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弱ると頭が働かない





 朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。起き上がろうとして、身体を支配するような倦怠感を自覚した。上半身を起こすのも面倒だ、というくらいで、もちろんそれで終わりじゃあなかった。呻こうとして、喉の痛みに咳込む。そうして身体が起き出して、動き出すと、弱いながらも頭痛があった。


 ああ――フラグ回収。沙織に申し訳ないなぁと思いながらも、僕はスマホを手に取って義母さんにチャットメッセージを送る。


 パタパタと足音が聞こえて、ドアが開く。


「大丈夫?」

「うん。ごめん、今日はちょっと学校行けそうにない」

「そう。連絡しとくから、とりあえず休んどきなさい。とりあえずほら、白湯だけでも飲んで」


 優しく背中に添えられた手を支えに、ベッドに手をついてなんとか起き上がる。渡されたカップには温かな白湯。一口飲むと、優しく熱が身体を降りていくのを感じた。


 少し、楽になる。


「おかゆでも作るから、少しだけでも食べておきなさい。後で病院に連れて行くから」

「うん。ありがとう」

「白湯、置いとくわね。それからこれ、タオルも」


 移るとよくない。用件をささっとすませて、義母さんは部屋を出て行った。


 タオルとカップが載せられたトレイに、体温計も載せられていることに気付く。せっかく身体を起こしたついでだと測ってみれば、「38.5℃」の表示にめまいがする。


 ほんの数分雨に打たれただけ。それもすぐに拭いて着替えて、お風呂にだって入った。なんだってこんなに熱が上がるのか――なんて内心愚痴ったところで、文字盤の数字は変わらない。現実も変わらない。


 それにしてもなんでだろう。熱があるって自覚した途端、余計に身体が辛くなる。


 それでも報せなきゃ、きっと心配するはずだから。スマホを手にチャットを送るのは、もちろん沙織。


「風邪引いた、ごめん、休む」


 目覚ましが鳴る前の早朝、時間にして六時半。だというのに数秒後には既読がついて、「かなた」が驚くスタンプが表示された。


「大丈夫? ゆっくり寝てね」

「ありがとう。沙織も、がんばって」


 再び「かなた」のスタンプ。ラケットを手に燃えるような。


 あれだけ電話口で心配されていて、「言わんこっちゃない」くらいの小言は覚悟していたけど。


 優しい言葉に癒されながらも、やっぱり身体はだるいまま。喉は痛い、頭も痛い。これはもう、一日で治るかどうかも怪しいなぁなんて、ネガティブな思考も頭を過ぎる。


 こう身体もだるいんじゃ、スマホで時間を潰すのだって重労働。これで目が覚めたっていうんだから、寝直すのだって簡単じゃない。


 ぐるぐるぐるぐる、一人でいるとネガティブは募るばかりだ。


 スマホを枕元に放り出して、そのまま倒れるように上体をベッドに戻した。


 ちょうどそんな時に、ドアが静かに開かれる。おかゆができるには早すぎるなぁと思えば。


「……風邪か」

「うん。移るから」

「おー。枯れてんなー」

「……楽しんでない?」


 自覚はできないけれど、枯れた声が珍しいようだ。確かに風邪を引くなんて久しぶりのことだし、それでなくとも疎遠だったんだから、その気持ちもわからないでもない。


 移るから、という僕の忠告も聞かず、あやはすたすたとベッドサイドまで歩いてきた。こうなってはもう言っても聞かないだろうけど、一応は一言だけ。


「移るよ」

「まー、大人しくしとけよ」


 タオルをとってしばらく考える素振り。


「……食ってからのがいいなこれは」


 どうやら僕の汗を拭こうとしてくれたらしい。それを止めたのは、義母さんが朝食を作ってくれていると知っているからだろう。


 ベッドの隅に座って、布団越しに僕のお腹に手を当てる。


「予言しとくけど、部活終わったら沙織来るぞ、絶対」

「……来そう」

「気合で治せ、移したくねーだろ」

「うん」


 布団越しじゃあ熱も感触もあったものじゃないけれど、添えられた手の重みだけはじわりと伝わってくる。小さな手、心強い手。


 ほどなくして義母さんの足音が聞こえると、「やべ」と呟いて部屋を出て行った。移るような病気の時は、基本義母さんのみで対応して、その義母さんだって接触は最低限だ。あやがわざわざこの部屋に入ったとなれば小言の一つもあるだろう。


 それでも、来てくれてよかったなぁと思う。少し、気持ちが楽になった。


 僕はおかゆを食べてから、時間が来たら町の診療所に行き、無事「風邪」との診断を得て薬をもらい帰宅した。薬を飲んで大人しく寝て過ごし、午後五時頃には「37.3℃」と微熱程度まで下がっていた。薬も効いているだろうし、もちろん油断はできないだろうけど――


 あやの予言通り、沙織は制服姿でやってきた。スクールバッグとラケットをテーブル脇に置くと、ベッドサイドに座り込んだ。


「お疲れ」

「綾人もね。ちょっと朝より声落ち着いてるね」

「うん、痛みもだいぶ引いてる」

「残念ながら何も買っていないので、そこはごめんね」

「来てくれただけでも嬉しいよ」


 僕の額にかかった髪を指で払って、あらわになった額に手を乗せる。少しひんやりと感じるのは、僕の熱のせいなんだろうか。


「ちょいあつ」

「もうだいぶ下がってるんだけどね」


 それでも倦怠感はなかなか抜けなくて、あまり起き上がりたくはないけれど。沙織が来たとなると、途端に起き上がって色々と意欲が湧いてくるんだから不思議なもので――いや、まるで不思議ではないんだけど。


「なんか飲む?」

「テーブルに水筒置いてあるでしょ。それ、一杯くれる?」

「おっけー」


 沙織が水筒のカップに中身の白湯を注ぐ間、僕は起き上がってベッドボードに背を預ける。倦怠感が抜けないとはいうものの、朝ほどじゃない。さほど苦もなく起き上がったつもりではあるけれど、口からはため息が漏れてしまう。


 意思に反した体の反応。これも病気の辛いところだ。


「ほい」

「ありがとう」


 沙織から受け取った白湯を一度に飲み干し、渡したカップは再び水筒に戻された。たったそれだけのことなのに、なんだか妙に沙織の「献身」を感じてしまう。


「今まで寝てたでしょ。汗拭こうか?」

「うーん……じゃあ、お願いしようかな」

「じゃあ、上脱ごうか」

「そっか。……いいの?」

「そんくらいなんだってんだい。大体上半身裸くらい、男子は部活中にだってするでしょうに」

「運動部のことはよく知らないけど」


 正直今の時代、男女混合の部活ならそういうこともないと思ってた。沙織がそう言うんならそうなんだろうけど、これももしかしたら田舎ならではなんだろうか。


 ぼんやりとした頭で無益なことを考えて、すぐにどうでもよくなった。


「あ、やっぱ私が脱がしたげる」

「……なんかよくない気がする」

「いいからいいから」


 少しだけ強引に、沙織はパジャマのボタンを外し始めた。細くしなやかな指がもぞもぞと胸元で動き、少しずつ僕の肌を露わにしていく。……なんかよくない気がする、けれど、もう止めようとは思わなかった。


 沙織の表情は、なんでか少し楽しそう。ベッドに上半身だけ乗り上げて、時折顔を上げて僕の表情を窺うように。


「やっぱりだいぶ汗かいてるね。替えのパジャマもらってきた方がよさそう」

「……じゃあ、スマホで」

「その間に汗拭いちゃおうね」


 素面(・・)だったらドギマギしたり挙動不審になるシーンなんだけど、どうにも、頭が上手く働かない。自分でも驚くくらい、その行為を、その厚意を素直に受け取ることができた。


 脱がしたパジャマを布団の上に置いて、沙織はタオルを手にベッドの隅に腰掛けた。


「前から拭いちゃうね。おばさんに連絡しちゃって」


 肩口からタオルを当てる沙織に身を委ねつつ、僕は沙織のいない方の手でスマホを触り、新しいパジャマを持ってくるように義母さんに頼んだ。


 肩口から上腕へ、上腕から前腕へ。手の甲、手のひら。左手で持ち上げながら、右手でそれをゆっくりと優しく拭いてくれる。手のひらから前腕、上腕の裏側を、それから腋を。


「なんか意外としっかりしてるよね。鍛えてるわけじゃなさそうだけど」

「まぁ、あんまり食べる方でもないし。力仕事も、ないわけじゃないしね」

「そーなんだ。買い出しも、そういえば量によっては力仕事?」

「それもだけど、倉庫作業の方かな。コーヒー豆の袋、結構大きくて重いから」


 会話をしながらも手は止めず、今度は胸を、お腹を、順に拭いていく。


「ちょっと背中浮かしてね。すぐ終わるから」


 少しだけ上半身をベッドボードから離すと、沙織が抱き着くように前から腕を回してそれを支え、反対の手で背中を撫でるように拭いてくれる。


 吐息が肩にかかる距離。熱が上がりそうなくらいに近いのに、ただただその献身がありがたくて、僕は沙織を抱き寄せたい衝動に駆られてしまう。


 けれど、沙織はぱっと離れてベッドの反対側へ。同じようにして上半身を拭き終えると、ちょうど義母さんがパジャマを手に部屋に入ってくるところだった。


「あら、拭いてくれてたの。ありがとうね」

「いえいえ、なんかめっちゃ楽しかったので」

「そういう時期よねー」

「そういう時期なんすよー」


 なんか妙なところで意気投合した二人は、パジャマの受け渡しをする間もなんだか楽しそうで。


「綾人、下も」

「……沙織、さすがに出て行こうか」

「えー」

「えーじゃなくて」

「……ちぇー」


 なんで本気で残念そうなんだ。いやまぁ、布団の中で着替えちゃえば別に問題はないんだろうけど、それでもだよ。


 義母さんは出て行かず、着替えたパジャマ上下と拭き終えたタオル、それから中身の減った水筒を持ってさっさと部屋を出て行った。


 入れ替わるように沙織が戻る。そろそろ夕食の時間だから帰った方がいいんじゃないかなぁ、という僕の懸念を、沙織は笑顔で一蹴した。


「ご飯一緒に食べることになったよー」

「……大丈夫? ほんとに」

「一緒にいてーんだよ、今日はなんか猛烈に」

「……じゃあ、しょうがないか」

「しょうがない、しょうがない」


 ぼんやりとした頭で、僕はそれをあっさり受け入れた。


 やめた方がいいのはわかっているけれど。――一緒にいてーんだよね、猛烈に。





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