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遠巻市民病院

 遠巻ファームの駐車場には、後から後から何台ものパトカーが入ってきた。パトカーから降りた警察官たちは、事件現場に向かって脇目も振らず走っていく。これから現場検証が始まるのだろう。事件らしい事件もない田舎の都市で起こった殺人事件に、警察官たちは浮足立っていた。

 孝輔と恵子が遠巻ファームにたどり着いたとき、『天狗の森自然公園』の事件現場から担架で運び下ろされた剛田康夫が、遠巻ファームの駐車場でストレッチャーに移されて救急車に乗せられようとしていた。ストレッチャーの横には、頭に包帯を巻いた畠山組の岩井が立っていて、康夫の顔を心配そうにのぞき込んでいる。ひとめでやくざと分かる岩井の風体を見て、孝輔の身体が固まった。

 ストレッチャーの上で毛布にくるまり目を閉じている康夫を見た恵子は、血相を変えてストレッチャーに走り寄ると、岩井の身体を押しのけるようにして康夫の身体に覆い被さった。

「よっちゃん、よっちゃん、しっかりして。死んじゃあいやよ!」

 康夫の腕にカテーテルを挿入していた救急隊員が恵子の顔を見た。

「ご家族の方ですか? 点滴を入れますので少しだけ下がっていてください」

「先生、よっちゃんは助かるんでしょうか? ああ、命・・・命だけは助けてください、お願いします」

 恵子の声が妙に芝居がかっているのは、テレビドラマの見過ぎだろう。

「先生・・・いやいや、私は救急隊員でして・・・。肩の傷の出血はほぼ止まっていますし、弾丸も抜けていますから命に別状はないと思いますよ。点滴完了っと。それじゃあ搬送します。ええっと・・・ご家族の方ですよね」

 恵子は潤んだ瞳で救急隊員を見た。

「母親です。私、よっちゃんの母親です」

 岩井が『そんなバカな』という顔をして恵子を見た。恵子は岩井の方を見向きもしない。救急隊員は恵子と康夫の顔を見比べた。まったく似ていないし、年齢の差も微妙だが・・・そこはあまり深く追求しないほうがいい。家族関係は複雑なのだ。

「なるほど、それじゃあ救急車に同乗されてもいいですよ」

 救急隊員の声に恵子は頷くと、ストレッチャーにすがるようにして救急車に乗り込んだ。恵子を乗せた救急車はサイレンを鳴らしながら遠巻ファームの駐車場から走り去った。

 救急車が走り去った後の駐車場には、唖然とした顔の岩井と、呆然とした顔の孝輔が残された。孝輔が空気の漏れたような声を出した。

「お母さん、こんなときに認知症が・・・剛田社長を僕と間違えるなんて重症だ。これからどうすりゃいいんだ」

 孝輔の声を耳にした岩井が、萎びたヘチマ顔を孝輔に向けた。孝輔は岩井を見て棒を呑んだように立ち竦んだ。どこから見てもやくざだ、江渡神組からの追手に違いない。もう逃げられないと思った孝輔の顔面は真っ青になり、膝がガクガクと震え出した。

 岩井が孝輔に声を掛けた。江渡神組からの追手にしては声が優しい。

「誰だお前は。はあん、遠巻ファームの新しい従業員ってのはお前か。それよりも、康夫さんと一緒に救急車に乗っていった婆さんは何者だ」

 孝輔はオドオドと答える。

「彼女は、僕のお母さん・・・佐木田恵子といいます。あのう・・・あなたは江渡神組からの追手ではないんですね?」

「江渡神組? そりゃどこのやくざだ。オレはここいらを仕切っている畠山組の岩井ってもんだ。よろしくな。それで、恵子さんとやらがどうして康夫さんと一緒に?」

 江渡神組からの追手ではないと分かった孝輔は、ほっと胸をなでおろした。

「お母さ・・・佐木田恵子さんは認知症を患っていましてね。時々記憶がこんがらがっちゃうんです。実は、僕は浅井孝輔というんですが、ひょんなことから恵子さんは僕のことを息子の良夫さんと思い込んでしまって、僕のことを『よっちゃん』と呼ぶんです。いろいろ事情があって詳しいことは話せないんですが、僕と恵子さんは東京の暴力団の江渡神組と殺人犯の両方から追われているんです。僕たちが困っていたところを真一さんに助けられて、ここにお世話になっていたんですよ」

 岩井はフンと鼻で笑うとポケットから煙草を取り出し、ライターで火を付けた。フウと煙を吐き出してから言った。

「何かよく分からんが、とにかくボケた婆さんが康夫さんのことを息子と勘違いしたってことだな。オレは今日の夜の接待担当で調査チームの三人を迎えにきたんだ。ところが、ここへきてみりゃ警察がいっぱいで、康夫さんと真一さんが近藤に撃たれたというじゃねえか。康夫さんは重傷で真一さんは死んだ、近藤はその後で自殺したというが、詳しい状況がサッパリ分からねえ。お前何か知っているか」

 孝輔は思わず眼を剝いた。孝輔の脳裏に天狗の森自然公園で聞いた銃声が蘇った。

「ええ! 真一さんと近藤さんが死んだって本当ですか? じゃあ、あのときの銃声は・・・」

 孝輔には、近藤が康夫と真一を銃で撃つ理由も、近藤が自殺する理由もさっぱり分からなかった。孝輔が思い浮かべるのは、近藤と真一が交わす仲の好い笑顔だけだ。あのふたりがなぜ・・・。

 孝輔のとぼけた顔に驚愕の色が浮かんでいるのを見て、岩井は早くも見切りをつけた。

「聞いても無駄か。ところで、お前、これからどうするんだ」

 孝輔は顔色を改めた。いまはとにかく、恵子の保護が最優先だ。

「お母さんは何かの拍子に記憶を取り戻すので、いつ剛田社長が良夫さんじゃないことに気付くか分からないんです。だから僕が傍にいてやらないといけない。これから剛田社長の搬送された病院に向かいます。それから先は・・・とにかく、逃げなきゃ。北へ、北のはずれ、竜飛岬です」

 岩井は萎びたへちま顔を傾げて暫く考えていたが、心を決めたようにポンと膝を打った。

「北のはずれねえ・・・。よし、ここに居ても当分埒が明かないだろうから、オレがお前を病院に連れて行ってやるよ」

 岩井は煙草を地面に落として靴の先でもみ消すと、目の前に止まっている銀色のレクサスを指差した。顔に似合わず、気のいい男なのだ。孝輔は遠巻ファームの事務所に入って、恵子の旅行鞄と巾着袋を持つと、岩井の待つレクサスに向かった。 


 孝輔は岩井の運転するレクサスの後部座席にぽつんと座っていた。

 レクサスは遠巻ファームから遠巻市内に通じる細い山道を軽やかに下っていた。見通しの悪いカーブに減速しながら入ると、反対方向から一台のベンツが猛スピードでレクサスに迫っている。岩井は小さく舌打ちをすると、車を左の路肩に寄せてブレーキを踏んだ。

「こんな細い道をあんなに飛ばしやがって無茶しやがる。ここですれ違うのがやっとだってのによ。うん? ありゃ練馬ナンバーだ、おい孝輔、お前を追っている東京のやくざじゃねえのか? ちょっと隠れてろ」

 停車したレクサスの横をベンツがゆっくりとすり抜けた。ベンツの運転席から、神崎が岩井にガンを飛ばした。岩井が萎びたへちま顔を歪ませて神崎を睨み返すと、神崎は岩井の背広の襟についている代紋に気付いて慌てて目を逸らした。ベンツの後部座席では、鮫島がしゃくれた顎を擦りながら、早くいけと運転手の神崎の頭を拳骨で小突いた。レクサスをやり過ごしたベンツは再びスピードを上げて山道を駆け上った。

「行っちまったぜ、もう大丈夫だ。オレにガンを飛ばしてきた、間違いない、やくざだな」

 岩井はベンツのテールランプを目で追いながら、レクサスのアクセルをゆっくりと踏んだ。

「岩井さん、助かりました。あのまま遠巻ファームでモタモタしていたら捕まっていたところでした」

「遠巻ファームは警察官でいっぱいだ。やつらそれを見たら腰を抜かすぜ」

 岩井はハンドルを握りながらヒヒヒと笑い、ダッシュボードの上に投げ出してある煙草の箱に手を伸ばした。岩井は煙草を咥えて火を付けてから、バックミラーに映る孝輔をチラリと見た。

 孝輔は窓の外を流れる景色をボンヤリと見ていたが、ふと前を向いて岩井に話しかけた。

「岩井さんは剛田社長と同じ『天狗の森自然公園』の開発推進派ですよね。剛田社長と真一さんが開発反対派の近藤さんに撃たれた。近藤さんは開発を阻止しようと非常手段に出たのでしょうか。真一さんは近藤さんを手伝っていたように見せかけて、本当は開発推進派だった。真一さんは剛田社長と裏で繋がっていた、だから裏切られたと思った近藤さんに殺されたんでしょうか」

「そんなことをオレに訊かれても分かんねえよ。でもな、孝輔。康夫さんと真一さんが裏で繋がっていたということは絶対にないぜ」

 孝輔は意外だという顔をした。

「なぜです、同じ開発推進派じゃないですか」

 岩井は前を向いたまま、煙草の煙をフウと吐き出した。

「開発推進派と一括りにされちゃあ康夫さんが可哀そうだ。康夫さんと真一さんは全く違うことを考えていたんだぜ」

「剛田社長は産業廃棄物処理施設を誘致しようとしているんですよね。近藤さんも真一さんもそう言っていましたが」

 岩井は萎びたへちま顔を歪めた。

「産業廃棄物処理施設? それは真一さんが目論んでいたことだよ。近藤にその話を吹き込んだのも真一さんだ。真一さんは、康夫さんを退任させて自分が剛田開発の社長になり、産業廃棄物処理施設を誘致して金儲けすることを企んでいた。剛田開発の社内にいる真一派閥が、真一さんの命令で秘かに動いていたんだ。それを知った康夫さんは激怒した。それ以来、康夫さんと真一さんの関係は壊れたままだ。康夫さんは奥さんを早くに失くしているから、父親と息子のふたりっきりの親子だってのにな」

 岩井はやるせないと言いたげに、火の付いた煙草を灰皿にギュッと押し付けて消した。吸い殻から糸のように細い紫煙がユラリと上がる。

 孝輔には岩井の言っていることがうまく理解できていない。近藤や真一から聞かされていた話とは真逆なのだ。

「それじゃあ、剛田社長は『天狗の森自然公園』を開発して何をしようとしているんです?」

「康夫さんは腎臓病の研究施設と附属病院を建てようとしているんだ。康夫さんは元々重度の腎臓疾患で苦しんでいて、二十年前に腎臓移植手術を受けて一命を取りとめたのさ。それまではなりふり構わぬ悪徳不動産ブローカーで、血も涙もない金の亡者と言われていたんだが、その手術を受けてから人が変わっちまった。何か思うところがあったんだろうな。

 それ以降、康夫さんは腎臓疾患に苦しむ患者に、私財を投げ打って援助を続けてきたんだ。そして腎臓病の研究施設を『天狗の森自然公園』の中に建てて、ここを日本の腎臓病研究の中心にしようと考えているのさ。ここなら土地も安いし環境もいいから研究施設には最適なんだ。

 まあ、康夫さん自身も剛田開発株式会社も金がないってこともあるがな。長年に渡って患者への援助を続けてきたせいで財政状態は火の車らしい。そのことを真一さんは知らないがね。だから真一さんは剛田開発の社長の椅子に座ろうなんて考えたんだろう」

 岩井の淡々とした口調が、孝輔の心を揺さぶる。孝輔は近藤と真一の笑顔を思い出して思わず目を瞑った。

「それじゃあ、近藤さんは誤解して・・・」

「近藤が、なぜあんな頑なに『天狗の森自然公園』の開発を阻止しようとしていたのかは知らねえ。康夫さんが腎臓病の研究施設を建設しようとしていることは、近藤もうすうす知っていたと思うが、世の中の為になることだと言っても耳を貸さなかった。何かほかの理由があったのかも知れないな。

 とにかく、康夫さんの悲願である腎臓病の研究施設を建設するという志に賛同したのが、遠巻市役所の山本助役と遠巻警察署の森山署長だ。それとオレの三人が中心となって康夫さんの計画を推進する手助けをしているのさ。

 やくざのオレにそんなこと似合わないと思っただろう。フン、顔に書いてあるぜ。オレには五つ年下の妹がいてね、オレに似合わず可愛いやつさ。ところが妹が中学生のときに腎臓病で死にかけた。オレの実家には金がない、当然オレも金なんか持っていない。そこで援助してくれたのが康夫さんだ。おかげで妹は命拾いして今じゃあ三人の子持ちだ。だからオレは康夫さんに恩義を感じているのさ。オレが康夫さんに協力しているのには畠山組は関係ないぜ、オレの個人的な協力だ。そこのところは分かって貰いてえな」

「それじゃあ、遠巻ファームの放火事件も・・・」

「ああ、畠山組は関係していない。おそらく真一さんの息のかかった連中がやったんだろう。オレの女の家に押し入ってきて、近藤と差しで話をしていたオレの頭をかち割ったのもそいつらだ。マッタク死ぬかと思ったぜ」

 岩井は思い出したように頭の包帯に手をやり、イテテと大げさに呻いた。岩井の話を聞いた孝輔は、誰が善人で誰が悪人なのかが分からなくなった。目を瞑ると近藤と真一の笑顔がグルグルと回っている。あれは偽善だったのか。孝輔は無性に恵子の無邪気な笑顔を見たくなった。


 剛田康夫は遠巻市民病院に搬送され、集中治療室で治療を受けた。肩の銃創は大きな血管を外れていて骨にも異常はなく、銃弾は肩の筋肉を貫いて抜けていた。軽いショック状態にあるものの命に別状はないとの診断を受け、康夫は個室の一般病室に移されて点滴を受けながら眠っている。

 恵子は暗い病室の中で、ベッドの横のパイプ椅子に座ったまま、ぼんやりと康夫の寝顔を見ていた。いや、恵子の目に映っているのは、康夫の寝顔の向こうにある何かだ。

 恵子は静かに立ち上がると、康夫の頭を撫でながら耳元で優しくささやいた。

「よっちゃん、命に別状はないそうよ。お母さん、よっちゃんが死んじゃうんじゃないかと心配しちゃった。よっちゃんは立派になったね、お母さんうれしいな。直ぐに元気になるってお医者さんが言ってたよ。・・・さて、それじゃあ、お母さんはもう行くね。よっちゃんも後からいらっしゃい」

 康夫は麻酔の効いた深い眠りの中で、懐かしい声を聞いたような気がした。康夫の心臓がドクリと音を立てた。意識の奥底からもうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってくる。誰だろう。そのもうひとりの自分は、懐かしい声に心を震わせて歓喜の涙を流している。もうひとりの自分は康夫の口を借りて、懐かしい声に向かって何かを話しかけている。

「・・・おかあさん・・・どこへいくの・・・」

「北よ、北のはずれ、竜飛岬よ。よっちゃんと約束したでしょう」

「・・・やく・・そく・・・竜飛岬・・・ああ、思い出した・・・お母さんと指切りしたんだ・・・」

 もうひとりの自分が意識の底にゆっくりと沈んでいく。康夫は再び深い眠りに落ちた。恵子はベッドに背を向けると病室から出て行った。


 鮫島を乗せたベンツは遠巻ファームの駐車場に飛び込むやいやな、急ブレーキを掛けて砂煙を巻き上げた。駐車場には止める隙間がないほどパトカーが並んでいて、赤色灯が狂った彼岸花のように周囲を赤く染めている。

 ベンツは急ブレーキの甲斐もなく最後尾に止まっていたパトカーに軽く追突した。ガシャンと音がして、突されたパトカーのテールランプが割れた。ベンツの後部座席のドアを蹴飛ばすようにして鮫島が外に飛び出した。

「何だこりゃ、警察ばかりじゃねえか、どうなってるんだ。とにかく、孝輔を探すのが先だ。神崎、斎藤、建物の中を調べろ」

 ベンツを運転していた神崎が青い顔をして鮫島に言った。

「鮫島さん、あのう・・・ぶつけちゃったんですけど」

「何を!」

「これ・・・」

 神崎はベンツの少し凹んだバンパーとパトカーの割れたテールランプを指差した。鮫島がアングリと口を開けているところに、事務所の前で立番をしていた警察官が走ってきた。

「君たち、何か用ですか。ここは規制線が張られて一般人は立ち入り禁止ですよ。ありゃ、ぶつけているじゃないの。この忙しいときに物損事故かよマッタク。はい、運転していた人は誰ですか、免許証と車検証を見せて」

「それより浅井孝輔はどこにいるんだ、教えてくれ!」

 鮫島は警察官の言葉を無視して、頭の天辺から抜けてくるような甲高い声で一気にまくし立てた。鮫島の剣幕に驚いた警察官は眼を白黒させている。

「オイ、浅井孝輔はどこだ。ここの従業員の浅井孝輔だよ、教えろ!」

「何ですかあなたは。ここに従業員はひとりも残っていませんよ」

 鮫島は警察官に掴みかからんばかりに身体を寄せた。圧力に押されて警察官が一歩下がる。

「いないってどういうことだ。そうだもうひとり、婆さんがいたろう、そっちはどうした」

「お婆さん? ああ、あの人ね、救急車に乗って行きましたよ。今頃は遠巻市民病院でしょう。そういや、もうひとりとぼけた顔をした従業員がいたな・・・うん、畠山組の岩井の車に乗って出て行った。救急車の後を追って行ったんじゃないかな」

 鮫島はハッと顔を上げ、振り返った。

「やくざか・・・さっきのレクサスだ! くそっ、逃げられた。オイ神崎、斎藤、行くぞ!」

 走り出そうとした鮫島の腕を警察官が掴んだ。鮫島が鬼のような形相で睨みつけたが、警察官はどこ吹く風と平然としている。

「ちょっと、どこへ行くんですか、物損事故ですよ。現場検証しなきゃどこへも行けませんよ。はい、免許証と車検証を出して」

 警察官を振り切って走り出そうとした鮫島の目の前に、三台のBMWが止まった。最後尾のBMWの後部座席のウィンドウが下がり、サングラスを掛けた鬼頭の顔が見えた。鬼頭たちもテレビを見て孝輔の居場所を突きとめたのだ。

 鮫島は鬼頭に向かって叫んだ。

「鬼頭さん、孝輔が逃げた。銀色のレクサスだ。遠巻市民病院に向かっている!」

 鬼頭は片手を上げて分かったというジェスチャーをした。三台のBMWは砂利を蹴立ててUターンすると駐車場から走り去った。


 午後四時を過ぎて遠巻市民病院の外来用の駐車場はガラガラに空いていた。孝輔と岩井が病院の入口に向かう歩行者用通路を歩いていると、その横を一台の救急車がけたたましくサイレンを鳴らしながら追い越した。救急患者搬入口の前で止まった救急車の後部ハッチが開いて、慌ただしくストレッチャーが降ろされた。走り寄った看護師に向かって救急隊員が早口で容体を説明している。

「四十代男性、天狗の森自然公園でクマに襲われた後に崖から転落した模様で、顔面に切り傷、頭部に裂傷、左足大腿骨骨折、肋骨も三本骨折。血圧は・・・」

 ストレッチャーの上では、顔面を包帯で覆われた根津が毛布にくるまって横になっていた。包帯の隙間から飛び出した出っ歯が救急車の赤色灯を反射してきらりと光った。


 孝輔と岩井が剛田康夫の病室の前に立つと、ちょうどドアが開いて中から恵子が出てきた。恵子は孝輔の顔を見ると驚いたように言った。

「あら、よっちゃん、こんな所で何しているの。誰かのお見舞い? そういえば私はここで何をしていたのかしら。・・・ん? それ私の巾着袋じゃない、返してちょうだい」

 恵子は孝輔が手に持っていた巾着袋を奪い取ると、胸の前でしっかりと握りしめた。孝輔の顔に安堵の色が浮かんだ。

「お母さん、良かった、記憶が戻ったんだ。剛田社長と一緒に救急車に乗って行ったときはどうなるかと思ったよ」

 恵子はポカンとした顔で孝輔を見た。恵子は先程までのことを全く覚えていないようだ。

「剛田社長? ああ、悪者の越後屋さんね。あの人、入院したの? 誰かに成敗された?」

 岩井が萎びたへちま顔を歪めてヒヒヒと笑った。

「越後屋とはいいや、ピッタリだ。だが、こっちの越後屋は正義の味方だぜ。ちょっと顔を見てこよう。その後でJRの駅に送ってやるから、ちょっと待っててくれ」

 岩井はふたりを残して康夫の病室に入った。

「よっちゃん、いまのへちまみたいな顔をした人は?」

「岩井さんって言って、悪い人なんだけど良い人なんだ」

「まったく、よっちゃんは・・・相変わらず何言っているかさっぱり分かんないわ」

 自分のことは棚に上げて、恵子がダメだとばかりに首を振った。孝輔がムウウと唇を突き出した。言い返したいが、おっしゃるとおりで言い返せない。

 パタパタと病室内を走る音がして病室のドアが乱暴に開いた。緊張した顔色の岩井が早口で言った。

「BMWが三台駐車場に入ってきた。乗っているのはやくざだな。孝輔の追手だろう、早く逃げた方が良さそうだぜ。孝輔、車の運転はできるのか」

「ここにくる前に自動車教習所の教習指導員を三十分ほどやりましたが・・・ペーパードライバーです」

 岩井がチェッと首を振る。どうやら岩井は、孝輔たちの逃亡を手助けする気になったようだ。物好きもいるもんだ、いや、あまりにも能天気なふたりを見て、手を差し伸ばさずにはいられないのだ。それは人類愛の結露に他ならない。

「仕方ねえな。よし、とにかく病院から出よう。裏口の非常階段だ。急げ!」

 岩井は巾着袋を握りしめている恵子の手を引いて廊下を駆け出した。リュックサックを背負った孝輔が、恵子の旅行鞄を持って後に続く。

 パジャマを着て点滴スタンドを押しながらヨタヨタと廊下を歩いていた老爺が、何事が起きたのかと立ち止まり、走り去る三人を見ている。その横で、見舞客らしいふたり連れの女性が、廊下の壁に貼り付くようにして三人を避けた。

 それとほぼ同時にナースセンター横の来客用エレベーターのドアが開き、中から四人の男が廊下に飛び出した。先頭にいる鬼頭の目に、廊下を駆ける孝輔たちの背中が映った。

「おい、あれだ、逃がすな!」

 鬼頭の指示を受けた三人の男たちは、孝輔たちを追って廊下を猛烈な勢いで駆け出した。

「どけどけ、邪魔だ!」

 点滴スタンドの横に立って孝輔たちを見ていた老爺が突き飛ばされて転倒し、倒れた点滴スタンドがガシャンと大きな音を立てた。その横で、廊下の壁に貼り付いていたふたり連れの女性がキャアと叫び声を上げる。

 孝輔が振り返ると、三人の男が口の端に泡をためながら全速力で狭い廊下を走っている。

「うわわ岩井さん、やつらが追ってきた・・・」

 廊下の突き当りにある配膳室の前を左に曲がると、その先に非常口と書かれた緑の非常灯がボンヤリと宙に浮かんでいた。岩井は非常灯の下の大きな鉄製の扉に身体をぶつけるようにして止まると、扉のノブを回した。軋むような音と共に扉が開き、目の前に非常階段の踊り場が現れた。その先に幅二メートルほどの鉄製の螺旋階段が渦を巻いて上下に伸びている。滅多に使われることのない螺旋階段に塗られた白いペンキは所々赤茶けたさびが浮き、床や手すりは腐食してボコボコと表面が泡立つようにペンキが浮き上がっていた。

 岩井が螺旋階段を二、三歩下りたところで、一階から螺旋階段を上ってくる足音が響いてきた。岩井が手すりから身体を乗り出して下を見ると、一目でチンピラと分かるふたりの若い男が階段を駆け上っている。

「くそっ、こっちからもきやがった。仕方がない、上だ、上に登ろう」

 岩井は恵子の手を引いて螺旋階段を上り始めた。

「孝輔、何してる、早くこい!」

 岩井の叫び声が響いたが、孝輔は五階の踊り場に立ったまま必死に考えていた。

 ・・・ダメだ、このままじゃ直ぐに追いつかれる。非常口の扉が開かないように、何かを扉の下の隙間に噛ませることができれば。何かないか。何か・・・。

「よっちゃん、護身用の武器よ! あれであいつらやっつけちゃいなさいよ!」

 恵子の声が聞こえた。護身用の武器? 裁ちばさみだ!

 孝輔はリュックサックの口を開けると裁ちばさみを掴みだし、柄の部分を握るとその刃を非常口の扉の下の隙間に思いきり叩き込んだ。ネジ部分まで深く食い込んだ裁ちばさみはぐにゃりとくの字に曲がった。それと同時に非常口の扉が内側からドオンと叩かれた。ノブを回して扉を開けようとするが、裁ちばさみが楔となって扉は開かない。それを見た孝輔はリュックサックを掴み上げると、恵子たちを追って螺旋階段を駆け上った。

 孝輔が七階まで螺旋階段を駆け上がると、岩井が非常口の扉を開けて待っていた。

「何してた。捕まっちまうかと思ったぜ」

 孝輔はハアハアと肩で息をしている。

「時間稼ぎをしていたんです。お母さんのお陰だ、裁ちばさみが役に立ったよ。五階からは外に出てこられないから、ちょっとは余裕ができたでしょう」

「ちょっと、よっちゃん、あの裁ちばさみは特別注文の高級品なのよ。もちろん後で返してくれるんでしょうね」

 孝輔がグッと詰まる。ふた目とみられない形状に変わった裁ちばさみだが、現代美術の難解なオブジェとしてなら使えるかも知れない。

「・・・恐らく、鋏としてはもう二度と使えないと思うけど、それでもいい?」

 絶句する恵子の手を引いて岩井は廊下を走り出した。こんな所でモタモタしている訳にはいかない。孝輔も後に続く。

 七階の廊下の中ほどに処置室があった。室内には誰もおらず患者搬送用ベッドが一台置いてある。岩井は処置室に入ると、自分の頭に巻いてある包帯をほどき始めた。

「孝輔、お前、このベッドに寝ろ。お前はやつらに顔を知られているから、この包帯を顔に巻け。顔を包帯で隠して身体に毛布を掛けりゃ重症患者のできあがりだ。オレと恵子さんは、白衣を着てれば医者と看護師に見えるだろう。患者搬送用エレベーターで一階へ降りて、救急患者搬入口から逃げよう」

 孝輔がひとつ頷いてポンと手を叩いた。頭の中でピカリと電球が灯る。

「岩井さん、これが本当のヤクザイシですね」

「よっちゃん、上手い。座布団・・・ないか。毛布を一枚どうぞ」

 孝輔と恵子には、自分たちが追われているという緊張感が微塵も感じられない。

「お前さんたち、いまが本当にヤバい状況だって分かっているか?」

 岩井はヤレヤレと首を振った。岩井は処置室の壁に掛けてある白衣を着てサングラスを外すと、孝輔が横になった患者搬送用ベッドをゆっくりと押した。やくざらしからぬ岩井のつぶらな瞳を見て、恵子がプッと吹き出した。照れ隠しなのか、岩井は口をへの字に結んでジッと前を見ている。

 孝輔を乗せた患者搬送用ベッドが、七階の廊下をゆっくりと進む。廊下の途中に放置されていた点滴スタンドをさりげなく手に取った恵子が、点滴スタンドを押しながら空の点滴袋から延びるチューブをもっともらしく孝輔の腕に当てた。意外と芸が細かいのだ。

 六階から七階に繋がる階段を、チンピラらしき若いふたりの男が駆け上がってきた。鬼頭の手下の梶尾と真田だ。ふたりは廊下の端から順番に病室のドアを開けて中を覗きながら、徐々に孝輔たちに向かって近づいている。岩井はわざとゆっくりとした足取りでベッドを押した。ふたりが進路を塞ぐようにベッドの前に立った。岩井の顔をうさん臭そうに見ている。

 岩井はその視線に構わず、のんびりとした声を出した。

「ああ、道を開けてください、手術の時間に遅れたら大変だ。君たちはお見舞いの方? 当病院のお見舞いは午後四時までとなっています。ルールを守って頂かないと困りますな」

 孝輔の手首を掴んだ恵子が、わざとらしくハッと息を呑んだ。

「先生、よっちゃ・・・いえ、患者さんの脈拍が・・・」

 岩井の右手がさりげなく孝輔の首を絞める。孝輔がグウウと苦しそうな呻き声を上げた。

「むむ、これはいかん、急ぎましょう。それでは失敬」

 梶尾と真田はあっけに取られて岩井の顔を見ていたが、ふと気づいた梶尾がベッドの上の孝輔の顔を覗き込んだ。孝輔の顔に巻かれている包帯には、岩井が頭部をかち割られてできた傷から滲み出た血が一面に付いていた。血だらけの包帯を見た梶尾はヒッと息を呑んだ。

 岩井は梶尾の胸を乱暴に押してベッドから遠ざけた。

「ああ、近づかないで、危険だ! 顔面の至る所から出血が止まらなくなって、最後は顔がドロドロに融けてしまう謎の伝染病の恐れがあります。私たちはワクチンを打っていますから大丈夫ですが、君たちは感染する可能性が極めて高い、いや、間違いなく感染しています。ここを離れたらすぐに顔と手を入念に石鹸で洗って下さい。最低でも二十分、ゴシゴシとね。そうしなければ・・・」

 岩井は血だらけの包帯に目をやった。梶尾と真田の顔が恐怖で引きつった。

 梶尾と真田は一瞬顔を見合わせると、顔面が融けては堪らないとばかりに、慌てて洗面所に向かって走り出した。

 孝輔を乗せたベッドが患者搬送用エレベーターのドアの前に止まった。エレベーターが一階からゆっくりと上がって、扉の上に表示されている数字が五、六、七と変わる。ノロノロと変わる数字を岩井がイライラと見上げている。やがてチンと音がしてエレベーターの扉が開いた。岩井が押すベッドは滑るようにエレベーターの中に入った。

 洗面所に向かって走っていた梶尾は、何かに違和感を覚えて振り返った。

 エレベーターの中にベッドを押しながら医師が入り、その後ろを看護師が点滴スタンドを押しながら続いている。看護師の足元は・・・黄色のゴム長靴を履いている!

「やつらだ! あのベッドに浅井孝輔が乗っている、やられた! おい待て!」

 梶尾は大慌てで廊下を引き返そうとして足を滑らせて転倒した。右足首を捻挫したのか焼けるように痛む。梶尾はそれに構わず立ち上がると、びっこを引きながら患者搬送用エレベーターに向かって走った。梶尾の声に気付かない真田は、洗面台で必死になって顔を洗っている。

「いけねえ、バレたみたいだ。はやく扉を・・・くそっ」

 岩井はエレベーターの操作盤の『閉』のボタンを必死になって連打した。廊下を走る梶尾のバタバタという足音が大きくなる。

 恵子は手にしている点滴スタンドをエレベーターの外に勢いよく押し出した。キャスターの付いた点滴スタンドは五メートルほど進んでからガシャンと倒れた。

 エレベーターの扉がゆっくりと閉まり始めた。廊下を走る梶尾がエレベーターの前に迫る。岩井が『閉』のボタンを必死で連打するカチャカチャという音がホールに響いている。梶尾はエレベーターの扉が閉まらないように手を挟もうと腕を伸ばした。エレベーターの扉の隙間は、完全に閉まるまで残り三十センチ。徐々に細くなっていく隙間に梶尾の伸ばした指先が迫る。

 ガラガラドシャンという音と共に、梶尾がもんどりを打って床に倒れた。

 点滴スタンドに絡まりながら必死に顔を上げた梶尾の目の前で、エレベーターの扉が閉まった。閉まり切る直前に、扉の細い隙間から見えたにせ医者の顔はニヤリと笑っていた。あと一歩のところで逃げられた。

 梶尾は床に倒れたままの姿勢でスマートフォンを取り出した。倒れた際に顔面を強打したのか鼻血が垂れているが、今の梶尾にはそれを気にするゆとりはない。

「鬼頭さん、梶尾です。やつがいました。患者搬送用エレベーターで一階に向かっています。・・・ええ、顔に包帯を巻いてベッドに乗っています。・・・オレを見て逃げました、婆さんもいました、間違いありません。ニセ医者の男がベッドを押しています」


 患者搬送用エレベーターが二階で停止した。扉が開くと、看護師が患者搬送用ベッドを押してエレベーターに乗り込んできた。狭いエレベーターの中でベッドがふたつ並んだ。孝輔が頭を上げて隣のベッドを見ると、隣のベッドにも顔面を包帯でグルグルに巻かれた男が横になっていた。

 包帯の隙間から出っ歯が覗いている。根津だ!

 誰も喋らないエレベーターの中で、隣のベッドの上の根津が恵子に気付いて、モゴモゴと何やら意味不明の呻き声を発している。 

 患者搬送用エレベーターが一階に到着した。チンと音がして扉がゆっくりと開き始めると、扉の向こうから大勢の人間がバタバタと走る音が聞こえた。このままでは捕まるのは時間の問題だ。

 岩井は「こうなりゃイチかバチかだ」と呟くと、ポケットから車のキーを出した。

「孝輔、オレのレクサスのキーだ。オレがやつらを引き付けている間に、お前と恵子さんは逃げろ。いいな・・・よし、行くぞ!」

 エレベーターの扉が全開になった。岩井は根津が寝ている患者搬送用ベッドを掴み、付き添いの看護師を突き飛ばすと、ベッドを押してエレベーターから飛び出した。

 正面に走り込んできた男をベッドで弾き飛ばし、右から掴みかかってきた男の顎に肘鉄を食らわせると、岩井はベッドを押して廊下を全速力で走り出した。ベッドの下に付いた車輪の音がガラガラと廊下にこだまする。

「絶対に逃がすな、追え!」

 鬼頭がそう叫びながら岩井を追いかけて駆け出すと、周囲にいた男たちも一斉に鬼頭の後に続いた。肘鉄を食らって倒れていた男も、顎を押さえながら立ち上がると、後ろも振り返らずに必死になって鬼頭たちの後を追った。

 患者搬送用エレベーターの前には誰もいなくなった。

 呆然とした顔の看護師がエレベーターから降りると、エレベーターの中は孝輔と恵子だけになった。シンとした静けさがふたりを包んだ。ふたりは一瞬顔を見合わせてから頷くと、孝輔は顔に巻かれた包帯をむしり取った。孝輔は恵子の手を引くと、岩井が走り去った方角と反対の救急患者搬入口に向かって走り出した。


 岩井は遠巻市民病院の一階のエントランスホールに走り込んだ。エントランスホールには何人かの見舞客や看護師が歩いていて、岩井はその間を縫うようにベッドを押した。方向を変えるたびにベッドの下の車輪が軋んで悲鳴を上げた。岩井の目の前で正面玄関の自動ドアがゆっくりと左右に開く。自動ドアの左右に置かれた観賞用の鉢植えの、プラスチックのような質感の葉がザワリと揺れた。

 岩井がこのまま駐車場まで走り抜けようと思ったとき、左から強烈なタックルを受けて岩井の身体はエントランスホールの床に転がった。岩井が手を放した患者搬送用ベッドは惰性で走り続けて正面玄関を抜け、スロープを滑り降りると、ゆるゆるとスピードを落として駐車場の手前で止まった。

 床に倒れた岩井の両腕をふたりの男が掴んで、岩井を引きずり起こした。岩井は肩で息をしながら、両腕を掴んでいる左右の男の顔を交互に睨んだ。岩井の頭の傷から再び出血が始まり、真っ赤な血が頬を伝って床にぽたぽたと滴り落ちた。

 岩井の目の前に鬼頭が立った。鬼頭は岩井の胸ぐらを掴んで顔面を殴ろうと拳を固めてから、白衣の下から覗く背広の襟に付いた代紋に気が付いた。

「なんだ、お前やくざか。・・・まさか関東白井会の崎田組の息が掛かっているんじゃねえだろうな」

「佐木田? ああ、お母さんかい。つい最近知り合ったばかりだが、面白い人だな」

 鬼頭の二枚目の映画俳優のような端正な顔が歪んだ。

「やっぱり崎田組の女組長が一枚噛んでいたか。危なく先を越されるところだったぜ。浅井孝輔はこっちで預かった、ゲームセットだ。女組長にもそう伝えな」

 鬼頭は掴んでいた岩井の胸ぐらを放し、乱れた前髪を手櫛で整えてから背中を向けた。駐車場の手前では、顔に包帯を巻いた根津が、患者搬送用ベッドの上から担ぎ上げられてBMWに乗せられていた。

 鬼頭がBMWに乗り込むと、後部座席に座らされた根津は、顔を包帯でグルグル巻きにされたままウンウンと唸っていた。鬼頭は運転手の男に言った。

「おい、顔を確認したのか。間違いないだろうが念のため・・・うん? あれは鮫島のベンツだ。いけねえ、鮫島に見つかるとまずいことになる。とにかく、ここは急いでずらかるぞ」

 三台のBMWが駐車場から走り出ると、入れ違いに、前のバンパーが凹んだベンツが駐車場に滑り込んだ。


 岩井がエントランスホールの待合用の椅子に腰掛けて、頭から流れ出る血を指で拭っていると、目の前にハンカチが差し出された。顔を上げた岩井と、右手でハンカチを差し出し左手をポケットに突っ込んで、仏頂面をして岩井を見下ろしている鮫島の目が合った。岩井は素直にハンカチを受け取った。

 鮫島は頭の天辺から突き抜けてくるような甲高い声で尋ねた。

「おい、お前が連れて逃げた浅井孝輔はどうした」

「何だお前、さっきのやくざとは別口か? お前の言う浅井孝輔とやらはBMWに乗ったやくざが連れて行ったぜ。残念、一足遅かったな」

 鮫島の仏頂面がフッと緩んだ。

「そうか、鬼頭さんが捕まえたのか。それなら話が早いな、俺の首も繋がったぜ。なんにせよ、これでゆっくりと眠れる」

 鮫島の肩からスウッと力が抜けた。鮫島はじゃあなと言って歩き出そうとして、何かを思い出したように振り返った。

「この先の道路脇で看板にぶつかって止まっている銀色のレクサスはお前のだろう。そんなに大した事故じゃないように見えたが、案外酷い怪我だな。まあ、大事にしなよ」

 鮫島はそう言うと今度は振り返らずにエントランスホールを出て行った。

「オレのレクサスが事故・・・。あのふたり上手く逃げられたのかな。それにしても、まだローンが残っているんだぜ・・・」

 岩井はハンカチを頭の傷に当てながら大きくひとつため息を吐いた。


 三台のBMWは国道四号線沿いにある大きなショッピングモールの駐車場に入った。停車したBMWの後部座席で、鬼頭は隣に座っている根津に顔を向けた。

「浅井孝輔だな、素直に答えりゃ悪いようにはしないぜ。江渡神組の鮫島の所から持ち逃げしたヘロインをどこにやった」

「違う、俺は浅井孝輔じゃない」

 顔面を包帯で巻かれた根津はかすれた声で答えた。

 鬼頭はフンと鼻で笑うと、声を荒げた。

「何を言っていやがる、現に病院で俺たちから逃げたじゃねえか。関東白井会の崎田組の息が掛かっている地元のやくざまで使ってよ。しらばっくれるな」

「俺は逃げてなんかいない、この姿でベッドに寝ていただけだ。あのエレベーターの中に佐木田恵子が乗っていた。浅井孝輔も一緒だ。顔に包帯が巻かれているのをいいことに、すり替えられたんだ、地元のやくざとやらに一杯食わされたんだよ」

 鬼頭の顔色が変わった。

「何! あのエレベーターの中に崎田組の女組長がいたのか。それじゃあ、浅井孝輔は崎田組に・・・。こりゃあまずい、あれが崎田組の女組長の手に渡ったら大変なことになる。とにかくオヤジに報告だ、どやされるぞこれは・・・」

 鬼頭は二度も失敗をしている。極村泰道に何と言われるだろう考えた鬼頭の眉間に深いしわが刻まれた。

「分かっただろう、だから俺を解放してくれ」

「とにかくお前のツラを確認してからだ。浅井孝輔が嘘をついている可能性もあるからな」

 鬼頭が顎をしゃくると、BMWの外で待機していた梶尾がドアを開け、屈みこむようにして根津の顔の包帯を解いた。包帯の下から現れた根津の顔には、いたるところに深い切り傷があり、大きな出っ歯が唇から飛び出している。

 根津の顔を見た途端、梶尾が恐怖で引きつったような声を上げた。

「ウワッ、顔が融けて・・・歯が、歯があんなに飛び出している」

 梶尾が思わず口に手を当てると、指先がヌルリとしたものに触れた。鼻血が再び流れ出したのだ。指先に付いた真っ赤な血を見て、梶尾の口から悲鳴が迸った。

「ヒイイ、伝染病だ! あの医者の言ったことは本当だったんだ・・・助けてくれ・・・」

 梶尾は狂ったように突然走り出すと、洗面所はどこだと叫びながら姿を消した。


 孝輔の運転するレクサスは、遠巻市民病院の駐車場を出ると三百メートルも走らないうちに、道路脇の自動車教習所の看板に正面から突っ込んで止まった。

「ちょっと、よっちゃん、運転が下手過ぎない? あの自動車教習所の教習生の方がずっとましだったわよ」

「ダメだ、エンジンが掛らない。お母さん怪我は? 大丈夫? 良かった。とにかく降りてから逃げる方法を考えようよ」

「当り前よ、動かないのに、このまま乗ってても仕方ないじゃない」

 孝輔と恵子は動かなくなったレクサスから降りると、午後五時を過ぎて夕暮れが近づいてきた県道沿いの歩道をトボトボと歩いた。白いガードレールがふたりの前に延々と延びていて、日が落ちて薄暗くなった歩道の脇に等間隔で並ぶ街灯に灯がともった。ふたりの前には古ぼけた赤い看板が立っていて『ドライブインみちくさ』の文字が浮かび上がっている。

「ねえよっちゃん、お腹空いたね。晩御飯まだでしょう。あそこの『みちくさ』でラーメンでも食べましょうよ、ニラレバ炒め定食でもいいけど」

「道草だなんて、そんな呑気な、まだ追手から逃げきれていないんだよ。北へ、北のはずれ、竜飛岬へ向かわなきゃ」

 そう言った途端、孝輔のお腹がぐうと鳴った。

「そうはいっても、腹が減っては戦ができぬ。お母さんがニラレバ炒め定食なら、僕はレバニラ炒め定食の方にしようかな」

 恵子の顔が輝いた。

「よし、決まりね」

 『ドライブインみちくさ』の店内は、カウンター席の他にテーブル席が四つあり、壁には煮しめたような短冊が並んでいて、本当に作れるのかどうかも怪しいようなメニューまで書いてある。

 孝輔と恵子がテーブル席に座ってニラレバ炒め定食とレバニラ炒め定食を注文すると、カウンターの中の赤ら顔のオヤジは一言ヘイと答えた。五分後にふたりの前に出てきたのはモヤシ炒め定食だった。赤ら顔のオヤジは悪びれもせずに「ニラもレバーも切らしてまして」とだけボソリと言うと、カウンターの中に引っ込んでテレビのナイターを見ている。

 そのモヤシ炒めは絶品だった。

 孝輔と恵子が夢中でモヤシ炒め定食を食べていると、トラック運転手の男が店の中に入ってきてカウンター席に座った。男は五十代後半だろう、四角い顔に金壺眼がギョロリと光る恐ろしげな顔をしている。男は五目野菜ラーメンを頼んだ。孝輔が横目でチラリと見た限りでは、出てきたのはモヤシ炒めラーメンにしか見えない。モヤシ以外の具材の姿が見えないのだ。ひょっとすると麺すら入っていないかもしれない。赤ら顔のオヤジは「いろいろ切らしてまして」とだけボソリと言うと、またナイターを見始めた。

 孝輔と恵子がモヤシ炒め定食を食べ終わって店を出ると、モヤシ炒めラーメンを食べ終わった男が続いて店から出てきた。男は爪楊枝を使ってシーハーと音を立てながら、孝輔と恵子に近寄ってきた。恐ろしげな顔に人がよさそうな笑みが浮かんでいる。顔は怖いが良い人なのだろう。恵子は何かに気が付いたように、ジッと男の顔を見つめている。

「お兄さんたち、びっくりしたでしょう。ヘヘヘ、ここはね、何を頼んでもモヤシ炒めしか出てこないの。カレーライスを頼んでもモヤシ炒めだから筋金入りだね。でも、絶品だったでしょう。ここのモヤシ炒めを食べると、他所のモヤシ炒めは喰えないね。さて、そろそろ行くか」

 男は爪楊枝を咥えたまま、駐車場に止めてある大型トラックに向かって歩き出した。

「ねえ、よっちゃん。どこへ行くの?」

 恵子が男の背中に声を掛けた。男が怪訝な顔をして振り返った。

「よっちゃん? 儂の名前は津田昇造。誰かと人まちがいしていないかね」

 孝輔が慌てて恵子の肩に手を置いた。

「お母さん、また認知症が・・・。しっかりしてよ、よっちゃんは僕だよ。申し訳ありません、母は認知症で、時々おかしなことを口走るんです。気にしないでください」

 孝輔が神妙に頭を下げると、津田は笑顔を浮かべ、片手を上げて「それじゃあ」と言って大型トラックに乗り込んだ。

 恵子はボンヤリとした目で津田の背中を見ている。恵子には何かが見えているのかも知れない。

 辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていて、暗闇の海に浮かぶ孤島のように、ドライブインの周辺だけがボンヤリと明るい。孝輔と恵子が離れ小島のように点々と浮かぶ街灯の灯りを頼りに、再び県道沿いの歩道をトボトボと歩き始めると、ふたりの横に大型トラックが止まった。助手席の窓から身を乗り出すようにして津田が顔を出した。

「何だ、お兄さんたち歩きなの。お母さんの顔を見ると、何だかほっとけないな。どうする、乗っていく? 山形の酒谷港で荷物を載せてから新潟に向かうけど、適当なところで降ろしてあげるよ」

 暗闇の中で孝輔の顔がパッと輝いた。

「ありがとうございます。助かります」

「よかったね、よっちゃん、道草した甲斐があったわ」

 孝輔と恵子は津田に手を引かれるようにして大型トラックに乗り込んだ。恵子は運転席の後方にある寝台ベッドに横になり、孝輔が助手席に座った。寝台ベッドから顔を出した恵子が津田に声を掛けた。

「ねえ、よっちゃ・・・いや、津田さん。北のはずれ・・・竜飛岬へ行けるかしら」

 突拍子もない質問に、津田が首を捻る。

「竜飛岬? そうだな、酒谷市からなら国道七号線を北上して青森まで行けばいいじゃろうし、JRなら羽越本線で秋田まで行って、そこから奥羽本線かな。お母さんたちは竜飛岬に向かっているのかい。それなら途中の横手市で降ろしてあげようか」

 恵子は遠くを見るような目をすると、津田に向かってポツリと言った。

「いやねえ、お母さんとの約束を忘れちゃったの?」

「約束?」

 津田が不思議そうに聞き返した。孝輔が慌てて津田に弁解した。

「申し訳ありません、気にしないでください。お母さんは僕と津田さんを混同しているんです」

 孝輔が津田を見ると、津田は何かを考えているようにボンヤリと視線を宙に泳がせていた。

 約束という言葉を聞いて、津田の心臓がドクリと音を立てた。津田の目の前がスウッと暗くなった。

 ・・・忘れていた、そうだ、竜飛岬に行ってそれを見つけなければならない・・・それ?・・・それとは何だ?・・・儂はいったいどうしたんじゃろう・・・約束・・・指切り・・・誰と?・・・

 意識の奥底からもうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってきた。

『お母さんと約束したじゃないか』

 もうひとりの自分は静かにそう言うとスウッと消えた。

 津田はフッと我に返ると、孝輔と恵子に向かって言った。

「何でか分からんが、儂も一緒に竜飛岬へ行きたくなったよ。いや、行かにゃならん、約束?・・・不思議な気持ちだ・・・。よし、新潟で仕事を終えたら、儂がこのトラックで竜飛岬まで連れて行ってあげるよ。それまで、酒谷港にある儂のお兄の釣り船宿で待っとったらええ。うん、そうしよう」

 津田は吹っ切れたような笑顔を見せると、トラックのエンジンを掛けた。そんな津田を見て、恵子は静かに微笑んでいる。

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