おかえり
その日は朝からセルジュに行って準備に没頭した。
店長はもちろんハヤシライスの仕込み。僕もレシピを一通り見て、ある程度は把握してる。また後日、詳しい作り方を教えてもらう予定だ。
徹さんは付け合わせのサラダやデザートの準備。試食会のみで普段ほどの量は作らなくていいものの、事前にしておくべきことはそれなりに多い。
僕と沙織で会場の設営。ほとんどいじらなくてもいいし、懐古という目的上過剰な装飾はむしろ邪魔にすらなる。となると残るはテーブルの配置くらいのもので、これだって昔からそう多くが変わったわけでもない。
それでも、やった。時間をかけて、じっくりと丁寧に。
テーブルを拭くたび、窓を拭くたび、少しずつセルジュを「変えている」ような感覚に襲われる。それは当時に帰してくれるような郷愁と、今必死に店を支えてくれている店長への罪悪感を僕にもたらした。
それでも、少しも手抜きをせずに、ただただ楽しんでほしいなと……いいや、楽しみたいな、と。
たった四人とはいえ、みんなで何か一つのことをを成し遂げる時の一体感というのは、癖になる心地良さがある。それは部活で成果を残すのとは違うものがあるらしく、沙織の顔にも以前とは違うものが浮かんでいた。
時間にしておよそ二時間。準備はおおよそ済んで、あとは「お客様」を迎えるばかり。
「やっとここまでこぎつけたなぁ」
「ですね。店長はもう味見したんですよね」
「ああ。さすがに私がしないわけにもいかないしな」
「……どう、でした?」
「そこはもう、信じてくれとしか言えんな」
「そうですか」
じゃあ、信じよう。店長を疑ったことなんてない。
お母さんのレシピを見つけた以上、店長が数年かけて続けてきた試行錯誤が、ある意味では無駄になった形になる。それでも彼女はそれを一切嘆いたりしなかったし、むしろそれ以上に喜んでくれた。
セルジュの為に、人生を懸けてくれている。誇張でもなんでもない、事実として。
そんな人を信じられないわけがない。
「早く綾人に食べさせてやりたいよ。綾芽にもな」
「きっと、来てくれますよ」
「そーそー、とってもいい子なので」
「沙織」
「今からそんな眉間にしわ寄せてたら、楽しめるものも楽しめないですよー」
「……まぁ、そうだな」
応じるように、徹さんが店長の肩に手を回す。その顔を見上げて、彼女は彼の肩に頭を預けた。
それをまた変に羨ましがったのか、隣の沙織が横目で催促をしてくるものだから。
「真似するなよ」
「だってうらやましい」
……とりあえず、楽しい試食会になりそうだなぁ、なんて笑みが浮かぶのだった。
お客さんが一人また一人と集まるたび、少しずつ店内が賑わっていく。開催時間まではまだ少しあって、それまでは料理の提供はしない予定だ。
誰も彼も、見た覚えのある人ばかり。基本的には大人ばかりだけど、それでも彼らは僕に気安い笑顔で接してくれる。今も昔も、セルジュを愛してくれた人たち。お母さんを、好きでいてくれた人たち。
一人二人くらいは、僕らと近しい歳の人もいる。「よぉ」と声をかけられたから、「うん」と答えた。
僕と沙織で水を配るうち、また新たな来店があった。ドアベルを鳴らして現れたのは、綾瀬家と衣縫家の一同。もちろんぐるみと、あやの姿も。
「来たなー」
「沙織……意外と制服合ってるな」
「まーね。ぐるみ、ごめんけどあーやこっちね」
「はぁい。わたしはお父さんお母さんたちと一緒にいるねぇ」
「あ? あんだよ」
沙織に手を引かれたあやが、カウンター席に腰掛ける。訝しげに眉根を寄せて沙織をにらむその横から、僕はトレーに載ったコップの水を差し出した。
「おー。さんきゅ」
「店長と沙織が、僕と並んで食べてるとこが見たいんだって」
「……あー。いらんことすんなぁ、お前も」
「いーじゃん。そうだったんでしょ?」
「まー、否定はしねーけど」
それに倣うかのように、立ち話に興じていたお客さんたちがぞろぞろと席についていく。
キッチンから漂ってくるデミグラスソースの芳醇な香り。トマトとぶどう、肉と野菜、ブイヨンも。それなのにどこか爽やかさを感じさせる、あの日の香り。
どこか遠くを見遣るあやの隣に、僕はゆっくり腰掛けた。
「……ここだったな、前も」
「うん」
あの時もこの席に、僕らは並んで座っていた。カウンター越しのお母さんが、「どうぞ」って優しい笑みを浮かべて、二人分のハヤシライスを差し出してくれた。時折ぐるみも混じってはいたけれど、やっぱり僕らは姉弟で、家族だった。
無言のまま、ただ水だけを飲んで僕らは過ごした。カウンター越しの沙織は、カチャカチャと食器を洗いながらわずかに口元を緩めていて――
「そういや二人ん時は、カウンターに誰も来なかったな」
「そうだね。常連同士、相席してまで」
「余計なお世話だっつーのに」
そう言いながらも、あやの口元も同じように笑っている。
やがて、試食会が始まった。
本来であれば、店員である僕は給仕する側。盛り付けられたハヤシライスやその付け合わせを、みんなに届けなくちゃいけない。けれど店長に「座ってろ」と言われた以上、それに従うのもまた僕の務めだ。
料理は、店長と沙織の手によって各テーブルに届けられていく。色んな人、色んな家族――衣縫家のテーブルにも、綾瀬家のテーブルにも、それが届けられた。ハヤシライスと、自家製ドレッシングのサラダと、ドリンクにはお茶かぶどうジュースの二種類を。
そして、僕らの前にも。カウンター越しに優しい笑みを浮かべる、店長の手で。
「さ、召し上がれ」
あの日のお母さんと、同じ言葉で。
僕らは「いただきます」と声をそろえて、スプーンを手に取った。
――どうしてだろう。震えてしまう。
どうしてだろう。動悸がする。待ち望んだ瞬間なのに、ずっと食べたかったものが目の前にあるのに。
僕はどうしても居たたまれなくなって、隣を見た。ライスとルーがほんの少しずつよそわれたスプーンは、あやの胸元辺りで泳いでいた。
ちらり。同じように横を見た彼女と、一瞬だけ目が合う。
僕らはそろってスプーンを口元にやり、それを頬張った。
広がる甘味とまろやかな酸味。フルーティな風味と深いコク。解けるような牛肉と、かすかに感じる爽やかな香り。それがご飯にうまく絡んで、ほんの数回の咀嚼で口の中から消えてしまうのに、その全てがどこか後引くような。
――あの日の、味。お母さんが作った、あのハヤシライスの味が、そこにあった。
僕は二口目を、三口目を、続けざまに頬張った。次も、次も、夢中になって。隣を見るまでもなく、あやもそうしているとわかった。
箸休めにサラダを挟んで、お茶を飲み、またハヤシライスを。
そこで僕は、あやを見た。
無言のままハヤシライスを頬張っていた彼女は、スプーンをくわえたまま動かなくなっていた。どのくらいそうしていたのか、やがてスプーンを離すと、その唇がわずかに震えて――
いつぶりだろう。覚えがないくらいだ。
あやは、静かに涙を流していた。唇を、喉を震わせて、息を浅く吐きながら。
口の中に後引くその味と、彼女のその「有様」に、喉の奥が熱くなる。目の奥が、滲むように。
いつぶりだろう。覚えがないくらいだ。
考えてみればそうだった。あやが泣いているのを見たことがないのは、たぶん僕が泣いているのを見たことがないからだ。あまりの衝撃に心を手放した僕に、彼女は自分が涙を見せまいと泣くことをやめた。
僕らはまだまだ子どもで、きっとそうすることでしか耐えられなかったから。
子どものように声を震わせながら泣く僕の頭を、そっとかき抱く柔らかな温もり。確かめるまでもなく、それが沙織の胸の中だとわかった。
きっと隣では、ぐるみがあやのことをそうしているんだと思う。
僕らは運がいい。こんな時、こんなふうに寄り添ってくれる人がいる。お母さんがいなくなって、僕らはそれでもお母さんを想って泣くことすらできずにいたのに。長い間滞っていたものが、わだかまっていたものが、凍っていたものが、そこに溶け出してしまうように。
さら、と僕の頭を撫でる沙織の手。
喫茶店だっていうのに、食事時になると店内がハヤシライスの香りで満たされる。洋食店か、なんてからかうような常連さんの声が、耳に届く。
足りないものが、あるのなら。
「沙織、ギターを」
「……うん」
カウンターの裏側に立てかけてあったギターケースを沙織が差し出す。僕はそれを受け取って立ち上がる。カウンターの空いた席でそれを開き、取り出し、チューニングをすること数分。
喧騒は止み、店中の視線が僕の方へと注がれていた。――それはあの日とは違うんだけどなぁ、なんて苦笑いをこぼしながら、僕はスツールに腰掛けてカウンターに背を預け。
大切な人が落ち込んだ時、忙しなさに余裕をなくした時、「僕」があっちこっちに引っ張りまわして励ます。曲調がとにかく明るくて、優しい歌詞がなんとも沁みる。元気の出る曲。
始めはCコードから。沙織も知っていた曲だから、歌ってくれるといいなぁ。
何しろ僕は、情けないことに喉が震えて歌えないものだから。
そしていつも、沙織は僕の欲しいものをまるで、知っているかのように。
喫茶店だっていうのに、食事時になると店内がハヤシライスの香りで満たされる。洋食店か、なんてからかうような常連さんの声が、耳に届く。注文が落ち着くと、ギターを持ったお母さんが弾き語りを始める。それをみんなが聴きながら、それでも賑やかに談笑を楽しんでいて――
この光景が、好きだった。
いつの間にか「三つ」になった歌声に、僕は合わせるようにギターを鳴らす。
この光景が、好きだ。




