竜飛岬
津田の運転する大型トラックは五所川原市内を抜けて国道三百三十九号線から竜泊ラインに入ると、竜飛岬に向かってひたすら北上していた。大型トラックの後ろには加奈の運転する真っ赤なロードスターがぴったりと付いている。加奈はボストンバックの一億円を母親の知世に渡してから、レンタカーで追いかけてきたのだ。少し時間がかかったのは、酒谷中央病院に顔を出したためかも知れない。
目的地は竜飛岬のどのあたりだと津田が尋ねても、恵子は『行けば分る』と答えるだけで、具体的な指図は何もない。いや、恵子自身が分かっていないのだろう。
酒谷市を出発したときには、たわいのない話をさえずるように口にしていた恵子は、竜飛岬が近づくにつれて口数が減り、いまは何も喋らずに思い詰めたような顔をしてジッと前を見ている。必死になって記憶を甦らそうとしている、いや、違う、記憶など必要ない・・・魂の声に耳を傾けているのだ。
道路脇の傾いた道路標識が、竜飛岬まで十キロと告げている。
「お母さん、竜飛岬の先端まで残り十キロぐらいの所まできたけど、このまま進んでいいのかね」
津田が恵子に声を掛けると、恵子は訝しそうな顔を津田に向けた。
「よっちゃん、覚えていないの? この先、もう少し行ったところに右に入る細い道があって・・・」
津田は困ったような、嬉しいような顔をした。
「お母さん、儂は津田、よっちゃんはコッチ。間違えちゃあ困るなあ・・・やっぱり認知症が・・・」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」
恵子のお約束の反応に、津田は相好を崩した。
「分かった、分かったから・・・ヘヘヘ、こりゃあ、よっちゃんのセリフだ。ねえ・・・よっちゃん?」
津田が孝輔の顔を見ると、孝輔は血の気の引いた青白い顔をして口を軽く開き、焦点を失った瞳がボンヤリと前を見ている。
「この道を右へ!」
「右に入って頂戴」
孝輔と恵子が同時に叫んだ。
ふたりが叫ぶより早く、津田は無意識に右折のウインカーを出していた。そのことに津田は気付いていない。
「そうだよ、この道だ・・・なぜ儂にも分かるんだろう」
津田は首を捻りながらハンドルを右に回した。
竜泊ラインから右に分かれて山中に入る細い道路をトラックは上っていく。自動車一台分の幅員しかない山道は、右に左にくねくねと曲がりながら、シナノキや楓がまばらに生えた林を抜けていく。道路脇の地面を覆うように繁茂している下草には、可憐な白い花が夜空の星のように散らばっている。
運転している津田は、この道を通ったことがあるような既視感に囚われていた。目の前の小さなカーブ、錆びた道路標識、すれ違い用の待避所、全てに見覚えがある気がするのだ。
対向車もないまま十分ほど山道を上ると、山と山に囲まれた盆地の中にある小さな集落に出た。路上に人影はなく、所々に点在している家々も雨戸が閉められていて、庭には雑草が生い茂っている。廃村のようだ。
正午を回って天頂にある秋の太陽は、無人の集落に柔らかな光を投げかけている。吹き抜ける風が草木を揺らすザアッという音の他は、鳥の鳴き声すらしない。無人の集落は不思議な静寂の底に沈んでいた。
孝輔も恵子も一言も口を開かないでジッと前を見ている。津田は何かに導かれるように進路を選んで集落を通り抜けると、集落から少し離れた高台の空き地にトラックを止めた。津田のトラックの横に真っ赤なロードスターが並んだ。
誰も言葉を発しないが、その場にいる全員が目的地に到着したと感じた。
高台の空き地は一辺が二百メートルほどの四角い広場で、以前は運動場だったらしく、広場の先には古びた木造の校舎があった。校舎の脇には校舎の屋根を覆うように大きな栴檀の木が緑の枝を広げている。広場の端にはトーテムポールのように二本の門柱が立っていて、ブロンズ製の表札が門柱に埋め込まれている。表札に刻まれている文字は、かろうじて竜田村立竜田小学校と判読できた。
恵子は門柱の横に立ってじっと校舎を見つめてから、孝輔たちの方を振り返った。恵子の目が青白く光ったようだ。
「やっと着いたわ、よっちゃん。思い出した? 昔、一年間だけこの小学校に通っていたのよ。この先にはお父さんが赴任してきた小さな病院もあったのよ、覚えてる?」
孝輔の心臓がドクリと音を立てた。
何かに鷲掴みにされたように大きく震えた心臓は、何かを思い出そうとするようにドクリドクリと大きな鼓動を繰り返した。耳の奥でザアッという血流の音が響き、両目の焦点がぼやけて視界が白く霞む。意識の奥底からもうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってくる。
魂が震えるような感覚に包まれた孝輔は、校舎に向かってゆっくりと歩き始めた。津田も加奈も何かに憑かれたような顔をして、孝輔と並んで歩いている。
・・・埋めたんだ
孝輔の頭の中に声が響いた。
・・・埋めたんだ。それを見つけなきゃ
・・・どこに埋めたの?
・・・どこに? 知っているじゃないか
・・・知らないよ
・・・知っているさ、僕が埋めたんだもん
・・・僕? 君は誰?
・・・君? 君は僕だよ
・・・僕は君だって?
・・・そうだよ、よっちゃん
・・・よっちゃん! 僕はよっちゃんだ。そして君も
・・・よっちゃんだよ
何かが孝輔の中に満ちていく。それは身体の隅々まで広がって孝輔とピッタリ重なった。目の前にかかっていた白い靄がいきなり晴れて、孝輔の目に大きな栴檀の木が映った。その根元に墓標のように置かれた、白い小さな丸い石が光っている。
・・・思い出した! あの石の下に埋めたんだ!
白い小さな丸い石を脇にどけると、周囲を雑草に覆われて石の形に少し凹んだ地面が現れた。陽光を白く反射する地面はカチカチに乾燥して岩のように固く、孝輔が素手で触ると表面は砂岩のようにザラザラしている。
「これは硬い、素手じゃ歯が立たないよ・・・とにかく石か何かで掘ってみよう」
孝輔は近くに転がっていたこぶし大の石を手に取ると、乾いた地面に叩きつけた。カンという固い音がして手が痺れ、地面が爪の先ほど剥がれた。津田が木の棒を槍のように地面に突き立てたが、小さな欠片が飛び散っただけだった。
恵子が孝輔と津田の後ろから声をかけた。
「ねえ、よっちゃん、時間がないの。早く掘りなさいよ」
「時間がない?」
怪訝な顔をして孝輔が振り返ると、何かを思い出した、いや、何かを感じた恵子がウンと頷いた。
「そうよ、約束の時間が迫っているのよ」
「そんなこと言ったって・・・とにかく少しずつ掘るしかないよ」
孝輔と津田は地面に膝を突いて、交互に石と棒を地面に叩きつけた。
一時間近く経っても十センチほど窪んだだけで思うように進まない。疲労困憊の孝輔と津田はとうとう地面に腰を下ろしてしまった。ふたりの額から汗が滴り落ちている。精も根も尽き果てたふたりは両手を真っ白にして肩で息をしている。
加奈は最初の十分ほど協力していたが、マニキュアが剥げたと言って口を尖らすと、栴檀の木陰に座っている恵子の横に座ったままで木陰から出てこない。秋の陽光は天頂からジワリと西に傾いていく。
トーテムポールのような二本の門柱を抜けて、白いベンツがゆっくりと広場に入ってきた。ベンツは広場を横切って孝輔たちの前で止まると、運転席のドアが開いて岩井が姿を見せた。
岩井は地面に座り込んでいる孝輔の前に立つと、「よう」と声を掛けて萎びたヘチマ顔を歪めて笑った。頭にはまだ包帯を巻いている。怪しげな蛇使いのようだ。
孝輔は驚いた顔をして岩井を見上げた。
「岩井さん、どうしてここへ?」
怪しげな蛇使いは首を横に振った。
「いや、オレもよく分からねえんだ。あの後、病室で目を覚ました康夫さんが、突然竜飛岬に行く、行かなきゃならん、約束だって言い出して大騒ぎになったんだ。結局、退院の許可は下りなかったんで、勝手に病院を抜け出してきたって訳だ。オレは運転手だよ」
孝輔が首を捻る。
「でも、よくここが分かりましたね」
「それは康夫さんに聞いてくれよ。地図もカーナビも何も見ないまま、右だ左だってオレに指示をして、気が付いたらここに到着したって訳だ。昔ここへきたような気がすると康夫さんが言うんだが、不思議なもんだな」
岩井がそう言ってベンツの方を振り返ると、左肩にコルセットを嵌めて腕を白い三角巾で吊った剛田康夫が後部座席からゆっくりと降りた。
康夫は孝輔の横の凹んだ地面を食い入るように見つめている。頬がこけてどす黒い顔色をしているが、目には力がある。
「よかった、間に合った。よし、岩井、これじゃあ埒が明かんだろうから、車のトランクに入れてあるスコップを出して穴掘りを手伝ってやれ。儂は・・・おお、綺麗なお嬢さんがいるじゃないか。そこの木陰で少し休ませてもらう。頼んだぞ」
康夫は岩井に指示するとビア樽のような腹をゆすりながら、恵子と加奈が座っている栴檀の木陰に向かって歩いた。
「嫌だもう、綺麗なお嬢さんだなんて本当のこと言って、恥ずかしいじゃない。はい、ここにお座りなさいな」
恵子は嬉しそうか顔をすると横にハンカチを敷いた。康夫は恵子の敷いたハンカチを無視して加奈の横に腰を下ろした。恵子の拗ねた顔を見て加奈は思わず噴き出した。
ベンツのトランクに入っていたスコップを使って孝輔たちは硬い地面を掘り下げた。三人が交代で黙々とスコップを地面に突き立てていると、徐々に穴は深くなり、それと共に土が湿り気を帯びて黒く柔らかくなった。穴の深さが六十センチほどに達したとき、スコップの先端が何か硬いものに触れてガリッと音を立てた。
「何かありました。硬い、金属のようです」
孝輔の声を聞いて、木陰で休んでいた恵子たちが穴の周りに集まった。興味津々の顔をした恵子の目がキラキラと輝いている。
「ねえ、よっちゃん。埋蔵金かしら」
「小判じゃなさそうだけど・・・そういやぁポチがいないな」
「正直爺さんもいないわ、いるのは悪徳越後屋さんだけ・・・何だつまんない」
恵子が唇を尖らせた。悪徳越後屋と呼ばれた康夫は、誰のことだと言わんばかりにすました顔をしている。加奈がニヤリと笑った。
「お前さんたちは、ほんと気楽でいいや」
孝輔と恵子の能天気な掛け合いを聞いた岩井があきれたように言った。
孝輔はスコップの先で金属の縁の部分を探し、縁の周囲の土を丁寧に取り除いていく。やがて大きな弁当箱ほどの金属製の箱が姿を現した。孝輔は穴の横に腹ばいになると両手を穴の中に差し入れて金属の箱を掴み上げた。縦二十センチ、横三十センチ、高さ十五センチの金属の箱は至る所に土がこびり付いてまだら模様になっている。
孝輔が箱の上面の土を掌で拭うようにして払いのけると、マジックで書かれた幼稚な文字が現れた。
『タイムカプセル 平成〇年九月三十日午後三時 開ふうは三十年後の同じ日、同じ時間 未来のぼくへ 佐木田良夫』
文字を読んだ途端、箱を持っている孝輔の手に電流が走った。
「これは良夫君の埋めたタイムカプセルだ。・・・三十年後の九月三十日って・・・今日じゃないか! こんなことって・・・」
開封指定日を見た孝輔は思わず絶句した。
加奈はチラリと腕時計に目をやると、途端に悲鳴のような声を上げた。
「ちょっと! いまは午後二時五十五分! タイムカプセルの開封指定時間まで後五分よ・・・こんな・・・こんなこと偶然のはずがないわ。いったい何が起こっているの」
津田の顔は真っ青だ。
「開封指定日の指定時間に掘り起こすように、儂らがここに集められたってことじゃろうか? でも、なぜ儂らなんじゃろう」
津田の声が震えている。
康夫は無言のまま青ざめた顔でタイムカプセルをジッと見つめている。
岩井は得体の知れない恐怖に襲われて、口の中で呟くように南無妙法蓮華経とお題目を繰り返している。
恵子は不思議そうな顔をして孝輔たちを見回した。
「ちょっと、よっちゃん、何言っているの。お母さんとの約束を忘れたの? 三十年後に一緒にタイムカプセルを掘り起こそうねって約束したじゃない」
康夫が驚いたように顔を上げた。
「やくそく・・・誰かの声を聞いた気がする・・・病院のベッドの中で・・・あれはお母さんの声だったのか。儂はその声に導かれてここへきたんだ」
誰も口を開かなくなった。シンと張りつめた空気の中で陽光だけがジリジリと西に傾いていく。
沈黙の五分間が経過した。
一陣の風が土埃を巻き上げながら広場を横切って大きな栴檀の木にぶつかると、開封の刻を宣言するかのようにザアッと音を立てて枝を揺らした。
「よっちゃん、時間ね。開けようよ」
恵子の声に促されて孝輔はタイムカプセルの蓋に手を掛けた。錆びついた金属の蓋はタイムカプセルの中で止まっている時間が進み始めることを拒絶するかのように固く、孝輔が力を入れて引き開けると茶色い錆がポロポロと剥がれ落ちた。
三十年の時を経て時間が動き始めた。
タイムカプセルの中には、当時人気だったカードゲームのレアカード、こぶし大の水晶の欠片、キャラクター消しゴム、ミニカー、百点満点の答案用紙、外国のコインの入った袋、クラス全員の寄せ書きが書かれた色紙、小さなアルバムなどが雑然と入っていた。
大きな栴檀の木陰の芝生の上にタイムカプセルの中味をひとつずつ並べた孝輔は、一番底に一通の封筒があることに気が付いた。手に取ると黄ばんだ封筒には宛名がなく、裏面にはボールペンで『佐木田良夫』と書かれている。
「お母さん、封筒が入っていた。手紙かな」
「よっちゃん、開けて読んでよ」
「僕でいいの?」
恵子は当たり前だという顔で孝輔を見た。
「よっちゃんが書いたんでしょ、書いた人が読みなさいよ」
孝輔は頷くと封筒の封を切って中に入っている便箋を引き抜いた。
『こくはく書 ボクのおかした罪をこくはくします。竜田びょう院に入院していた足の悪いあさ井すみれちゃんののっていた車いすをかいだんから突き落としたはボクです。ふざけてかいだんの上まで押していったら、止まらなかったんです。すみれちゃんはやめてといいました。ボクはおもしろくてやめませんでした。車いすが落ちたので、こわくなりました。かいだんの下のすみれちゃんはこわれた人形みたいに動きませんでした。ボクはけいさつにつかまって死刑にされるのがこわくてにげました。お母さんたちは事故だったと言っていましたがちがいます。ごめんなさい 佐木田良夫』
孝輔の心臓が再びドクリと音を立てた。
それと同時に、孝輔の両目の焦点はぼやけ、視界が白く霞んでグニャリと歪んだ。孝輔の中に満ちて身体の隅々にまで広がっていたもうひとりの自分が、潮が引くように収斂すると心臓の中で凝固してひとつの塊になった。
心臓の中に潜んでいるその塊が、孝輔の口を借りて喋り始めた。
「忘れていた・・・僕は、自分の犯した罪を忘れていた・・・。いや、わざと思い出さなかったんだ、記憶の奥底に閉じ込めて鍵をかけて思い出そうとしなかった。そしてそれを忘れるために別の人間になったんだ。でも、別の人間になって忘れた振りをしても、魂は記憶していた。だから僕はいつも何かに怯えていた。誰かの目が怖かった。全ては自分のせいなのに・・・お母さんを騙していい子ぶっていたんだ」
恵子は悲しみが沁み出したような濡れた瞳で、孝輔の心臓の辺りをジッと見つめている。
「よっちゃんは手の付けられない暴れん坊だったのに、お友達の事故死から急に人が変わったように良い子になったのはそのせいだったのね。お母さん気付かなかった。母親失格ね。いえ、気付かなかったんじゃないわ、お母さんも知らない振りをしていただけよ」
「お母さん、ごめんなさい」
「お母さんこそ、よっちゃんに謝らないといけないの。よっちゃんが交通事故に遭ったとき、お医者さんから『脳死状態だから生命維持装置を動かしている限り良夫君は生きているが、生命維持装置を外せば良夫君は死んでしまう』って言われたの。
ねえ、よっちゃん、覚えている? 交通事故の一か月前の晩御飯のときに、よっちゃんが見せてくれた臓器提供意思表示カード。自分に何かあればこれで他の人の命を救ってくれって、怖いくらい真剣な顔をして言ったわ。そして誰かに罪滅ぼしをしなけりゃいけないけど、それを思い出せないんだとも言った。
お医者さんの話を聞いて、そのときのよっちゃんの顔を思い出したの。だから、お母さんはお医者さんに頼んだの。生命維持装置を外して、よっちゃんの意思どおり臓器を提供してほしいって。ごめんね、よっちゃん。お母さんはよっちゃんは生きているってずっと信じようとしていたの。だから、電話でよっちゃんの声を聞いたとき、やっぱりよっちゃんは生きていたと思ったの。お母さんバカね。孝輔さん、ごめんなさい」
恵子から名前を呼ばれた孝輔の意識は、心臓の中に潜んでいる塊を押し退けるようにして言葉を発した。
「お母さん、僕のことを始めからよっちゃんじゃないって分かっていたの」
恵子はゆっくりと首を縦に振った。
「よっちゃんはよっちゃん。孝輔さんは孝輔さんよ。お母さんにはふたりが見える。ふたりはひとつなのよ。よっちゃんの臓器提供意思表示カードには『僕の心臓は浅井孝輔君に移植してほしい』って書いてあったの。よっちゃんのいう罪滅ぼしの意味がやっと分かったわ」
恵子は孝輔の目を真っすぐに見た。
「よっちゃんが事故死させた女の子は、浅井すみれちゃん。あなたのお姉さんでしょう」
孝輔の頭の中に古い記憶が蘇ってきた。
重度の心臓疾患で東京都内の病院に入院していた小学生のとき、中庭のベンチに座って日向ぼっこをしていた孝輔の横に若い男が座った。
「いい天気だね」
「うん」
「君は病気なの?」
「心臓が悪いんだ。心臓移植しなけりゃ二十歳まで生きられないって先生が言うんだ」
「心臓移植はできるの」
「バカだな、そんなに簡単に心臓をくれる人なんていないよ。心臓を渡したらその人は死んじゃうんだよ」
「そりゃそうだ」
「すみれ姉ちゃんも死んじゃったし、僕も死んだらお父さんもお母さんも悲しむだろうな」
「すみれお姉さんは死んじゃったの?・・・ああ、頭が痛い・・・思い出さなきゃ・・・思い出す? 何を?」
「お兄さん大丈夫?」
「・・・思い出した、僕はすみれお姉さんの友達だったんだ。そして・・・罪滅ぼしをしなきゃ・・・いま何を?・・・罪とは何だ?・・・ダメだ思い出せない・・・」
「お兄さん、僕そろそろ病室に戻るよ」
「君の名前は?」
「浅井孝輔」
「孝輔君、僕に何かがあったら・・・うん、僕の心臓は孝輔君にあげる」
「本当に? 約束だよ」
「ああ約束だ。指切りしよう」
「お兄さんの名前は?」
「佐木田良夫と言うんだよ」
孝輔の心臓が再びドクンと音を立てた。
孝輔は両手を心臓に当てて恵子を見た。
「お母さん、思い出した・・・。そうか、よっちゃんはずっとここにいたのか。僕とよっちゃんはひとつ。お母さんには僕の心臓の中にいるよっちゃんが見えていたんだ」
加奈は大きな目をいっぱいに見開いて、震える声で恵子に話しかけた。
「ねえ、お母さん。良夫さんの臓器提供って、まさか・・・」
「よっちゃんは交通事故で酷い怪我だったけど、心臓と肝臓と腎臓と角膜は無事だったの。だからそれを臓器提供したのよ」
「それじゃあ、あたしが移植を受けた角膜は・・・」
恵子は優しい目でコクリと頷いた。
「加奈ちゃんの瞳はよっちゃんにそっくり。加奈ちゃんの瞳の奥によっちゃんの顔が見えるわ」
康夫と津田は呆然とした顔で恵子を見ている。
「儂が移植を受けた腎臓は、良夫君の・・・そんな・・・そんなことがあるのか」
康夫はそう呟くと、両手で顔を覆った。
津田はポカンと口を開けたまま、腰が抜けたかのようにその場にヘナヘナと座り込んだ。そして、肝臓移植手術の傷跡に手を当てた。
恵子は孝輔たちを見回してウフフと笑った。
「これでよっちゃんとの約束を果たすことができたわ。よっちゃんは忘れていた罪と向き合うために、ここへくる必要があったのよ。その罪と向き合わなければ、よっちゃんはどこへも行けない、みんなの身体の中にいるよっちゃんも同じ思いだわ。
みんなに移植されたよっちゃんの臓器の中には、よっちゃんの魂の記憶が刻み込まれているから。そう、みんなはその魂の記憶に導かれてここに集まったのよ」
「魂の記憶・・・」孝輔が呟いた。
ゴオッという音と共に激しい旋風が渦を巻いた。大きな栴檀の木を中心として砂塵を巻き上げて回る疾風は黒い竜のように遥か上空に伸びていく。
孝輔の心臓がドクンと音を立てた。熱い何かが胸を突き破って身体の外に流れ出した。それは光の塊となってゆっくりと人間の形に姿を変えた。
加奈の両目が月光のように青白く光り、群れ蛍のような青い光が加奈から飛び立った。飛び立った光は孝輔の前の光の塊に吸い込まれた。
康夫のビア樽のような腹の中心から黄色い雷光がほとばしり、それは空中で絡み合って光球に変わるとフワフワと宙を漂った。光球は孝輔の前の光の塊に吸い込まれた。
ペタリと地面に座っている津田の背中からセミが脱皮するかのように淡い影が離れ、ふわりと宙に舞った。淡い影は孝輔の前の光の塊に吸い込まれた。
孝輔の前に良夫が立っていた。手を伸ばせば突き抜けてしまいそうな淡い姿だ。良夫は恵子を見て微笑んだ。意識の奥底に仕舞い込んでいた、自らが犯した罪に向き合うことができた穏やかな顔だ。
「よっちゃん、行くのね」
恵子の顔にも微笑みが浮かんでいる。
恵子が良夫に向かって手を伸ばそうとしたとき、良夫の姿はぼやけて周囲を渦巻く疾風に吸い込まれた。昇華した良夫の魂は天に昇る輝く光の竜に変わった。光の竜が飛び立った。そう、ここは竜が飛び立つ岬だ。
光の竜は遥かなる天頂に向かって昇っていった。
渦巻く疾風は突然に止んで辺りは静寂に包まれた。
三十年前の恵子と良夫の約束は果たされた。
良夫から臓器提供を受けた、孝輔、加奈、康夫、津田の四人は、自分たちの身体と一体になった良夫のことを考えていた。良夫はこれからも彼らと共に生き続けるのだ。
竜が飛び立った青空を見上げている恵子に孝輔が声を掛けた。
「お母さ・・・いや、恵子さん」
「よっちゃん、お母さんでいいわよ」
よっちゃんと呼ばれた孝輔に笑顔が戻った。
「うん、お母さん、東京へ帰ろうか」
「そうね、よっちゃん。そうだ思い出した、よっちゃんに渡すものがあったわよね。お母さん忘れてた。はい、五百万円」
恵子は首からぶら下げていた巾着袋の口を広がると、中から白い封筒を取り出して孝輔に差し出した。
孝輔があんぐりと口を開けた。
「ええ! お母さん五百万円をずっと持っていたの? ないないってあれだけ探したのに」
「いやねぇ、いま思い出したのよ」
恵子はすました顔をしている。
「お金がないから逃げられないって・・・」
「忘れることだってあるでしょ。そう、思い出したくても思い出せないことが」
孝輔が呆れたような声を出した。
「お母さん、やっぱり認知症・・・」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」
「分かった、分かったから・・・わざと言ってる?」
孝輔と恵子のお約束のやり取りを聞いて、加奈がブウッと吹き出した。
康夫と津田が顔を見合わせてガハハと笑った。
その横で、岩井が眼を固く閉じたまま、口の中で南無妙法蓮華経とお題目を繰り返していた。
■■■ それから ■■■
一週間後
東京都港区麻布にある関東弘心会の本部ビルの大広間で、鮫島は畳に両手を突き、頭を擦り付けるようにして畏まっていた。大広間の中央に正座した鮫島の正面には、床の間を背にして紋付羽織袴姿の関東弘心会会長竹山政灌が正座している。大広間の左右には関東弘心会の幹部がずらりと並んで座っている。
「鮫島、顔を上げろ」
竹山会長の嗄れ声が響き、鮫島はハッと身を縮めてからオズオズと顔を上げた。好々爺のような顔をした竹山会長の、瞬かない瞳から発せられるナイフのような眼光が鮫島の顔面に突き刺さる。鮫島はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「鮫島、いろいろと大変だったようだな」
「いえ・・・」
「極村泰道の野郎は、儂が預けたヘロインを横流ししやがって、その責任を江渡神組に押し付けようとしたらしいじゃねえか。お前んとこの組もいい迷惑だよなぁ」
「はあ・・・」
「今回の件は儂も腹に据えかねていてな。極村泰道を破門することにした。極村組は代貸の鬼頭も死んで、主だった組員も逮捕されているから、この際解散させることにした。江渡神組もお前と電話番の若いやつくらいしか残っていないんだろう。入院していた組長はどうした」
鮫島はスッと顔を伏せた。
「三日前に病院で息を引き取りました」
竹山会長はそうかと呟くと湯呑を手に取り、お茶で口を湿らせた。
「鮫島、お前これからどうするつもりだ」
「オヤジも死んで、組もなくなっちゃお終いです。足を洗ってトラックの運転手でもやろうかと思っています」
鮫島はサバサバとした顔で言った。
竹山会長は小さくウンと頷いた。
「なるほど・・・どうだ鮫島。お前、極村組と江渡神組のシマを引き継いで組を持っちゃあ。儂から直に杯をやる。鮫島組を旗揚げしろ」
鮫島は眼を剝いた。
「ええ! そんな・・・俺に組を・・・」
竹山会長は唇を歪めて笑った。
「鮫島、お前、今回の件で関東白井会の崎田組と五分で渡り合ったと聞いたぞ。それくらい肝っ玉の太いやつがいなきゃ、これから先ウチの関東弘心会もじり貧になっちまう。いいな鮫島」
鮫島は畳に額をこすりつけた。
「竹山会長、ありがとうございます、この身に代えてでも関東弘心会を盛り立てて御覧に入れます。しかし、竹山会長。逮捕された極村泰道が出所してきたときは・・・」
「心配するな、極村泰道はそこら中に敵がいる。こっちから手を回せば・・・フン、生きては出所できねえよ」
竹山会長は凄みのある顔で笑った。
関東弘心会本部ビルの正門から出てきた鮫島は、ポケットに両手を突っ込み、肩を怒ららせてゆっくりと歩いた。やっと俺にも運が向いてきた。会長から直々に杯を貰って鮫島組の旗揚げだ。そう思うと鮫島の頬が自然と緩む。
にやにやと笑いながら歩く鮫島の前を塞ぐようにパトカーが止まり、東中野警察署の山岸が降りてきた。
鮫島は山岸の顔を見るとしゃくれた顎を突き出し、口をへの字に曲げて頭の天辺から抜けてくるような甲高い声で言った。
「何だよ山岸。俺はこれから用があるんで、お前の相手なんかしてやれないぜ」
山岸は弁当箱のような四角い顔に付いた分厚い唇を歪めて笑うと、背広の内ポケットから四つ折りにした紙を取り出した。
「鮫島、佐木田恵子誘拐容疑で逮捕する。ホレ、逮捕状だ、よく見ろ」
鮫島が目を剥いた。
「ちょっと待て山岸、佐木田恵子誘拐だと? そりゃ浅井孝輔が犯人だ」
山岸はフンと鼻で笑った。寝言を言うなといわんばかりだ。
「しらばっくれるなよ鮫島。佐木田恵子本人から町内会長あてに、鮫島に誘拐されているという電話が二回も入っているんだ。山形県酒谷市内の焼き肉店の防犯カメラにも、お前と佐木田恵子が仲良く映っていた。少し前に江渡神組の事務所を捜索してお前のジャケットを押収した。ジャケットの内ポケットに入っていたお前のスマートフォンに、佐木田恵子の指紋がべったりと付いていたぜ。観念しやがれ」
「そんな馬鹿な・・・」
呆然と立ちすくむ鮫島の両手に山岸がガチャリと手錠をかけた。
一か月後
佐木田恵子はJR総武線平井駅南口を出て商店街に向かって歩いていた。恵子が手に持っている巾着袋の中には、孝輔が受け取らなかった五百万円がそのまま入っているが、恵子はそのことをすっかり忘れている。
恵子の後ろをひとりの男がゆっくりと歩いている。野球帽を目深に被り、俯いて歩いている男の顔には所々に生々しい切り傷の痕がある。額に貼られた絆創膏は大きなほくろを隠すためだ。恵子の後姿を見ながらニヤリと頬を歪めた男の口から大きな出っ歯が覗いた。
根津だ! 根津は左足を少し引きずりながらゆっくりと恵子に近づいた。
恵子の左側は平井駅に通じる交通量の多い道路で、バスやトラックが頻繁に通過している。呑気な顔をして歩道を歩く恵子の右に並んだ根津は、恵子を道路に付き飛ばそうと身構えた。根津の身体が大きく揺れる。前方からトラックが走ってくる。
いまだ!
「もしもし、大丈夫ですか」
根津の肩がポンとひとつ肩を叩かれた。絶好のチャンスを邪魔された根津が怒りの目を向けた先には、警察官が立っていた。平井駅南口駅前交番の竹崎巡査だ。
「ええ、もちろん、ちょっと立ち眩みでふらついただけです。日差しがまぶしくって・・・あ、曇ってますか・・・ははは。いやいや、勤務ご苦労様です。決して怪しいもんじゃありません」
「うん? その顔はどこかで見たような・・・。ちょっと交番にきてください、お話を聞かせてもらいましょう」
竹崎巡査の脳裏に、一か月前に高円寺駅近くの宅配業者の手荷物集配所にベンツが突っ込み、その後、運転手が病院から姿を消した事件が浮かんだ。物損事故の後始末もせずに逃げた運転手のモンタージュ写真は、ネズミ顔の出っ歯だ。目の前の男に間違いない。
根津はブルンブルンと首を横に振る。
「人と会う約束をしていまして、遅刻しそうなんです。ああ、もうこんな時間だ、それじゃあ、急いでいますんで・・・」
根津がジリジリと後ずさりしながら竹崎巡査の前から離れようとすると、いつの間にか根津の背後に立っていた内山巡査が声を掛けた。
「そういわずに、すぐ済みます。職務質問ってやつですよ。ちょっと話を聞かせてもらうだけですから、さあ、交番へ」
内山巡査が根津の右腕を掴もうと手を伸ばした。
根津は内山巡査の手を払いのけると、身を翻してガードレールを跳び越え、車道に飛び出した。
根津の前にトラックが迫る。クラクションをけたたましく鳴らしながら、トラックの運転手が咄嗟に急ハンドルを切って、路上に倒れた根津をかわした。トラックのタイヤが轟音を上げて根津の頭をかすめた。
間一髪で命拾いした根津が、道路上で頭を上げると、今度はトラックの直ぐ後ろを走っていたバスが目の前に迫っている。
・・・大丈夫だ、躱せる。・・・
そう思った瞬間、根津の身体が硬直した。
根津の目の前に頭部だけで二メートルはあろうかという巨大な猫が歯をむき出していた。
「ヒイイ! 化け猫!」
平井小鳩幼稚園の送迎用バスは、正面に大きな猫の顔が描かれていて園児からは猫バスと呼ばれている。猫バスは根津に衝突する直前で停止したが、根津の心臓は恐怖のために止まり、二度と動き出すことはなかった。
一連の騒動に全く気付かない恵子は能天気な顔をして歩いて行く。竹崎巡査と内山巡査が道路上に倒れた根津に駆け寄っているが、恵子は振り向きもしない。
「お母さん、遅いから心配しちゃったよ」
「あら、よっちゃん、お迎えご苦労様」
恵子の自宅で居候をしている孝輔が商店街の入口に立っていた。孝輔の手にぶら下がっている買い物かごから長ネギが顔を覗かせている。
「あれ、お母さん、またその巾着袋持っている。危ないから中のお金は置いてきなさいって、あれほど言っているのに」
「お金って何のこと? お母さん知らないわよ」
「お母さん、やっぱり認知症・・・」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・」
「分かった、分かったから・・・」
孝輔と恵子は笑いながら手を繋ぐと、商店街の人ごみの中に消えた。
(おわり)




