楽しい食事会
やっぱりというか、あやは手加減なしなんて無体なことをしたりはしなかった。ただちょっとした意地悪をたまに織り交ぜるくらいで、それだって十分遊びの範疇だ。優しいぐるみ、まだまだ初心者な朱子君。たった三人の幅広い「コーチ陣」が、入れ代わり立ち代わり僕の相手をしてくれる。
元々運動センスなんてものはない僕だから、それでめきめき上達、なんてことはないけれど。少なくともゆったりとしたボールをコートに収めるくらいのことはできるようになってきた。
そうなってくるとラリーが俄然楽しくなる。何往復もそれが続くと、まるで自分が上手くなったような錯覚にすら陥る。
興が乗って調子に乗って、僕はとんでもない提案をしていた。
「沙織のガチサーブ、見てみたい」
「えー、結構怖いと思うよ?」
遠目に見てもわかる、沙織の心配そうな顔。その横であやが「いーじゃねーか」と笑いながらはやし立てる。
もちろんまるで怖くないわけじゃない。とんでもない速さで、僕が取れるわけがないことも知ってる。だから「見てみたい」って言い方をした。何より、沙織の腕なら万が一にも僕に当てるようなことはないという信頼の下での提案だ。
少しばかり考えた後、「しょーがないなぁ」と、しぶしぶを前面にながらも承諾してくれた。「それなら」と他の三人がコートから出て、ベンチの下で「リターンエースなー」とか「怪我しないでねぇ」とか、「がんばーっす」とか、実にらしい声援を送ってくれる。
とん、とんと沙織がゆったりとボールをつく。
あのゆったりとした動作から、とんでもないスイングが走るのが信じられない。横から、遠くから見るだけでも速いボールだ。真正面からそれを受けたら、どんなものなんだろう。
ボールを打つ楽しさを知った今、少しだけ沙織のいる世界を知れた気がしたから。
高々とトスを上げて、僕はそのボールを注視する。どこを見るのが正しいのかは知らないけれど、少なくともそこから目を離したらダメな気がしたから。
そしてそのボールが、消えた。
もちろん比喩だ。まるで見えないわけじゃない。でもなんというか――「気づけば」、という表現が一番正しい気がする。
気づけばボールが放たれ、気づけばサービスコート内を叩き、気づけば僕の横を通過していた。
背後の金網の音が聞こえてようやく、僕は反応らしい反応を見せた。
「……え、無理」
「そらーそうだよ、初日なんだから」
「うん、わかってたんだけど。ここまでとは思ってなくて」
ボールが来た方向に、ラケットを出すことさえできなかった。これを相手コート内に打ち返すなんて、どう考えたって人間業じゃない。
「ちなみに朱子君は返せるの?」
「無理っす。まぁ、ラケットに当てるくらいは」
「それでも十分すごいけどなぁ」
「そりゃまー、見てから動くもんじゃねーしな、そもそも」
あやの言葉に思わず納得した。野球のバッターも似たようなものだと聞いたことがある。そもそもたった二十メートルかそこらを百キロオーバーの速さで走るボールを、反応でどうにかしようというのが無理な話。目だけなら追いつけないことはなくとも、身体を動かすには予測するしかないわけで。
ボールだけ見ていた僕は、まずそこから間違えてたわけだ。もちろん、沙織を見ていたからといってどういう球が来るか、予測ができるわけでもないけれど。
「んじゃあそろそろ時間だし、ゲームやるかー」
「私綾人とペアねー」
「朱子君やりなよぉ。わたし審判するから」
「いいんすか? あざす!」
僕と同じサイドに来た沙織。反対側に立つ二人を改めて見ると――
「……すっごい凸凹だね」
「言わぬが華だよ沙織」
身長差およそ四十センチ。これまでも並んだところを見たことはあったはずなのに、こうしてコートで向き合って遠目に見ると、余計に際立つ。
そんな身長差のあるグータッチ。堂々としたあやに対して、緊張した様子の朱子君は少しだけ縮こまって。そんな彼の緊張を勘違いしたあやは、その腕を叩いて頼もしく何かを話している。
違うんだあや、その緊張は恐らくあやが原因なんだ。
「見てて楽しいね」
「……否定はしないけど」
「私たちもグータッチ」
差し出された拳に、僕もそれを軽く当てる。あまり経験のない、「がんばろう」の合図。
初心者と上級者。言葉にしてしまえばなんともバランスの良さそうなペアではあったけれど、初心者同士の差が大きすぎたのが敗因であった。
ペアを色々と変えてはみたけれど、結局僕が勝つことは一度もなく、初めてのテニスは幕を閉じた。
華を持たせろ、とかそういうことは特に思わなかった。それから、悔しいなんてことも。だから僕はたぶん、この競技には向いてないんだろうなぁと他人事のように思った。
それから約束通りの昼食会。急遽決まった朱子君の参加にも関わらず、ぐるみはなんとか調整してくれた。
場所はテニスコートからほど近くにある、おしゃれな雰囲気のイタリアンレストラン。白いレンガ造りの店舗には大きな窓が設えてあって、そこそこに混み合う店内の様子が見える。
僕らは予約済みの、店奥のテーブルに案内された。三人掛けの壁面ソファに朱子君、あや、ぐるみが。それから対面の椅子二つには僕と沙織が。
「座ったらどっと疲れるね……」
「運動不足だね」
「だらしねー。準備運動レベルだぞ」
「まぁまぁ。りょーちゃんはコーヒー淹れるのうまいから」
「フォローになってないす」
散々な評価に苦笑いが漏れる。
ともあれメニューを開いて各々注文を決めると、店員にそれを伝えた。豊富なパスタとピザのメニューから各々好みのパスタを頼み、ピザとサラダを二つずつ取り分けることになった。
「ここ美味しいの?」
「めちゃうまぁ。家族で来たことあってねぇ、いつかあーやも連れて来たいなぁって思ってたのぉ」
「ぐるみはあーや大好きだなぁ」
「まーな」
あやが答えることに誰も疑問を抱かない。ぐるみを知る人はみんなそれを知ってる。お互いの好みは知り尽くしているし、ぐるみが薦めるならあやがそれを気に入ることも知っている。
雑談を重ねていれば料理はすぐにテーブルに運ばれてきた。ぐるみの言う通り見るからに美味しそうで、みんな待ち切れないと言わんばかりにカトラリーを手に取った。
本格的なナポリピッツァ。アルデンテのスパゲティにはソースがよく絡むのに、小麦がしっかりと香っている。サラダにかけられたオリーブオイルは、素人の舌にもそれがいいものだとはっきりとわかった。
「綾人、ボロネーゼちょっとちょうだい」
「うん。じゃあそっちのカルボナーラも」
「どんどん食え。私ピザも食べたいし、多めにとってくれると嬉しいかも」
「……じゃあ、遠慮なく」
僕もそう大食家というわけではないんだけど、まぁ、それでも沙織よりは多く食べられる……はずだ。
それより心配なのはあや。身体の小さい彼女は、運動量が増えてもそこまで多く食べられるわけじゃない。一人分のスパゲティを食べれば、そこそこお腹いっぱいになってしまう。
もらったカルボナーラに舌鼓を打ちつつ様子を窺えば、身体の大きい朱子君が、取り皿にあやのアラビアータを受け取っているのが見られた。
「わりーな」
「いやいや、むしろ足りないって思ってたとこっすよ」
「おー、どんどん食えどんどん」
よく食べる後輩、というのは、なんというかこう、誤解を恐れずに言えば、とても可愛く思える。それはあやも同感らしく、実に楽しそうに笑ってそれを見ていた。
ぐるみは実にマイペースに自分の分を食べ進める。あやや沙織が「くれ」と言えばその明太子スパゲティを分け与え、けれど代わりを受け取らずにピザとサラダを取り皿に。
すっかり元通り。
あやもぐるみも、疎遠だった時期が嘘みたいだ。僕に対して「ボロネーゼくれ」とフォークを伸ばして、遠慮なく巻き取ってそれを頬張る。「わたしもぉ」って言うから、僕は一口分を取り皿に分けてぐるみに渡した。
代わりの明太子スパゲティを受け取って、「これもおいしいね」と笑いかける。ぐるみはそれさえ嬉しそうに「ねぇ」と応えてくれた。
もう何度か一緒に食事はしたけれど、不思議と今この瞬間、そのどれよりも実感した。
僕らはもう、大丈夫だ。
そうしてシェアしながら料理を食べ終えると、僕らはすっかり満腹になってしまった。背もたれに身体を預けて食後のコーヒーをすすり、思わず漏れるため息に身体の力が抜けていく。
「あ、そうそう。私、明日から本格的に部活戻るから」
「そーなん? 付き合い始めたばっかだろ」
「部活終わりでも時間は作れるから。ね、いいよね?」
「僕はもちろん。お互い、やりたいことがあるわけだし」
「ほーん。まー、そういうことならこっちはむしろ大歓迎だしな」
「色々教えてねぇ」
「お世話んなります」
そんな中での沙織の「表明」。和気藹々と始まった雑談タイムに、時間はゆっくりと過ぎていく。
少しだけ寂しいのは、たぶんお互い様。
「でも沙織、ほんと教えるのうまいよね」
「お、そう?」
「うん。おかげである程度入るようになったし」
「ふーん。あはは、ありがと」
そんな寂しさを振り払うような、嬉しそうな笑顔。ちょっとした僕の言葉に、沙織は大げさなくらい喜んでくれて――
テーブルの下、僕の手が静かに握られた。
「楽しいよね、教えた人が、上手くなってくの」




