崎田組の代理人としてここにきたのよ」

「本物のヘロインが手に入る? それを麻薬取締官が追っている?」

 孝輔の頭の中で思考が渦を巻いている。

 一 お母さんを助けるには、僕の手から偽物のヘロインを極村組に渡さなければならない。

 二 神月は極村泰道を罠にかけてでも逮捕したい。だから神月は僕が持ち逃げしたヘロインを使おうとしていた。でもそれは偽物だ。本物のヘロインがなければ逮捕できない。

 三 本物のヘロインはもうすぐ加奈の手に入る。しかし、ヘロインを持って加奈が港に上がれば、加奈が逮捕される。加奈を助けたい。

 四 加奈のヘロインを使って泰道を罠にかけて、神月に引き渡す。その見返りに加奈を助ける。

 五 泰道を罠にかければ崎田組に渡すヘロインはない。金を渡したのにヘロインがなければ、加奈の立場がない。

 どうすればいいんだ・・・孝輔が考えに沈んだ。

 孝輔の心臓がドクリと音を立てた。

 意識の奥底からもうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってくる。それは孝輔に優しく語りかけた。

『大丈夫、孝輔ならできるさ。僕が力を貸してあげるよ』

 もうひとりの自分がゆっくりと孝輔の身体中に拡散していく。それは血管を通って孝輔の身体の隅々にまで広がった。身体が燃えるように熱い。もうひとりの自分と孝輔が完全にひとつになった。

 孝輔は顔を上げた。何かが憑依したかのように孝輔の目の色が変わって、どこか精悍な顔付になっている。

「鮫島さん、極村組の鬼頭に連絡できますか」

 それまでのオドオドした孝輔とは別人のように、声に力と張りがある。突然の孝輔の変化に、鮫島は少し戸惑いながら答えた。

「ああ、リュックサックの中に入っているスマホは鬼頭から孝輔への連絡用だ。こっちから架ければ孝輔からの連絡だと分かって、やつは飛びついてくるぜ」

 孝輔は頷くとリュックサックの中からスマートフォンを取り出し、着信履歴から鬼頭の番号を呼び出した。その手付きには全く迷いがない。

 加奈も鮫島も高倉も、豹変した孝輔に声をかけることもできず、固唾を呑んで見守っている。

 呼び出し音が鳴るや否や応答があった。

「鬼頭だ」

「浅井孝輔です。佐木田恵子は無事でしょうね」

 鬼頭の声音が低くなり凄みを帯びた。

「ああ、無事だよ。これから先どうなるかは保証できんがね。まあ、お前さん次第さ」

「鬼頭さん、一言忠告しておくよ。佐木田恵子を手荒に扱ったりしないことだ。おたくの組の為だよ。知らないだろうから教えてあげるが、佐木田恵子は関東白井会崎田組の女組長崎田知世の母親だ。佐木田恵子の身に何かあれば崎田組が黙っちゃいない。全面戦争になって血の雨が降るぞ。分かったな」

「何だと! それは本当か」

「僕が嘘を吐いてどうするんです。僕が崎田組のチンピラで、江渡神組に送り込まれていたことも、極村泰道から江渡神組が預かったヘロインを持ち逃げしたことも知っているでしょう。僕は崎田組を裏切った。持ち逃げしたヘロインを高く売り捌きたかったんでね。だから、崎田組からの追手を防ぐために崎田知世の母親を誘拐して連れ回していたのさ」

「なるほど、やくざに囲まれているのに呑気にカラオケなんぞやりやがって、やけに肝っ玉の据わった婆さんだと思ったが、そういうことか」

「え? カラオケ?」

「何でもねえ、こっちの話だ」

 孝輔はゴホンとひとつ咳をしてから続けた。

「これからが本題だ。僕が持ち逃げしたヘロインを極村組に買い取ってほしいんだ。代金は一億円」

「ふざけるな! そのヘロインは元々極村組の物だろうが。自分の物を何で買い取らなきゃならねえんだよ」

「極村組の物じゃなくて関東弘心会の会長の物でしょう。会長から極村泰道が預かっただけだ。預かったものは返さなきゃいけませんよね、会長から早く返せと催促されているんでしょう」

「お前なぜそれを」

「知っているんですよ。あなたが殺し損なった鮫島が元五郎丸まで逃げてきましてね。腹を撃たれていて結局出血多量で死にましたが、死ぬ間際に漏らしたんです。あなた方が切羽詰まっていると分かったんで声を掛けさせてもらいました。明日の朝午前三時、ああ、丁度二十四時間後ですか、酒谷北港のコンテナヤードで取引をしましょう。ヘロインをそちらに渡しますから一億円と佐木田恵子をこちらに渡してください。いかがです?」

 スマートフォンを持って話す孝輔の顔はだんだんと青白くなり、まるで夢遊病者がうわごとを言っているように両目の焦点がズレてきた。もうひとりの自分が孝輔の口を借りて喋っているのだ。

「たった一日で一億円なんて金が直ぐ用意できる訳がないだろう」

「それはそちらの事情でしょう。こちらは海外に高飛びするための船が明日の朝出航するので、これ以上は待てないんです。お判りいただけますか」

「嫌だと言ったらどうするんだい」

「どうもしません、残念ですが僕は諦めますよ。そのまま海外に高飛びして暫くほとぼりをさまします。佐木田恵子は解放しないと崎田組が黙っちゃいませんからよろしくお願いします。まあ、崎田組と極村組が戦争になっても、僕には関係ありませんけどね。それと、僕の持っているヘロインは麻薬取締官・・・いや、関東弘心会の会長に送りますよ」

「会長にだと? お前何を言っているんだ」

「鬼頭さん、僕が持ち逃げしたヘロインは偽物で中身は小麦粉だった。知っているんです。極村泰道から江渡神組が預かったヘロインは偽物で、本物のヘロインは極村泰道がどこかに横流ししたんでしょう。江渡神組から偽物のヘロインを盗み出せば、ヘロインを失くした責任を江渡神組に負わせることができる。ヘロインを横流しした極村泰道にとっては会長にヘロインを返す必要もなくなるし、更に会長に横流しを知られる恐れもなくなる。万々歳でしょう」

「そんな・・・でたらめだ」

「ほう、そうですか。それじゃあ、僕の手元にある小麦粉は関東弘心会の会長に送ってもいいんですね」

「そんな物が何になる・・・」

「そんな物? 極村泰道と鬼頭さんの指紋がベタベタと付いている小麦粉の袋を見て会長は何と思うんでしょうね。ああ、この会話も鮫島の死ぬ間際の会話も録音していますから、これもサービスで同封しますけどね。会長がこのことを知ったら極村泰道、いや極村組は破滅だ。それと引き換えの一億円、安いもんじゃないですか」

「・・・俺の一存では・・・オヤジと相談させてくれ」

「時間がないんです、繰り返しますよ。明日の朝午前三時、酒谷北港のコンテナヤードで取引だ。詳しい場所は今から十二時間後の午後三時に僕から鬼頭さんに連絡する。こちらはヘロイン・・・いや指紋付きの小麦粉袋一キロ、録音データもサービスでそちらに渡す。そちらが用意するのは一億円と怪我ひとつしていない佐木田恵子。取引場所には極村泰道と鬼頭さんのふたりだけでくること。当然ですが丸腰でね。極村組の手下の姿がひとりでも見えれば取引は中止する。時間になっても極村泰道が取引場所に現れなければ取引は不成立。それじゃあ、明日の朝午前三時にお会いしましょう。ああそれと、僕は取引まで身を隠していますから、元五郎丸を襲っても無駄ですよ」

 孝輔はスマートフォンを切るとフウッと大きくひとつ息を吐いた。孝輔の身体の中に満ちていたもうひとりの自分が、心臓に向かってスルスルと収斂していく。憑き物が落ちたかのように孝輔の両目の焦点がスウッと合った。孝輔の額に脂汗が浮き、シャツの背中も脇の下も汗でぐっしょりと濡れている。

 加奈が驚いたような眼で孝輔を見た。鮫島と高倉は絶句している。

「孝輔、あんたなかなかやるじゃない。まるで別人みたいだったわよ、誰かが乗り移っていたみたい」

「加奈、僕も途中から自分で何をしゃべっているのか分からなくなって・・・誰かが僕の口を借りてしゃべっているような・・・」

 高倉は眉をひそめて孝輔の顔を気味悪げに見ながら言った。

「孝輔、極村泰道をおびき出すのはええが、それから先はどうするんじゃ。儂はやくざ相手に深入りはせんぞ。崎田組のヘロイン取引が終わればそれでええ。儂は仲介役じゃから、加奈に渡したヘロインを加奈がどう使おうと勝手じゃが、儂を巻き込まんでくれ。それでなくても迷惑しておるのに・・・それにしても昇造は何であんなにあんたたちに肩入れするのか分からん。ただ、トラックに乗せただけの仲なのに」

 高倉の顔は困惑している。高倉の呟きが聞こえたかのように、元五郎丸の入口のアルミサッシがガラガラと開いて津田昇造が入ってきた。津田の顔が満足気に光っているのを見て、高倉はヤレヤレと首を横に振った。

「上手くいった。やつらトンネルの中で立ち往生だ。鮫島さんの方は無事で? ああ良かった」

 津田はそう言いながら高倉の隣に座った。高倉と津田が並ぶと金壺眼やがっしりとえらの張った顎がよく似ている。やはり兄弟なのだ。高倉は金壺眼の底からジッと津田を見据えた。

「昇造、ええ加減にせい。かたぎがやくざ相手に無茶するな」

 津田は高倉の目を真正面から見返した。

「お兄よう、そうは言っても・・・お母さんの顔が頭から離れんのよ。それに孝輔も加奈も何か他人じゃないような気がしてなあ・・・不思議なんじゃが、誰かが心の底で助けてやれって言うのよ」

 おそらく、津田自身もなぜ自分がこんなに肩入れしているのか、理解できないのだ。それは理性ではなく魂の声に衝き動かされているためだ。

 高倉は呆れたような声を出した。

「付き合っていられんわ、儂はもう寝る。後はみんなで好きにやってくれ」

 高倉はガタリと席を立つと、帳場の奥の十畳間に上がった。鮫島はしゃくれた顎を擦りながらお茶を一口飲んで、孝輔と加奈を交互に見ながら諭すように言った。

「孝輔、高倉が言ったとおりだ。かたぎがやくざ相手に無茶すると殺されるぞ。俺は今回の借りを返さなきゃならんが、孝輔は巻き込まれただけだから逃げればいいんだよ。あの婆さんが崎田組の女組長の母親なら極村組は手を出せねえから心配するな。

 加奈もそうだ。麻薬取締官に目を付けられているのに、ヘロインの取引を続けるなんざ正気じゃねえぞ。逮捕される前に今回の取引から手を引け。取引を中止したら高倉に迷惑が掛かるかも知れんが放っておけ。高倉はこの道のプロだ、何とかするさ」

 孝輔は思い詰めたような顔をしている。先程と打って変わって声に力がない。

「お母さんが崎田組の女組長の母親というのは嘘なんです。神月さんがそんな風に思い込んでいたのを聞いて、つい言ってしまいました」

「なるほど・・・だが鬼頭には嘘だと分かりゃあしないから大丈夫だ」

 加奈は少し沈んだ声で言った。勝ち気で自信満々のいつもの加奈の面影はない。

「崎田組、いや、あたしのママはこの取引から簡単に手を引けないのよ。女組長なんておだてられているけど、幹部の島内や古参の組員からは色眼鏡で見られているのよ。この取引は島内が強引に進めている案件だから、ママの口からこの取引を止めるとは言えないの。たかがヘロインの取引ぐらいでビビっていると思われたら島内になめられちゃうわ。そうなったら組はガタガタよ。それに明日の取引には島内も同行するって、さっき連絡があったの」

 鮫島はフンと鼻で笑った。やくざの組内の権力闘争など、どこにでもある話だ。他の組との抗争よりも、内部抗争の方が熾烈でやっかいだ。そのことは鮫島も痛いほど分かっている。

「だが、逮捕されればそれで終わりだ、組から放り出されるぜ」

 鮫島の口調は淡々としている。当然の帰結だと言いたいのだろう。

 加奈がグウッと身を乗り出した。

「だから逮捕されないように知恵を絞って欲しいのよ。ねえ孝輔どうする?」

 加奈の大きな目で見つめられた孝輔は眩しそうに視線を逸らしながら頷いた。

「僕に考えがあります。但し、それには高倉さんの協力が必要なんですが・・・」

 孝輔は高倉が引っ込んだ帳場の奥の十畳間にチラリと目をやった。十畳間の灯りは消えていて静まり返っている。

 それまで黙って話を聞いていた津田が静かな声で言った。

「お兄は儂が説得するよ。北山が死んで麻薬取締官にも目を付けられているんじゃあ、ヘロインの密輸仲介なんてこれ以上続けられん。お兄にとっても足を洗ういい潮時だ。

 もともと、お兄がこんな危ない仕事に手を染めたのは儂のためなんですよ。儂は若い頃、やくざをやっていましてね。地元じゃちっとは名の知られた暴れん坊じゃった。イカ釣り漁師をやっとったお兄には、ずいぶん迷惑を掛けたもんです。

 ところが、二十年前になりますか、儂は肝臓を患って生体肝移植しか助かる道がないと診断されたんです。やくざなんかやっとる儂に金なんぞない。その手術の費用を捻出するために、お兄はイカ釣り漁師を止めてヘロインの密輸仲介を始めたんです。

 移植手術が成功した後、儂はやくざから足を洗ってトラック運転手になりました。何やら、やくざなんかやっとることが馬鹿らしくなったんです。皮肉なもんで、儂がかたぎになったら、今度はお兄がヘロインの密輸仲介ですわ。儂は移植手術の、いや、お兄のお陰でこうしていまも生きています。ずいぶん前からお兄には足を洗ってくれと頼んどるんですが・・・」

「昇造、要らんことを言わんでええ!・・・分かった、協力するから安心せい」

 寝ているはずの高倉の声が暗い十畳間から響いた。津田は少し潤んだような目をして孝輔に向かって頷いた。孝輔はペコリと頭を下げた。

「それじゃあ、こうしましょう。まず、加奈は調達係だ。小麦粉一キロ、ビニール袋、全く同じクーラーボックスをふたつ、最後にケチャップを忘れずに。津田さんはコンテナヤードの整備をお願いします。鮫島さんは由井荘から持ってきた拳銃を・・・」


 午後四時、日が西に傾きかけた酒谷北港のコンテナヤードを二十人ほどの男が歩いていた。先頭の梶尾は何かを探すように、積み上げられたコンテナをキョロキョロと見回している。

「あった、これだ。赤のスプレーで書かれた大きな星印、向こうのコンテナにもある。ふたつのコンテナの間の通路を入った先の空き地が、孝輔から指定された取引場所だ。いくぞ」

 梶尾を先頭にして、男たちはコンテナとコンテナに挟まれた車一台分ほどの幅の通路を進んだ。通路の先には岸壁に向かって三方をコンテナに囲まれた一辺二十メートルほどの四角い空き地があった。

「ここだ。よし田中、管理事務所に行ってコンテナを動かすクレーン技師を連れてこい。このコンテナを俺たちが中に隠れるコンテナと入れ替えるぞ」

 梶尾は取引場所を囲むように積んであるコンテナのひとつを掌でポンポンと叩いた。

 一時間後、入れ替えの終わった新しいコンテナの中に梶尾たちは入った。コンテナの中には座布団や毛布が置いてあり、飲料水や弁当なども積まれている。取引場所とは反対側になるコンテナの壁に大きな穴が開けられていて、穴の近くにいればコンテナの中でも携帯電話の電波が受信できるように細工がされている。

 梶尾はスマートフォンを手に持った。

「あ、鬼頭さん、梶尾です。・・・ええ、孝輔から連絡のあった取引場所です。大きな赤い星印を確認しました。・・・ご指示どおりコンテナを入れ替えました。・・・みんなコンテナの中で待機しています。・・・はい、それじゃあ鬼頭さんの合図で飛び出します。・・・はあ、孝輔だけ始末する? 婆さんには絶対に怪我をさせないように?・・・分かりました、みんなによく言い聞かせますんで・・・はい」

 梶尾はスマートフォンを切ると、大きく伸びをしてから座布団の上に腰を下ろした。腕時計を見ると取引時間まであと十時間もある。梶尾はゴロリと横になるとジャンパーのポケットから拳銃を取り出し、ハンカチに包んで枕元に置いた。

 梶尾たちがコンテナに入ってから十分後、タンクローリーがコンテナヤードをゆっくりと進み、赤い星印が書かれたふたつのコンテナに挟まれた細い通路を塞ぐように止まった。タンクローリ―の車体に隠れて赤い星印は見えなくなった。


 午後五時五十分、日が落ちると辺りにはあっという間に夕闇が広がっていく。酒谷港の船溜まりから、夜釣り客を乗せた遊漁船が次々に出航していく。

 岸壁に舫われてゆっくりと上下に揺れる元五郎丸の上では、高倉が操縦席に座り舵輪に両手を置いてぼんやりと前方を見ている。舷側では孝輔がゴム長靴に胸まであるゴムズボンをはいて合羽を羽織った姿で加奈を待っていた。

 釣具屋の角を曲がって加奈が姿を見せた。淡いピンクのコットンパンツに真っ赤なパンプスを履いて、グレーのニットセーターを着た加奈はファッション誌のモデルのようで、岸壁の風景から完全に浮いている。よく見ると加奈は小さなリュックサックを背負っている。

 加奈の後ろから、直立二足歩行するゴリラのような大男が、大きなトランクケースを軽々と片手で持って歩いている。

 元五郎丸の前に立った加奈とゴリラを見た高倉は、眉をひそめて不機嫌な声を上げた。

「何じゃい加奈、そのかっこは。これから釣りに行くんじゃぞ、それらしい服を着てこんかい。目立ってしょうがないわい。それと・・・後ろの男は誰じゃい」

 加奈は孝輔に手を引かれて元五郎丸に飛び乗ると、唇を突き出して拗ねるように言った。

「だって、これしかなかったんだもん。それと、このゴリラはうちの組の幹部の島内。ダメだって言ったんだけど付いてきちゃったの。取引に立ち会わなきゃ気が済まないそうよ、ブツの真贋判定の試薬も持ってきたんだって」

 高倉は極悪人のような顔で、どすの利いた声を出した。

「島内さんかい、あんた勝手なことをされちゃあ困るんじゃ。先方にはこっちの人数も連絡しとるからな。それに相手方とはこれまで何年も取引をしとるし、一度もトラブルはない。ブツの品質は保証付きじゃから真贋判定なんて要らん。あんたはここに残ってくれ」

 島内は高倉の声が聞こえなかったかのように、薄ら笑いを浮かべたままトランクケースを片手に元五郎丸の舷側に飛び移った。

 高倉の怒声が響いた。

「おいアンタ! 聞こえなかったんか、船から降りろ」

 島内は高倉の怒声を聞いても、薄ら笑いを浮かべたまま、まるで動じない。

「うるせえな爺さん、人数のひとりぐらい何とかしろよ。俺は今回の取引の責任者だからな、何があろうと付いて行くぜ」

 島内は舷側に腰を下ろした。梃子でも動かないという顔だ。加奈は何を言っても無駄だとばかりに高倉を見て首を横に振った。高倉は不機嫌な顔で頷いた。

「仕方ない、出航する。加奈、夜の海は冷えるぞ、その恰好じゃあ寒い。そこの合羽を着てライフジャケットを付けろ」

 加奈はエサ台の下に無造作に突っ込んであった合羽を羽織ると同時に鼻をつまんだ。

「ウワッ酷い臭い・・・このセーター高いのよ、着られなくなったら弁償してよね」

 ブツブツ言いながらライフジャケットを取ろうと屈んだ加奈のコットンパンツに浮かんだピップラインに、島内は好色そうな目を向けてニヤリと口元を緩めた。


 深夜の空には針のように細い月が浮かび、微かな月光は波の波動によって砕けてキラキラと瞬きながら水面を滑っていく。

 双子岩の横に投錨した太陽丸は、白い停泊灯だけを灯して日本海の荒波に弄ばれるように上下に大きく揺れている。鳥島の西海岸荒崎の入り江で元五郎丸から太陽丸に乗り移った孝輔たちは舷側でジッと息をひそめていた。

 午後十一時五十分を過ぎた頃、闇の中に太陽丸に向かって近づく航海灯がチラリと光った。波の波動で上下する航海灯は見え隠れしながら徐々に大きくなり、やがてボートのエンジン音も聞こえてきた。ボートに向かって高倉が手に持った懐中電灯を明滅させると、向こうのボートからも同様にチカチカと明滅した光が返ってきた。

 太陽丸に横付けしたボートから、デミトリが太陽丸に移ってきた。暗いボートの操縦席にデミトリの相棒が座っているが、孝輔たちからは黒い塊のようにしか見えない。

 デミトリはずんぐりとしたホッキョクグマのような大男で、頭髪は微かな月光を反射して銀色に光っている。ウオッカの飲みすぎだろう、潰れたような鼻の頭は熟れすぎたトマトのように真っ赤な色をしている。

 太陽丸の船首で高倉とデミトリはロシア式に抱擁した。デミトリは孝輔たちを見て顔をしかめると、流暢な日本語で話し出した。

「高倉、北山はどうした? それに約束よりも人数が多いな、どうなっている」

 デミトリの声には明らかに険がある。約束と異なることが不満なのだ。些細なことが身の破滅に直結するこの稼業では、身を守るために必要な嗅覚といえる。

「すまないデミトリ、北山は身体を壊して動けなくなったんで代役を連れてきた。身元は儂が保証する。人数の件は、今回のお客さんは女性なので、心配してボディーガードが付いてきてしまってひとり増えた。急なことで連絡できなかったんだ、了解してくれ」

 デミトリは鼻をグズッと鳴らして不満げな顔をしたが、加奈に気付くと途端に満面の笑顔になった。

「何とも綺麗なお嬢さんじゃないか。彼女が今回の取引の相手方? それはそれは、私はデミトリ・ペトロフといいます、どうぞよろしく」

 加奈はデミトリの正面に立つと、大きな目でデミトリを見てからペコリと頭を下げた。

「初めまして、崎田組の組長の代理で崎田加奈といいます。当方の都合で人数が増えたことをお詫びします」

 デミトリは分かったとばかりに頷き、加奈を抱きかかえてロシア式に抱擁をすると、フンフンと鼻を鳴らして加奈の髪の匂いを嗅いでから上機嫌の声を出した。

「それじゃあ、取引を始めよう」

 加奈は胸元からネックレスを引き出すと、その先に付いているコインの破片ごとデミトリに渡した。高倉とデミトリもポケットからコインの破片を取り出した。デミトリの熊のような分厚い掌の上で三つの破片は合わさって十ルーブル硬貨になった。

 デミトリは頷くと舷側から身を乗り出して、ボートに向かってロシア語で声を掛けた。ボートの操縦席の黒い影が太陽丸の舷側に近づくと、デミトリに小さなクーラーボックスを手渡した。デミトリは加奈の足元にクーラーボックスを置くと蓋を開けた。クーラーボックスには氷詰めにされた鰊がぎっしりと入っている。デミトリは鰊をかき分けて中に手を入れると、底からビニール袋に包まれた白い塊を掴み出した。

 加奈が白い塊に手を伸ばそうとすると、デミトリが片手で遮った。加奈は後ろに立っている島内を振り返って頷いた。島内はトランクケースをデミトリの足元に置き、ケースを開けた。トランクケースの中には帯封の付いた一万円札がギッシリと並んでいる。

 デミトリはざっと見回すと、手に取った札束をペラペラとめくって中身を確認してから頷いた。

 誰も一言も言葉を発しない。

 デミトリは再び加奈とロシア式に抱擁をすると、トランクケースを持って背中を向けた。

「ちょっと待ってくれ。このブツが本物かどうか確認する」

 島内はそう言うとポケットからペンシルケースほどの大きさの容器を取り出した。デミトリの顔面が一瞬で真っ赤に染まり、燃えるようなブルーの目で島内を睨みつけた。デミトリの右手がジャンパーの内ポケットに向かってゆっくりと伸びる。拳銃が隠されているのだろう。

「私の組織を信用していないのか」

 デミトリの声が怒りに震えている。高倉は咄嗟にデミトリの前に立ち、両手を上げてマアマアと宥めた。こんな所でホッキョクグマとゴリラの乱闘にでもなれば、たまったもんではない。

 怒りに震えるデミトリの声を無視して島内は白い粉の入ったビニール袋に針を刺し、抜きとった白い粉を小さなガラスの板の上に乗せている。一分後、試薬の反応を見て満足気に顔を上げた島内は、デミトリに向かってOKサインを出した。

 デミトリは島内を睨みつけてグズッと鼻を鳴らしてから、トランクケースを抱えてボートに跳び移った。デミトリを乗せたボートはあっという間に太陽丸から離れると、エンジン音だけを残して暗闇の海に消えた。

 高倉はフウと大きく息を吐いた。緊張して強張っていた身体から力が抜ける。

「これで取引は終了じゃ。ブツは儂の用意したクーラーボックスに移して、デミトリの持ってきたクーラーボックスはここで捨ててくれ。万が一のときに、足がついて向こうに迷惑が掛からんように念を入れんとな。鳥島まで戻って元五郎丸に乗り換えたら、後は加奈を酒谷北港で降ろして、そこで儂の役目は終わり。裕ちゃんよう、それじゃあ戻るとするか」

 高倉は太陽丸の操縦席に座っている裕ちゃんに向かって片手を上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ