遠巻ファーム2
孝輔と恵子は、遠巻ファームの応接室のソファーに座って、さっきから時計を気にしていた。応接室の壁に掛けられている古ぼけた時計の針は午後八時を回り、外は日が落ちて事務所は暗闇にどっぷりと浸かっている。闇が深まるに連れて、事務所の周りの草むらから潮騒のように絶え間のないギーギーという虫の声が大きくなっていく。
「ねえ、よっちゃん、近藤さんも真ちゃんも遅いわね。五時過ぎには帰ってくるって言ってたのに、もう八時を過ぎてるじゃない。ひょっとして、ふたりでこっそり何か美味しいものでも食べているのかしら」
「そんなことないと思うけど・・・集会が盛り上がっているんじゃないかな」
「一晩中みんなで輪になって踊り明かしたりして。近藤さんっていい歳なのに元気ねぇ」
「そんなことないと思うけど・・・。いずれにしてもこの時間じゃあ出発するのは無理だから、何か晩御飯を食べようよ。カップラーメンか何かないかな、僕がちょっと探してみるよ」
「そうね、お母さんお腹空いちゃった」
孝輔が応接室内のロッカーや冷蔵庫の中を覗いていると、遠巻市内から遠巻ファームに向かって延びる山道を登ってくる自動車のエンジン音が微かに伝わってきた。自動車のエンジン音は徐々に大きくなり、やがて遠巻ファームの入口のアーチ門から白いバンが入ってきた。白いバンはゆっくりとしたスピードで事務所に近づき、事務所の前にある奇怪なオブジェのような大型トラクターの横に止まった。
「お母さん、車の音がした。近藤さんと真一君が帰ってきたんじゃないかな」
「お寿司でも買ってきてくれたかなあ。よっちゃんはかっぱ巻きよね、お母さんは上握りがいいな」
「何で僕だけかっぱ巻きなの・・・」
孝輔が唇を尖らせたとき、ガシャンというガラスの割れる音とボンッという何かが爆発したような音が響き、その後に自動車が急発進する音が続いた。
孝輔と恵子は思わず顔を見合わせた。
「よっちゃん、今の音はなに?」
「ちょっと見てくる」
孝輔は応接室から走り出ると、広い作業場を抜けて事務所の外に飛び出した。火炎瓶が投げつけられたのだろう、事務所の外壁に火の手が上がっている。孝輔は咄嗟に作業場の中を見回した。応接室から漏れる灯りの下に赤い消火器が見えた。孝輔は消火器に向かって走りながら叫んだ。
「お母さん火事だ!裏口から事務所の外に逃げて!早く!」
恵子が驚いたような顔をして応接室から出てきた。
「火事?どこが?」
孝輔は消火器を掴むと、事務所の裏口を指差しながら怒鳴った。
「お母さん、とにかく裏口から逃げて!」
「よっちゃんはどうするの」
「これで消火できないかやってみる」
消火器を抱えた孝輔が事務所の外に走り出ると、孝輔の身長ほどの高さにまで達した炎が辺り一面を赤く染めていた。メラメラと上がる炎は、風を受けるとゴオッという音を立てて怪物のように大きくなっていく。木の焦げた臭いが鼻をつき、熱い煙が孝輔の顔を舐めた。顔が熱い・・・息ができない。孝輔はたまらずゴホゴホと咳をして、涙目になりながら消火器を構えた。中学校の消防訓練で見た消防士の顔がおぼろげに頭に浮かんできたが、何を教わったのか全く思い出せない。
噴射ホースを炎に向けてグリップを力いっぱい握ると、噴射ホースから吹き出す白い噴煙で一面が真っ白になった。消えたと思うやいなや白い噴煙の下から赤い炎が立ち上がる。孝輔の目の前で白と赤が絡み合い、互いに相手を飲み込もうとせめぎ合っている。消火剤の噴出する勢いが弱まりかけたとき、やっと炎の勢いも弱まり、事務所の外壁を覆う焼け焦げたトタン板が姿を現した。撒かれた油がまだ残っているのだろう、外壁の下部と地面には小さな炎がユラユラと蠢いている。孝輔は噴煙が出なくなった消火器を放り投げると、周囲を見回した。スコップがトラクターにもたれ掛かるように立っている。孝輔はスコップを手に取り、揺らめいている炎に向かって何度も土を掛けた。焼け焦げた臭いが鼻をつき、地面は熱を持ったオーブンのように孝輔の肌を焼いた。額から流れ落ちる汗が眼に入る。
どのくらい時間が経ったのだろう。汗だくになって、消え残った炎にスコップで土を掛け続けている孝輔の耳に、遠くから消防車のサイレンの音が聞こえてきた。
翌朝、遠巻警察署の留置場で一夜を明かした近藤と真一が遠巻ファームに帰ってきた。昨夜の火事は事務所の外壁のトタン板を何枚か焦がしただけで、大きな被害には至らなかった。焼け焦げた外壁のトタン板を見た近藤は、開発推進派の仕業だと言った。現場に残された証拠から火炎瓶による放火であることは明白だったが、遠巻警察署の捜査はおざなりな感じで終了し、最後に捜査主任が「犯人を特定するのは難しい」と高らかに宣言した。遠巻消防署は現場検証にすらきていない。
警察署の捜査員たちが引き上げて静かになった応接室で、近藤がため息をついた。
「剛田開発の剛田康夫が裏で糸を引いて、畠山組にやらせたに決まっているんだ。遠巻警察署の森山署長も開発推進派で、剛田開発から金を貰っているから、警察も動きやしない。捜査主任が言ったとおり犯人は捕まらないだろうな」
「開発推進派がなぜこの遠巻ファームに火を付けるんです?」
孝輔が尋ねた。近藤はうんと頷いてから話し出した。
「『天狗の森自然公園』は遠巻ファームから更に天狗山の奥に入った一帯に広がっていてね、遠巻市内から『天狗の森自然公園』に向かうには、遠巻ファームの敷地を通るしか道がないんだ。『天狗の森自然公園』を開発して産業廃棄物処理施設を造るためには開発許可がいる。大型車両が通行できる道路の確保ができなければ開発許可は下りない。だから開発推進派、いや、剛田康夫にとっては、遠巻ファームの土地が喉から手が出るほど欲しいのさ。畠山組を使って地上げをしようとあの手この手を使ってくる。今回の火事も、事務所が無くなれば私が諦めると思ったんだろう。それにしても、この程度のボヤで済んだのは良夫君のお陰だ。ありがとう、礼を言います」
近藤は孝輔に向かってぺこりと頭を下げた。孝輔は恐縮して頭を掻いた。
「いやあ、そんな・・・必死でしたから良く覚えていないんです。消防車の到着も早かったんで助かりました。でも、だれが一一九番通報したんだろう」
「私に決まっているじゃない。わ、た、し。よっちゃんはパニックになっていたから、冷静な私がここの電話から一一九番通報したのよ」
恵子は自分を指差して自慢げに言った。ホウという顔をして恵子を見ると、近藤は恵子に向かって頭を下げた。
「近藤さん、いいのよ、困ったときはお互い様。こうなったら乗り掛かったバスね、私もよっちゃんも遠巻の自然を守る会のお手伝いをするわ。ねえ、よっちゃん」
「乗り掛かった船だと思うけど・・・乗っていたバスには置いて行かれたんだ」
孝輔が唇を尖らせると、恵子はウフフと笑ってごまかした。
「よし決まりね。それよりもお腹が空いたわ、朝御飯まだでしょう。あれ、もしかして、朝御飯もう食べたっけ?」
近藤は頭を上げると顔をくしゃくしゃにして笑った。
「恵子さん、安心してください。みんなまだ朝御飯を食べていませんよ。よし、腹が減っては戦ができぬ、みんなで卵かけご飯にしますか」
「卵かけご飯は昨日食べたから、今日はハムエッグとトーストでも良いんだけど・・・」
相変わらず能天気な恵子の答えを聞いて、それまで暗い顔をしていた真一が吹っ切れたように白い歯をこぼしてニコリと笑った。恵子は何が可笑しいんだと言わんばかりに真一の顔を見ている。
遠巻ファームでの朝の収穫作業を終え、収穫した農作物を遠巻市内にあるスーパーマーケットや無人販売所に配送するため、真一と孝輔は軽トラックで出発した。近藤は焼けた外壁の応急処置に取り掛かり、恵子は応接室でテレビを見ながら留守番をしていた。
遠巻ファームの入口のアーチ門を抜けて、低いエンジン音を響かせながら銀色のレクサスセダンが入ってきた。焦げたトタン板を剥がしている近藤のすぐ後ろに停車したレクサスの、後部座席の窓のスモークガラスがゆっくりと下がり、サングラスをかけた岩井の萎びたヘチマ顔が現れた。取って付けた様なぎこちない笑顔が貼り付いている。岩井は顔に似合わぬ猫なで声を出した。
「よう、近藤さんよ、火事だって?大変だったらしいな。心配になったんで見舞いにきてやったぜ」
近藤は岩井の顔をチラッと横目で見ただけで返事もせず、黙々と作業を続けている。
「なんだよ、愛想がねえな。礼ぐらい言えよ」
近藤は大きなハンマーを持ったまま、これ以上我慢できないという表情で、岩井の方を振り返った。
「ふん、昨日の放火はお前たち畠山組の仕業だと分かっているんだ。見てのとおりボヤで済んだ、目論見が外れたな。用が済んだらさっさと帰れ」
「ウチの組の仕業だなんてとんだ濡れ衣だぜ。それより、近藤さんよ、遠巻ファームの土地を譲渡する話は考えてくれたかい。あの金額で売れりゃ、あんたの老後は安心だろう」
近藤は岩井を睨みつけた。
「老後の心配なんかしてもらわなくていい。この土地は絶対に売らない。帰って剛田康夫にそう言っとけ」
近藤はケンカ腰にそう言い放つと、用が済んだとばかりにくるりと背を向けた。
岩井の萎びたヘチマ顔が歪んだ。声音がスッと低くなる。
「オレは子供の使いじゃないんでね。今日は大人の話をさせてもらうぜ」
岩井が顎をしゃくると、レクサスの運転席と助手席のドアが開いて、プロレスラーのような分厚い胸板を持ったふたり組がのっそりと車から降りた。ふたり組は無表情のまま近藤にゆっくりと近づいた。
「何だお前たち、何するつもりだ」
近藤は手に持ったハンマーを振り上げようと身構えたが、ふたりの大男に両腕を掴まれ、そのまま担ぎ上げられた。近藤の手から離れて地面に落ちたハンマーがドスンと音を立てた。
「縛り上げて、猿轡をかまして後ろのトランクルームに放り込んどけ。後でオレがきっちりと話をつけてやる。それにウロウロされて文化庁からくる専門家とやらに余計なこと喋られちゃ迷惑だからな」
ふたりの大男に組み敷かれて縛られている近藤の姿を見ながら、岩井はレクサスの後部座席の窓のスモークガラスをゆっくりと上げた。
真一と孝輔の乗った軽トラックが遠巻ファームに帰ってきたのは昼過ぎだった。
ボヤの後片付けはそのままになっていて、近藤の姿が見えない。地面にポツンとハンマーが落ちている。真一は近藤を探して事務所の裏に回ったが、ビニールハウスにもその奥の畑にも近藤の姿はなかった。
孝輔が応接室に入ると、テレビを付けっぱなしにしたままで、恵子がソファーに座って寝ていた。孝輔は途中で買ってきた弁当をテーブルの上に置くと恵子の肩をゆすった。
「お母さん、起きて。昼御飯を買ってきたから食べよう、お腹空いたでしょう」
恵子は顔を上げてボンヤリと孝輔の顔を見た。
「あらよっちゃん、お帰りなさい。あら、もうこんな時間、お母さんお腹が空いちゃったな。あら、このお弁当美味しそう。頂いちゃってもいいかしら」
恵子はそう言うとテーブルの上に置いてあるお弁当を手に取った。釣られるように孝輔もお弁当に手を伸ばした。
孝輔と恵子が無邪気に弁当をぱくついていると、事務所の裏口から真一が顔を出した。真一は浮かない顔をしている。
「恵子さん、近藤さんがいないんだけど、どこへ行ったか知りませんか。午後四時に大事なお客さんがくる予定なんです」
「近藤さんいないの?お母さん全然気付かなかったなあ」
恵子の声には留守番の責任感が全く感じられない。
「お母さん寝てたじゃない。ねえ真一さん、大事なお客様って?」
「文化庁から派遣された調査チームが、明日からの現地調査の挨拶と事前打ち合わせを兼ねて近藤さんの元を尋ねてくることになっているんです。事前の準備が必要なのにどうしたんだろう」
真一の頭の中にはよからぬ想像がグルグルと渦を巻いている。
「真一さん、とにかく腹ごしらえしましょうよ。腹が減っては戦ができぬ。その上で近藤さんが帰ってくるのを待ちましょう」
「そうするしかないようですね」
真一は吹っ切れたようにテーブルの上の弁当を手に取った。
午後四時になっても近藤は姿を現さなかった。近藤が今日の約束を忘れることはあり得ない。真一は顔を曇らせ腕を組んで、応接室の中をウロウロと歩き回っていた。近藤の身に何か悪いことが起こったのではないかという思いで、居ても立っても居られないのだ。その横で孝輔と恵子は能天気にテレビを見ている。
遠巻ファームの入口のアーチ形の門を抜けて、二台のワンボックスカーと一台のテレビ中継車が入ってきた。車の音を聞いて真一は応接室から出ると、事務所の外に立って一行を出迎えた。真一の後ろに続いた孝輔と恵子はテレビ中継車を興味深げに眺めている。ワンボックスカーから降りた四人の男が真一の前に立つと、その中の遠巻市役所のネームの入った作業服を着た四十歳ぐらいの男が、真一に向かって名刺を差し出した。
「どうも、本日はお手数をお掛けしまして。私は遠巻市役所の環境保全課で係長をしています杉森です」
真一は名刺を受け取ると軽く頭を下げた。
「どうもご丁寧に、僕は遠巻ファームの従業員の剛田です。名刺は持っていませんのでご勘弁ください。申し訳ありませんが、代表の近藤はちょっと不在にしています」
杉森は頷くと横に並んでいる三人の男に眼を向けた。高級そうな背広を着て頭を七三にきっちりと分けた背の高い男が、真一に向かって軽く会釈をしてから、活舌の良い早口で自己紹介を始めた。
「文化庁文化財第三課の保護専門官の鴻池です。こちらは鳥類学者で帝都大学の佐野教授、こちらは公益社団法人日本野鳥保護連盟の板倉専務理事です。明日からの現地調査はこのメンバーで行います。オオクロ鷲の目撃情報を寄せられた近藤耕作さんには現地の案内をお願いします。近藤さんはご不在で?それじゃあ事前打ち合わせは無理かな。明日からは大丈夫でしょうね」
「ええ、もちろんです・・・たぶん」
真一はそう答えてから目を伏せた。今更現地調査の中止など言い出せないのだ。杉森係長の後ろから、テレビ局のレポーターが真一に声を掛けた。
「あのう、お話し中のところ申し訳ありません。岩手ニコニコテレビですが、明日の朝のニュースに使いますので、簡単なインタビューと映像を撮らせてもらっていいでしょうか。はい、それじゃあ皆さん並んでいただいて。あ、後ろにいる遠巻ファームの従業員の方もどうぞ」
遠巻ファームの事務所を背景にして調査チームと真一、孝輔、恵子が並ぶと、リポーターが文化庁の鴻池に向かってマイクを向け、カメラマンが撮影を始めた。
遠巻市内から車で十分ほど走った高台に、周囲を城壁のような高い塀で囲まれ、広い庭と大きな池を持つ広大な屋敷があった。母屋の柱や床には檜をふんだんに使い、大きな屋根の上では名古屋城の金のしゃちほこのような見事な飾り瓦が周囲を威圧するように青黒く光っている。剛田開発株式会社の剛田康夫社長の自宅だ。
康夫は書斎の椅子に座り、酔った頭でボンヤリと考えごとをしていた。小一時間前まで、文化庁から派遣されてきた三人の調査員を料亭で接待し、酒と料理をしこたま振舞った後で、十万円の入った封筒を忍ばせた菓子折りをお土産と称して三人に持たせてホテルに送り届けてきたところだった。今頃ホテルの三人の部屋には、康夫が手配したデリヘル嬢が顔を出しているはずだ。これから調査終了まで毎晩接待するとして、それに加えて開発に有利な調査報告書を書いてもらうには幾らぐらい渡せばいいだろう。
ノックもなしにいきなり書斎のドアが開いた。入口に真一が立っていた。
「真一か、珍しいな、いつ家に帰ったんだ」
「おやじ、近藤さんをどこに隠した」
真一の声は冷ややかだ。
「近藤?儂が知る訳ないじゃないか」
「おやじが知らない訳ないだろう、畠山組の岩井にやらせたのかい。近藤さんがいないと、明日からの現地調査に支障が出るんだ。返してもらうよ」
康夫はバカバカしいとばかりに顔を歪めると、吐き捨てるように言った。
「現地調査だと?調査員の三人は二日酔いで調査どころじゃないさ。やつらには儂が話をつける。調査なんぞ屁みたいなもんだ、放っておけばやつらが適当にやるさ」
「調査チームを買収するってことか、なるほどその手があったか。やることが汚いのは相変わらずだね」
「儂は目的を達成する為には手段を選ばん。覚えておけ」
「ふん、ひとつだけ言っておくよ、遠巻ファームの土地はおやじには渡さない」
真一はそう言うと康夫に背中を向けて書斎を出た。
遠巻市内から少し離れた造成中の住宅街にある一軒家の一室で、猿轡を嵌められて手足を縛られた近藤が椅子に座らされていた。近藤の前に置かれた椅子には、上下をジャージに着替えた岩井がだらしない姿で座り、時折片手に持った缶ビールを飲んでいる。近藤は怒りに燃えた目で岩井を睨みつけている。
「近藤さんよ、そんな怖い目で睨むのは止めてくれよ。オレはあんたが憎くてこんなことやっているんじゃないんだぜ。世の中の為だ。剛田開発の進める開発で喜ぶ人が大勢いるんだ、そこのところを分かって貰えないかね。あんたがウンと言ってくれりゃあ、それで万事解決するんだ。な、そうすりゃこんな乱暴なことしなくて済むんだよ」
真っ赤な顔をしてモガモガと口を動かす近藤を見て、岩井は近藤の猿轡を外しながら言った。
「近藤さんよ、猿轡を外してやるが大声を出しても無駄だぜ。ここはオレの女の家で、周りの宅地はまだ造成中だから近くに人は住んでないんだ。まあ、ここはひとつ腹を割って冷静に話をしようや」
手足を縛られたままの近藤は、噛みつきそうな顔をして岩井に食って掛かった。
「ゴホゴホ・・・何が冷静にだ。おい岩井、こんなことをして無事で済むと思っているのか」
「だから無事に済むように話し合おうって言ってるんじゃないか。それに近藤さんよ、あんたも暫く姿を隠していた方が都合がいいんじゃないのか」
近藤が眼を剝いた。
「どういう意味だ」
「明日から文化庁の現地調査が入るんだろう?あんた現地の立ち合いをするそうじゃないか」
「だから、私がいないと大事になるぞ」
岩井は身を乗り出すと、近藤の目を正面から見据えた。
「あんたが文化庁にオオクロ鷲が生息しているって情報を流したそうだが、それはガセだろう。開発を阻止しようと知恵を絞ったんだろうが、嘘ついちゃいけないな。あんただってまさか本当に文化庁から調査チームがくると思っていなかったんだろう?現地の立ち合いをしようにも案内できないはずだ。あんたは今更引っ込みも付かずどうしようかと思っていた。どうだ、図星だろう」
近藤はハッと息を呑んだ。視線が落ち着きなくキョロキョロとさまよっている。
「オオクロ鷲は確かにいる・・・」
近藤は絞り出すようにそう言うと、青い顔をして項垂れた。岩井は口の端を歪めて薄っすらと笑みを浮かべた。
「ふん、やけに声が小さくなったじゃねえか。自然保護団体が嘘の情報をでっちあげて開発を阻止しようとした、こりゃ大問題だ。だからもみ消しできないように、岩手ニコニコテレビに声を掛けて調査チームを取材させたんだ。朝のニュースで報道されたらみんなの注目が集まる、そうなりゃもう引っ込みがつかないぜ。さあ、どうする。ここは大人の取引といこうじゃないか。遠巻ファームの土地を渡しな。そうすりゃ岩手ニコニコテレビに手を回して、朝のニュース報道は止めさせる。調査チームもこっちで買収してやるから、何もなかったことにできる。あんたは金を貰って悠々自適の生活だ、お互い悪くない取引だろう」
畳み掛けるような岩井の声に、近藤の身体が空気の抜けた風船の様にしぼんでいく。近藤がかすれた声を出した。
「・・・考えさせてくれ」
「時間が無いんだよ。朝のニュースが流れればそれで終わり、それまでに・・・?」
岩井が話している最中に家が突然ミシリと揺れた。それに続いて玄関のドアが開き、廊下をドタドタと走る音が響いた。岩井が椅子から立ち上がるのと同時に、部屋のドアが乱暴に開き、黒い覆面を被った男たちが無言で部屋の中に雪崩れ込んできた。先頭の男が岩井の頭に向かって警棒のようなものを振り下ろすと、岩井はぐしゃりと崩れるようにその場に倒れた。床に倒れた岩井の頭部から流れ出た血が、黒い溶岩のようにゆっくりとカーペットに広がる。黒覆面の男たちは言葉を失っている近藤に猿轡を嵌めると、頭からすっぽりと袋を被せて目隠しをしてから、両脇に手を入れてふたりがかりで近藤の身体を持ち上げ、部屋から出て行った。
椅子に座らされた近藤の目隠しの袋がいきなり取り払われた。近藤がまぶしさに思わず目を閉じると、猿轡が外されて手足のロープも解かれた。近藤の前の椅子に誰かが座った。
「近藤さん、大変な目に遭いましたね。とにかく無事でよかった」
真一の声だった。近藤はゆっくりと目を開けて目の前の真一の顔を見た。
「ああ、真一、君が助けてくれたのか。ありがとう。ところで彼らはいったい?」
「ご心配なく、彼らは僕の知り合いですよ。近藤さんを助け出すために手を貸してくれたんです」
近藤が周囲を見回すと、既に黒覆面の男たちの姿は無く、部屋の中には真一と近藤しかいなかった。どこかのマンションの一室なのだろう、殺風景な部屋の中には真一と近藤が座るパイプ椅子があるだけで、家具らしきものはない。
「近藤さん、開発推進派は相当に焦っているようですね、こんな非常手段に出るなんて。でもよかった。近藤さんが遠巻ファームの土地を開発推進派に渡さなければ、やつら手も足も出ません。それに文化庁の調査でオオクロ鷲の生息が確認されれば、開発許可なんて絶対に下りませんから、そうなれば一安心ですね」
近藤は目を伏せると絞り出すような声で言った。
「ああ、真一、すまない・・・君に謝らなければならない」
近藤のただならぬ様子に真一は怪訝な顔をした。
「どうしたんです」
「実は、『天狗の森自然公園』でオオクロ鷲を見たというのは嘘なんだ。開発を何とか阻止しようと、つい嘘をついてしまった。自然保護の機運が高まれば良いと安易に考えていたんだが、文化庁から調査チームがくるとは思わなかったんだ」
真一が目を見張った。
「ええ!そんな・・・自然保護団体が嘘を吐いたとなれば、今後は自然保護運動に誰も賛同してくれなくなりますよ。そうなると何もかも終わりだ」
「本当に浅はかだった、すまない」
近藤はしょんぼりと肩を落とした。真一は椅子に座ったまま頭を抱えた。暫くそうしてから、ふと顔を上げた。
「そう言えば近藤さん、昨日、近藤さんが不在のときに、近藤さん宛に岩手地方裁判所から特別送達郵便が送られてきました。中は見ていませんが、あれは何ですか」
近藤がハッと顔を上げる。
「岩手地方裁判所?まさか・・・」
「まさかとは?」
「真一も、遠巻ファームが資金難だってことは知っているだろう。私が個人的な借入れで何とかやりくりしていたんだが、遠巻信用金庫からの資金融資がストップされて借入の返済が滞ってしまったんだよ。借入先からの債権取立て訴訟の提起か差押え予告の通知かもしれない」
真一が呆れたような声を出した。
「それじゃあ、遠巻ファームの土地が第三者に渡ってしまうってことじゃないですか。そうなれば開発推進派の思うつぼだ」
「すまない・・・」
近藤は消え入るような小さな声で真一に謝ると、肩をすぼめて首を垂れた。真一は天を仰いでしばらく目を瞑り、何か考えを巡らせている。そして「うん」とひとり頷くと目を開けた。真一の目に決意の光が宿っている。
「分かりました近藤さん、こうしましょう。これまでの僕たちの活動を無駄にしないためにも、『天狗の森自然公園』の自然を守るためにも、この方法しかない。遠巻ファームの土地建物の名義を僕に変更しましょう。形式上譲渡した形にして、登記名義を変更しておけば近藤さんの借入先は手が出せない。剛田開発や畠山組の岩井もさすがに僕を拉致することはしないでしょう。いいですね近藤さん」
ボンヤリとした目で真一を見た近藤は、静かに頷いた。
「分かった。真一の言うとおりにするよ」
「それじゃあ、これからすぐに遠巻ファームに戻りましょう。実印と登記関係書類は事務所にあるんですね?それをお借りして僕が必要書類を整えますよ。任せてください」
項垂れている近藤の肩に手を掛けて、真一は「この方法しかないんです」と何度も繰り返した。
ベッドの中でもぞもぞと身体を動かすと、ううんと寝ぼけた声を上げてネグリジェを着た女がベッドの上に起き上がった。女の傍らには見事な鮫の入れ墨をした大きな裸の背中が横たわっていて、女が起き上がってもピクリとも動かない。女はベッドから出ると居間に入ってテレビを付け、煙草をくわえてからキッチンに向かった。テレビから朝のニュースが流れてくる。ベッドで寝ていた鮫島は不機嫌そうに頭の天辺から抜けてくるような甲高い声を上げた。
「おい、うるせえぞ、ボリュームを下げろ。こっちは昨日も一日中走り回っていたんだ。ちっとは気を使え、まったく」
鮫島はブツブツ言いながらベッドの上に起き上がった。孝輔の行方を追って走り回っているが依然として手掛かりすらつかめない。極村泰道の死神のような顔がちらついて夜もよく眠れない。頭の中に真っ黒なタールが詰まっているようだ。鮫島はネットリと重たい身体を引きずるようにして居間に入り、ソファーに倒れ込んだ。目の下にはどす黒いクマができている。目頭を指で揉みながら下を向いている鮫島の耳にテレビのニュースが流れてきた。
『次に地方からの話題です。国の特別天然記念物のオオクロ鷲の新たな生息地が見つかるかも知れないということで、文化庁から調査チームが岩手県遠巻市に派遣されました。今日から現地調査が・・・』
「まったく、何がオオクロ鷲だ。呑気なもんだ、こっちは首が危ないってのによ・・・」
鮫島がテレビ画面に目をやると、遠巻ファームの事務所を背景にして調査チームと遠巻ファームの従業員が並んでいて、リポーターが文化庁の職員にマイクを向けて何かしゃべっている。テレビカメラに向かってにっこりと笑っているとぼけた顔の従業員は、どこかで見たような気がする。そう、あれは・・・。
「あれは孝輔だ!ヤロウこんな所に隠れてやがった!」
鮫島は思わず立ち上がると、久しぶりの笑顔を見せた。鮫島の笑顔は怒った顔よりも恐ろしい。キッチンからコーヒーカップを運んできた女は、鮫島の笑顔を見て思わずゾッとして立ち竦み、咥えていた煙草をポロリと落とした。




