予報では曇りだったんだ
僕らが付き合い始めたという事実は、あっという間に学校中に知られることとなった。とはいえもちろんそこら中でイジられるなんてこともなく、ところどころで「マジかよ」と驚かれる程度だ。対して友人の多い沙織はそれはもう懇切丁寧にイジられたらしく、昼休みには少しうんざりした様子ではあったけれど。
付き合い始めたからといって食事が二人きりになるわけでもない。沙織にとって同じくらいあやとぐるみは大事だろうし、僕もそうであって欲しいと思っている。
そして放課後は三人揃って部活へ。
僕はバイトへ向かう道中、金網越しに彼女を探す。ああ、なんというか、久しぶりのこの感じ。
かつて憧れの彼女を、金網越しに見た数十秒。それで満たされていたし、まるで手の届かないその距離に、隔てる金網に、安心感すら感じていたけれど。
順番待ちの沙織が、目ざとく僕を見つけて手を振った。周囲の数人にそれをイジられてるのを見て少しだけ躊躇したけれど、僕も小さくそれに応える。
やっぱり、当たり前にこの方がいい。僕を見つけた時のあの笑顔は、以前の沙織には見られないものだった。
そしてセルジュへ。ここにはいつも店長夫妻と僕だけで、沙織がいる方がむしろ特例だったはずなのに。それなのに、妙に静かに思える。以前と同じ、ほんの二か月前には当たり前だった日常。それでも前と違うのは、頑張っている人に見劣りしないくらい頑張りたいと思っていること。仕事の一つ一つを、より意識的にこなすこと。これまで目を向けていなかった部分にも目を向けること。
店長に僕の「夢」について話した。
最初の言葉は「おすすめはしない」だ。言葉としては柔らかいけど、その態度は「反対だ」と言い切っているようにも見えた。
まず飲食店は、その三割が開業して一年以内に潰れる。十年も経てばその割合は九割にも上るらしい。たくさんの知識とたくさんの技術、それから多分に運も必要になる。そもそもセルジュだって軌道に乗る前は赤字続きで、多方面からの支援がなければとっくに潰れていたと。
その上で、教えられることなら教えてやる、と言ってくれた。やるやらないは僕の自由、あくまでも責任を取るのは僕。なんて言いながら、ある程度の支援ならしてやれるとまで。
「セルジュは、私の夢でもあるからな」
店長のその言葉には、思わず目頭が熱くなった。
とはいえ店長には日々の経営があり、かといって休日を邪魔するわけにもいかない。ちょっとした空き時間に色々教わりつつ、いくつか参考になる資料なんかを紹介してもらって、自分の時間でそれを学ぶことにした。
午後五時半、沙織が一人でセルジュを訪れた。
ぐるみも沙織も学生で、そこまでお金に余裕があるわけでもない。毎日のように喫茶店のコーヒーを飲むなんて、そこそこの贅沢で、負担だ。
そして僕も、彼女にだけサービスするというわけにもいかない。
「いいよいいよ、コーヒー代お父さんにもらってるから」
「え、ほんと?」
「セルジュ仲間として、ってさ。お母さんもこれから通おうかなって言ってたよ」
「それはありがたいね」
沙織の分のブレンドを淹れて、カウンターに座る彼女に差し出す。
「惚れ直すわー。コーヒー淹れてる男の人ってなんかすごいかっこいい」
「割とハードル低い趣味だと思うけど。こだわり始めたら深いけど」
「そーかなー。私も家で豆から淹れたりするけど、全然バタバタしちゃう」
「頻度の問題じゃない?」
それこそ毎日のように淹れている僕と、たまの気まぐれの沙織じゃあ練習量が違い過ぎる。テニスで僕が手も足も出ないのと同じだ。
仕事中の僕に気を遣ってか、コーヒーカップを片手にスマホを触り始める。僕は注文をさばいて、時間が過ぎるのを待った。
仕事は仕事、決しておざなりにならないように。意識はするけれど、やっぱりどうしたって沙織のことが気になってしまう。お互い頑張ろう、みたいに思っていたけれど、やっぱり付き合い初めに時間が取れないというのが、思った以上にこたえている。
目の前にいるのに触れられない。だから見ることさえためらわれる。そうすると、余計に想いが募っていく。悪循環だ。
どうにかこうにか、苦情一つ入ることなく仕事をやり切り、午後八時。さすがに沙織はもう帰り、歩く夜道に人影はない。さすがに一人寂しい、なんてことを思うこともないものの、それでもやはり考えてしまう。ここに沙織がいたら、どんなに楽しいことだろう。
色々と頑張ろうと決めた矢先のこの有様。苦笑いが漏れる。
そんな日が、しばらく続いた。もちろん休日には会うし、それとなれば恋人らしくデートをしたりと充実した一日にもなっていたと思う。
目を合わせる。話をする。けれど触れ合えない、ある意味ではすれ違いのような日々のフラストレーションを、休日には埋め合わせるようにして過ごした。付き合う前から色々と距離感がバグっていた沙織は、けれどいざ付き合い始めてみると意外と「弁えて」いて。
少なくとも外では手を繋ぐ、腕を組む以上のことはしていない。お互いの部屋ではまぁ、それなりにくっついたりはもちろんあるけれど。
けれどやっぱり、沙織としては「手を繋ぐ」っていうのが一番好きらしい。付き合う前からそうだったから、付き合ってからは尚更のようで。隣に座ってお互いスマホをいじっているような時でも、時折意味もなく手を繋いで、指を絡ませる。その遠慮のなさとか、何気なさとか、そういうところに恋人らしさを感じた。
「コーヒー淹れてる時の手つきとかさ、私めっちゃ好きでね。それに触れてるっていうのがなんか、触れちゃいけないところに触れてる感あるよね」
「それを言うなら、沙織の手だって」
「そー。特別と特別の触れ合いだから、私はこれが好きなのかも」
自分のそれも、なんの衒いもなく「特別」と言い切ってしまうのも沙織のらしさ。微笑ましくて可愛くて、ついつい笑みがこぼれてしまう。
キスは、何度か。これも結構気に入ったらしくて、だから手を繋いでキス、というのが今のところ僕らの一番の触れ合いだ。ちょっとした唇の動きに、反応するように絡めた指に力がこもる。それが何というか、妙に生々しくて、正直色々とこらえるのが大変だけれど。
それが週に二日ほど。たぶん、頻度としてはそこまで少ないってほどでもないとは思う。
それでもどこか、物足りない。
なぜかはよくわからない。「付き合う」っていうのに、もう少し「イチャイチャ」を期待してたのもあるかもしれない。
そんな僕の様子を知ってか知らずか、ある日のバイト帰りに、スマホに着信があった。着信元はもちろん沙織。
「おつかれー」
「沙織も、来てくれてありがとね」
「うん。雨降りそうだけど、大丈夫?」
上を見上げれば、確かに星はなく黒灰色の空がどんよりと広がっている。盆地は雨が少なくて、今が梅雨だってことを忘れそうになるけれど。どうやらそれを心配してわざわざ電話をかけてくれたらしい。
気遣いのできる彼女に感謝である。
「まぁ、家までそうかからないし」
「迎えに行こうかなぁ」
「それじゃあ、また沙織を家に送らなきゃってことになるけど」
「……まー、今日のところは勘弁してやるか」
本音を言えば迎えに来て欲しいし、それとなれば喜んで二度手間を楽しめる確信はある。
とはいえやっぱり二度手間は二度手間で、頑張ろうと決めた今だからこそ疲れを明日に残さないように。
「次の休み、合わせてあるよね」
「もちろん。今日だってめちゃくちゃ我慢したのに」
「私もー。目の前にいるのが逆にね」
「かといって、来てほしくないわけでもないし」
「ねー」
疲れも残しちゃいけないけど、やっぱり、こういう「もやもや」もできれば残したくはない。素直に心情を吐露すれば、沙織だって同じ気持ちだったと確認できる。それだけで、多少なりそれは晴れてくれるんだから。
なんとはなしに笑みがこぼれる。声を聴けるだけでこうなんだから、我ながら簡単だ。
ぽつり、そんな僕の鼻頭に雫が落ちた。
「やば、降ってきた。ちょっと走る」
「うちの方が近いから、寄ってったら? お父さんかお母さんに送ってもらえばいいし」
「近いっても誤差だよ。もう数分走れば着くし、気持ちだけもらっとくね」
「そっかー。風邪だけ引かないように、帰ったらすぐお風呂入るんだよ」
「うん。じゃあ、また明日」
「またねー」
通話を切って走り出す頃には、さらさらと雨脚が強まってきて――
本降りになるのに時間はかからなかった。浴びた時間としてはほんの数十秒、六月も半ば過ぎ、そんな身体が冷えるようなものでもない。ただただ濡れた制服が、肌着が下着が張り付いて不快なだけ。
玄関口で義母さんからタオルを受け取ったものの、ここで残念なお知らせが。
「今綾芽がお風呂使ってるのよね。すぐ上がるようには言ったんだけど、もう数分我慢できる?」
「全然、気にしなくていいよ。あやにもそう言っといて」
「そういうわけにもいかないでしょう。とりあえず服だけでも替えちゃったら」
「そうする」
ひとまず滴らない程度に全身を拭き、自室に戻ってジャージに着替えた。身体を拭いたタオルとは別の乾いたものを頭からかけて、スマホを含めて手荷物の確認を始める。
どうやら鞄の中までビショビショに、という最悪の事態は免れたらしい。テキストやノートなんかも大方無事で、一部机の上で乾かせば少なくとも授業で困ることもなさそうだ。
スマホも特に異常なし。一応というとなんだけど、沙織に「帰ったよ」とチャットを打っておいた。
よほど心配してくれていたのか、すぐに電話がかかってきた。
「お風呂は?」
「今あやが入ってる。もうすぐ上がるっぽいから、大丈夫」
「タイミング悪いなー、あーやも」
「まぁ、僕が濡れて帰ってくるなんて知らないしね」
「風邪引かないでよー、ほんとに。そういえば綾人が病欠って見たことないけど」
「大丈夫でしょ、これでも結構丈夫なんだよ」
「……フラグにしか聞こえない」
という辺りであやがドアをノックして、お風呂が空いた旨を伝えてくれた。沙織と電話中だと言えば、代わってやるからさっさと入ってこいと部屋を蹴り出されて、僕はすごすごとスマホを渡して階段を下りた。
冷静に考えてみれば、あやに代わる必要があったのかは甚だ疑問ではあるけれど。
温かいお風呂に入ってひと心地の一安心。たっぷり時間をかけて入ったというのに、部屋には僕のスマホで僕の彼女とけらけら笑いながら話す義姉の姿が。
仕方ないなぁとため息一つ、ベッドに潜り込んで布団を被る。
「終わったら電気消しといてね。スマホも充電よろしくね」
「おー。ここでいーか?」
「いいよ」
少しだけ声を抑えて。勉強机の椅子に脚を組んで座ったあやの、その服装にまたため息がこぼれた。
暑くなるとすぐこれだ。大きめのティーシャツに下着のみ、すらりと伸びた脚がよりにもよって僕の方へと向けられている。これが朱子君だったらどうだか知らないまでも、義弟である僕には正直「ズボラさ」の象徴でしかないわけで。
まぁ、でも、慣れたと言えばそれまでだ。
色々と疲れてたんだろう。僕の意識はすぐに闇に落ちて行った――
沙織の「フラグ」発言が現実になるのは、その翌朝のことだった。




