楽しいテニス入門
今回レンタルしたコートは、郡浜駅からバスに乗って二十分ほど、さらにそこから歩いて十分ほどのところにあった。それぞれが独立した形で金網に囲まれた四コートが一列に並び、その手前に受付の建物が建っている。
僕らは受付を済ませると、その建物内にある更衣室に男女それぞれ入っていった。そこまで広くはないけれど清潔に保たれたロッカールーム。
朱子君と二人きり、というシチュエーションに若干の緊張を覚えないでもないけれど。そろそろ男友達をと彼を誘ったのは僕であり、そこに遠慮してしまうのも無責任な話だ。
だったらまずは言うべきことがある。
「今日、来てくれてありがとう」
「いや全然。むしろこっちがお礼言いたいくらいっすよ」
着替えを始めて、それでもこっちを見ながらの笑顔は、同性の僕が惚れ惚れしそうなくらいだ。
あやという想い人を抜きにしても、沙織やぐるみもテニス部一年にとっては「憧れの先輩」枠。みんなを引っ張る面倒見のいいあや、屈指の実力者で的確な指導もできる沙織、ひたすらに優しく色々な意味で視野の広いぐるみ。
僕があやの義弟じゃなければ、ぐるみの幼馴染じゃなければ、たぶんこうはなっていなかった。でも僕はあやの義弟で、ぐるみの幼馴染だ。「でなければ」なんて前提、考えるだけ無駄な話。
「なんつーか、こう、華やかーっていうか。いいっすよね」
「わかる。二人に関しては昔から知ってるから、あんまりそういう認識なかったけど、改めて考えるとね」
「やっぱり、昔からあんな感じだったんすか?」
「そう大きくは変わってないと思う。たぶん」
「曖昧っすね」
何しろ疎遠だった時期も長く、こうして「仲直り」した今も「昔のように」とはいかない。あるいはだからこそなんだろう、子どもの頃の印象を少し引きずりがちだ。
鞄から取り出すのは学校のジャージ、ではなくて、よくある普通のスポーツウェア。上下黒のハーフパンツにTシャツで、朱子君との違いは色と開襟シャツくらいのもの。なのにどうしてだろう、彼のそれはとてもスマートで、きれいに見える。
劣等感とまでは言わないまでも、少しばかりの気恥ずかしさを覚えながら更衣室を出てロビーへ。
男の着替えなんてすぐに済むから、どうしたって待つことになるのは覚悟していた。けれど、三人が現れたのはそれからわずか数分ばかりの頃だった。
学校のジャージ、ではなく、よくある普通のスポーツウェア。朱子君と同じく、やっぱり僕が着るのとはずいぶん印象が変わる。
「ラケットのレンタルできるって言ったけど、綾人の分は私持ってきたから。コート入ったら渡すね」
「うん、ありがとう」
「ボールはそれぞれいくつかずつ持ってきたから、それで十分なはず。とりあえず移動しよっか」
ぞろぞろとコート側の出入口から出ると、それまでも聞こえていたはずの打球音が途端に大きく感じた。ここまで来るとさすがに、「テニスをしにきた」という実感が出てくる。
「なんかちょっと緊張する」
「別にうまくやる必要ねーぞ? 何球でもホームランすりゃーいーんだよ」
「そぉそぉ。わたしもいっぱいやった」
「俺なんかいまだにやりますよ」
「あったかいなぁ」
よくよく見れば、コートを囲う金網の上、空を覆うようにネットが掛けられている。ボールが紛失しないよう、周囲の住宅に迷惑が掛からないよう、考えてみれば当たり前の措置だ。
「怯えてネットよりホームランの方がいいよ。ガンガン振ってこう」
「そうしてみる」
皆が言うなら、沙織が言うなら間違いない。
コートには審判台に加え、屋根付きのベンチまで設置されていた。各々水筒やタオルをそこに置き、早速コートへ入っていく。
準備運動を軽く済ませたら、まずはクロスラリーからということになった。理由がいくつかあって、まずは距離が長くてアウトになりづらいということ。もう一つは、ボールが通るネット中央部分は両端より少し低くなっているため、ネットもしづらいのだとか。
もちろんだからこその難しさもあるけれど、そこはまだ考えないようにしながら。
「おっと、いいもの持ってきたんだった」
と、沙織がポケットから取り出したのは、耳の軟骨部分を挟み込むタイプの、いわゆるイヤーカフ型のイヤホン。それを僕に手渡し、スマホと同期するように言った。
どうやらマイクもついているらしく、スマホそのものはベンチに置いておけばいいらしい。
「あーやたちは声出せるけど、綾人そういうのまだ苦手でしょ? 私とこれでお話しながらやろう」
「……いいの?」
「いいよー、安いやつだし。何なら後でお金ちょーだいね」
「わかった。ありがとう」
確かに、大声でコミュニケーションをとるなんて、もう随分やっていない。はっきり言って、苦手だ。
スマホと同期させて、片耳だけつけて、ひとまずコートの受付側、右端に立った。左端には朱子君、その対角にあや。ぐるみはベンチでひとまず交代待ちだ。
「聞こえる―?」
「うん。耳がくすぐったい」
「ふー」
「やめて」
そもそもイヤホンのマイクじゃ吐息は拾わないよ。惜しい、と思ってしまった自分は、もうすっかり沙織にやられてしまってるんだなぁと実感する。毒されてる、と言ってもいい。
隣は早々に打ち合いを始めて、リズムよく快音を響かせている。
「じゃーボール出しからやってみて。どのくらい飛ぶのかなーって、様子見的な」
「いくよ」
左手に持ったボールを右側に構え、ラケットを軽く引く。ボールを落として、ラケットを振る。
ビビッてネットが一番だめ、という沙織の言葉を信じて振った。それから、以前彼女の家の庭でやった時に言われた、ラケットは垂直くらいでいいという言葉も。
それでも、思った以上にボールは飛んだ。テニス部員たちのように鋭いものではなく、ふらふらと頼りない軌道で、ちょうど沙織の頭上を越えるくらいに。
あ、と声を出すも、沙織はノーバンでそれをあっさりと打ち返した。ふわりと優しく弧を描き、サービスラインを踏むようにバウンドして、ちょうど僕の手元に帰ってくる。
僕はそれを、さっきよりも面を伏せてそれを打ち返す。
ボールはあえなくネットにかかり、力なくコート上に落ちた。
「さっきの感じでいいよ。持ち上げるんじゃなくて、こすり上げる感じにしてみて」
「うん」
耳にかかる沙織の声が、「いちいち落ち込まなくていいよ」と言ってくれてるみたいだ。彼女のアドバイスは的確で、僕は確かに「ボールを持ち上げなきゃ」と思って振っていた。
一目見ただけで僕の問題点を洗い出せる。よくよく相手を見て試合を組み立てる彼女だから、そういうスキルに長けてるんだろうと思う。
それから僕は、何度も失敗を重ねながら沙織とボールを打ち合った。
「バックむずいね」
「ねー。最初はもう、軸足に乗っかったまま打ってみてもいいかもね」
「なんかコントロール安定しないなー」
「打つ瞬間までボールを見よう。私のこと気になるのはわかるけどねー」
彼女のアドバイスは、僕の打球を一つずつ確実に良くしてくれた。もちろんまだまだ、朱子君の足元にも及ばない。でも二球、三球とラリーが一つ伸びるたび、確かな達成感が胸に来る。
朱子君の相手があやからぐるみに変わり、少しだけのびのびと打っているのに気付く。「もっと攻めていいよぉ」と、彼女らしからぬ大きな声が響く。
「相手のペースに合わせちゃう辺り、朱子君もまだまだ初心者ってことだね」
「なるほど」
「どんなテンポになっても、自分のリズムで打つべし。これ大事」
「って、まだ僕には早いアドバイスだなぁ」
「いやいや、これはもうどの段階の人にも意識してもらいたい言葉だね」
再び「なるほど」と呟いて、僕はまた沙織に向かってボールを打った。
これまで何度アウトしたか、何度ネットしたか。ポケットからボールがなくなるたびに拾い直して、それを何度繰り返したか。いまだに沙織のミスは一度もない。
でも、居たたまれなさも申し訳なさも感じない。そんなものを感じてしまう方が、彼女をがっかりさせると知っている。
「うん、でも、楽しいね」
「でしょー? いいボール行くと、気持ちいいしね」
「それはほんとそう。ラケットの真ん中に当たった時の感触もめっちゃいい」
「わかるー。音も全然違うもん」
初心者の楽しみに、沙織が嬉しそうに共感してくれる。当然ながら彼女も通ってきた道で、そこには実感が多分に含まれていて――
沙織が自分でコーヒーを淹れていた時、僕が感じたこと。たぶん、似てるんだと思う。
僕は彼女ほど教えるのが上手くないけれど、今ならもう少し、寄り添ったアドバイスができそうだ。
「うーん、上達早い。そろそろみんなと合流してやろっか? せっかくみんなで来てるんだし」
「そう、してみよっかな。あやとか容赦なさそうだけど」
「聞こえてんぞ」
「……ごめん」
運動中だからか、声の調整がバカになってたらしい。そんな僕を、みんなが小さく笑っていた。




