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大きな目玉に雨粒がはじける。それでも足は止まらなかった。
「なんだって、こんな馬鹿でかい家、建てやがったんだよ!」
悪態をつきながら、走る。一つ目の角を過ぎる頃には、もう息が弾んでいた。
(若いころのようにはいかないか……)
近頃はろくな運動をしていない。緩んだ腹回りや、たぷつく二の腕の肉が重かったが、止まる気など微塵もなかった。
(頼むから……頼むから行かないでくれ)
もう少し身が軽ければ、手の一つも伸ばしていたかもしれない。だが苦しい呼吸を抱えて走るギャロには、まぶたの裏に浮かぶ姿を追いかけることが精一杯であった。
転びそうになりながら二つ目の角を過ぎる。目指す建物はすぐそこだ。雨で暗く煙る中、ガラス張りのドームにぱあっと光が点った。
(まさか!)
手遅れだと言うのだろうか。あれは何かの術式が成った光で、あそこには、もう、美也子は……?
それでも諦める気にはなれなかった。がたつく膝をおさえて、さらに走る。漆喰壁の横を走り抜けて、ぼんやりと光るガラスドームの表面に張り付く。雨粒を手のひらでぬぐって覗き込めば、砂の上に描かれた大きな丸と、いくつかの図形が光を放っていた。その円の中心に、美也子は立っている。
円の周りでは長衣を着た男が何か言葉を交わしながら走り回っているが、ガラスは分厚く、その声までは聞こえない。
「美也子!」
息切れの混じった声を張り上げる。しかし、あちらの声が聞こえないのだ、こちらの声だって届くはずがない。
だん!とガラスを叩くが、それは予想したよりもずっと強固で、揺らぎすらしなかった。
「行くな、行っちゃだめだ!」
陣は少しずつ光量を増してゆく。
(ああ、終わりだ)
走ったせいで、呼吸が鳴っている。もう一声をあげる元気すらない。それでも……ギャロはガラスに顔を摺り寄せるようにして、陣の真ん中に立つ美也子を見た。
(なんだ、まだ居るじゃないか)
幾夜も腕に抱いてなぞった身体の形はこうして目に見えているのに、分厚いガラスに阻まれて、ぬくもりに指先が届かない。もどかしさに悶えながらガリガリとガラスの表面を引っかく。
(……欲しい)
体中を打つ雨が冷たい。腹の底に抱えた濡肌種の本能はずくずくと疼く。もう一度あの身体に触れて、思うままに抱き狂い、おぼれてしまいたい。
それでも、角二つを一気に駆け抜けてきた身体は疲弊しきっていて、心に追いついてはくれなかった。肩が動くほどの呼吸は制御できず、膝も少し震えている。
「ふはあ」と情けなく息を吐いて見やれば、ガラスの向うで美也子は、キッと唇を引き結んでいた。実に美也子らしい、凛とした表情だ。だが、その頬はぬれている。大きく見張った目からまた一粒、涙がつたう。
(ああ、あそこにも雨が降っている)
そう思った瞬間、ギャロの足が動いた。
身体は疲弊しきっている。走るというよりは、もつれる足にやっと身体を乗せているような、みっともない有様であったが、気持ちだけは早く、早くと足元をせかす。
正直、どこをどう走ったのか、良くわからない。漆喰壁の横を走り抜け、幾枚かドアを蹴破るようにして開いた事は覚えているが、そのあとは勝手のわからない廊下を行きつ戻りつ、はいずるようにしてここまできたような気がする。それでもギャロは、目的のガラスのドアにたどり着いた。
そのドアを乱暴に開けば、乾いた空気を鼻先に感じる。ざくっと足首まで埋もれる砂地に踏み込んでよろめく。それでも止まることなどできない。
美也子は、まだ部屋の中央に居た。光円の真ん中に立っていた。長衣の男たちが何かを叫んだような気がするが、美也子を求めることしか考えられないほどに疲れきっている。
重たい腕をやっとの思いで伸ばして、彼女の名前を呼んだ。が、呼吸は引き連れて、それは声にすらならなかった。
ギャロはやっとの思いで円の端にたどり着く。普段の彼ならそこで躊躇したかも知れない。なにしろ魔導など一般人には未知の力なのだからどんな禁があるのか、そもそも人の力で踏み破れるものなのかさえ怪しい。
それでも、このときのギャロには、ただ美也子の姿しか見えていなかった。ためらうことすらなく歩を進め、光っている線を踏み消す。幸いにも足元から上るなぞの光が彼の行く手を阻む事はなく、むしろ輝きは急速に失われ、それはただの図形と化した。
あとにはただ、砂の真ん中にぽつんと立つ小柄な女。
ギャロは両手を広げ、倒れるようにその姿を包み込む。「はあっ」と苦しい息を大げさに吐き出せば、耳馴染んだ声がすぐ傍で聞こえた。
「ギャロ、どうして……」
伝えたい言葉はいくらでもあるのに、荒れた呼吸が邪魔をする。だから、ギャロは首を横に振った。
「……行くなってこと?」
伝わった! 必死で、首を縦に振る。両手には力をこめて、美也子を強く強く抱き寄せる。彼の腕の中にとらわれた美也子は、すぐ耳元にある彼の胸の音を聞いた。
破れ落ちそうなほど鳴る心音、不規則に大きく引き吸う呼吸音、そのところどころに混じるのは、鼻をすすり上げる音。その音の全てが都を包み込み、求めている。
美也子の口からも、嗚咽の音がこぼれた。
「そんなの、勝手すぎる……」
涙は幾度か見たが、彼女のそんな声を聞くのは、ギャロも初めてであった。
「帰れって言ったり、行くなって言ったり、どっちにするかはっきりしてよ!」
返事の代わりに、これ以上ないほどありったけの力で、抱く。それに応えたのは、はたっぷりと涙を含んで甘い、鼻の辺りから発せられる声。
「もう、絶対に離さないで。このまま、ずっと、傍に、居て!」
理屈もなく、駄々っ子のような強情さで吐き出される甘えの言葉。それを丸ごと抱きしめて、ギャロはただ一言、呟いた。
「一生……放さない」




