酒谷北港2
午前二時四十五分、元五郎丸は酒谷北港の宮脇岸壁に接岸した。
宮脇岸壁はコの字型をした酒谷北港の一番端にあって、千メートルを隔てた酒谷北港の対岸に、酒谷北港コンテナヤードがある。防波堤で仕切られた小さな船溜まりの背後には風力発電用の風車が立っていて、その奥は火力発電所の広々とした敷地が広がっている。
街灯のない真っ暗な岸壁に、ライトを消してエンジンを切った四台の車が止まっている。車の外に人影はない。
高倉が元五郎丸を停止させると、クーラーボックスに腰掛けていた加奈は素早く立ち上がった。島内が加奈の傍にゆっくりと歩み寄るとクーラーボックスに手を伸ばした。
加奈は乱暴に島内の手を払い退けた。ムッとした顔の島内を、加奈は睨みつけた。
「ちょっと、勝手に触らないでよ。これはあたしの獲物よ。あたしが崎田組の代理人として取引したんだから、あたしからママに渡すのが筋でしょう。それにしても、このライフジャケットと合羽の臭いはもう限界ね。もう少し到着に時間が掛かったら死んじゃうところだったわ。高倉さん、これお返しするわ。それと・・・やだ、ニットセーターも酷い臭い。こんなの着てられないわ」
加奈はポンポンとそう言うと、クーラーボックスの上にライフジャケットと合羽を脱ぎ捨て、更にニットセーターまで脱ぎ始めた。抜けるように白い加奈の上半身が暗闇の中に浮かび上がる。島内の目は加奈の肌に吸い寄せられた。
「ちょっと島内、どこ見てんのよ! 後ろを向きなさいよ、気の利かない!」
島内はニヤニヤと笑いながらゆっくりと加奈に背を向けた。加奈はリュックサックからTシャツを取り出すと頭からすっぽりと被った。
「さあ、これでいいわ。孝輔、そこのクーラーボックスを取って頂戴」
孝輔は加奈が脱ぎ捨てた合羽やライフジャケットを片付けると、床の上のクーラーボックスを加奈に手渡した。加奈はクーラーボックスを手に持つと、孝輔の手を借りて岸壁に上がった。島内はニヤニヤ笑いを頬に残したまま加奈の後に続いた。
加奈は島内と並んで岸壁に立つと振り返って高倉を見た。
「高倉さん、ありがとう。これで取引は全て終了ね。次の取引はまた連絡するわ」
「おお、加奈、待っとるで。デミトリとの顔つなぎもできたから、この次はもっと量を増やせばええ、そうすりゃ儲けも増えるってもんだ。儂は仲介が商売じゃから、いつでも受けるぞ。それじゃあな」
元五郎丸のディーゼルエンジン音が大きくなり、排気ガスの臭いが岸壁に漂うと、元五郎丸はゆっくりと岸壁を離れた。舷側で孝輔が加奈を見てコクリと頷いた。
加奈と島内が元五郎丸に背を向けて歩き出すと、岸壁に止まっている四台の車から男たちが次々に車外に出てきた。ボディーガード役が黒のクラウンの後部座席のドアを開けると、毛皮のショートコートを羽織った崎田知世が姿を見せた。加奈が二十五年ほど歳を取ればこうなるだろう、さすがに親子だ、ふたりはよく似ている。知世はゆっくりとした足取りで加奈の前に進むと、優しく加奈の肩を抱いた。加奈が穏やかに微笑んだ。
「ママ、取引は無事終了したわ。ブツはこの中よ」
加奈は手に持ったクーラーボックスをちょっと持ち上げて見せた。知世は笑顔で頷いた。
「加奈、大役ご苦労様。疲れた? 車の中でゆっくりと話を聞かせて頂戴」
知世と加奈が連れ立ってクラウンに向かって歩き出したとき、突然サイレンの音が辺りに響いた。共同火力発電所の敷地の陰から十台のパトカーが赤色灯を派手に光らせながら岸壁に走り込んでくると、崎田組の四台の車を取り囲むように止まった。
蹴飛ばされたようにパトカーのドアが開いて警察官がバラバラと出てくると、知世と加奈を取り囲んだ。背広を着た男がゆっくりと知世の前に立ち、黒の革のケースを開いて身分証明書を見せた。
「関東白井会崎田組組長崎田知世だな。私は東北厚生局麻薬取締部の麻薬取締官の武藤だ。抵抗しても無駄だ、大人しくしろ」
あっけにとられた顔をした加奈の手からクーラーボックスが取り上げられ、武藤の前に置かれた。武藤はクーラーボックスを開けると、中に入っている白い粉の入ったビニール袋を見てニヤッと笑った。
「崎田知世、麻薬及び向精神薬取締法違反の現行犯で逮捕する」
知世も加奈も警察官に両手を掴まれ、手錠を掛けられた。知世を見つめる加奈の目が何かを訴えるようにキラリと光った。
午前三時、酒谷北港コンテナヤードの一角に一台のBMWが滑り込んできた。
積み上げられたコンテナの間をゆっくりと進み、大きな赤い星印が付けられたふたつのコンテナの間の細い通路に入って行った。BMWは通路を抜けた先の三方をコンテナに囲まれた空き地に出ると停車してヘッドライトを消した。真っ暗な空き地にBMWのスモールライトだけがボンヤリと浮かんでいる。微かな風に潮の香りが混じっている。
コンテナの陰から一条の懐中電灯の明かりがBMWを照らした。目出し帽を被って顔を隠した津田は懐中電灯を持ってBMWに近づくと、運転席の窓を指でコツコツと叩いた。ウインドウガラスがゆっくりと下がり鬼頭の彫りの深い横顔が現れた。
鬼頭は低い声で言った。
「お前は誰だ」
「儂は孝輔の助っ人だ。孝輔は直ぐにここへくる。その前にあんたたちが丸腰なことを確認させてもらう。孝輔が顔を見せた途端にズドンとやられちゃあたまらんからね。それじゃあ車の外に出てもらおうか」
鬼頭はフンと鼻で笑うと、のそりと運転席から出て後部座席のドアを開けた。後部座席には絣地の着物に黒の袴を付けた極村泰道と恵子が並んで座っている。鬼頭が泰道の耳元で何かを囁くと、泰道は小さく頷きゆっくりと車の外に出た。
「それじゃあ、身体を改めさせてもらう」
津田は素早く泰道と鬼頭のボディチェックをした後、BMWの後部座席を覗き込んだ。恵子が不思議そうな顔をして目出し帽を被った津田を見ている。
「佐木田恵子さん、怪我はないかね」
「怪我はしてないけど、声が出ないの」
恵子の声は酷く掠れていて、聴き取りづらい。
津田の頭の中には、椅子に縛られ、一晩中助けを求めて悲鳴を上げている恵子の姿が浮かんでいる。きっと、そのために声が枯れたに違いない。
「可哀そうに酷い声だ。チクショウ何てことしやがるんだ」
津田の声は怒りに震えている。
「いいのよ、調子に乗りすぎた私が悪いの」
恵子がしょんぼりと項垂れた。津田は怒りを込めた目で鬼頭を見た。鬼頭は両肩をすくめて首を振った。
「俺のせいじゃないぜ、婆さんが自分でやったことだ。自業自得だな」
恵子が見張り役の田中たちと一晩中カラオケで歌合戦を繰り広げた結果、喉を枯らしたことを津田は知る由もない。
「現金を確認させてもらう」
津田の声に鬼頭はBMWのトランクを開けて大きなボストンバックを引っ張り出した。鬼頭はボストンバックを地面に置くと口を開けて中身を見せた。ボストンバックにはぎっしりと一万円札が詰まっている。津田はしゃがみ込むとボストンバックに手を突っ込んで札束を掴みだし、パラパラと札をめくって確認した。津田は顔を上げて鬼頭を見ると頷いた。
鬼頭は片頬を歪めてそれに応じると、低い声で言った。
「確認が済んだら孝輔を呼べ」
津田はスマートフォンを取り出した。
「孝輔、こっちはOKだ」
津田がスマートフォンを切るとの同時に、暗い海から船のエンジンの始動する音が聞こえて、航海灯が灯った。ねっとりと暗い海面を切り裂いてゆっくりと岸壁に近づく元五郎丸の舳先に孝輔が立っている。航海灯の明かりに浮かぶ孝輔の表情は引き締まり、別人のように凛々しく見える。
元五郎丸が接岸すると、孝輔は舷側から岸壁に跳び上がった。手にはリュックサックを持っている。孝輔は約十メートルの距離を置いて鬼頭たちと向かい合った。
「極村泰道、取引に応じて貰って礼を言う。それじゃあ、これはお返しする、録音機はサービスだ」
孝輔はリュックサックから白い塊を掴みだして頭上に掲げた。白い塊には輪ゴムで小さな録音機が貼り付けられている。孝輔は白い塊をリュックサックに戻すと鬼頭に言った。
「鬼頭、まず、佐木田恵子を解放しろ。その後で、ブツと金の交換だ」
鬼頭はBMWの後部座席のドアを開ると、ボンヤリと座っている恵子の手を取った。
「婆さん、喜びな解放だ」
「ちょっと婆さん何て失礼な、お嬢・・・奥さんと言いなさいよ。あら、そこにいるのはよっちゃんじゃない。何だか久しぶりね」
かすれた声の恵子は相変わらず能天気だ。
「お母さん、早くこっちへきて」
「何かよく分からないけど・・・鬼頭ちゃん、それじゃあね」
恵子は鬼頭に小さく手を振ると、首から巾着袋を提げ、小さな旅行鞄を持って小走りに孝輔の元に駆け寄った。
鬼頭は『面白い婆さんだぜ』と呟いて、片頬を歪めて苦笑した。さすがの鬼頭も、恵子に感化されたようだ。
孝輔は恵子を後に庇うようにして鬼頭と向かいあった。
「さあ、いよいよクライマックスだ。鬼頭、金をその男に持たせろ」
「とんでもねえ、ブツと引き換えだ。お前の持っているリュックサックをこっちに渡しな」
「それじゃあ同時に交換するか、いくよ」
孝輔はリュックサックと高々と宙に放り上げた。泰道と鬼頭の視線が放物線を描いて飛ぶリュックサックを追う。
孝輔がリュックサックを放り上げるのと同時に、津田はボストンバックを抱えて孝輔に向かって走った。
鬼頭は十メートルほど右にドサリと落ちたリュックサックに走り寄ると、リュックサックの中に手を突っ込んだ。鬼頭は白い塊を掴み上げて泰道に見せ、小さく頷くとポケットからゆっくりとスマートフォンを取り出した。
「鬼頭だ、ブツは手に入れた。孝輔を始末しろ」
鬼頭はリュックサックを片手に持って泰道の傍に向かって歩きながら、孝輔を見てニヤリと片頬を歪めると「あばよ」と言った。
コンテナの中の梶尾はスマートフォンを片手に、鬼頭から合図が入るのを今か今かと待っていた。取引開始時間の午前三時を十分ほど経過している。そのとき、梶尾のスマートフォンに着信が入った。
「鬼頭だ、ブツは手に入れた。孝輔を始末しろ」
梶尾は周りの男たちにいくぞと声を掛け、拳銃を構えた。梶尾はコンテナの出入口の引き戸を乱暴に開けて外に飛び出した。梶尾に続いて男たちも一斉に空き地に走り出た。
コンテナの外の空き地には誰もいなかった。
鬼頭は薄笑いを浮かべながら、背後のコンテナから飛び出してくる梶尾たちを待ったが、コンテナからは誰も出てこない。鬼頭はスマートフォンに向かって怒鳴った。
「梶尾! 何をしているんだ、早く出てきて孝輔を始末しろ!」
スマートフォンから梶尾の泣きそうな声が返ってきた。
「鬼頭さん、ここには誰もいません。いったいどうなっているんだ・・・鬼頭さんはいまどこにいるんですか」
「バカヤロウ! 取引場所に決まっているだろうが! 赤い星印のコンテナに・・・。やられた・・・取引場所を早く教えたのはそのためか・・・別の場所に誘導したのか」
鬼頭の怒鳴り声が途中から小さくなった。スマートフォンを持った左手が力を失ったようにゆるゆると下がる。
「誰を誘導したんだ」
鬼頭の背後の闇の中から、頭の天辺から抜けてくるような甲高い声がした。
咄嗟に振り返った鬼頭は、闇の声に向かって身構えた。拳銃を持った鮫島が闇の中から姿を現した。その姿は地獄から蘇った悪鬼だ。両目が燐光を発しているように青白く光った。
「鮫島! お前生きていたのか」
驚愕して声を上げた鬼頭に向かって鮫島は拳銃を突きつけた。
「俺は不死身の鮫島だ、覚えておけ。俺を虚仮にしやがったやつは許さねえ。極村泰道! 鬼頭! きっちりかたを付けてやる。おい、孝輔! お前も動くんじゃねえ。よし、荷物を持ってこっちへこい」
鮫島の拳銃に脅されて、孝輔たちはBMWを背にして鮫島の前に一列に並んで立っている。
拳銃を構えている鮫島の腹部に巻かれた包帯は、銃創からの出血で真っ赤に染まっている。鮫島は脂汗の浮いた青白い顔で孝輔たちを見回した。
「さてと、どうやってかたを付けるか。まず、孝輔、お前の持っている金をこっちへ寄越せ。江渡神組はもう終わりだ、俺は足を洗ってこの金で商売でも始める」
孝輔はボストンバックを持って進み出ると鮫島の足元に置いた。
「そもそも、ことの発端は・・・孝輔、お前が組事務所からヘロインを持ち逃げしたことだ。しかも、俺を虚仮にして逃げ回りやがって。許さねえ」
鮫島は、いきなり孝輔の腹目掛けて拳銃の引き金を引いた。
パンという音がして孝輔はその場にドサリと崩れ落ちた。撃たれた腹を押さえて海老のように身体を丸めた孝輔に恵子がしがみついた。
「キャー、よっちゃん! しっかりして! アア・・・酷い血・・・鮫ちゃん、貴方、何てことを!」
腹を押さえている孝輔の指の間から真っ赤な血が流れ出て地面に黒い染みを作っている。孝輔の腹に手を当てた恵子の両手も真っ赤に染まっている。
孝輔にはもう関心がなくなったという風に、鮫島は地面の上に転がっている孝輔を無視して青白い顔を鬼頭に向けた。
「次に俺を虚仮にしたのは、鬼頭! てめえだ」
拳銃を向けようとした鮫島に、鬼頭が猛然と飛び掛かった。突き飛ばされて仰向けに倒れた鮫島に鬼頭は馬乗りになると、鮫島の腹に強烈なパンチを叩き込んだ。鮫島の身体が痛みのために弓なりに仰け反る。鬼頭は続けざまに鮫島の腹にパンチを浴びせた。鮫島がウオオと獣のような叫び声を上げる。
パンパンと銃声が二度響いた。
鬼頭の身体が糸の切れた操り人形のように急にグニャリと力を失くして、鮫島の上に倒れ込んだ。鮫島が鬼頭の身体を押しのけようと藻掻いている姿を見て、津田は鮫島の元に走り寄り、拳銃をもぎ取ろうと鮫島の腕にしがみついた。
泰道は鮫島と津田がもみ合っている姿を見ると、足元に落ちているリュックサックを素早く拾い上げた。撃たれた鬼頭のことなど、もはや眼中にない。
泰道が鮫島に向かって怒鳴った。
「鮫島、その一億円は預けておく。極村組が追い込みをかけて、どこへ逃げようが必ず見つけ出してお前をぶち殺してやる。その金も取り戻す。覚悟しておけ」
泰道はBMWの運転席に飛び込んだ。BMWのエンジンが始動して吠えるようなエンジン音が上がる。泰道はシフトレバーをドライブに入れてアクセルを目一杯踏み込んだ。タイヤから煙を上げながら急発進したBMWは大きくテールを振って進路を変え、コンテナとコンテナの間の通路をすり抜けると、コンテナヤードの峡谷に向かって走り去った。
「行っちまったぜ・・・」
鮫島がそう言うと、鮫島の腕にしがみ付いていた津田が顔を上げ、目出し帽をむしり取ると放心したような顔でぺたんとその場に座り込んだ。よほど緊張していたのだろう、口を大きく開けてハアハアと荒い息をしている。
「よっちゃん、しっかりして、よっちゃん・・・あれ?」
孝輔はムクリと身体を起こすと恵子の肩を抱いた。
「お母さん無事でよかった」
孝輔の身体にしがみ付いていた恵子は、キョトンとした顔で孝輔を見た。
「よっちゃん、貴方、鮫ちゃんに鉄砲で撃たれたんじゃないの? まさか、バンビ、違ったゾンビ・・・」
間の抜けた孝輔の顔は小鹿には見えない。
「鮫島さんが僕を撃った一発目は空砲だよ。鮫島さんが銃弾に細工をしたんだ。僕が死んだと極村泰道に思わせるためにね。出血はこれだよ」
孝輔はシャツのボタンを外して腹に貼り付けてあったビニール袋を引っ張り出した。破れたビニール袋から真っ赤なケチャップがポタポタと滴り落ちた。孝輔の説明を聞いても恵子はポカンとした顔をしている。
元五郎丸から高倉の声が響いた。
「おおい、孝輔よう。モタモタしていたら捕まっちまう。早く逃げるぞ」
孝輔は頷くと恵子の手を取り、ボストンバックを抱えて元五郎丸に向かって走った。鮫島は指紋をふき取った拳銃を鬼頭の死体のそばに置くと、津田に支えられるようにして元五郎丸に向かってヨロヨロと歩き出した。
極村泰道の運転するBMWがコンテナヤードを抜けて国際ターミナル上屋の角を曲がると、道幅いっぱいに進路を塞ぐようにして三台のパトカーが止まっていた。回転灯の光が泰道の顔を赤く染めた。急ブレーキを掛けた泰道はBMWをバックさせようと後方を振り向いた。建物の陰からパトカーが走り出てBMWの後方を塞いだ。
パトカーから神月がゆっくりと降りるとBMWの運転席の横に立った。指でコツコツとウィンドウガラスを叩くと、神月はジャケットの内ポケットから黒い革のケースに入った身分証明書を取り出して、運転席の泰道に見せた。
「関東信越厚生局麻薬取締部の麻薬取締官の神月だ。関東弘心会極村組組長極村泰道。麻薬及び向精神薬取締法違反の現行犯で逮捕する」
泰道は神月の顔を見てフンと鼻で笑った。
「麻薬及び向精神薬取締法違反だと? 何を寝ぼけたことを言っている。どこにそんな物があるんだ」
神月が後ろに控えている警察官にオイと言うと、警察官はBMWの助手席のドアを開けて、助手席の上に投げ出してあるリュックサックを取り上げた。白い手袋をした警察官はリュックサックの中に手を入れて、中から白い粉の入ったビニール袋を掴み上げると神月に見せた。神月が頷いた。
「極村泰道、これは何だ。ヘロインだろう、ネタは上がっているんだよ。観念しろ」
泰道の顔にニヤニヤ笑いが広がった。
「ヘロインだと? 何を言っている。これは小麦粉だよ。寝ぼけたことをぬかすと承知せんぞ」
「鑑定に回せば直ぐに分かる」
「そうとも、小麦粉だってことがな。ウハハハ・・・」
泰道の高笑いが響いた。
手錠を掛けられながらも、誤認逮捕を謝罪する麻薬取締官を怒鳴りつける姿を想像して、泰道の腹の中で笑っていた。
一時間後、酒谷北警察署の取調室で泰道は椅子にふんぞり返って座っていた。押収されたのは孝輔から取り戻した偽物のヘロインで、中身は小麦粉だ。泰道が用意して江渡神組に渡したものだ。どうひっくり返っても逮捕されることなどあり得ないのだ。
取調室のドアが開いて神月が姿を見せた。手には白い粉の入ったビニール袋と鑑定結果の報告書を持っている。
「極村泰道、鑑定結果が出た」
泰道はニヤニヤと笑いながら神月を見た。
「それで?」
「ヘロイン純度99.99%。これが鑑定報告書だ。極村泰道、観念しろ」
泰道の顔が引きつった。
「そんな馬鹿な! 何かの間違いだ! オイ、儂を罠に嵌めようとしているな、弁護士を呼べ!」
取調室から泰道の叫び声が響いている。
酒谷中央警察署の取調室で崎田知世は椅子に座っていた。どこから取引の情報が漏れたのだろう。間抜けの島内なんぞに取引を仕切らせたのが失敗だった。平然とした顔で座っているが、知世の腹の中は煮えくり返っていた。
取調室のドアが開いて武藤が姿を見せた。手には白い粉の入ったビニール袋と鑑定結果の報告書を持っている。
「崎田知世、鑑定結果が出た」
崎田知世は諦めたような顔で武藤を見た。
「それで?」
「デンプン、たんぱく質のグリアジン、グルテニン・・・、これは小麦粉だ! チクショウ、ふざけやがって・・・おい崎田、ヘロインはどこに隠した! 確かにロシアルートで密輸したはずなんだ、白状しろ!」
「小麦粉だって?・・・何を言って・・・」
知世の脳裏に、逮捕されたときに知世を見つめた加奈の、何かを訴えるような瞳が浮かんだ。加奈はあれが小麦粉だと知っていたんだ。知世の顔に不敵な笑みが浮かぶ。
「武藤さんだっけ? その小麦粉は可愛い娘にうどんでも作ってやろうと、あたしが手に入れたやつなんだ。返してもらうよ。ヘロイン? 何のことかさっぱり分からないねぇ。さて、用も済んだようだから、そろそろ帰らせてもらうわ。お邪魔さん」
崎田知世は椅子から立ち上って武藤の手から小麦粉の袋を取り上げると、毛皮のハーフコートを翻して颯爽と取調室から出て行った。
「クッソウ、神月の野郎。俺にガセネタ掴ましやがったな。ふざけやがって!」
取調室から武藤の怒鳴り声と椅子を蹴飛ばす音が響いている。
午前七時、元五郎丸の帳場に孝輔と恵子が並んで座り、土間のテーブルに高倉と津田が向かい合わせに座っている。四人は恵子の淹れたコーヒーを啜っていた。鮫島は鬼頭ともみ合った際に殴られた腹部の銃創からの出血が酷くなり、奥の十畳間で横になって唸っている。
元五郎丸の入口のアルミサッシがガラガラと開いた。
差し込む朝日を背にして加奈が入ってきた。加奈の金髪が朝日を受けてキラキラと揺れている。その後ろから神月が続けて入ってくる。極村泰道を逮捕できたからだろう、神月の顔は晴々としている。
加奈は恵子の顔を見ると帳場に駆け寄った。
「お母さん、大丈夫だった? 怪我はない?」
「加奈ちゃん、大丈夫よ。声は出ないけど・・・」
恵子のしゃがれた声を聞いて加奈は驚いた顔をして孝輔を見た。孝輔は重大な秘密を発表するかのように、しかつめらしい顔をして加奈に言った。
「お母さんは、僕たちが心配していたのをよそに、見張り役の男たちと一晩中カラオケで歌っていたんだって。それで喉が枯れちゃって声が出ないんだ」
「はあ? カラオケ? 一晩中?・・・・」
加奈は突然ブウッと吹き出すと、腹を抱えて笑い出した。恵子ならあり得る。
「ヤダモウお母さんったら・・・アハハ・・・」
ひとしきり笑った加奈は、指で涙をぬぐうと津田の隣に座った。
神月は高倉の横に座ると、チラリと横目で高倉を見た。高倉は神月と目が合うと小さく頷いて、観念したように首を垂れた。
役者が全てそろった。孝輔は「さて」と言って一同を見回した。
孝輔は帳場の隅に置いてあるボストンバックを引き寄せると、加奈の前に差し出した。
「加奈、極村泰道から巻き上げた一億円だ。これを持って崎田組に戻れば、ヘロインは手に入らなくても損害はないから、何とか丸く治まると思うよ」
加奈は目を丸くしてボストンバックを見た。
「全部あたしが持って行っていいの? みんなはこれからどうするのよ」
ボストンバックを受け取った加奈は周りを見回した。
高倉はしんみりした声で言った。極悪人の顔から険が消え、疲れた老人の顔をしている。しかし、その顔は晴れやかだ。
「儂はヘロインの仲介から足を洗って、またイカ釣り船に乗ろうと思うちょる。まあ、それは刑期を終えたらの話じゃがな。神月さん、あんた儂を逮捕しにきたんじゃろう」
「お兄・・・」
自分がこの騒動に首を突っ込んだせいで、兄が逮捕される。津田はやり切れない思いで高倉を見た。高倉は静かに頷いた。
「昇造、ええんじゃ、儂もそろそろ潮時じゃと思っていたところじゃから」
神月は高倉の顔にチラリと視線を投げてから、あらぬ方角に視線を逸らして誰にともなく呟いた。
「チクショウ、一足遅かった。ロシアルートのヘロイン密輸仲介役の高倉研を逮捕するために、やつのアジトの元五郎丸を急襲したが、もぬけの殻だった。これは課長にどやされるな。まあ、極村泰道の逮捕に時間がかかったから仕方ないか」
神月は高倉から視線を逸らしたまま立ち上がった。唖然とした顔の高倉が感極まったように目を瞑り、スッと頭を下げた。
加奈が神月を見た。
「ねえ、神月さん。崎田組の逮捕にきた武藤って麻薬取締官は、ブツが小麦粉だったんで赤っ恥をかいたけど良かったの? あたしが港に着く時間と場所は神月さんが教えたんでしょう」
神月は加奈を見てニヤリと笑った。ひとつ貸しだ、とでも言いたげな顔だ。
「私は本命の極村泰道の逮捕に手一杯だったんで、暇そうにしていた武藤に情報提供しただけですよ。まさかブツが小麦粉だったなんて、私が知る訳ないじゃないですか。武藤は東北厚生局、私は関東信越厚生局だから所属が違うしね。それに、あいつは昔から何かある度に私に張り合ってくるんで、嫌いなんだよな・・・」
神月の声は徐々に小さくなって、最後の方はよく聞き取れなかった。神月はそれじゃあと言って元五郎丸の入口のアルミサッシに手を掛けて、思い出したように振り返った。
「そうだ、極村組の鬼頭が射殺されていましたが、何もご存じないですよね。鬼頭の死体の横に拳銃が落ちていました。不思議なことに極村組に殺された広沢さんの拳銃だったんです。広沢さんが仇を討ったのかなあ・・・・。
ああ、言い忘れるところだった。倒壊した由井荘の瓦礫の下から北山が救助されていましてね。重傷ですが命に別状はないそうです。酒谷中央病院に入院していますよ。それじゃあ」
神月は背中を向けて片手を上げると、もう振り返ることもなく、ガラガラとアルミサッシを開けて出て行った。加奈が両手で顔を覆って下を向いた。
高倉が穏やかな声を出した。
「孝輔君・・・いや、よっちゃんと恵子さんはこれからどうするんじゃ。もうやくざから逃げ回る必要はなくなったんじゃろう。その・・・竜飛岬とやらに行くのかね」
孝輔が力強く頷いた。
「ええ、お母さんとの約束ですから。殺人犯がお母さんを狙っているから、まだ安心できないんですが、大丈夫、いざとなれば僕がお母さんを守ります」
「よっちゃん、頼もしいわ。よかった、これで三十年前のよっちゃんとの約束を果たすことができるわ・・・ところで、ねえよっちゃん、北のはずれの竜飛岬に行って、何をする約束だっけ? お母さん忘れちゃった」
「何をする約束?」
孝輔の心臓がドクリと音を立てた。
・・・何をする約束?・・・思い出せない。何だか胸が締め付けられる・・・それは竜飛岬にある・・・それとは何だ・・・竜飛岬に何があるんだ・・・
「それは竜飛岬にあるんだ」
孝輔がぽつりと口に出した。
突然津田が立ち上がった。津田の顔は興奮で真っ赤に染まっている。
津田の心臓がドクリと音を立てた。
「そうだ、竜飛岬に行って、それを見つけなければならないんじゃよ。儂も約束したんじゃ。お母さん、よっちゃん、儂のトラックで一緒に竜飛岬へ行こう」
「ちょっと、あたしはどうなるのよ。あたしも・・・あたしも・・・竜飛岬?・・・それ?・・・」
加奈の瞳がスウッと光を失った。
加奈の心臓がドクリと音を立てた。
「・・・三十年後・・・約束のタイムリミットが迫っている、時間がないわ・・・約束・・・そうよ、あたしも約束したのよ。・・・あたしも竜飛岬へ一緒に行くわ!」
恵子は満足気に頷いた。
「よし、決まりね。それじゃあ、みんなで竜飛岬へ出発・・・その前に、腹が減っては・・・そういえば朝御飯食べたっけ?」
恵子はキョロキョロと孝輔たちの顔を見回した。




