余裕をもってのぞみましょう
少しの間席を外した沙織が、雑炊を作ってくれた。食欲はもうだいぶ戻っているから、それに焼き鮭とほうれん草のおひたしも添えて。これらは義母さんが作ってくれたものだ。
雑炊は、おいしかった。あっさりとした味付けで、ややご飯の食感を強めに残しているのが僕好みで。
その日は一日、ゆっくりとベッドの中で過ごした。夕食を食べ終える頃にはそう辛さも感じてはいなかったけど、沙織が「そうしろ」と言うから大人しく従った形だ。寄り添うようにベッドサイドに座り、僕のお腹辺りに手を乗せて。
夜七時。すっかり暗くなってから、沙織は義母さんの運転する車に乗って帰っていった。名残惜しそうな彼女に、僕は「移らないといいなぁ」と今更ながらに思ってみたり。
したのだけれど。
少しだけ違和感。翌朝になって体調が回復すれば、ふと首をもたげてくる疑問。
ちょっと、優しすぎやしないかな。「献身的」と称した沙織のそれが、なんとも、今思い返せば不自然なものに映る。身体を拭いたり、ご飯を作ったり――もちろんそれはものすごくうれしいことだけど、それが「らしい」かと言えばやっぱり少し首を傾げてしまうような。
テニス部が休みになった日に、僕はバイトを休んで沙織とデイキャンプに出掛けた。二人で原付に乗って、簡単な調理器具と食材なんかだけを持って。
残念ながら綾瀬林業の経営するあのキャンプ場では、デイキャンプはやっていない。それとは違う山の、こじんまりとしたデイキャンプ場。宿泊に必要な施設は当然ながらないものの、だからこそデイキャンプに必要なものはかえって充実している。水回りの充実は、特にありがたい。
僕らは、キャンプの定番カレーライスを作った。市販のルーで簡単に作ったものだけど、大自然の中で食べればそれもぜいたくだ。カレー用の紙皿を片手にばくばくと豪快に食べる沙織に、ちょっと微笑ましいものを感じたりして。
調理器具を洗って干したら、食後にはもちろんコーヒーを。茶菓子はなく、ただその香りと味に身を任せる。さすがに平日だけあって客入りはそう多くはないものの、家族連れが一組あればそれなりに賑やかにもなるもので。風の音に木々のさえずり、それから子どもの笑い声。
本当に穏やかな時間の中、僕は疑問を解消しようと口を開いた。
「沙織」
「ん?」
僕の呼びかけに、沙織は見ていたスマホを置いて応える。
「こないだ僕が風邪引いた時、その……どうかした?」
「どうかって、何が?」
「なんか……妙に、尽くしてくれた、というか」
「そりゃー彼氏が病気なら、ね?」
そうじゃないんだけどなぁ、とは思うけれど、そう言われれば納得もできる。できるけれど、するかどうかは別の話だ。
それが深刻かどうかは別として、沙織に何か気がかりがあるのなら、聞きたい。それが凝り固まってしまう前に、わだかまりになる前に。
「あー、ね」
僕のその姿勢に気付いたのか、そしておそらく彼女自身自覚があったんだろう、少し迷った末に身体を僕の方に向け、少し俯きがちに話し始めた。
「私ってほら、綾人と知り合ってから、結構色々引っ張り回したじゃん?」
「そうだね」
「そうだねって言った!」
いや、そこは誰も否定はできないと思う。不服そうな沙織も、それでも僕が続ける言葉を知っている。
「でも僕は、それが楽しかったし」
「だとしてもさー。それで次は、将来に向かってがんばろーって言って」
「それも、楽しいよ」
そしてそこも、誰も否定はできない。
「だから、綾人、ちょっと疲れてたんじゃないかなって、思って」
確かに僕はあまり体調を崩したことはなく、ちょっと雨に降られたくらいで風邪を引いたこともない。その原因が疲れにあるというのは、ある程度理に適ったものではあると思う。それこそ、「否定はできない」。
沙織の表情はそこまで深刻なものではなく、しいて言うならちょっとだけ「拗ねた」ような。
「仮に、仮にね。だったとして、それは僕が自分の体力を把握できてなかっただけだよ」
「そうはいっても、心配じゃん」
「慣れ、っていうのもあるだろうし。僕は沙織と知り合ってから、本当、色々世界が広がったような気がするから。そういう僕らに、もっと慣れていきたいなって思う」
「……うん」
だから僕は、偽らざる本音を話さなくちゃ。
僕が疲れるからと、沙織に遠慮してほしくない。もっともっと色々なところ、色々なものに向かって引っ張り回して、色々な景色を見せて欲しい。……もちろん僕も、受け身だけで終わるつもりもない。彼女の知らないものを見せることができたなら何よりだと思う。
「それに、ちゃんと自分の体力がわかれば、その時は「今日は家でゆっくりしよう」って、遠慮なく言えた方がいいし」
「うん」
「沙織がよければ、だけどね」
「その方がいいよ」
話し合いとしてはごくごく短く、そのくらい。けれど、早めに話せてよかったな、と思う。心なしか、沙織の表情が少し晴れやかに見える。
コーヒーをすっかり飲み干して、僕らは備え付けのベンチに並んで座った。手を繋いで、肩を寄せ合って。
「私、ゆっくりしてる時間、好きだよ」
「うん」
「なんかね、付き合い始めてから、いい意味でも悪い意味でも、安心感が出ちゃったっていうか」
「……悪い意味で?」
「綾人じゃなくて、私の問題でね。なんていうか、あれこれ気にかけてなくても、そうそう離れて行かないよねーって」
「あ、そういう。実際ある程度はそうだと思うけど」
「まーでも、それはそれとして、色々と考える余裕ができたっていうか。私、強引だったなーって」
僕はあえてそれを否定せず、かといって自分の反省点で返すこともせず、つないだ手に力を込めた。
もちろん僕にだって、いや僕にこそ反省点はたくさんある。彼女が強引だったなら、僕は消極的過ぎた。されるがまま流されるまま、彼女にしてあげられたことはあまりに少ない。会話は今もってうまくはないし、人間関係で言えば、彼女のそれはむしろ閉じたようにさえ思えてしまう。
でも、今それを告げるのも違う気がして。
「じゃあ、一緒に体力作りに付き合って欲しいかな」
「うん。もうすぐ夏休みだし、あっちこっち、いっぱい遊ぼうね」
「楽しみ」
「楽しみだねー」
今はこれでいいのだと思う。僕らは前を見て、映る木々に、木漏れ日に目を細めた。
そういえば、とふと思い出したのは、今しがた飲んでいたコーヒーについて。沙織に贈ったもので、今回は彼女がそれを持ってきてくれた形だけど。
贈った時に入っていた保存袋に、ネームシールが貼ってある。そこには「クローシェ」と書かれていて、僕がそのブレンドにつけた名前だ。
名前とブレンドの割合、それから僕の個人情報。それらが「焙」に保存されていて、最低1kgからいつでも買えるようになっていること。送料はそれなりにかかってしまうけれど、ネット注文にも対応していること。
それを伝えたら、沙織はとても喜んでくれた。加えて、贈った時に教えろよ、とも。ごもっともです。
僕らの時間は、そうやって過ぎていく。
皆で勉強会をした。一番遅れている僕は、一番進んでいる沙織に教わって。ほぼ同程度のあやとぐるみは、お互いの得意科目を埋め合うように仲良く。おかげで僕は大幅に順位を上げて、「いい復習になった」と沙織も少し点数を伸ばした。あやとぐるみも含めて、順位はそう上がってはいなかったけれど。
テストの結果がわかれば、夏休みまですぐだ。
すっかり暑くなって、屋外の運動部はみんな目に見えて肌の色が変わってきた。三人ともそれなりにいい日焼け止めを塗っているとはいえ、夏の日差しはなんとも手強い。少し焼けた肌は、以前の三人をより健康的に見せていて。
これはこれで、なんて感想は、三人からひんしゅくを買った。
なんだかんだいって真面目揃いの三人組。夏休みに入って早々、テスト直後と言ってもいいくらいだというのに勉強会第二弾が開かれた。勉強会なんて言いつつ、一日中ただひたすらに宿題に向き合って――僕は信じがたいことに、膨大な宿題の半分以上を終えることができたのだった。
ただし、夏休み明けのテストには別途対策が必要になる、とは沙織の言。夏休みの宿題には二学期の勉強への接続的な意味もあるから、早めに終わらせるのは罠なんだよねー、と。早く言って欲しい。
とはいえ、気負いなく休みを楽しめるのはいいことだ。
あれやこれやと行きたいところやりたいことを沙織と二人で、あるいはあやとぐるみも交えて四人で、もっと言えば朱子君も加えたりして――具体的な日時も決めずにただつらつらとあげていった。
スマホにメモされたそんな「夏休みToDoリスト」に、僕はベッドの中で目を細める。
沙織からチャットメッセージ。
――まずは海からでしょ。




