93
実は、20年も待たなくてはならないなど、嘘だったのです。その日が界渡りの日なのは確かでしたが、一ヶ月も待てば、同じ条件がそろうのだと、弟蛙は笑いました。
「だましたんだな」
恨めしそうな兄蛙に、弟はしれっと答えます。
「だって、そんなにラブラブならさあ、一月も、20年も、大差ないでしょ?」
まったくそのとおりです。むしろ一月も惑うくらいなら、すっぱりと決断して欲しいという弟の、粋なとりはからいだったのでしょう。
「ところで、界渡りが失敗したってことはさあ、彼女は異界人ではない、ということだね」
「いや、あれは……」
「ああ、いいのいいの、黙って頷いておけば。上への報告書のための、ただの確認だから」
「それでいいのかよ」
「いいんじゃない? 兄さんは今まで散々我慢してきたんだから、一つぐらいズルしちゃいなよ」
こうして、蛙頭の男は、愛する妻を取り戻しました。
彼は妻に、改めてプロポーズをしました。一世一代のプロポーズです。
「俺はお前だけの道化になる」
悲しいことも、つらいことも乗り越えて、彼女の笑顔を守っていこうと、男は決めたのです。その代償として彼が望んだのは、妻と二人で暮らす、静かな生活でした。
しかし、それはもうしばらく先のことになるでしょう。
なぜなら……
「ミャーコ、なんとかしてくれ~」
哀願するようなギャロの声に、美也子はペンを止めた。
彼女は今、少女向けのラブロマンスを書いている。それも座長から引き継いだ仕事のひとつである。
両生類頭のその女は、上の子を中等教育の学校に入れるのだと、座を離れて定住することを決めた。その後任に指名されたのがギャロ夫婦だ。
これに異を唱えるものなど一人として居なかった。ギャロは元座長が弟のように可愛がっていた男であり、旅座のしきたりも良く心得ている。順当であろう。それにその妻は聡明で、商売ごとの取り仕切りに長けているのだから、文句などつけようもない。
旅座と、家族用の馬車と、副業と、その全てを引き継いでから、すでに5年がたとうとしている。それでもこの夫婦は変わらず、あの日誓い合ったままの深い愛で結ばれてい……いや、たった一つ、変化はあった!
馬車のドアを開けて駆け込んできたギャロは、三つになる娘を抱いている。もちろん醜怪種の娘だ。気の強そうな口元が美也子に良く似た、愛くるしい子供である。
ところがこの娘、どこで泳いできたのか全身ずぶぬれで、体中に水草を巻きつけている。それを抱える父親もずぶぬれで、大きな目玉の間に浮き藻を下げていた。
「大人の見て居ない隙に、勝手に池に入ってたんだ。もう少しで……おぼれるところ……だった……」
よほど恐ろしい思いをしたのだろう。ギャロが泣きながら娘を抱きしめる。
抱きしめられた子供は仏頂面のまま、その鼻先を押し返そうともがいた。
「だって、パパみたいに泳ぎたかったんだもん!」
「馬鹿言うな! お前と俺じゃ身体のつくりが違うだろうが!」
「でも、泳ぎたいの!」
美也子は少し笑って、立ち上がる。
「あらら、パパ、泣いちゃった」
幼子はいまだに仏頂面で、それでもギャロの大きな目玉からあふれる水をしきりに気にしていた。
「だって……」
「じゃあ、パパにちゃんと泳ぎを教えてもらおうか」
子供の表情がぱあっと輝く。
「パパに!」
「それでいいでしょ、ギャロ?」
「うう、わかった。その代わり、ちゃんと泳げるようになるまでは、俺の居ないところで泳いじゃだめだからな。もう、あんな怖い思いはしたくない。お前は、絶対に失いたくない、俺の宝物なんだ」
「優佳も、それでいいわね?」
この名前を選んだのはギャロだ。彼は美也子に元の世界を忘れろとは、決して言わなかった。むしろ、二人きりのときは、いまだに妻を『美也子』と呼ぶ。
だから美也子は安心して、今書いている物語の草稿を母に送った。相変わらず理屈は難しくて解らなかったが、物質の転移は人を送るよりも簡単だと、ギャロの弟は二つ返事でそれを引き受けてくれたのである。
ただの自己満足だと解かっている。帰ってこない娘が書いた手紙を、母はどんな気持ちで読んだだろうか。それでも、母を捨てたのではなく、自分の幸せを選んだのだと伝えたかった。
……そう、美也子の幸せはここにしかない。
本当は、変化などいくらでもある。
五年という月日は決して短くはない。ギャロは美也子を連れてレウの元に弟子入りし、1年間、みっちりと修行した。今ではいっぱしの飴細工職人だ。
美也子は座長の仕事を引き継ぎ、子供を産み、忙しい毎日を送っている。
毎日の生活の中には、ほんの少しの喧嘩もあった。病気をしたことや、悲しい出来事だってあった。決して平坦なだけの人生ではなかったのだ。
それでも、たった一つ変わらないものがある……
「美也子?」
大きな目玉が美也子の表情を伺う。これだけは、いささかも変わりはしない。
美也子は夫と子供に、飛び切り明るく笑って見せた。
「お風呂をたいてあげる。二人とも、ちゃんと洗ってらっしゃい」
幼い娘は実に無邪気なしぐさで、自分の父親にしがみついた。
「じゃあ、パパとはいる~」
ギャロはくすぐったそうに笑って、わが子を抱きしめた。それは実にささやかな、父親の幸せに満たされた笑い顔であった。
そう、このささやかな、ごく当たり前の幸せこそが、最高のハッピーエンド。
「さ、お風呂の支度をしなくちゃ……でも、その前にちょっとだけ待ってね」
美也子はペンをとり、書きかけていた最後の一文を、さらさらと書きなぐった。
『こうして二人は、ずっと、幸せに暮らしました。』