遠巻ファーム1
鬼頭のスマートフォンに着信が入った。時刻は午後十時を少し過ぎている。鬼頭は行きつけの銀座のスナックのボックス席で、ホステス三人に囲まれて水割りを飲んでいた。鬼頭はホステスの肩に回していた手を外して、内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「鬼頭だ。・・・おう、見つかったか。さすがは警視庁、仕事が早いや。・・・うん、新宿のバスターミナルから・・・ふたり? 婆さんを連れていた? なんだそりゃ・・・そうか、青森駅前行ねぶた号、買ったチケットは青森駅前までだな、了解。青森駅前に到着するのは?・・・明日の朝八時三十分か、分かった。いまから車を飛ばせば追いつけるだろう。・・・じゃあな」
鬼頭はスマートフォンを切ると、素早く立ち上がった。着物姿のスナックのママの「まだいいじゃない」という声に渋い笑顔で答えた鬼頭の前に、カウンター席でタバコを吸っていたボディーガードが慌てて駆け寄ってきた。
「事務所に戻るぞ。お前、事務所に連絡して車三台と若いもんを五、六人用意させとけ。俺が戻ったらすぐに出発だ、明日の朝には片を付けるぞ」
鬼頭は早々に情報が入ったことに満足気で、いつもは眉間にしわを寄せて怒鳴りつけるボディーガードに向かって片頬を歪めてニヤリと笑顔を見せた。見慣れない鬼頭の笑顔を見たボディーガードは思わず一歩後退った。鬼頭は笑顔を浮かべたままで人を殺すことで有名なのだ。
東北自動車道を青森に向かって走るねぶた号は岩手県に入っていた。
運転手の柳田は岩手県に入り一関インターチェンジを通過したあたりから下腹に違和感を覚え始めた。やがてそれは直ぐにギリギリと差し込むような痛みと、グルグルと腸の中をガスが動き回る不気味な感触に変わった。間欠的に襲ってくる痛みに耐えながら、額に脂汗を浮かべて必死に運転していた柳田だったが、痛みの間隔はどんどん短くなってきた。このままでは大惨事まで後数分しか持たない。
頭の中がチリチリとした焦燥感でいっぱいになった柳田の目に『遠巻パーキングエリア』という案内板の緑色の文字が飛び込んできた。普段は高速バスが停車しない小さなパーキングエリアだが仕方ない。柳田はウインカーを出して遠巻パーキングエリアの進入路にねぶた号を乗り入れた。緩いカーブを回った先には普通自動車用の二十台分の駐車スペースがあり、その先に自動販売機が十台ほど並んでいた。
駐車スペースのラインを無視して斜めにねぶた号を停車させると、柳田は震える指で慌ただしくシートベルトを外した。ねぶた号の後部にある車内トイレに向かおうと柳田がバスの後方を振り向いたとき、寝ぼけ眼の乗客がフラフラと席を立って車内トイレに入った。ダメだ、待っている時間はない。柳田は脂汗の浮いた顔をバスの外に向けた。パーキングエリアの自動販売機の横で、トイレの表示灯が柳田に優しく手招きをするように光っている。柳田は乗降口の扉を開けてバスから飛び降りると、トイレに向かってよろよろと走った。
「よっちゃん、起きて。ねえ、よっちゃん、起きてってば」
肩を揺さぶられて孝輔は目が覚めた。バスは停車しているらしく、乗車中ずっと続いていた振動やエンジン音は止んで、辺りはシンとしている。うっと呻いて孝輔が頭を上げると、恵子が孝輔の顔を覗き込んでいた。
「お母さん、どうかした?」
「ねえ、よっちゃん、お母さんお腹空いちゃった。晩御飯まだ食べてないでしょう。ほら、あそこに自動販売機があるじゃない、カップラーメンでも食べようよ」
「バスに乗る前に待合室で晩御飯のお弁当を食べたじゃない、忘れちゃったの?」
「そうだっけ? いいじゃない、お腹空いちゃった。ほら、運転手さんもいないし、このバス暫く動かないよ。ねっ、その間に食べようよ」
恵子は手提鞄と巾着袋を手に持って早くも座席を立とうとしている。
「お母さん、荷物も持っていくの?」
「だって物騒じゃない、いない間に何か盗られちゃったら嫌だもん。ほら、よっちゃんも早く」
恵子にせかされた孝輔も、リュックサックを抱えるとしぶしぶ座席を立った。
「ありゃ、本当だ、運転手がいないし、乗降口の扉も開いたままだ。どうしちゃったんだろう」
孝輔はバスを降りながら首を傾げた。恵子は後ろからホレホレと声を掛けながら、孝輔の肩を押すようにしてバスを降りた。深夜のパーキングエリアにはねぶた号の他に停車している車はなく、外灯の丸い光が所々で寒々しくアスファルトに描かれた駐車スペースの白い線を浮かび上がらせている。
自動販売機エリアには、缶コーヒーやジュースなどの飲料の他に、カップラーメンや菓子パンの自動販売機もあった。自動販売機の横には遠巻ファーム無人野菜販売所の看板が掛かっていて、その前の台の上に売れ残りの萎びたキャベツが一個転がっている。自動販売機エリアと駐車場は透明のアクリル板で仕切られており、駐車スペースに向かって設けられたカウンター席には黄色いプラスチックの椅子が十脚並んでいる。孝輔と恵子はカウンター席に座って、自動販売機で買ったカップラーメンができあがるのを待っていた。
「うふふ、美味しそう。お店のラーメンも美味しいけど、最近のカップラーメンもなかなかのもんよね。あと一分・・・あら、よっちゃん、お箸がないわ」
「いけね・・・ああ、自動販売機の横にあるよ、僕が取ってくる」
孝輔が駐車スペースに背を向けて割りばしを取ろうと屈んでいるときに、トイレから出てきた柳田がズボンのベルトを締めながら大慌てでねぶた号に向かって走って行った。
「いけない、結構時間を喰っちまった。まったく、紙がないから、えらい目に・・・まあいいや、急がなきゃ」
晴れ晴れとした顔の柳田は運転席で帽子を被り直すと、軽やかにねぶた号を発進させた。
孝輔と恵子はカウンター席に並んで座って、黙々とカップラーメンを啜っている。孝輔は正面のアクリル板を透かして見える駐車スペースの風景に違和感を覚えながら、カップラーメンのスープをゴクリと飲んだ。醤油とんこつのスープがまったりと舌の上に残る。何かが違う? 何だろう。孝輔は考えながらもう一口スープを飲もうと容器に口を付けてから、思わずブホッと噴き出した。
「いない! バスがいない!・・・そんな馬鹿な・・・」
「イヤだ汚いじゃないの。ほら、ティッシュペーパー、鼻からスープが垂れてるわよ」
「お母さん、それどころじゃないよ、バスがいなくなっている」
孝輔はバスのいなくなった駐車場を指差した。恵子は、それがどうしたという顔をしている。
「よっちゃんがお箸を取りに行っている間に、運転手さんが走ってバスに戻って、それからすぐにバスは出発しちゃったわよ」
「そんな・・・それじゃあ僕たちバスに置いていかれたんじゃないか。お母さんそのときになぜ言わないの」
恵子がプッとふくれっ面を見せた。
「だってラーメンができるのを待っていたんだもん。ラーメンをここに置いて行けないでしょう。それより、よっちゃん、ほらティッシュペーパー。はやく拭きなさいよ」
言うべき言葉を失った孝輔は、恵子の差し出したティッシュペーパーを受け取ると、鼻の下に付いたスープを拭きとり、ついでに思わず目頭に滲んできた涙をぬぐった。
「これからどうしよう」
悲壮な声を出した孝輔に、恵子はあっけらかんとした声で答えた。
「なるようになるわよ。ああ、ラーメン美味しかった。朝になれば誰かくるんじゃない? その人に助けてもらおうよ。さて、ちょっとおトイレ」
恵子は椅子から降りると鼻歌を歌いながら女性用トイレに向かった。
孝輔は横目で恵子の姿を見送ってから、テーブル席に突っ伏して頭を抱えた。やっと東京から逃げ出したと思った矢先にこれだ。泣きたい気分なのだろう。なるようになるさ?・・・いやいや、なるようになりすぎだ!
翌朝午前五時三十分、周囲の山々の輪郭がくっきりと朝焼けの空に浮かび、山々が徐々に色を取り戻し始めると、ようやく辺りが明るくなってきた。どこからかけたたましい鳥の鳴き声が聞こえてきた。九月下旬とはいえこの時間帯は肌寒い。孝輔は寒気を覚えて目を開けた。テーブル席に突っ伏したまま眠っていたらしい。孝輔が頭を上げて周囲を見回すと、隣の席で恵子がボンヤリと外の駐車スペースを見ていた。
「お母さん、おはよう。どうしたの、眠れなかった?」
孝輔の声に恵子が驚いたように振り向いた。
「お母さん? 貴方だあれ? 私はなぜここに居るのかしら。それよりも、ここはどこ?」
孝輔の顎がガクンと外れた。呆れて開いた口が塞がらないのだ。
「ええっ! そんな・・・覚えていないの?・・・僕は孝輔・・・いや、よっちゃんだよ。お母さんの息子の良夫。昨日から一緒に逃げているんだよ」
恵子が目を見張った。
「貴方何を言っているの、息子の良夫は二十年前に死んじゃったわ。それに良夫はもっとハンサムだし、貴方なんて知らないわ・・・昨日から?・・・まさか、誘拐? 私は誘拐されちゃったの? 貴方は誘拐犯ね」
恵子は手に持った巾着袋を胸の前で握りしめると、大きな目で孝輔をじっと睨みつけた。
「誤解だよ、僕は誘拐犯なんかじゃないよ。昨日、新宿からバスに乗って、ふたりで一緒にここまで逃げてきたんだ。僕たちはやくざと殺人犯から逃げている途中なんだよ、思い出してよ」
オロオロと弁明する孝輔をよそに、恵子は周囲をキョロキョロと見回した。
「とにかく、警察に電話しなきゃ・・・公衆電話は・・・ないか。私は携帯電話を持っていないし・・・。ねえ、誘拐犯さん、貴方、携帯電話持っていない? ちょっと貸してくれないかしら、警察に電話するの」
「お母さん、ふざけてないで、頼むから思い出してよ」
孝輔が恵子の記憶を呼び起こそうと必死になっているところに、野菜がいっぱい入ったコンテナを乗せた台車を押しながら、若い男が自動販売機エリアに入ってきた。
背中に遠巻ファームというロゴの入った緑のジャンパーを着てジーンズをはいている。孝輔と同年代のすらりとした青年で、身長は孝輔よりも頭ひとつ高い。
孝輔と恵子に向かっておはようございますと声を掛けて、ニコリと笑うと浅黒い顔に白い歯がこぼれた。若い男はふたりに背を向けると、運んできた野菜を遠巻ファーム無人野菜販売所の台の上に並べ始めた。若い男は野菜を並べ終えて料金箱からお金を回収すると、台車を押して自動販売機エリアから出ようとして、ふと孝輔と恵子の方を見た。孝輔と恵子は無言で若い男を見つめている。
孝輔と若い男は同時に口を開いた。
「あのぅ・・・」
「何か・・・」
孝輔と若い男は思わず苦笑した。孝輔がもう一度口を開こうとしたとき、横から恵子が若い男に声を掛けた。
「ねえ、そこの貴方、携帯電話を持っていないかしら。持っていれば貸してほしいの、警察に電話しなきゃ。この人、誘拐犯なのよ。私は誘拐された人」
恵子は真面目な顔をして孝輔を指さし、次に自分を指さした。若い男は吃驚したような目で孝輔と恵子を見比べている。孝輔は慌てて手を振った。
「違う違う、誘拐なんかじゃない。この人・・・いや、お母さんは認知症なんです」
「何を言っているの、お母さん、認知した子供なんて・・・ん? 認知・・・あなたどこかで見たような」
恵子の頭の中で何かがピカリと光った。恵子は何かを思い出そうとするかのように、スッと目を瞑ると、ゆっくりと首を左右に振った。そして、スイッチが切り替わったかのようにパチッと目を開けた。
「・・・あらよっちゃん、おはよう。・・・ところで、この人だあれ?」
恵子は若い男を指差して首を傾げている。恵子の突然の変化に、若い男は目を白黒させている。孝輔は恵子の記憶が蘇ったことに安堵してフウッと息を吐いた。
「よかった、お母さんが戻ってきた。いや、驚かせてすみません、僕たち親子なんです。僕は佐木田良夫。よっちゃんと呼ばれています。こっちは母の恵子です。ご覧の通り母はちょっとここが・・・」
孝輔は恵子に見えないように素早く自分頭を指差して、指をクルクルと回した。若い男は「ああ」と頷いてから白い歯をこぼして笑った。
「僕は剛田真一といいます。遠巻ファームという農園でお手伝いをしながら農業を学んでいます。これはうちの野菜販売所なんです。安くて新鮮なんで良く売れるんですよ」
剛田真一は、孝輔と恵子にくるりと背中を向けると、ジャンパーの背中のロゴマークを見せた。
「ところで、おふたりは・・・車が見当たりませんが、どうやってここに?」
「いや、気が付きましたか。実は、青森行の高速バスに乗っていたんですが、休憩のときにバスを降りてカップラーメンを食べていたんです。そしたらバスに置いて行かれましてね。これからどうしようかと思っていたんです」
孝輔の説明を聞いた真一が首を捻った。
「青森行の高速バス? ここのパーキングエリアはご覧のとおり小さいので、高速バスは停車しませんよ」
「そうなんですか、それじゃあ昨日はなぜここで停車したんだろう・・・。いや、本当なんです、ほら、高速バスの乗車券。ね、嘘じゃないでしょう」
孝輔は慌ててズボンのポケットから高速バスの乗車券を掴み出した。くしゃくしゃの高速バスの乗車券を見て、真一はふうんと言った。
「まあ、理由はよく分かりませんが、とにかくここに置いて行かれたと。ところでこれからどうされます、さっきも言いましたが、ここで待っていてもバスはきませんよ。そうだな、下の一般道に出て近くのバス停まで送りましょうか。といっても、近くのバス停も一日に二本、朝と夜に路線バスが通るだけで、しかも行先は遠巻市内だしなあ」
思案顔の真一に向かって恵子が無邪気に声を掛けた。
「ねえ、真ちゃん、私、お腹が空いちゃった。遠巻ファームで朝御飯を食べたいな。目玉焼きと納豆とお味噌汁。卵かけご飯でもいいけど・・・」
真一は一瞬キョトンとした顔をしてから、ニッコリと笑った。白い歯がこぼれた。
「真ちゃん? ハハハ、恵子さん分かりました、ご馳走しましょう。ここで知り合ったのも何かの縁でしょう。どうせ遠巻市内に向かうんです、それじゃあ、ご一緒にどうぞ」
孝輔と恵子は荷物を持つと、真一の後について自動販売機エリアから外に出た。真一は空のコンテナを乗せた台車を押しながら、思い出したようにもう一度ハハハと笑い声をあげた。
遠巻市は岩手県の南部に位置する人口二万人の地方都市である。主な産業は農業と林業で、北上盆地のはずれの真昼山地の山間にあるため、冬の間は深い雪に閉ざされる。東北本線や東北新幹線などの鉄道が通っていないため、移動はもっぱら車か路線バスである。
真一の運転する軽トラックは孝輔と恵子を乗せて遠巻パーキングエリアを出発すると、遠巻市内を抜けて遠巻市を見下ろすように聳える天狗山に向かって延びる県道を走り、そこから未舗装の細い山道に入った。
細い山道をガタガタと揺られながら十分ほど登ると、ぽっかりと開けた高台の平地に出た。アーチ形の門をくぐると『歓迎 遠巻ファーム』と書かれた傾いた木の看板の先に、平屋建てのバラック小屋のような事務所があり、その後ろに大きなビニールハウスが建っている。ビニールハウスの奥には青々としたキャベツやレタスが整然と並んだ畑が広がっていた。
真一の運転する軽トラックは事務所の前にある奇怪なオブジェのような大型トラクターの横に止まった。大型トラクターには『遠巻の自然を守れ』『天狗の森自然公園の開発反対』と書かれた横断幕が掛けられていた。
真一に案内されて孝輔と恵子は事務所に入った。事務所の中は広い作業場があって、テーブルとパイプ椅子、集荷作業用の機械や段ボールなどが乱雑に並んでおり、その先にアルミサッシで仕切られた小さな応接室があった。
真一が事務所の中に入ってきたのを見て、応接室から胡麻塩頭をした六十歳くらいの男が出てきた。男も真一と同じ緑色のジャンパーを着ている。真一は手に持った集金袋を目の前に掲げた。
「近藤さん、戻りました。これ、今日の売り上げ。大漁です」
近藤と呼ばれた男は、二重瞼の大きな目を細めて真っ黒な顔をくしゃくしゃにして笑った。目尻には何本もの笑い皺が刻まれている。
「ああ、お疲れさん。ところで真一、後ろのおふたりは? 農業体験のお客さんかい?」
真一は顔の前でパタパタと手を横に振った。
「違いますよ。このおふたりは、なぜか分かりませんが遠巻パーキングエリアで高速バスから置いてきぼりにされて困っていたので、とりあえず連れてきました。佐木田良夫さんとお母さんの恵子さん。おふたりに朝御飯をご馳走する約束をしたんです」
「そうなの、目玉焼きと納豆とお味噌汁。卵かけご飯でもいいけど・・・」
「お母さん、そういうのはキチンとご挨拶してから・・・」
近藤は再び真っ黒な顔をくしゃくしゃにしてワハハと笑った。
「まあまあ、堅苦しいことは抜きにして。ウチの卵は新鮮だから、卵かけご飯にすると最高ですよ。納豆も自家製だし、好きなだけ召し上がってください」
孝輔は近藤に向かってぺこりと頭を下げた。恵子は「やったあ」と叫んで手に持った巾着袋をクルクルと回している。無邪気に喜ぶ恵子の姿を見て、真一がニッコリと白い歯をこぼした。
朝御飯をご馳走になった孝輔と恵子は、応接室の中にある粗末なソファーに座って食後のコーヒーを飲んでいた。孝輔たちの向かいの席に座った近藤と真一も、一緒にコーヒーを飲んでいる。卵かけご飯を三杯もお代わりした恵子はしきりに胃の辺りを擦っている。
「ねえ、よっちゃん。何だかお母さん胃の具合が悪いの。困ったわ、これじゃあ朝御飯を食べられないわ・・・そういや朝御飯まだかしら」
「お母さん、さっき朝御飯食べたでしょ。忘れちゃったの?」
「そうだっけ?」
恵子がポカンとした表情を浮かべた。孝輔が唇を尖らせた。
「お母さん、美味しい美味しいって卵かけご飯をパクパク食べたじゃない、しかも三杯も。しっかりしてよ。ね、真一さん、いつもこんな感じなんです」
真一は真面目な顔をして頷いた。恵子が認知症であることを確信したのだろう。近藤は孝輔と恵子のやり取りを聞いて顔をくしゃくしゃにしてワハハと笑った。近藤は恵子のことを、ちょっと変わったお婆さんとしか思っていないのだ。
真一は両手で抱えるようにして持っているコーヒーカップを、お茶会の席で茶碗を回すように手の中でクルクルと回しながら言った。
「良夫さん、これからどうされます? JRの駅まで車で送ってあげられますけど、これから午前の農作業なんで、動けるのは昼過ぎになりますが・・・あ、そうか、今日は抗議集会の日か、それじゃあ夜になっちゃうな」
「真一さん、僕たちは助けて頂いている立場ですから、真一さんの手の空いたときで構いません」
孝輔が神妙に頭を下げる。
「ねえ真ちゃん、抗議集会ってなに?」
恵子は首を傾げて真一を見た。口を開こうとした真一に向かって軽く手を上げた近藤が話し出した。先程までの笑顔と打って変わって、近藤の顔には真剣な色が浮かんでいる。
「私からお話ししましょう。表のトラクターに掛っている横断幕を見ましたか? 私と真一が中心になってやっている自然保護活動なんです。このファームの奥に広がっている『天狗の森自然公園』を開発して、産業廃棄物の処理施設兼投棄場所にしようという計画が持ち上がっていましてね。地元に金が落ちるし補助金も入ってくるから、財政難の遠巻市も賛成しているんです。トンデモナイ話です。『天狗の森自然公園』は国の特別天然記念物のオオクロ鷲が生息している貴重な自然公園で、しかも遠巻市にふんだんに湧き出ている地下水の水源でもあります。そんな所に産業廃棄物なんてバラまかれたら自分たちの首を絞めるようなものです。
だから、開発に断固反対する有志が立ち上がって抗議活動をしているんです。今日の午後は開発計画を中心となって進めている剛田開発という会社の前で抗議集会を開くのです」
「なるほど・・・ん? 剛田?・・・どこかで聞いたような」
孝輔が首を捻ると、真一が頷いた。
「剛田は僕の苗字ですよ。自然破壊を進めようとしている悪徳業者剛田開発株式会社は、僕のおやじが経営する会社なんです。おやじは剛田康夫、血も涙もない金の亡者ですよ」
真一は吐き捨てるように言った。
「親子の確執ね、テレビドラマみたい。それより近藤さん、この写真の女の人はだあれ?」
恵子は重苦しい話題には興味がないとばかりに軽く受け流すと、ソファーの横の机の上に伏せてあった写真立てを手に取って見ている。写真には今より少し若い近藤と中年の女性がにこやかな笑顔を浮かべて肩を並べていて、近藤は肩から猟銃を下げていた。
「ああ、それは私の妻の洋子ですよ。ここの貧乏生活が嫌になったんでしょう、五年前に出て行ったきりで音信不通なんです」
「へえ、近藤さんの奥さんってきれいな人。音信不通なんて近藤さんかわいそう。ねえ近藤さん、この写真に鉄砲が写っているけど・・・まさか夫婦げんかの末に、これで奥さんをバンなんて・・・」
恵子の失礼な発言に近藤は苦笑いを浮かべた。
「馬鹿なことを・・・私がそんなことする訳ないでしょう。ここら辺は鹿や猪が出て畑を荒らすので、駆除するのに猟銃免許を持っているんですよ」
近藤は恵子の手から写真立てを取り上げて、再び机の上に伏せた。音信不通の妻の顔を見るのは忍びないのだろう。
「浅井孝輔がいなかっただと! そんな馬鹿なことがあるか!」
JR青森駅前のロータリーに停車しているBMWの後部座席で、鬼頭が怒鳴り声を上げた。午前八時四十五分の青森駅前は冷たい空気に潮の香りが混じり、駅に向かって歩道を足早に歩く通勤客がBMWの横を通り過ぎていく。BMWのすぐ先には、遠巻パーキングエリアでの遅延を取り戻して、定時に青森駅前に到着した高速バス『ねぶた号』が止まっていた。乗客はすでに全員降車していて、バスの中に人影はない。
鬼頭から罵声を浴びせられた寺田が、BMWの横に困惑した顔で立っていた。
「俺たち六人でバスの乗降口の前に並んで、顔写真を見ながら、降りてくる乗客をひとりひとり確認しました。間違いありません」
寺田がそう言うと、寺田の後ろに控えている五人がそうだとばかりに頷いた。
「婆さんも一緒だという情報だったが、婆さんはいなかったのか」
寺田は後ろの五人と顔を見合わせて再確認してから首を横に振った。
「そんな年寄りも乗っていませんでした」
鬼頭は端正な顔を歪めて首を傾げた。
「どうなっているんだ・・・。警視庁の情報がガセネタだったってことか、信じられん。おい、バスの運転手を連れてこい。締め上げてやる」
寺田たちに囲まれたバスの運転手の柳田が、鬼頭の待つBMWに向かってヨロヨロと歩いている。柳田の顔面は死人のように蒼白で、恐怖に身体を震わせている。
鬼頭は極村泰道の怒り狂った顔を想像して胃がキリキリと痛んだ。
剛田開発株式会社の鉄筋コンクリート造り五階建ての本社ビルは、遠巻市内の中央を走る通称天狗通りと呼ばれる大通りに面した一等地に建っていた。本社ビル四階の社長室からは天狗山が一望できる。そろそろ紅葉が色づき始めた天狗山の山腹は、まだら模様のタペストリーが掛けられているようだ。そして、あと二月もすれば天狗山は白銀の世界に変わる。
社長室の窓から外を眺めていた剛田康夫の耳に、遠巻の自然を守る会が開催する集会の参加者たちが上げる「開発反対」の声が響いてきた。康夫の眉間に深いしわが刻まれた。
「うるさいやつらだ。開発反対ばかりお経のように繰り返して何が楽しいのかね。やつらの気が知れんわ」
康夫は吐き捨てるように言うと、くるりと後ろを向いて社長室の応接セットに座っている男たちを見た。男たちはそうだとばかりに一斉に頷いた。康夫はビヤ樽のような腹をゆすりながら応接セットのソファーに座ると、まるまると太った人差し指を、正面に座っている警察の制服を着た男に向けた。
「反対集会を解散させろ。集会の開催には市も警察も許可を出していないんだろう、無許可集会じゃないか、警察は何をやっとるんだ。森山署長、部下に早く指示しろ」
遠巻警察署の森山浩司署長は、康夫の威圧的な口調に動じるそぶりも見せずに穏やかな声で返した。
「剛田さん、いいのですか? 御子息の真一さんが反対集会に参加しているのでしょう。解散の警告に従わない場合は逮捕することになりますよ。それがあるので警察としては様子を見ているんですがね」
康夫が忌々しげにチッと舌打ちをした。
「真一か、あのバカ息子。親の気も知らんで・・・構わん、一日ぐらい留置場に放り込まれりゃ目が覚めるじゃろう」
森山署長は頷くと、スマートフォンを取り出した。
「ああ、森山だ。反対集会に解散するよう警告措置だ。従わない場合は逮捕しろ。・・・うん、構わんそうだ。ただし、真一さんだけは手荒には扱うなよ・・・了解」
森山署長はスマートフォンを切ると康夫に言った。
「剛田さん、指示しました。でも、単なる無許可集会ですから、逮捕されたとしても調書を取って注意したら、明日の朝には解放ですよ」
康夫はまるまると太った人差し指を、右に座っている紫色のスーツを着た男に向けた。男は萎びたヘチマのような貧相な顔にサングラスをかけ、登り竜が描かれたド派手なネクタイをしている。
「岩井、遠巻ファームの土地の地上げはどうなっているんだ。お前は畠山組の幹部だろう、責任もってケリを付けろよ。あそこの土地が手に入らないと、その奥の『天狗の森自然公園』に繋がる道路が確保できないんだぞ」
地元の暴力団畠山組の岩井健吉は、サングラスを外してハンカチで拭きながら言った。
「康夫さん、分かってますって。うちの組の若いもんにやらせてますから、もうちょっと待ってくださいよ。いざとなればオレが出て話をつけますよ」
「遠巻信用金庫にもこっちから手を回して資金融資はストップさせているから、近藤は資金繰りに困っているはずだ。破産なんていう話になったら弁護士が入ってきて厄介だから、いまのうちにさっさとケリをつけろ。建物が先にぶっ壊れば話が早いんだがな」
「なるほど、建物がなくなれば近藤もお手上げだ。いっそ火でもつけますか」
岩井は物騒なことを平然と口にすると、ヘチマのような顔を歪めてヒヒヒと笑った。
康夫はまるまると太った人差し指を、左に座っている市役所のネームの入った作業服を着た男に向けた。
「山本助役、『天狗の森自然公園』の開発許可はどうなっているんだ。遠巻市のほうで国や県と調整すると言ったきり音沙汰がないぞ。遠巻ファームの土地の地上げが終われば、すぐに開発許可をもらって開発に取り掛かりたいんだ。根回しは終わっているのか」
遠巻市役所の山本道治助役は、禿げ上がったおでこに汗を浮かべながら言った。
「遠巻市から国と県の関係部署には話を上げています。国会議員の村田先生と県議会議員の西口先生からも声を掛けて頂いていますので、道路が確保できればすぐに開発許可は下りるでしょう。問題は・・・」
康夫は脂ぎった顔で山本助役の顔を睨みつけた。
「問題は?・・・何だ、何かあるのか」
山本助役は禿げ上がったおでこをハンカチで拭きながらチラリと康夫を見た。
「遠巻の自然を守る会から文化庁に、国の特別天然記念物に指定されているオオクロ鷲が『天狗の森自然公園』に生息しているという情報が寄せられましてね。特別天然記念物を所管する文化庁から遠巻市に照会があったんです。特別天然記念物のオオクロ鷲が生息しているとなると『天狗の森自然公園』の開発行為なんて話は全部吹っ飛んでしまいますから、市としては未確認だと回答したんですが・・・」
「回答してどうなったんだ」
「それが、文化庁から、専門家の先生方による現地調査を実施するって言ってきたんです」
ソファーに身体を預けて山本助役の話を聞いていた康夫が、思わずガバッと身を乗り出した。よほど驚いたのだろう。
「専門家の現地調査だと! それはいつだ」
「それが、来週の月曜日から一週間の予定でして」
康夫はウウムと呻き声を上げて天井を見上げた。
「明後日じゃないか。そんなに急に・・・。そもそも、『天狗の森自然公園』にオオクロ鷲なんているのか。儂はここの生まれだが、そんな話は聞いたことないぞ」
山本助役もそうだと頷いた。
「オオクロ鷲の生息域はもっと北の八甲田山系の方なんですよ、ですから遠巻市としては未確認だと。まあ、相手は鳥ですからこっちに飛んでくることはあるかも知れませんがね。遠巻ファームの近藤が見たと言っているだけですよ」
康夫は、遠巻警察署の森山署長、暴力団畠山組の岩井、遠巻市役所の山本助役の顔をゆっくりと見回してから、低い声で呟いた。
「遠巻ファームの近藤には暫く消えて貰わなきゃならんだろうな」
森山署長と山本助役は何も聞こえなかったように無反応を装い、岩井だけが無言で頷いた。




