元五郎丸1
山形県酒谷市は山形県の北西に位置する庄内北部の都市で、人口は約九万五千人である。日本海に面した酒谷市の主要産業は漁業と海運業で、漁港である酒谷港と外国船の寄港する酒谷北港というふたつの大きな港を有している。山形県下でも有数の港湾都市である。
津田の運転する大型トラックは、夜の高速道路を酒谷市に向かってひた走る。
車窓から外を見ると、等間隔に並んだ街灯が流れるように後方に飛び去って行く。秋田自動車道から日本海東北自動車道を経由して、由利本荘市から国道七号線に入り、日本海に沿って南下すると最中川の河口に広がる酒谷市に到着する。
大型トラックが酒谷港の大型車専用駐車場に入ったのは午後十一時三十分を少し過ぎていた。津田は早朝から始まる荷物の積み込みまでここで仮眠するという。
孝輔と恵子のために、津田は兄の経営する釣り船宿に連絡をしてくれていて、釣り船宿の主人は遅い時間にもかかわらず待ってくれているらしい。孝輔と恵子は津田に礼を言うと大型トラックを後にした。
釣り船宿は港から百メートルほど離れた出船町の一角にあった。小さな行燈のような看板に書かれた『元五郎丸』という文字は半ばかすれている。日に焼けて所々茶色く色の変わった魚拓がベタベタと至る所に貼られたアルミサッシをガラリと開けると、コンクリートが打ちっぱなしの土間に続いて小さな帳場があり、その奥に畳敷きの十畳の部屋があった。帳場の横には急な階段が付いていて二階の部屋に繋がっている。
ほとんど毛のない坊主頭にタオルを捻じった鉢巻を巻いた老人が、コップに入った日本酒を飲みながら「いらっしゃい」と言った。日焼けして真っ黒な顔の中に、津田とよく似たぎょろりとした金壺眼が光っている。抉れたような頬の下に付いたがっしりとえらの張った顎には無精髭が生えている。年齢は恵子より少し下ぐらいだろう。孝輔はペコリと頭を下げた。
「こんな遅い時間にご無理を言って申し訳ありません」
老人はもう一口コップの日本酒を口に含むと、いいよと片手を振った。
「昇造の知り合いなんだって? あれは儂の弟でね、養子に入っちまって苗字が変わったがね。今日は誰も泊り客がいないから気にすることはねえ。二階に布団を敷いてあるから適当に休んでくれや。シャワーは一階にあるから、こっちも使ってもらっていいよ」
「あらうれしい、元五郎丸さんありがとうございます」
恵子がニコリと笑ってお礼を言うと、老人は大きな口を開けてガハハと笑った。
「元五郎丸っていうのは釣り船の名前でね、儂は高倉研といいます。よろしく」
恵子が驚いたように両目を見開いた。
「あら、やっぱり映画館のスクリーンで見るのと実物は違うのね。でも、こんなに違うなんて・・・月とすっぽんぽんね・・・映画の力ってすごいわ」
高倉の顔をマジマジと見つめている恵子を孝輔がたしなめた。
「お母さん、失礼だよ。ややこしいけどこの方は俳優の高倉健さんじゃないと思うよ。おそらくだけど・・・。それに『ぽん』がひとつ多い気が・・・」
「あら、そうなの」
「面白い親子だよ。儂のケンは研究の『研』の字でしてね。でも、映画俳優と間違われたのは生まれて初めてだ」
高倉はもう一度ガハハと笑ってから、コップの日本酒を飲んだ。ぬるめの燗酒に違いない。肴は炙ったイカだけだった。どこかで霧笛が鳴っている。
翌朝五時に恵子は目覚めた。
ささくれだった畳が敷かれた六畳の和室に布団がふたつ並んでいて、隣の布団では孝輔が大きな口を開けて鼾をかいている。恵子は布団から出てカーテンを開けた。辺りは既に明るく、窓の外には漁港の風景が広がっていた。眼下には視界を遮るようにコンクリート製の堤防が横たわっていて、その先に見える漁港には漁から戻ってきた船が何隻も並び、船の周りを沢山のカモメが舞っていた。アルミサッシの窓を開けると、潮の香りに混じって、海藻が干からびたような臭気が微かに漂っている。
「ここはどこかしら。なぜ私はこんな所に居るのかしら・・・。この男の人どこかで見たような気もするけど・・・思い出せないな」
恵子はボンヤリとした目で孝輔の寝顔を見てから首を振った。衣文架けに掛けられているジャケットを手に取って見ると、内側に『鮫島』とネームが入っていた。
「この人、鮫島さんって名前なんだ」
恵子はジャケットを衣文架けに戻すと、横にあるテレビのスイッチを入れた。朝の情報番組では、眠たそうな顔をした女性のアナウンサーが早口言葉のように原稿を読んでいる。
『江戸川区平井三丁目のマンションで起きた殺人事件の犯人は未だ分かっていません。また、近隣の一軒家から同じ日に行方不明になった佐木田恵子さんの行方も分かっていません。佐木田恵子さんは殺人犯に誘拐された可能性があるということで、警察では情報提供を呼び掛けています』
恵子の頭の中で回路がひとつ繋がった。正しいかどうかは別にして。
「そうだ思い出した! 私誘拐されたんだった。警察に電話しなきゃ・・・ん? 誰かが警察はダメだって言っていたような。よし、とりあえず町内会長さんに連絡しよう。電話はどこかしら・・・」
恵子が部屋を出て階段を下りると、一階の帳場の横に黒電話があった。高倉は朝食用の魚の買い出しに漁港に出かけていて姿は見えない。
「もしもし、町内会長さんですか。こんな朝早くにすみません。三丁目の佐木田恵子です。・・・ええ無事です。鮫島って男の人に誘拐されて・・・さ、め、じ、ま、鮫島っていう名前です。・・・いまは寝ているから平気です。・・・ここ? どこか分からないの、ゲンゴロウに高倉健が不器用に乗っているんです、え? 何を言っているか分からない?・・・町内会長さん、しっかりして下さいな。そうだ、誰かが新潟に行くって言っていたわ。港に船が見える、ここは新潟じゃないかしら。あっ、階段から誘拐犯が下りてくる。それじゃあ」
恵子は慌てて電話を切ると、帳場に座ってわざとらしく横を向いた。そこに寝ぼけ眼の孝輔が顔を出した。
「お母さん、おはよう。よく眠れた?」
能天気な声を出した孝輔を恵子がキッと睨んだ。
「お母さん? 貴方、誘拐犯でしょう。ここはどこなの。それよりも私をどこに連れて行く気なの」
孝輔はあんぐりと口を開けた。また恵子の記憶が混乱しているらしい。
「お母さん、また記憶が・・・。僕はよっちゃん、息子のよっちゃんだよ」
「嘘を言わないで頂戴。私の息子の良夫は二十年前に死んじゃったわよ。貴方、鮫島って名前でしょう。知っているのよ」
思いもよらぬ名前を聞いた孝輔の顔色が変わった。
「鮫島? どうしてその名前を知っているの?」
「やっぱり、誘拐犯の鮫島ね!」
ガラガラと音がして入口のアルミサッシが開くと、買い物かごを下げた高倉が入ってきた。相変わらずタオルを捻じった鉢巻を坊主頭に巻いている。高倉はスタスタと土間を歩いてふたりの前に立った。
「おはようさん、ふたりとも起きとったんかね。市場でブリとアオリイカの良いのが手に入ったから、朝から豪華に刺身で飯を食おうや。直ぐに支度するから待ってて」
高倉は買い物かごを獲物でも見せるように目の前に掲げた。恵子の顔がパッと輝き、高倉の顔を見てニッコリと笑った。
「お刺身! やったあ、ブリもイカも大好き。ウフフ、朝から楽しみだな・・・腹が減っては戦が?・・・あれ? どこかで聞いたような」
恵子の頭の中で何かがピカリと光った。恵子は何かを思い出そうとするかのように、スッと目を瞑ると、ゆっくりと首を左右に振った。そして、スイッチが切り替わったかのようにパチッと目を開けた。
「・・・あら、よっちゃん、おはよう。どうしたの、そんな顔して」
「よかった、お母さんが帰ってきた・・・」
安堵した孝輔の肩からスッと力が抜けた。この先が思いやられる・・・。
孝輔と恵子が元五郎丸の一階の土間に置かれたテーブルで、大皿いっぱいに盛られた刺身で朝御飯を食べていると、入口のアルミサッシが開いて男が入ってきた。上下の黒のスエットにジャンパーを羽織り、足元はゴム長靴を履いている。ぼさぼさの髪の毛と無精ひげの男は、無言のまま目だけで孝輔と恵子に軽く会釈すると、帳場の奥の台所に向かって声を掛けた。
「研さーん、おはようございます。北山です。迎えにきました」
「オーウ、いま行くからちょっと待っとって」
高倉の返事を聞くと、北山は帳場に腰を下ろした。暫くすると高倉が大きな鍋を抱えて台所から出てきた。
「味噌汁も飲んでや。魚の粗から出る出汁が利いていて美味いんだ。秀夫もどうだ一杯」
高倉は、北山の返事も聞かずにお椀に味噌汁を注ぎ、北山に向かって突き出した。北山はペコリと頭を下げてお椀を受け取った。
味噌汁を一口啜った恵子が目を輝かせた。瞳が美味しいと言っている。
「美味しい! お刺身も最高だけど、お味噌汁も絶品ね。お代わり!」
「お母さん、いくら何でも朝から食べすぎだよ。お腹が痛くなっちゃうよ」
そう注意している孝輔が持っているお椀も、既に空っぽだ。
「ウハハハ、残してもしょうがないから全部食べちゃってよ。秀夫、お前のことだから朝飯を喰っとらんだろう。良夫君、お母さん、こやつは北山秀夫っていって儂の船の手伝いをしているんじゃ。秀夫、お前も食べろ、ほれ!」
高倉はお茶碗にご飯をよそうとお箸と一緒に北山に突き出した。北山は再びペコリと頭を下げてお茶碗とお箸を受け取った。
朝御飯を食べ終わり、恵子はお刺身のお礼だと言って台所で洗い物を始めた。高倉と北山は孝輔の前に座りタバコを吸っている。
高倉が孝輔に訊いた。
「良夫君、お前さんたちは竜飛岬に向かっているんだって? 観光旅行かね?」
孝輔が首を横に振った。
「観光旅行じゃありません。僕とお母さんは事情があって東京から逃げてきたんです。竜飛岬を目指しているのは・・・うまく説明できませんが、お母さんとの約束なんです」
孝輔にも自分の心の奥底から湧き上がってくる声が理解できていない。高倉はプカリと紫煙を吐き出した。
「ふうん、何か訳がありそうじゃが、儂にできることがあったら言ってよ、力になるよ。といってもこんな老いぼれじゃがね。昇造が迎えにくる言うとったから、それまでウチに泊まればええ。ああ、宿泊料なんか要らんよ。その代わりと言っちゃあ何だが、ここの留守番をお願いできないかなと思ってね。
いや何ね、ここ二、三日バタバタと用事があって出たり入ったりするし、東京からひとりお客さんがくるんで、ここを閉める訳にもいかんのよ。何、釣り客なんてこないからテレビでも見ながらのんびり寝とっていいんじゃ。東京のお客さんがきたら二階の空いている部屋に上がって貰えばええ。どうじゃろう」
孝輔の顔がパッと明るくなった。所持金のない孝輔たちには渡りに釣り船だ。
「ありがとうございます。それじゃあお言葉に甘えさせていただきます」
「よし、決まりだ。それじゃあ、儂と北山はちょっと出かけるんで、後はよろしくな」
高倉はよっこらしょと掛け声をかけて椅子から立ち上った。北山は無言のまま孝輔に軽く会釈をして高倉に続いた。
元五郎丸を出ると、北山が高倉に小声で話しかけた。
「研さん、あのふたりをあそこに置いといて大丈夫ですか」
「昇造の紹介だしな・・・なあに、ぼんやりしているから取引には気付くまい。それよりも誰かいた方がカモフラージュになるじゃろう」
高倉は金壺眼を光らせてジロリと北山を見た。笑みの消えた高倉の怖ろしい顔は極悪人そのものだ。北山は何も言えずにコクリと頷いた。
食べ過ぎてお腹が痛いという恵子を元五郎丸の留守番に残して、孝輔は昼食用の食材の買い出しのために魚市場をうろついていた。午前九時を過ぎて、競りの終わった場内は閑散としていたが、一般客向け商店や場内食堂のあるエリアは観光客や買い物客で賑わっていた。派手な幟が立ち並ぶ通路には客引きの声が響き、魚のすり身を油で揚げる香ばしい匂いが辺り一面に漂っている。
前田満男は実家の前田鮮魚店の前で、仏頂面をしてやる気のない声で客の呼び込みをしていた。江渡神組から逃げてきたものの、生来のこらえ性のない性格の前田は、たった数日でかたぎの生活に飽きていた。
前田の前をとぼけた顔をした男が通り過ぎていく。
その男の顔を見て、前田は目を見張った。浅井孝輔だ! やつがこんなところにいた。前田は前掛けをむしり取って店の中に放り投げると、鼻歌交じりでぶらぶらと歩く孝輔の後を付けた。
三十分後、前田は元五郎丸の入口が見える路地に立つと、スマートフォンを取り出した。
「鮫島さん、前田です。・・・ひっ、怒鳴らないで下さいよ。・・・そんな、逃げただなんて・・・ええ、羽田空港ではすみませんでした。・・・指? そんな指だけは勘弁してくださいよ。それより、鮫島さん、浅井孝輔がいました。・・・間違いありません、ええ、山形県酒谷市です。酒谷港近くの出船町にある元五郎丸という釣り船宿にいます。・・・これから直ぐにこちらへ? はい、分かりました、見張っています。えっ、今度逃がしたら殺す? そんな酷い。・・・ええ、任せてください」
前田はスマートフォンを切ると、両手をズボンのポケットに突っ込み肩をすぼめて、路地の物陰から元五郎丸をそっと見た。孝輔を鮫島に引き渡すことができれば、羽田空港でのミスは帳消しだ。汚名挽回名誉返上のチャンスだ・・・何か違うような気がするが、細かいことは気にしない。退屈な実家の鮮魚店の手伝いなどやめて、江渡神組に戻って仁侠道に邁進するのだ。
午後一時を過ぎた頃、元五郎丸の入口のアルミサッシがガラリと開いた。
クリーム色のパンツスーツにニット帽をかぶり大きめのサングラスをかけた二十歳半ばのすらりとした女が、大きなトランクケースを引っ張って土間に入ってきた。帳場に並んで座ってテレビを見ていた孝輔と恵子は顔を見合わせた。恵子がホレと言わんばかりに顎をしゃくるので、仕方なく孝輔が立ち上がって声を掛けた。
「いらっしゃいませ。えっと、元五郎丸にようこそ。お泊りですか」
「あんた誰。高倉は居ないの? 東京からきたんだけど」
女はめんどうくさそうに答えると、帽子を取りサングラスを外して室内を見回した。
「汚ったないとこね、こんな所に長居はしたくないんだけど。とにかく高倉を呼んでよ。早く取引の段取りを付けて、あたしはどこかホテルを取るわ」
女の大きな目は右目が少し斜視で、つんと尖った鼻と蕾のような赤い唇があどけない感じを与える。マッシュバングショートボブの髪は金色に染めていて、抜けるような白い肌に映えている。
サングラスを外した女の目を見た恵子が、何かに気付いたように小さく息を呑んだ。孝輔が声を失ってうっとりと女の顔に見惚れていると、恵子が女に声を掛けた。
「貴方、お名前は?」
「名前? 崎田加奈。それより高倉はどこなの」
ぶっきらぼうに答えた加奈に向かって、恵子がニッコリと微笑んだ。
「あら、同じ苗字なの? 私は佐木田恵子。この子は良夫、よっちゃんよ。よろしくね」
「さきた? あたしは、『さ、き、だ』、さきだかな、同じじゃないわ。それよりも高倉を出してよ」
加奈のつっけんどんな言い方に、恵子が眉をひそめた。
「加奈ちゃん、年上の方を呼び捨てにしてはダメよ。高倉さんって言いなさい。でも言っておくけど映画俳優の高倉健じゃないのよ。顔は全然違うの、すっぽんぽ・・・いや、間違えないでね」
加奈は呆れたような顔で恵子を見ると、吐き捨てるように言った。
「この婆さん何言っているか分かんない」
恵子の背筋がスウッと伸びた。
「よっちゃ・・・いや、加奈ちゃん! 何て言葉遣いなの。お母さん怒りますよ!」
恵子は曇りのない瞳で真っ直ぐ加奈の瞳を見つめている。恵子のいきなりの剣幕に吃驚したのか、加奈はキョトンとした顔をして恵子を見ている。
「・・・ごめんなさい。恵子さん」
「あら、いい子。恵子さんだなんて水臭い、お母さんでいいわよ。よし、ご褒美にお母さんがコーヒーを淹れてきてあげる、ちょっと待ってて」
恵子は優しい声を出すと、奥の台所に向かった。加奈は呆然とした顔で恵子の背中を見ている。孝輔は加奈に向かってペコリと頭を下げた。
「申し訳ありません。崎田さん、吃驚されたでしょう。お母さんは認知症で時々、いや、しょっちゅうおかしなことを言うんです。勘弁してやってください」
加奈は孝輔の方を振り返った。その顔には怒りは微塵もない、根は素直なのだ。
「いいのよ、あたしはこんなはねっかえりで誰にでもポンポン言っちゃうから。何だか久しぶりに怒られちゃった、ウフフ、何だか本当のお母さんみたいな気がしてきたわ。それよりも高倉は・・・いや、高倉さんはどこなの」
孝輔は眩しそうに加奈の顔を見ながら答えた。
「それが、朝八時過ぎに北山さんって男の人と一緒に出て行ったきりで、まだ戻ってこないんです。僕とお母さんは留守番を頼まれましてね。東京からお客さんがひとりくると言われていましたが、それは崎田さんですか? 二階の空いている部屋に通しておいてくれと言われていますけど、どうします? あの・・・相当に汚いですが」
孝輔が『相当に』の部分に力を込めたのが分かったのだろう、加奈は辺りをぐるりと見回して眉をひそめてから、仕方ないとばかりに首を振りながら言った。
「崎田じゃなくて加奈って呼んでよ。とにかく、高倉さんに会わなきゃ話が進まないの。それじゃあ二階で待たせてもらうわ。よっちゃん、荷物をお願い」
加奈は帳場の横の階段へと向かった。
酒谷港から北西約四十キロの沖に浮かぶ鳥島の西海岸荒崎の入り組んだ入り江で、二隻の漁船が並んで錨を下していた。一隻は遊漁船の元五郎丸、もう一隻はイカ釣り船で太陽丸と船名が書かれている。船と船との距離は一メートルほどで波の状態によっては五十センチにまで近づくこともある。船と船が近づいた瞬間を見計らって、元五郎丸から太陽丸へ高倉が跳び移った。
「裕ちゃんよう、また頼むぜ。手間ははずむから」
操縦席で舵輪にもたれ掛かっている船長に、高倉が声を掛けた。裕ちゃんと呼びかけられた男は、分かったというふうに右手を上げた。高倉はポケットから煙草を取り出して一本喰わえ、目も前の男にも煙草を勧めた。ふたりは並んで沖合を見ながら煙を吐き出している。
「今回はこれまでとは別ルートで東京からのお客さんだ。関東白井会の崎田組ってやくざだ。結構羽振りはいいらしく、これからクスリにも手を広げるんだと」
高倉の説明に裕ちゃんはうんと頷いた。
「俺は金が貰えれば相手は誰でもいいぜ。倅が東京の大学に行くんで、金が要るんだ」
「それじゃあ段取りはいつもどうりで。ロシアの船は明日の夜中に酒谷沖を通過する。儂たちは明日の夜九時にここで合流だ。乗るのは儂と北山、それと東京からのお客さんの合わせて三人。ここを出発して接続水域をちょっと出たところの双子岩で待機。夜中の十二時にロシアの船からボートがくるから、この船の上で取引だ。ロシア側の運び屋はいつものデミトリ。やつの顔は知っているよな? 今回のブツはヘロイン一キロ。今回上手くいけば次からはもっと量を増やすそうだ。東京のお客さんとの調整は儂がやるから、裕ちゃんは船の操縦だけ頼む。報酬は五十万円」
高倉はそれだけ言うと、吸っていた煙草を海に放り投げ、舷側に足を掛けるとタイミングを見計らってエイヤッと元五郎丸に跳び移った。
午後一時三十分を過ぎた頃に高倉と北山が元五郎丸に戻ってきた。入口のアルミサッシがガラガラと開き高倉と北山の姿が見えると、孝輔がお帰りなさいと声を掛けた。
「高倉さん、三十分ほど前に東京からのお客さんがお見えになりましたよ。いま、二階でお母さんが相手をしています」
「ほう、そうかい。早かったな。どれ、ちょっくら顔を出してくるか。北山も一緒にこい。良夫君は悪いがここでちょっと待っとって。話は直ぐに終わるから、その後は晩飯の時間まで魚でも釣りに行こうや」
高倉と北山は顔を見合わせて頷くと、ドタドタと階段を上った。高倉が二階の六畳間の襖の前に立つと、中から恵子の声に続いて加奈のキャッキャという笑い声が聞こえてきた。
「アハハ、そんな出っ歯の殺し屋なんていないわよ」
「本当なの、しかもネズミみたいな顔をしてるのよ。だから猫に弱いの」
「嘘ばっかり」
高倉は首を傾げながら、部屋の中に声を掛けて襖を開いた。
「わざわざ東京からご苦労さんです、元五郎丸の高倉です。・・・えーっと・・・?」
六畳間の畳の上で向かい合って座っていた恵子と加奈が、申し合わせたように同じタイミングで高倉を見た。
「ほらね、やっぱり高倉健とは違うでしょ、でもタカクラケンなの。人間って不思議よねぇ」
恵子が真面目な顔でそう言うと、加奈はお腹を抱えて笑い出した。
「イヤだもうお母さん、冗談ばっかり・・・笑いすぎてお腹が痛いわ」
恵子と加奈の笑い声が止まらない中で、高倉が静かにしろという意味でゴホンとひとつ大きな咳をした。恵子と加奈が再び高倉の方を見た。
「東京からきた崎田組の人はどこへ行ったか知らんかね? 大事な仕事の打ち合わせがあるんじゃが。お嬢さんはお付きの人?」
加奈の顔から笑みがスッと消えて、勝気な瞳が高倉の顔を正面から見据えた。
「あたしが崎田組の代理人、崎田加奈よ。お母さんごめんね、ちょっと席を外してくれる。これから、高倉と・・・高倉さんと仕事の打ち合わせがあるの」
恵子は素直に頷くと、高倉と北山に向かってニッコリと笑顔で会釈をしながら部屋を出て行った。恵子と入れ違いに高倉と北山が六畳間に入り、加奈の前に並んで胡坐をかいた。
怪訝な顔をした高倉が口を開いた。
「お嬢さんが・・・崎田組の?」
「面倒くさいから加奈って呼んで頂戴。何よ、その顔は。ゴツイ身体したゴリラみたいな男がくるとでも思っていたの。そんな、いかにも『やくざです』みたいな男がウロウロしていたらバレちゃうでしょ。頭を使いなさいよ。それよりも早く取引の話に入りましょうよ。こっちはお金を用意してきたわ。キャッシュで一億円。ブツの方はどうなっているの」
高倉の金壺眼がスッと細くなり極悪人の顔に戻ると、声が低くなった。
「その前に、加奈が崎田組の代理人であることの証拠を見せな」
「疑り深いのね」
加奈は首に掛けた細い金のネックレスを胸元から引き出した。ネックレスの先には三分の一に欠けた十ルーブル硬貨が付いている。高倉はポケットの中から同じく三分の一に欠けた十ルーブル硬貨を取り出して、加奈の差し出した硬貨と合わせると、割れ目はピッタリと一致して三分の二の十ルーブル硬貨ができた。高倉は頷くとネックレスを加奈に返した。
「よし確認した。ブツはヘロイン一キロで品質は保証付き。ブツを乗せたロシアの船は明日の夜中に酒谷沖を通る。酒谷港から元五郎丸で一旦鳥島に向かう。遊漁船じゃ接続水域まで出るのは無理じゃから、そこでイカ釣り船に乗り換えて酒谷沖に出る。酒谷沖の接続水域にある双子岩という場所で先方の運び屋と落ち合う。残りの三分の一の十ルーブル硬貨はロシア側の運び屋が持ってくるから、それで相互に身元の確認をする。その後、船の上でキャッシュとブツの交換だ。交換が終われば鳥島経由で戻ってくるが、戻りは酒谷港ではなくて酒谷北港に元五郎丸を着ける。加奈を酒田北港で船から陸に上げた時点で儂の仕事は終わり。それから先、加奈がどうやってブツを運ぶのかは崎田組の仕事で儂は関知しない。儂の報酬は前払いで五百万円、崎田組とは初めての取引だからサービスだ」
高倉の説明をジッと聴いていた加奈が、小さく頷いた。
「了解したわ。ところで、この人は?」
高倉の横に座った北山は一言も口をきかずに、食い入るように加奈の顔を見つめていた。
「こいつは北山秀夫といって、儂の手伝いをしている。北山には儂の報酬の中からなんぼか渡すから、北山の報酬は気にせんでええ。ほれ北山、なんじゃいボーッとして。挨拶せい」
高倉に促された北山はかすれた声を出した。
「加奈・・・加奈か。もしかしてママの名前は・・・知世・・・というんじゃないのかい」
加奈がギョッとした顔で北山を見た。
「やだ、キモッ。何で知っているの。そうよママの名前は崎田知世よ。関東白井会崎田組の女組長といえば関東のその筋じゃあ有名なんだけど、あんた関東の出身?」
「崎田というのは・・・」
北山の声は震えている。
「ママは再婚なの。あたしが小さい頃は銀座でホステスをしていたんだけど、そこで崎田組の親分に見初められたんだって。それで結婚して崎田知世。その親分は抗争で撃たれて死んじゃったけどね。あたしの本当のパパは女を作って逃げちゃったんだってさ、あたしは名前も顔も覚えていないけどね・・・ちょっと、何を言わせるのよ恥ずかしい」
言い過ぎたと思っているのだろう、加奈が照れ隠しのように北山を睨んだ。
北山は虚ろな目をして、うわ言のように続けた。
「この取引に崎田組長は顔を出すのかい」
「組にとっても新しいビジネスに手を広げる大きな転機だから、自分でブツを確認するために必ずくるわ。それとも、あたしを迎えにくるのかしら、どっちを心配しているのかは分からないな」
加奈の話を聞いた北山はウウッと唸ると、下を向いて黙って考え込んでしまった。
「何じゃい北山、おかしなやつじゃな」
高倉は北山の姿を見て金壺眼をギラリと光らせた。北山とは長い付き合いだが、こんな様子の北山を見るのは初めてだった。何かあるのか気になるところだが、とにかく、取引を進めるしかないと高倉は腹を決めた。
「よし、打ち合わせは終わりだ。取引は明日の夜じゃから加奈はそれまでゆっくりしとったらええ。集合は明日の午後六時に酒谷港の船溜まり。元五郎丸で夜釣りの遊漁船に紛れて出航する。ここに泊まるならこの部屋を使って貰って構わんが、どうする?」
「こんな汚・・・いや、あたしベッドじゃないと眠れないの。市内のホテルを取るわ」
「そうかい、それじゃあセントラルホテルがええわ。綺麗じゃし、警備もしっかりしとる。北山、加奈をホテルまで送ってあげな。タクシーでウロチョロされると目立つんで、明日の夜も北山をホテルに迎えに行かせる。北山、いいな」
下を向いて何やら考え込んでいた北山は、高倉の声にハッと顔を上げると、慌てた素振りで頷いた。




