築き上げる
だけど心配いらないよ、と沙織は言った。
木陰の芝生に座り込むあやの目の前で、その手を両手で包み込み、その目をしっかりと見つめながら。見すぎるくらいに人の目を見る沙織に、少し潤んだ瞳であやが応じる。
拍手や歓声、ボールを叩く音。まだ会場は賑やかで、この大きな木の下はどこか切り取られたように静かだ。おかげで沙織の言葉が、声がよく聞こえる。相変わらず快活で伸びやかな、ある種の説得力を伴う力のある声。
あやはまだ山を築き始めたばかり。
沙織は努力を「砂山」に例えた。
多くの人はただ砂を上から重ねて山にする。重ねれば重ねるほど山は大きくなり、そのやりがいと実感に陶酔するだろう。
けれど砂は軽く、風に流され波にさらわれ、その自信はたやすく崩れ去る。
だから水をかけるのだ。それは築いた山を己の身と心に根付かせること。これまで鍛えてきた身心と、培ってきた技術。その意味を詳らかにし、どうあるべきかを問い直す作業。
走り込んで鍛えたそのスタミナと速力は、テニスにはどう使えるか? スピンサーブは、よく走るフォアハンドは、戦略上どう使われるべきか? 対戦相手の分析と対策は、実際の試合でどう利用しどう修正すべきか?
砂山を作るというただそれだけの作業は、砂を積んで大きくする単純作業ではない。基礎を固め形を決め、積み重ねては削り取りを繰り返し、時には決めた形さえも修正しながら自分だけの「山」を築く。
あやはまだまだ、ようやく水を使い始めたところ。つまりは築き始め。
だから落ち込んでる暇はないよ、と沙織は笑った。
「うん」
「うんだって、かわい」
「ちゃかすな」
目を潤ませて、けれど涙をこぼすことなく、あやも笑った。
あやは負けた。思っていたより「あっけない」と思えるくらいに。けれど本人さえもそれはわかっていたようで、それでもそれをどう使うかでその後の成長は大きく変わる。
一打一打の意味を、それらが形作る流れを、頭の中にきちんと描きながらプレイすること。
沙織は試合前、「負けるよ」とまでは言わないまでも、そういうアドバイスをしたらしい。相手の築いた砂山を、掘って掘って掘り起こして、丸裸にしてやるのだ。
倍疲れた、と笑うあやは、だからこそ落ち込んでる暇はない、ということで。
他人の築いた山を見たのなら、それは登るべきでなく掘り返すべきなのだ。この強度の高い部分には何が隠れているのか、細かな装飾はどうして作られているのか、見た目にはただの砂でも、中には流木や貝殻が仕込まれているかもしれない。
あえてめんどくさい比喩を使ってるよ、と沙織が笑った。
「よーするに上の連中ってのは、ずっとそればっかってことだろ? それが日常、ってくれーに」
「そうなんだよ。もちろん遊びに行かないわけじゃないけどね」
「……まー正直、そこまでする気もねーけどな」
「だろうねー。でも、一回本気になってみるのも悪くない、でしょ?」
「そーゆーこと。遊びも本気でやんなきゃつまんねーしな」
本気で考え続ける――それは、とても疲れそうな生き方だなぁと他人事のように思う。少なくとも僕にはできそうにないし、なんならやろうとも思わない。
そしておそらくあやも、そこまではしない。本気で遊ぶっていうのはたぶんそういうことじゃないからだ。
だからこそ、コーヒー図鑑を読んでただただ「積み上げるだけ」の作業に、僕は少し疑問を覚えた。そのやりがいと実感に、陶酔していたんじゃないかな、なんて。
その後部員たちからそれぞれあやに声掛けがあって、「そっとしておく」という名目でその場で解散になった。あやとぐるみは両親とともに、部員たちは各々グループごとに、そして僕は沙織と一緒に帰ることになった。
すっかりセット扱いになっているのを茶化されたりもしたけれど、そこに照れすら感じなくなってきた自分に驚く。
田舎町の路線とは違う、人の多い電車内。それでも「都会」と言われれば首を傾げるくらいで、クロスシートに二人で座れば視線も気にならない。そんな帰りの電車内、少し疲れた様子の沙織は背もたれに身を預けてぼんやりと虚空を見つめていた。
「私って、思った以上にあーやのこと好きだったなぁって」
「……それは、嬉しいけどね」
「もっともっと強くなって欲しい、けど、楽しいって気持ちも忘れないで欲しいなー」
「うん。そこはまぁ、大丈夫だとは思うけど」
「メンタルに関しては私より強そうだもんなぁ」
少しだけ、落ち込んでいるみたいだ。ある意味、あやよりもその負けを悔しがっているのかも。
ため息一つ、ガバッと勢いよく前のめりになったと思えば、その顔を両手で覆う。僕はその背に手を添えようとして、一度だけ躊躇して、その数センチの隙間をゆっくりと埋めた。
「今度は来た」
「……誘い受け?」
「そうともいう」
からかわれた、とは思っても、その手を離そうとは思わなかった。ゆっくりと滑らかなその背に手を滑らせて、かすかに感じる体温に浸ってみる。
わかってはいたけれど僕より小さな沙織の背は、やっぱり僕の手には少し小さい。しなやかな体はけれどしっかりとした芯を感じて、「か細い」という印象はまったくない。
背にかかった髪を一筋、指先でもてあそぶ。
「なんか慣れてきてる」
「沙織が距離近いからだよ」
「教育の成果が出てきてるんだなー」
「教育って」
顔を覆ったまま、少しだけ籠った声で楽しげに。気持ちが上向いてきたみたいで何よりだ。
もちろん「女の子慣れ」したわけじゃない。こんなことは沙織やあや、ぐるみ以外にはできやしない。そもそものところ、そのメンバーに沙織が入っていること自体が奇跡のようなものだ。
何しろあれからまだ二か月も経っていない――
がばっと勢いよく起き上がった沙織は、そのまま僕の手を背もたれで挟み込んでご満悦だ。
「……たのしい?」
「割と。そのままこう、抱き寄せてくれてもいいよ?」
「わかってて言ってるでしょ」
「まーねー」
僕はやらない。強引に手を引き抜くと、苦笑いとため息を一緒にこぼした。
少しだけ強引なのは自覚してる。二人してなんとか空気を良くしようとした結果がこれで、それが上手くいってるんだから問題はない。
表情がちょっと和らいだ、気がする。こっちを見て笑ってくれる沙織に、僕は不器用に笑みを返す。
「あ、そうだ」
「どした」
「僕、ちょっと郡浜に用があって」
「お、私もついてく」
「いや、それはちょっと」
と、僕がそれを辞したところでどうにも察しがついたらしい。「にやぁ」と意地の悪い笑みを浮かべて、僕の肩に手を置いた。
「いやぁ、楽しみだねぇ」
「……わかってるなら放っておいてくれないかなぁ」
「だってほんとに楽しみなんだもん。過去一期待してる」
「ハードル上げるなぁ」
そして沙織の予想は間違っていない。
今日は彼女の誕生日で、夜にはみんなでパーティだ。たぶんタイミングはその時になるんだろうけど、プレゼントにと予定していた僕のオリジナルブレンド。沙織のために日頃からずっと考えていて、先日ようやく完成と相成った。
せっかくだから当日に、つまり今日、「焙」に受け取りに行く。何度か味は確かめたけれど、たぶん、おそらく、きっと、彼女の気に入る味に――香りに仕上がっているはずだ。
受け取った沙織がどんなリアクションをしてくれるのか。期待と不安、それぞれを胸に抱いて空想する僕の肩に、体重を預けてきた彼女がこてんと頭を乗せた。
不意打ちのようなその行動に、僕は不思議と驚くことも動揺することもなく、それこそ驚くくらいに自然と受け入れていた。
六月ももう半ば。すっかり気温も湿度も上がってきて、冷房の効いた車内で引いた汗の名残を感じる、ちょっとだけ不快なそんな季節。けれど彼女の熱も香りも、まるでそれを感じない。心地良い重み、心地の良い熱、そこに混じり合った僕自身のそれからも、不快感が取り除かれたような。
「綾人の作ったのならなんでも、なんて言わないからね」
「だろうね」
「見せて欲しいな、綾人が私を知って、作った山」
「……掘り返されるのかぁ」
小さな身動ぎ。沙織が笑ったのがわかった。
たったのひと月半、されどひと月半。彼女が僕を理解してくれているように、僕もだいぶ彼女を理解してきたと思う。そしてそれは、このコーヒー作りにおいて大きく役立ってくれた。
僕の、沙織に対する一つの答え――そう言ってもきっと、過言じゃない。
「楽しみだねぇ」
「うん。きっと、こえるよ」




