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 界渡りの準備は整った。

 蛙頭の科学者が部屋に迎えにいくと、ギャロは自分の妻を胡坐の中に座らせて、髪を撫で梳いていた。二人とも衣服をつけてはいるが、腰から絡まるような距離感は、別れの行為の後であること生々しく語る。

 弟は兄に聞いた。

「もういいのかい?」

 どこにもほころびのない、完全に冷静な声だ。それに答える兄の声も完全な、至って冷静な声音だ。

「ああ、もう、終わった」

 彼のひざに抱かれた美也子だけが震えていた。

「ギャロ、私は……」

「行こう。もうすぐおっかさんに会えるぞ」

 自分に向けられた彼の声は、とってつけたように浮かれている。それが悲しく感じて、美也子はうつむきながら、のろのろとしたしぐさで立ち上がった。

 カエル頭の兄弟は、鼻先を空気の中に向ける。

「雨が近いね」

「ああ」

 濡肌種の敏感な肌は、空気にたっぷりと含まれた雨の気配を感じているのだろう。そして、気分は少し高揚しているはずだ。

「それにしても兄さん、お安くないねえ。こんな美人とっつかまえて、さ」

 ガラスの温室へと向かう長い渡り廊下を通りながら、ギャロの弟はいかにも雨前の濡肌種らしい、浮かれた声をあげた。

「ほんと、うらやましいよ。僕なんか研究にかまけているうちに、いろいろとチャンスを逃しちゃってさあ、いまだに一人身だよ」

 ギャロは、それでも幾分沈んだ声で答える。

「賢明だな。あんな、自分の身の回りの世話もできないような生活では、女にも迷惑がかかる」

「違うよ~、研究を捨ててまで追いかけるほどの、イイ女ってのに会わなかったんだよ~」

「どっちにしろ、俺よりはしっかりしてるさ。俺なんか、現実も後先も考えないで、好きだけで突っ走っちまった。その結果がこれさ」

 その言葉が、ツキンと美也子の胸を刺した。後も先も考えなかったのは自分も同じだ。柄にもなく、物語のように甘いラストシーンを望んでしまった。

「ガキじゃあるまいし、そんなモンだけで暮らしてはいけないって、わかってるつもりだったんだがな」

 確かに、わかっている『つもり』だったのかもしれない。それでも、努力はしたつもりだ。ここで一生を生きてゆくのだと心に決めて、屋台仕事を覚えようとした。

「そういえば、結局、屋台のくみ方を教えてくれなかったね」

 美也子の精一杯の恨み言を、ギャロは無言で聞き流そうとする。だから、美也子の声音が少し上がる。

「ネルに発注したぬいぐるみも、まだ確認してない」

「……美也子、それは俺の仕事だ」

 ギャロの声は、普段の彼からは考えられないほど冷たく、固かった。

「お前だって、あっちの世界に仕事があるんじゃないのか?」

「あるけど……」

「仕事ってのは大事なもんだ。どんなにくだらないように見える仕事でも、例え俺らみたいにしがない稼業でも、いなきゃ祭りが盛り上がらねえ。それじゃ困るだろ」

「祭り仕事はしがなくなんかない。立派な仕事じゃないの!」

 元の世界で、小さな会社のOLに戻るのも悪くない。だが美也子は、この仕事が好きだった。もちろん、同じ屋台に立つ夫と視線で言葉を交わし、いつも隣にいられる仕事だから、というのもあるが、そんな浮かれた理由ばかりではない。

 人と対面し、手と手で金品をやり取りする行為は、稼いだという充足感を与えてくれるものだ。特に自分が作ったネックレスを手にした幼子の表情を見るときなど、美也子は今まで感じたことのない、仕事をしているのだという実感に満たされるのを感じた。おそらく彼女は、接客業向きの性質なのであろう。

 無愛想に商品のやり取りをするだけなら誰にでもできる。しかし本当の接客というものは、細やかな気配りができて、相手を喜ばせることを無上の喜びと感じるようなものにしかできないものだ。美也子はギャロからそのことを学んだ。

 彼は、屋台の前に立った子供の全てに目配りする。その全てが笑顔になれるように気を使う。つまらなそうにつったっている子供がいれば、必ず一言、二言をかける。泣いているものがあれば、滑稽など見せて笑わせるのである。だからギャロの屋台をあとにする者は、必ず笑顔であった。それを見れば彼が道化であったことにも合点がいくだろう。ギャロは、誰かの笑い顔を見るのがなによりも好きなのだ。

 そして、美也子はそんな彼の笑顔が、なによりも……

「好きだったよ、ギャロ」

 ぽろぽろと、とめどなく涙が流れる。だが、全ては遅すぎた。

「さあ、ここだよ」

 二人を先導する男は浮かれたしぐさで、ガラスでできたドアを開いた。からりと乾いた空気がギャロの鼻先に吹きつける。

「ここは、常に一定の湿度を保つように作られているからね」

 ガラスでできた多面体をドーム状に組み合わせた天井。足元は目の細かい砂だ。一歩を踏み出せば、足首までがさらりとした砂に埋まった。

「ひどく歩きにくいな」

「ああ。でも、陣を描いたり、消したりするにはこれが都合よくてね」

 陣……ひどくファンタジックな言葉だ。ここはやっぱり異界なのだと、美也子に再認識させるには十分な言葉。

 だだっ広い砂場には、数人の男が待ち構えていた。やはり、みな長衣を着て、ぴっちりと襟元をつめている。

「彼女が、その?」

「ああ」

 短いやり取りだけで男たちは動いた。

 一人が尺を持って美也子の身体を採寸する。その後ろから付き添う男はその数値を手に持ったバインダーに書きこんでいった。また、別の数人は大きな紙を広げて、何かを計算している。だれもが場馴れた様子だ。

「ここにいるのはみんなベテランでね、界渡りには慣れている。安心して任せて良いよ」

 何かがギャロの心に引っかかった。

「界渡りは慣れている?」

「ん、条件さえ整えば、そんなに難しいことじゃないからね。少しばかり計算式は厄介だけど、それだって三人がかりならたいした事はない」

 話の流れを断ち切るように、蛙頭の科学者は兄の肩を強く押した。

「それより、最後に何か言う事はないの?」

 よろけながら美也子の前に立ったギャロは、一瞬、本当にいいたい言葉をこぼしそうになった。

『行くな』

 だが、すでに彼女を帰界させる準備は始まっている。ここで何かを言うだけムダだ。

 だから、ただ短い言葉を。

「元気でいろよ」

 背後で弟が怒鳴る。

「いいの? それで? 最後なんだよ!」

(ああ、うるせえ)

 ギャロは言葉の代わりに美也子を抱きしめた。そのまま唇を重ね、静かなキスを彼女に捧げる。一生分のキスを注ぎ込むように、小さな唇を優しく食む。

「美也子、愛している。いつまでもだ」

「ギャロ、私も」

 それが別れの言葉だった。ギャロはきびすを返す。

「兄さん! せめて見ていかないのかい」

 弟のがなり声に、彼は背中を見せたまま、軽く手をあげた。

「お前には、この街にいる間に、正式な礼に来るよ。今はほっといてくれ」

 美也子が消える姿など見たくはない。そのぐらいなら、重ねた肌の感触を覚えている今のうちに、そのほうが傷は浅いだろう。

 ギャロは、足元の砂を慎重に踏み分けて、歩き出す。背中にいつまでも絡まる、美也子の視線を感じながら……


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