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 なぜばれたのだろう。この世界の醜怪種と、異界人である美也子に特別な差異など無いはずだ。それとも彼のように学識あるものなら解る、何か外見的な違いがあるのだろうか。 

 その狼狽は美也子の、そしてギャロの顔上に明らかであった。

 おろおろとカラダを揺するばかりで、言葉すら失った二人の様子がさぞかし面白かったのだろう。その男は身を折るようにして笑い転げる。

「やだなあ、カマ掛けただけなのに」

 してやられたりだ。ギャロとて、何十年も離れていた男を、弟だと言うだけで信用するほどおろかではない。もっとゆっくりとこの男を見極めてから美也子の事を明かそうと、もしもの時には、今日はただの面会と言う事にして美也子を連れ帰ればいいとさえ思っていたのに、彼女の正体はあっさりと暴かれたのだ!

 ギャロはひざを立て、美也子を後ろにかばいこんだ。さすがに強気な美也子も不安を感じたか、そんなギャロのシャツをぎゅっと握る。

 件の男は、科学者と言うよりは道化じみた大仰なそぶりで両手を開き、肩をすくめてみせた。

「別に、とって食ったりしないよ」

「異界人は実験動物にされるんだろう」

「ああ、あれね」

 何がおかしいのか、彼は再び身を折って笑い転げる。

「アレの元ネタは60年前に出版されたエロ小説でね、こちらに落ちてきた異界人を実験動物として散々いたぶるという凌辱的な内容がウケて、大ヒットしたらしいよ」

「じゃあ、実際には?」

「そんな非人道的なことなどするもんか。むしろ異界人は保護対象なんだよ」

 古来、異界人は神の眷属であると信じられていた。大事にもてなし、無事に異界へ帰すことができれば、神としてこの世界の平穏を守ってくれるのだと。

「そんな古臭い迷信を今でも信じてるやつなんかいないけどね、慣習と、あとはゲンかつぎってやつさ」

 だから、この分野に関しては祭司の領分である。彼らは異界から落ちてきた者の噂を聞きつければそれを手厚く迎え、神としてもてなし、ここの魔導士たちに帰界を指示するのだという。

「本当に、あちらの世界に帰れるのか」

 ギャロはもう身構えてはいなかった。だが、いつの間にかシャツから引き剥がした美也子の手を、強く握り締めている。少しでも危険な事があれば、このまま彼女を連れて逃げ出すつもりであろう。

 弟蛙は、しっかりとつながれた手元を見て、苦笑する。それから、されるがままに手を握らせている女を見やった。

 兄は『ミャーコ』と呼んでいただろうか、美しい醜怪種だ。少し肩を震わせているのに、きつとしてこちらを見ている気の強そうな瞳が、ひどく印象的だ。それに、若い。

「兄さん、ロリコンだったんだねえ」

 のらり、へらりとした彼の態度に、ギャロはいきり立った。

「危険は! ないんだろうな! と聞いているんだ!」

「やだなあ、兄さんたら必死~」

 彼はさらにへらり、と笑う。

「あぶない事なんかないよ~。そもそもが量子力学による観測上の……」

「りょうし? かんそく?」

「まあ、解りやすい観念上の話に置き換えると、異界人には『魂』という観念がある。そうだね?」

 美也子がうなずくと、彼は得意そうにあごをひねった。

「これは本来無形で、無質量、無粒子のエネルギーでね、そうなれば界を越えるなんてアサメシマエだ。もっとも、これだけじゃただの空気と同じだが、どうしたはずみにか、肉体を再構成してしまう事がある。それが『界渡り』さ。だから逆に、こちらで再構成された肉体を、元の『魂』にエネルギー転換してやればいい」

「良く解らんな」

「まあ、科学に基づいた方法だから、心配ないって……そういうコト」

「そうか……」

 ギャロは美也子を見やった。彼女の瞳がもの言いたげに見つめ返してくる。

……まだ彼女に伝えていないことがある。帰ったらゆっくりと話し合おう。まずは俺の気持ちを伝えるところからだ……

 見つめあう視線を、弟の声が遮った。

「じゃあ、準備するから、ちょっと待ってね~」

「はえあっ? 今からか?」

 この言葉は美也子にとっても晴天の霹靂であった。

「まって! まだダメ!」

「ダメって、なにが?」

「だって、お世話になった旅座の人にお礼も言わなくちゃだし、それに……」

 美也子にも、ギャロに伝えていない言葉がある。たとえ届かないとしても、胸の内の残らずを彼に伝えるまでは、ここを離れたくない。

 しかし蛙頭の科学者は、いかにも思慮深そうに目玉の間を押さえる。

「あのさあ、御伽噺じゃあるまいし、呪文一つで異界に渡れるわけじゃないんだよ?」

 大きなため息が、大きな口から漏れた。

「異界とこちらをつなぐには、様々な条件が必要だ。月の位置とか、星辰のならびとか、大気の構成要素とか、ね。それらが重なるタイミングがちょうど今日なんだ」

 ギャロは、少しでも時間が欲しいと思った。だから足掻くような声が出た。

「今回を逃したら、次はいつ帰れるんだ?」

 科学者は、笑いの消えた思慮深げな顔で、震えながら手をつなぎあう夫婦を見下ろした。強く握り締めたせいで、指先が少し血の気を失っている。それでもなお、離れようとはせず、むしろぎゅっと締まる手つきを見た。

「細かな計算式が必要だが、おそらく次のチャンスは……」

 彼はあくまでも冷静に、むしろ冷酷に、告げる。

「20年後」

 ギャロは頭を殴られたような気がした。時間は非情である。過ぎる事はあっても戻りはしない。

 20年後、美也子は四十を越える年になっているはずだ。その年になって異界へ帰されて、いったい、彼女には人生のやり直しがきくのだろうか……美也子はいわゆる適齢期と言うものだ。ここからの20年といえば、子を産み、それを育てる大事な時間であろう。いくら同族しかいない世界とは言え、その黄金期を過ぎて『女の幸せ』を掴む事は難しかろう。   

 帰すなら今しかない。

「準備は、どのぐらいでできる」

 深く沈んだギャロの声に、実にあっさりとした返事が返された。

「二時間程度かな。それまでこの部屋で待つといいよ。どうせ職員たちは忙しくてここには近寄らない。夫婦の会話を盗み聞く者は居ないってことだ、ね」

 含みのある笑いを浮かべた後で彼は、ギャロが良くそうするように、鼻先を少しだけあげた。

「ああ、雨が近いね」

 空気はじっとりと重く肌にまとわりつくようで、漆喰塗りの壁も心なしか湿って見える。濡肌種ではない美也子ですら、それを感じた。

「この部屋は好きに使えばいい。最後に『慰めて』もらったほうがいいんじゃないのかい、兄さん」

 ドアを後ろ手に閉めて、彼は出て行った。後に残された美也子とギャロは……固く手をつないだまま、お互いに見つめあう。

 先に口を開いたのは、美也子のほうであった。

「ギャロ、私、帰りたくない」

「俺だって、本当は……」

 握り締めた手をやっとの思いで開き、ギャロは、美也子の肩を抱き寄せる。

「だけど、仕方ないだろう。このチャンスを逃したら、次は20年後だ」

 つう、と一筋の涙が、美也子の頬をつたった。思い通りにならない現実を曲げようとする涙だ。

 これがどれほどずるい涙か、美也子は自覚している。そして思惑通り、ギャロはひどくうろたえた指先で涙を掬い上げる。

「泣く事はない。何も泣くことはないんだ。お前は家に帰る、それだけのことだ」

 その声は雨音に似て、少し湿っていた。

「俺も今までどおり、一人気ままな旅暮らしに戻る、それだけのことなんだ」

「ギャロは一人じゃないよ」

「ああ、そうだな。座長も居るし、旅座のうるさい連中たちだって居る。寂しい事はないさ」

「違うよ、ギャロ……例え二度と会えなくても、私の心だけはずっと、ギャロの傍に居る」

「どうやって」

「いつも、いつでもギャロのことを思う。今何をしているかな、ちょうどご飯の頃合かな、って、いつでも、どんなときも……」

「おかしな話だな」

 界をまたいでしまっては、再び見えることなどないだろう。ならば、美也子は死んだのだと、そう思えば諦めもつく。死んだ人間は何も思いはしない、自分に向けられていた愛情は断ち切られたのだと、そう思えば……。

「ずっと、俺を愛してくれるのか」

「うん。絶対、他の男の人なんか好きにならない。どこに居ても、私は『ギャロの女房』だから」

 はかない口約束だと心得ている。美也子は若いし、かわいらしい。これから言い寄ってくる男などいくらでも居るだろう。そのうちの誰かと、ごく普通の幸せを掴んでくれさえすれば本望なのだ。

 それでも、その言葉は理屈の壁をやすやすと越え、心に沁みた。

「俺はずっとお前の夫だ。なに、俺の年になっちゃあ女を捕まえようにも、そうそうには……」

 言いかけて口をつぐむ。伝えたいのは理屈などではない。

「俺も、ずっとお前のことを思う。何をしているんだろう、泣いては居ないだろうかと、いつでも考えちまうだろう」

 ギャロはふと、思った。二度と手の届かない者を思う感覚は、きっと美也子が言うところのあれだろうと。

「これがタマシイか」

「うん、そうかもしれない」

 美也子はギャロの胸元に鼻先を擦り付けた。いくばかりかの鼻水と涙がシャツにしみこんだが、そんなことを気にしている余裕など、二人には無かった。

「なあ、俺のタマシイは持っていってもいい。おまえのタマシイは俺にくれ」

 ギャロの手がゆっくりと美也子の背中をなぞる。それは彼女の愛欲を求める手つきだ。ドサリ、と音を立てて、ギャロは美也子を押し倒した。万年床の寝袋が簿ふっと音を立て、ホコリが舞う。

 湿気のせいにしても良かったが、ギャロはそれを潔しとしなかった。ただ、ありのままの欲望を美也子に告げる。

「もう一度だけでいい、お前を抱きたい。俺は間違いなくお前に愛されていたのだと、忘れられないほどに感じさせてくれ」

 美也子の両腕が、のしかかってくる彼の首を掻き抱いた。

「一度だけなんてイヤだ。ずっと一緒にいたい」

「無茶を言うな、美也子。お前だって子供じゃないんだから、解っているんだろう?」

 解るわけが無い。ただ愛する人と一緒にいたいと、数多ある物語のように『そして二人は末永く、幸せに暮らしました』という幕引きが欲しいだけなのに、どうして……?

「そうか。物語じゃないから、ね」

「ああ、俺たちはいい年をした大人だ。好きだの愛しているだの、そんな甘い夢物語ばかりで暮らしていけるわけが無い」

 ならば、この男が今すぐ欲しいと、美也子は願った。

「ギャロ、私にも感じさせて。誰よりもあなたに愛されていたのだと」

 これがこの恋物語の幕引きなら、せめて最後は幸せに満たされて繋がりたい。

「美也子、愛していたんだ。片時も、放したくないほどに」

 過去形で語られる愛を悲しく聞きながら、美也子は彼に唇を差し出した。

 いつもどおりの手順だ。ギャロの大きな口はそれを塞ぎ、ひどく幅の広い舌が歯列を割る。

「む、ぐ……」

 彼に唇を預けながら、太ももを彼の足の間に滑り込ませる。

ごそっと音がして、足元に散らばった紙くずがいくつか舞った。そんなことを気にしている余裕すらないほどに、二人は高まっている。太ももをこすりつけあい、唇で繋がりながら、二人はお互いの服を剥ぎ取った。

 雨がさらに近づいているのだろうか、それとも重ねた肌が熱いから? ギャロは自分を翻弄する濃い湿気を、美也子の唇から吸い上げた。


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