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 散々湿気た空気で焦らしておきながら、雨が降り出したのはギャロが研究所を出たあと、角を二つほど過ぎたところであった。

 手が届きそうなほど低い黒雲から落ちた雨粒は、ぽちりとギャロの鼻先を叩く。

「くそっ!」

 ついさっき、あれほどの愛を交わしたと言うのに、腹の底にずくずくとした肉欲を感じる。そんな濡肌種の習性が憎い。

「しかたねえ、どっかで女でも買うか……」

 手近な鉄柵によろりと身を預けたギャロは、そのまま膝を崩して座りこんだ。少し強くなった雨足が路面に丸い模様を次々に描くが、それすら気にならない。

 体の奥に巣食うこの熱を受け止めてくれる女は、失われた。

「美也子……行くな……ずっと、俺と一緒に……居てくれ」

 いまさらな独白も、もう聞いてはもらえない。

 がっくりと両手までを地面につけば、その拍子に胸のポケットから何かが転げ落ちた。

「これは……」

 あの不細工人形だ。美也子という妻が居たことを明かす、唯一の大事な思い出の品。

 それを拾い上げようとした指先が、ふと、惑う。これを拾いあげたら取り返しがつかない、そんな気がした。

 これは美也子だ。もちろん見てくれはちっとも似たところなどないが、布切れでできた手のひらに載るほどの人形は、きゅっと口元を結んでいる。

(美也子だ)

 めったに涙など見せない女だった。知るもののない異界に落ちて心細かろうに、泣き言の代わりに、こうやって口元をりりしく引き結んでいた。

 それでも夜など、誰も知られないように、布団にもぐって落涙していたのを知っている。背中でその気配を感じながら、その涙の一滴まで残らず見せて欲しいと、ぞくぞくと身を震わせたものだ。

(ああ、間違いなく美也子だ)

 口元とは対照的に、くりっと描きこまれた目は優しい。こんなまなざしを、彼女はいつも向けてくれた。

 本当の夫婦として身体までつながった夜以来、彼女は泣かなくなった。小柄な肩に腕を巻いて抱き寄せてやれば、少しだけ恥ずかしそうな笑いを浮かべながら擦り寄ってくる。あの重みと温もりがギャロに自信をくれた。

 未来永劫、あのぬくもりを放すまいと決めたはずなのに、なぜ彼女を手放した?

 ぽつり、と落ちた雨粒が人形の顔を濡らした。目の粗い布にしみこんでゆく水滴は、最後に見た彼女の泣き顔を思い起こさせる。

(ああ、泣いていたな)

 別れのキスを交わす瞬間も、それは美也子の頬を流れていた。

(俺は、だめな道化だな)

 人を笑わすことに長けているはずの自分が、たった一人、この世で一番に笑わせてやりたい、たった一人の女を泣かせている。

(あっちの世界に帰ったあとも、泣くんだろうか)

 泣くだろう。別れた夫を思い、突き放すようなラストシーンを思い出しては恨むだろう。だが、それもいつかは薄れる。きっと、ギャロの知らぬ男の腕の中で癒されて、安らかに眠る夜が来る。

 ずくん、と、胸が大きく打った。

「くそ! そんなの……だめだ!」

 ギャロは手のひらを広げ、ガッと人形を掴んだ。そのまま、勢いよく立ち上がる。

 自分はこの王都にまで知られた名道化だ。女一人、笑わせてやらなくてどうする!

「美也子っ!」

 その名を呼ぶだけで、息苦しいほどの熱が体中を駆け巡った。これは、決して雨のせいなんかじゃない。

 他に何かを考える余裕などもなく、ギャロは強くなり始めた雨の中を、走った。


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