天狗の森自然公園
遠巻ファームの応接室で孝輔と恵子は朝食を食べていた。メニューはいつもどおりの卵かけご飯と味噌汁だ。応接室の脇にある簡単な炊事場で恵子がご飯を炊いて、有り合わせの具材で味噌汁を作っている間に、孝輔が養鶏場から生みたての卵を手に入れてきたのだ。孝輔の左手の甲には鶏につつかれた痕があり、薄っすらと血が滲んでいる。
お茶碗を持った恵子が孝輔に話しかけた。
「ねえ、よっちゃん。真ちゃんも昨日の夜から姿が見えなくなったけど、どこへ行っちゃったんだろう。もうすぐ調査チームがくるんでしょう、お相手はよっちゃんがするの?」
味噌汁をズルズルと啜り込んだ孝輔が首を横に振った。
「僕に現地調査の案内なんてできないよ。そもそもオオクロ鷲の発見地点は近藤さんしか知らないんだから、お手上げだね」
孝輔は他人事のように言ってから、お茶碗の卵かけご飯をワサワサと掻き込んだ。
「そんな無責任な。遠巻ファームの従業員としての自覚はないの?」
「ないね、マッタクない。断言します」
孝輔はきっぱりと言うと、湯のみのお茶をガブリと飲んだ。恵子が呆れた顔で孝輔を見た。
「そうやってよっちゃんは子供の頃から・・・あら、誰かきたみたい」
遠巻ファームの事務所の正面に車の止まる音がした。孝輔と恵子が顔を見合わせていると、血相を変えた真一と近藤が慌ただしく応接室に駆け込んできた。
「お先に頂いています」
孝輔が間延びした声を掛けたが、真一と近藤は孝輔には目もくれず、応接室の奥にある大型冷蔵庫ほどもある古い金庫の前にしゃがみこんだ。近藤が慌ただしくダイヤル式の金庫の鍵を操作してロックを解除すると、真一が無言で金庫の扉を開けた。
孝輔と恵子はお茶碗とお箸を持ったまま、真一の後ろに立って何事かと身を乗り出して金庫の中を覗き込んでいる。恵子はほっぺたにお弁当まで付けている。
「真一、これだ」
近藤は金庫の中に手を入れると、茶色い紙封筒と革製の印鑑ケースを取り出して真一に見せた。真一はそれを見て頷くと素早く立ち上がった。真一の後ろから覆い被さるようにして覗き込んでいた孝輔は、持っていたお茶碗を落としそうになった。
真一はチラリと孝輔を一瞥してから、これまでとは別人のような冷たい声で言った。
「ああ、良夫さんたちまだ居たんだ。僕と近藤さんはこれから急用で出かけます。昼過ぎには戻ってこられると思いますので、それまで調査チームのお相手をお願いします。それじゃあ近藤さん急ぎましょう」
「そんな、真一さん、無茶ですよ」
孝輔の呼び掛けもむなしく、真一と近藤は振り返りもせずにバタバタと応接室から飛び出した。孝輔はお茶碗とお箸を持ったまま、呆然と真一の背中を見送るしかなかった。
「真ちゃんと近藤さんはいったい何をあんなに慌てているのかしら。朝御飯も食べずにお腹減ってないのかな。お味噌汁だってこんなにいっぱい作ったのに。よっちゃん、もう一杯いかが? それとも無茶、いや、お茶にする?」
「どうなっても知らないぞ。お母さん、お味噌汁お代わり!」
孝輔は憤然とお椀を突き出した。
午前九時三十分に遠巻市役所の杉森係長が文化庁の調査チームを連れて遠巻ファームに姿を見せた。調査チームの三人は雀の巣のようなボサボサの髪型で、真っ青な顔をして杉森係長の後ろをフラフラと歩いている。事務所の入口で出迎えた孝輔に向かって杉森係長が頭を下げた。
「いやあ、お忙しいところご面倒をお掛けして恐縮です。おや、近藤さんも剛田さんもいらっしゃらない? それは良かった・・・いえいえ、実は、調査チームの皆さんが少し体調を崩されていましてね、午前中は動けないとおっしゃるもんですから、どうしようかと思っていたんです。近藤さんと剛田さんは昼過ぎにはこちらに戻っていらっしゃる? ジャストタイミング。それじゃあ恐縮ですが、近藤さんと剛田さんがお戻りになるまで暫く中で休ませていただけますか」
杉森係長の話を聞いて孝輔の顔がパッと明るくなった。杉本係長の申し出は、孝輔にとっても渡りに船だ。孝輔は満面の笑みで調査チームを案内した。
「どうぞ、どうぞ。こちらとしてもその方が有難い。どうぞ中へ、ウプッ酒臭い。二日酔い・・・いや、体調不良はしばらく横になっていれば治りますよ。そうだ、お母さんの作ったお味噌汁があります。二日酔い・・・いや体調不良にはこれが一番です。さあさあ、どうぞ召し上がってください」
調査チームの三人は応接室のソファーに倒れ込むように座ると、恵子が差し出したお味噌汁を美味そうに飲んだ。恵子は三人の脇に立ってしきりにお代わりを勧めている。
杉森係長は調査チームの様子を確認してから、事務所の外に出てスマートフォンを取り出した。
「ああ、剛田社長ですか、市役所の杉森です。・・・ええ、三人とも二日酔いでダウンしています。え? 二日酔いだけじゃない?・・・ウヒヒ、そういや腰もフラフラですよ。ええ、調査は午後からということで・・・社長もこちらにいらっしゃる。分かりました、手配しておきます。・・・近藤さんも真一さんも姿が見えないんですが、昼過ぎには戻ってくると従業員が言っています・・・どこにいるか分かりません。・・・はい、それじゃあ、失礼します」
杉森係長はスマートフォンを切ると、何を想像したのか、もう一度ウヒヒと笑った。
真一の運転する軽トラックが盛岡地方法務局花巻支局の駐車場から出てきた。軽トラックの助手席には近藤が座っている。軽トラックは花巻市内を抜けて国道四号線に入ると、遠巻市に向かって南下した。遠巻市まで約四十キロ、車で小一時間の距離なので、昼過ぎには遠巻ファームに帰り着ける計算になる。
遠巻ファームの土地建物の所有権を真一名義に変更する手続が終わった近藤は、肩の荷が下りたようにほっとした顔で助手席に座っている。真一はハンドルを握りながらニヤニヤと笑っていた。
「真一、所有権移転手続きもスンナリと終ったし、これで一安心だね。後は、文化庁の調査チームにどう説明しようか。見間違いでしたと言って素直に謝った方がいいかな」
「それで許してくれますかねぇ、何しろ嘘をついていた訳ですから。朝のニュースでも流れちゃったし、文化庁の調査チームの面目丸つぶれじゃないですか。責任問題だなぁ」
真一は唇に冷笑を浮かべている。
「オイオイ真一、脅かさないでくれよ。『天狗の森自然公園』を守るためだ、知恵を貸してくれよ」
真一はジロリと近藤を見ると、冷ややかに言った。
「『天狗の森自然公園』を守るため? 自分の身を守るための間違いじゃないんですか」
「身を守るため? 真一、何を言っているんだ」
真一の態度の変化に近藤は戸惑っている。真一は近藤から視線をそらして、正面を向いたまま言った。
「近藤さん、知っているんですよ。あなたがなぜ『天狗の森自然公園』を必死になって守ろうとしているのか、なぜそうまでして開発を阻止しようとしているのか」
「馬鹿な、何を言っているんだ。自然保護のために決まっているじゃないか」
心なしか近藤の声が震えている。
真一がバカにしたようにフンと鼻で笑った。そして、狼狽えたような声を出した近藤に向かって、真一は唇に冷笑を浮かべたまま突き放すように言った。
「あなたの奥さん、近藤洋子の死体が埋まっているからでしょう。遠巻ファームの生活が嫌になって五年前に出て行ったきり音信不通だというのは嘘で、あなたが殺したんだ。そして『天狗の森自然公園』のどこかに死体を埋めた。開発されれば死体が発見されて殺人事件が明るみになる。だからあなたは必死になって『天狗の森自然公園』の開発に反対している。違いますか」
近藤の顔から血の気が引いた。近藤の唇がワナワナと震えている。
「君は何を・・・」
真一は容赦なく畳み掛けた。
「洋子は五年前、男と浮気をしていた。それを知ったあなたはカッとなって、思わず洋子に手を掛けた。洋子が息をしていないことに気付いたあなたは驚愕して、洋子の死体を『天狗の森自然公園』に運び、人知れず埋めた」
「・・・」
一言も発することのできない近藤は、両目をこれでもかと開いて真一を見ている。
真一の顔に邪悪な笑みが広がった。
「反論できないでしょう。僕がなぜそのことを知っているか分かりますか? 五年前に洋子が浮気をしていた相手は僕なんです。僕としてもそろそろ洋子と別れようと考えていたんですが、洋子がなかなかウンと言わなくてね。困っていたところに渡りに船であなたが手を下した。厄介払いができて、こっちがお礼を言いたいくらいですよ」
近藤の顔が一瞬朱に染まり、その後すぐに真っ青に変わった。
「お前が、お前が・・・」
近藤の身体がブルブルと震え、近藤は真一の首を絞めようと両腕を伸ばした。真一は右手でハンドルを持ったまま、左手で近藤の顔面を殴りつけた。ゴッという鈍い音がして近藤の唇が切れ、前歯が一本折れた。真一がもう一発殴ると、鼻骨が折れたのか鼻血が噴き出して近藤の顔面を赤黒く染めた。近藤は吹き出す鼻血を両手で掬うようにして俯くと、助手席で大人しくなった。
真一は近藤の様子を見てフンと鼻で笑った。
「今更じたばたしても無駄だ、大人しくしてろ。遠巻ファームの土地建物は俺の物になったから、有効に使わせてもらうぜ。これで『天狗の森自然公園』の開発許可が下りて、産業廃棄物処理施設が誘致できる。そうすりゃあでかい道路が通って周辺の土地に工場も建つし住宅もできる。剛田開発が持っている二束三文の土地はあっという間に値上がりだ。オレは大金持ちだよ。ハハハ、近藤さんよ、あんたの下でチマチマと農作業を手伝うふりをするのもこれまでだ、長かったぜ。おっと、お迎えだ」
真一はそう言うと、軽トラックを国道沿いの大型パチンコ店の立体駐車場に入れた。五階まで上ると、ガランとした広い駐車スペースに銀色のワンボックスカーが止まっていた。軽トラックがワンボックスカーの横に停車すると、ワンボックスカーの後部スライドドアが開いて、ふたりの男が降りた。ふたりの男は軽トラックの助手席のドアを開け、俯いている近藤を抱え上げるようにしてワンボックスカーの後部シートに押し込んだ。
「真一さん、終わりました」
男が真一に声を掛けると、真一は頷いた。
「俺はこれから遠巻ファームに戻って、文化庁の調査チームの相手をする。近藤が嘘をついていたことを暴露して調査は終わりだ。剛田開発はおやじを引退させて俺が跡を継ぐ。『天狗の森自然公園』の開発が始まって近藤洋子の死体が出てきたら、犯人の近藤を警察に引き渡す。それまで近藤は監禁しておく。洋子の死体を埋めている場所は、近藤を締め上げて吐かせておけ。手筈は分かったな」
真一の指示に、ふたりの男は無言で頷いた。
銀色のワンボックスカーは、真一の運転する軽トラックが出発してから十分後にパチンコ店の立体駐車場を出た。市街地を抜けて山道に入ったワンボックスカーは、くねくねとカーブの続く道を登る。前後を走る車も、対向車線をすれ違う車の姿もない。ワンボックスカーの後部シートに座り、俯いて両手で顔を覆ったままの近藤はピクリとも動かない。近藤の左右を挟むようにして座っている男たちは警戒を解き、窓の外を見たり腕を組んで目を瞑ったりしていた。
突然、近藤が身体を乗り出して右手で運転席の男の顔面を掻きむしり、左手でハンドルを掴むと思いきり左に回した。
ワンボックスカーは急ハンドルのために制御を失い、右側の前後輪が浮き上がると、そのまま横転して道路脇の杉の木に激突した。前面がグシャグシャに大破して原形をとどめないワンボックスカーの後部座席の割れた窓から、血まみれの近藤がノロノロと這い出た。
近藤がフラフラとワンボックスカーの残骸から離れると、ボンという音がして車体の下から炎が上がった。
真一の運転する軽トラックが遠巻ファームの事務所の前にある奇怪なオブジェのような大型トラクターの横に止まった。時刻はもう少しで午後一時になる。軽トラックの前には白のベンツが巨体をゆったりと横たえて、磨き抜かれたボディーは午後の陽光を柔らかに反射している。真一は康夫がきていることを知り、好都合だとばかりにニヤリと頬を歪めた。
真一が事務所の中に入ると、作業場に立ってオロオロとしていた杉森係長が、ホッとした顔で真一に駆け寄った。
「いやあ、真一さん、戻ってきて頂いて良かった。現地調査を始めようにも、遠巻ファームの残りのおふたりの従業員の方は全く役に立たなくて困っていたんです」
真一は儀礼のように笑顔を浮かべると、小さく頭を下げた。
「それは申し訳ない。何しろ採用して日が浅いものですから。調査チームの皆さんは中の応接室ですか。うちのおやじも顔を出しているんですね、まあ、その方が話は早い」
真一は杉森係長を引き連れて応接室の中に入った。
応接室では、ソファーに調査チームの三人と康夫が座って、昨夜の接待の話で盛り上がっていた。事務机の椅子には恵子が代表者のような顔をして座っていた。
一時間ほど前に康夫が応接室に姿を現してから、恵子の視線は何かを確認しているかのようにジッと康夫に注がれている。恵子の横では、孝輔がとぼけた顔をしてボンヤリと立っていた。
応接室の中の全員が真一の顔を見た。
「どうもお待たせしました。遠巻ファームの代表の剛田真一です。前代表の近藤耕作は今朝ほど退任しまして、僕が後を引き継ぎました」
調査チームと談笑していた康夫の、こぼれるような笑顔が一瞬で消えた。康夫は厳しい顔をして真一を見た。真一は康夫に向かってニヤリと笑い返した。
康夫の険のある声が響いた。
「真一、お前がここを引き継いだとは、どういうことだ」
真一は薄ら笑いを浮かべて、応接室の中央に進んだ。
「おやじ、慌てないで。筋道を立てて説明しますよ。近藤は『天狗の森自然公園』の保護運動を続けてきましたが、資金難でとうとう首が回らなくなりましてね。債権者からの追及が厳しくなって、ここを維持することが難しくなったんですよ。
それと、もうひとつ、近藤は『天狗の森自然公園』の保護運動がいまひとつ盛り上がらないことを自覚していて、このままでは開発が阻止できなくなると思ったんでしょう。そこで、国の特別天然記念物を利用して開発を阻止しようと考えて、オオクロ鷲を見たという嘘の情報を文化庁に持ち込んだんです。だが、文化庁から本当に調査チームがくるとは思っていなかった近藤は、嘘が発覚して自分に非難の矛先が向くのを恐れたんです。
ですから、僕が近藤から遠巻ファームの土地建物を買い上げて当分は生活に困らない金を渡し、オオクロ鷲に関する問題は遠巻ファームの代表として僕が責任を持って対応するということで、合意に至った訳です。ご理解いただけましたか」
噛んで含めるように説明する真一の声は穏やかだ。康夫の怒号が響く。
「真一! お前が遠巻ファームの土地を買い取っただと!」
「おやじ、大きな声を出さないで。昨日の夜に言っただろう、この土地はおやじには渡さないと。これで僕の念願だった産業廃棄物処理施設の誘致計画が進められる。文化庁の調査チームの皆さん、いま申し上げたとおり、オオクロ鷲を見たという情報は嘘なんです。わざわざご足労を頂いたのにこんなことになって申し訳ありません。遠巻ファームの代表として責任を痛感しています。現地調査の方は打ち切りとさせていただいて、当方には謝罪会見を開く用意もありますが、いかがいたしましょう」
真一は調査チームに向かって慇懃無礼に頭を下げた。
二日酔い・・・いや、体調不良からすっかり回復した文化庁の鴻池保護専門官は、真一の話を聞いても眉ひとつ動かすことなく、にこやかな顔を真一に向けた。
「謝罪会見なんてとんでもない、そんなものは不要ですよ。我々は与えられた任務を全うするのみです」
真一は顔を少し曇らせると鴻池保護専門官に尋ねた。
「任務を全うするとは?」
鴻池保護専門官の笑顔が大きくなった。
「現地調査を実施します。嘘の情報だった? そんなことは確認しないと分からないじゃないですか。開発を推進する立場の人が、開発に不利な情報を『あれは嘘の情報だ』というのは日常茶飯事でしてね。文化庁から派遣された我々としては、公正な立場で調査を行って結果を報告するだけです。報告の内容がどちらに有利不利なんて関係ありません」
鴻池保護専門官の隣に座っている帝都大学の佐野教授もにっこりと頷いた。
「鴻池保護専門官のおっしゃるとおりです。我々は常に公正公平な立場で調査に当たっています。ただ、我々も人間ですから、昨夜のような過分なご接待をご配慮頂いたとなると、ねえ・・・」
佐野教授は眼の前に座る日本野鳥保護連盟の板倉専務理事に笑いかけた。板倉専務理事は大きく頷いた。
「そう、そこはそれ人情というものがありますからなあ。やはり気を使っていただいた方にはどうしても肩入れしたくなります。あっ、事実を曲げるなんてことを言っている訳じゃありませんよ、そこは誤解しないで頂きたい。気持ち、気持ちの問題です」
調査チームの三人は顔を見合わせてグフフと笑った。真一は怪訝な表情を浮かべたまま凍り付いている。康夫の顔が悪代官におもねる悪徳商人越後屋のような邪悪な顔に変わった。康夫は三人に合わせるようにガハハと笑い、ウンウンと頷きながら言った。
「いや、おっしゃるとおり。人情、いい言葉ですなあ、儂も大好きです。四角四面では物事はうまく回りません。人情という潤滑油があって初めて物事は丸く収まる。今夜も趣向を凝らしたおもてなしを用意しておりますので、どうぞご期待ください。もちろん、あちらの方も・・・ウヒヒお好きですなぁ。
どうです、明日からの調査も、午前中はお身体を休めて頂いて午後から開始ということで・・・よしっ、決まりですな。それでは、これから簡単に現地調査をお願いして、三時におやつ、おやつを食べ終わったらそのまま市内の温泉旅館に向かっていただいて、温泉で汗を流してから暫時休憩、五時から遠巻名物のジビエ料理を召し上がっていただくと。その後はコンパニオンを呼んでパアッと盛り上がりましょう。不肖、剛田康夫、最後までお供しますぞ」
鴻池保護専門官が満面の笑みを浮かべた。佐野教授と板倉専務理事も満足そうに頷いている。
「さすが剛田社長、阿吽の呼吸が分かっていらっしゃる。それでは早速現地調査に向かいましょう。あ、足元の悪い所は勘弁してくださいね、買ったばかりの革靴なものですから」
鴻池保護専門官はそう言うとサッとソファーから立ち上った。
杉森係長の先導で調査チームの三人がぞろぞろと応接室を出て行った。唖然としている真一に向かって康夫が囁いた。
「分かっただろう、あいつら三人は文化庁の確認調査という名目で甘い汁を吸っているダニどもだ。特別天然記念物の情報が入ると、確認調査だと言って乗り込んできて地元の開発業者から金を貰って開発に有利な報告書を書いているのさ。あいつらもオオクロ鷲がここにいるなんて思っちゃいない。だが、あいつらにへそを曲げられて変な報告書を書かれて『天狗の森自然公園』の開発がストップすれば儂の計画がとん挫する。真一、とりあえず現地調査が終了するまでは手を握ろう。遠巻ファームの土地の件はその後だ、いいな」
「・・・分かった」
毒気を抜かれたような顔をしている真一は、康夫の声にコクリと頷いた。
康夫と真一が肩を並べて応接室を出て行くと、残された孝輔と恵子は思わず顔を見合わせた。何がどうなっているのかさっぱり分からない。
「ねえ、よっちゃん、キツネとタヌキの化かし合いって感じね。ひょっとしてみんな悪者? 真ちゃんのお父さんなんて、時代劇に出てくる越後屋みたいだし」
孝輔は腕組みをして顔を曇らせている。真一の豹変が納得できないのだろう。
「真一さんが産業廃棄物処理施設の誘致を計画していたとはね。ここの土地を手に入れるために近藤さんをずっと騙していたのか。近藤さんはどうしちゃったんだろう」
「殺されてたりして」
さらりと言った恵子の言葉が、孝輔の心にズンと響いた。それは、孝輔もうすうす考えていたことだ。
「そんな悪い冗談・・・とはいえないな。お母さん、とにかく僕たちも現地調査に付いて行こうよ」
孝輔はリュックサックを背負った。何か起こりそうな予感がするのだ。
「やあよ、お母さんサンダルなんだもん。足元の悪いとこには行けないわ。それに上着がないと山の中は寒いわよ」
孝輔は応接室の中をゴソゴソと探して、棚の上の段ボールの中に隠しているかのように仕舞い込まれていた遠巻ファームのロゴの入った女性用の赤いジャンパーと黄色いゴム長靴を持ってきた。何かに引き寄せられるように棚の上に手を伸ばしたことに、孝輔は気付いていない。
「お母さん、これどう?」
「あら可愛いじゃない、よし、現地調査に出発!」
恵子の声は、親子で遊園地にでも出かけるかのように明るい。能天気、いや、無邪気なのだ。
孝輔と恵子は調査チームの後を追って応接室を出た。
『天狗の森自然公園』の入口から半ば朽ち果てた丸木の遊歩道を二十分ほど歩くと、木々に囲まれたトンネルを抜けて小高い丘の上の広場に出る。広場の先にはコンクリート製の展望台が灯台のようにポツンと立っている。
広場は赤茶けた硬い土がむき出しのままで、所々に辛夷や桜の木が植えられていて、その木々を取り囲むように雑草が生えている。九月半ばを過ぎた山々はちらほらと紅葉が色づき始めて、辺りには柔らかな空気が満ちている。
広場の後ろは天狗山に続く渓谷が黒々と広がっており、反対側の広場の先は急斜面の断崖となっていて、断崖の手前に立っている展望台に上ると遠巻市内が一望できる。
杉森係長を先頭に調査チームの一行が展望台に上ると、崖の下からザアッという音と共に涼やかな風が吹き上がってきた。出遅れた孝輔と恵子はまだ遊歩道を歩いているのだろう、姿は見えない。
展望台の上で、杉森係長は調査チームの三人を相手に市内の概況を説明している。
「右手に見えるのが市役所の庁舎でその奥に並んでいるのが消防署と警察署です。中央の大きな建物が剛田開発株式会社の本社ビルで、左手に見えるのが遠巻城公園です。ああ、手すりに寄り掛からないでください、腐食していて危ないですから」
手すりを掴んで身を乗り出そうとしていた佐野教授が慌てて飛び退いた。
「佐野教授、どうしました」
板倉専務理事が笑いながら佐野教授に声を掛けた。佐野教授は驚いたような顔をして板倉専務理事を見た。
「いや、大きくて黒い鳥が羽を広げて滑空していたように見えたものですから、まさかと思いましてね」
「アハハ、佐野教授、ご冗談を。オオクロ鷲の生息南限は八甲田山系の南というのが定説ですよ。岩手県まで南下してくることはあり得ません。それにオオクロ鷲の獲物であるオオデバネズミもこの辺りには生息していませんしね。カラスですよカラス」
断言する板倉専務理事に佐野教授は苦笑いを返した。
「そうですよね、いあや、マッタク私としたことが・・・まだ酒が残っているのかな」
杉森係長の「そろそろ次に」という声を機に調査チーム一行は展望台を下りた。風化したコンクリート製の階段を下りて広場に出ると、流れる雲に陽光が遮られたのか、辺りがスウッと薄暗くなった。
康夫が空の雲を気にして天を仰いだとき、康夫の左肩にビシリと衝撃が走り、血が飛び散った。康夫が身体を捻りながら地面に倒れると、ダアーンという銃声がこだまを伴って遅れて響いてきた。辺りの木々から小鳥が一斉にザアッと飛び立った。
「おやじ!」
真一が跪いて康夫の肩を抱いた。康夫の左肩に当てた真一の掌の指の間から、真っ黒な鮮血が後から後から滲み出てくる。
真一が顔を上げて背後を振り向くと、広場の奥の木立から猟銃を構えた男がゆっくりと姿を現した。猟銃の銃口から青白い煙が薄っすらと立ち昇っている。
男の顔を見て真一が叫んだ。
「近藤! お前なぜここに!」
近藤は猟銃を腰だめに構えたままゆっくりと真一たちの所へ歩いている。近藤の上着やズボンは所々破れて黒い血の染みが一面に付いている。少し足を引きずりながらノロノロと歩く近藤は肩で息をしていて、顔面は乾いた鼻血のせいで真っ黒に汚れていた。真一の十メートル手前で近藤は止まった。近藤の顔は怒りと狂気で禍々しく歪んでいる。
近藤は腹の底から絞り出すような声を出した。
「真一、よくも私を騙してくれたな」
「近藤、いや近藤さん。誤解だ、話せば分かる。落ち着いてくれ」
真一の声は狼狽えたように震えている。
「誤解だと・・・何が誤解だ。私はお前を息子のように思っていた、一緒に働く仲間だと思っていた。自然を愛する仲間だと思っていた・・・」
「そうだよ、僕は近藤さんの仲間だよ。産業廃棄物処理施設の話も『天狗の森自然公園』を守るためにでっちあげた嘘なんだよ。処理施設なんて初めから造る気なんてないのさ、そう言っておけば他の開発業者は手を出さないだろう。僕はもうすぐ剛田開発の社長になる。そうなれば産業廃棄物処理施設の話は撤回しようと思っていたんだ。おやじが強硬に進めている産業廃棄物処理施設の計画を、僕が潰すにはそれしか方法がなかったんだ。近藤さん、信じてよ!」
近藤はゆっくりと首を横に振った。
「そんな嘘は信じない。それにお前は私を監禁しようとした」
「文化庁に嘘をついたことがバレたら、近藤さんが世間からバッシングを受ける。そんな姿を見たくなかったんだ。責任は僕が引き受ける、そう言ったじゃないか。だからほとぼりが冷めるまで、近藤さんには身を隠しておいてもらおうとしたんだよ」
「真一、お前は本当に洋子と・・・」
「あれも嘘だよ、そんなこと僕がするはずないじゃないか。洋子さんは何人もの男と浮気をしていた。僕はそれを知っていたが近藤さんには言えなかった。洋子さんの真実の姿を知れば近藤さんが悲しむ。だから洋子さんの浮気の相手は僕ひとりだと嘘をついたんだ、信じてほしい」
真一はそう言いながら、両手を肩の高さに上げて掌を見せた姿勢で、ジリジリと近藤に近づいた。近藤は真一が近づいてくるのを見て、イヤイヤをするように首を横に振りながら数歩後退った。
真一は声を潜めた。
「それに近藤さん、僕が剛田開発の社長になれば『天狗の森自然公園』は開発しない。約束するよ。そうなれば洋子さんの死体は発見されない。近藤さん、あなたは殺人罪に問われないんだ。さあ、そんな物騒なものは仕舞ってよ」
真一は近藤の数歩手前まで近づいた。近藤の構える猟銃の銃口は真一の胸の真ん中に向けられているが、猟銃を持つ近藤の手はブルブルと大きく震えている。
「近藤さん、さあ・・・」
真一が猟銃を掴もうと手を伸ばした。
宙を泳ぐようにキョロキョロと動いていた近藤の眼が、真一の肩越しの一点に釘付けになった。近藤の血走った目は恐怖で大きく開かれて瞳孔が光を失った。
近藤の視線の先には、大きな辛夷の木の下で、幹に手を掛けてボンヤリと近藤の方を見ている女の姿があった。遠巻ファームのロゴの入った赤いジャンパーを着て黄色い長靴を履いている。それは洋子が殺害されたときに身に着けていたもので、事務所の棚の上の段ボールの中に隠していたはずだった。
そして洋子はその大きな辛夷の木の根元に眠っている。
「洋子、ああ洋子、許してくれ洋子・・・殺すつもりはなかったんだ・・・お前が浮気なんかするから・・・私はお前を愛していたのに・・・殺すつもりは・・・許してくれ、洋子・・・」
近藤の注意が他に向いたことを覚った真一は猟銃の銃身を握ると、近藤の手から猟銃を奪おうとした。近藤は無意識に奪われまいと抵抗する。真一と近藤は互いに猟銃を掴んだままもみ合いになった。
ズドンという音がした。
真一は自分の胸に手をやり、真っ赤に染まった両掌を見ると信じられないという顔をしてドサリと地面に倒れた。
展望台の前で杉森係長に介抱されていた康夫が、叫び声をあげて杉森係長の手を払いのけた。康夫は「真一真一」とうわ言のように繰り返しながら這うようにして真一に近づくと、動かなくなった真一の頭を抱えて泣き出した。調査チームの三人は立ち竦んだまま動けない。佐野教授は口を開けたまま失禁していた。
近藤は地面に座って胡坐をかき、猟銃の銃口を自分の喉元に当てると引き金を引いた。
ズドンという音がした。
猟銃を抱えた近藤がゆっくりと後ろに倒れた。
遠巻ファームの事務所を出た孝輔と恵子は、調査チームの後を追って『天狗の森自然公園』に向かったが、公園の入口を抜けたときには調査チームの姿は既になかった。曲がりくねった遊歩道を進むうちに、孝輔と恵子は方向感覚を失った。分岐した歩道を闇雲に進み、雑草に埋もれた小道を上っていくと、ぽっかりと広い空間に出た。
「よっちゃん、良かった、何とか広場に出られたわ。ああ疲れた、山の中で行き倒れになるかと思ったわよ」
恵子はフウと大きく息を吐くと、目の前の大きな辛夷の木の下に立ち、幹に手をついて広場を見回した。孝輔は精も根も尽き果てたように恵子の足元にしゃがみこみ、辛夷の幹に背中を預けて肩で息をしている。
広場の反対側には展望台があり、その前に調査チームの一行が立っていた。老眼の恵子には誰が立っているのか判別できない。
遠くからダアーンという銃声がして、猟銃を持った男が木立から姿を現した。その男は若い男となにやら問答をしている。
猟銃を持った男が辛夷の木の下に立っている恵子に気付いた。男は驚いた顔をして恵子を見つめている。
やがてふたりの男がもみ合いになり、ズドンという銃声が二回響いた。
「ハアハア、お母さん、いまの音は何? 銃声みたいだったけど」
「遠くて良く見えないけど、何か大変なことになっているみたいよ。ねえ、よっちゃん、警察がくるんじゃないかしら」
警察と聞いて孝輔がガバッと身体を起こした。
「警察、そりゃまずい。とにかくこの場から逃げよう」
「そうね、誰もこっちに気付いていないみたいだし。逃げるが勝ちね」
能天気なふたりは、何かに導かれるようにここへきて、大きな役割を果たしたことに気付いていない。
孝輔と恵子は先程上ってきた小道を引き返した・・・はずだが、また道を間違えたらしい。孝輔と恵子の目の前には、急斜面の山肌に貼り付くように細いけもの道が続いている。右側は見上げるような急斜面で、左側はほぼ垂直に落ち込んだ断崖が続き、断崖の遥か下には木々の隙間から小さな川の青い水面が見える。
幅一メートルほどのけもの道をそろそろと歩いていると、前から男が歩いてくるのが見えた。孝輔はほっとした顔で恵子の方を振り返った。
「お母さん、人がくるよ、助かった。遠巻ファームに戻る道を聞こうよ」
恵子は首を傾げて男の顔を見ている。
「ねえ、よっちゃん、あの人・・・出っ歯でネズミみたいな顔・・・おでこに大きなほくろが・・・ひょっとして」
「えっ、あのときの殺人犯? お母さんの命を狙っている?」
すっかり忘れていた。ふたりは逃避行の最中なのだ。
「間違いないと思うわ、双子の兄弟かもしれないけど・・・」
根津は見る見るうちに孝輔と恵子に近づいた。黒い革手袋を嵌めた右手には刃渡り三十センチのサバイバルナイフが鈍い光を放っている。根津がニヤリと笑ったのだろう、出っ歯の露出が大きくなった。
「お母さん、逃げなきゃ!」
「よっちゃん、だめ。歩きすぎて、足がガクガクで走れないわ。そうだ、猫・・・どこかに猫はいないかしら」
恵子はキョロキョロと周囲を見回して猫を探している。
孝輔の心臓がドクリと音を立てた。激しい動悸が胸を打った。
「くそっ、心臓が・・・」
孝輔は胸に手を当てて大きく息をついた。ドクドクという血流の音が耳の奥でこだまする。意識の奥底から、もうひとりの自分がゆっくりと浮かび上がってくる。やがてそれは孝輔の意識と対峙すると、孝輔に向かって言った。
『お母さんを守れ』
孝輔の胸の中にポツンと灯った勇気の火が、見る見る大きな炎となって身体を包んだ。身体中に不思議な力がみなぎるようだ。
孝輔は顔を上げた。いつものとぼけた顔とは違う精悍な顔つきの孝輔が立っている。
「お母さんは僕が守る。よし、こい! 殺人犯」
孝輔はリュックサックに手を入れて裁ちばさみを掴みだした。
恵子を後に庇って根津と向かい合った孝輔は、右手に持った裁ちばさみをナイフのように構えた。根津は裁ちばさみを見て一瞬足を止め、それから無造作に間合いを詰めると、孝輔に向かって上段からサバイバルナイフを叩きつけた。
根津が振り下ろしたナイフを裁ちばさみで払いのけると、ガキッと音がして孝輔の目の前で火花が散った。根津は休む間もなく孝輔の腹を目掛けてナイフを突き出す。孝輔は咄嗟に後ろに下がろうとして背後にいた恵子とぶつかり、ふたりはもつれるようにして地面に倒れた。
ナイフを構えた根津がふたりをジッと見下ろしている。
孝輔は地面に倒れたまま裁ちばさみを構えて根津を睨み、ハアハアと肩で息をしている。根津の出っ歯がきらりと光った。
根津がナイフを振り上げて、止めを刺すために足を踏み出そうとしたとき、いつの間に現れたのか、恵子と同じ赤いジャンパーを着て黄色い長靴を履いた五十代くらいの女性が根津の前に立っていた。
ギョッとした根津が立ちすくんだ。
その女性は虚ろな目をして、まるで根津に気付かないかのように、顔を正面に向けたまま根津の横をすり抜けた。孝輔と恵子はその女性に気付いていない、いや、見えていないのだ。根津が女性の姿を追って首を回した。けもの道を下っているはずの女性の姿はどこにも見えなかった。根津の背中がゾワリと総毛だった。
根津は得体の知れない恐怖を感じて、ナイフをだらりと下げ、気が抜けたように無防備に立っている。引きつった根津の顔は、動物図鑑で紹介されたオオデバネズミの写真にそっくりだ。
はるか上空から音も立てずに滑空してきた黒い大きな影が根津に襲い掛かった。二本の脚に付いた鋭いカギ爪が根津の顔面を切り裂き、鋭いくちばしが根津の脳天に火の出るような一撃を浴びせた。根津はヒイイと叫びながら両腕を振り回し、黒い影を振り払おうと藻掻いた。黒い影が根津の頭部からふわりと離れると、体勢を崩した根津は路肩から足を踏み外して断崖を転がり落ちた。
根津の悲鳴が断崖にこだまする。
周囲に静寂が戻った。地面に倒れたまま、孝輔と恵子は呆然とした顔で空を見上げている。
「あいつ落ちちゃった。とにかく助かったみたいだ、お母さん怪我はない?」
「ねえ、よっちゃん、あれってオオクロ・・・」
「・・・鷲かなあ、専門家じゃないから分からないけど」
「絶対そうよ。何とかネズミが主食だって、何とか教授がお味噌汁を飲みながら言ってたもん。きっと、大きなネズミがいたと勘違いしたんじゃないかしら」
「そんな馬鹿な・・・」
黒い大きな影は翼を広げると、谷底から吹き上がる上昇気流に乗ってゆったりと舞い上がり、上空で大きな輪を描くと山の向こうへ消えた。




