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いつの間にか道の雰囲気が変わった。
そもそもが敷石の質からして違う。さっきまでは手のひらほどの小さな意思を無作為に並べただけであったが、ここは大きめに切りそろえた石を並べて、美しい幾何学模様を路面に描き出している。
この先にあるのは王の住まう城と、政治を行うためのさまざまな庁である。道の両脇に並ぶのはそれぞれに高官たちの住まいらしく豪奢な屋敷で、それが申し合わせたように黒くて高い鉄柵で庭を囲い、その庭は良く手入れされた木々で飾られていた。その木々を割って敷かれた道は、林の中にじゅうたんを敷いたような絵画的な美しさがある。
時折通る馬車も、街場を走っていた乗り合いとは違う。きちんとした黒塗りの箱馬車で、めかしこんだ御者が手綱を握っているのだ。それに、足早にギャロたちを追い越してゆく通勤者たちはみな、男も、女も襟の詰まった長衣を着て、ピシッと背筋を伸ばして、いかにもエリート然として見える。
二人が目指す『王立魔導研究所』は、そんな高級住宅街の一角にあった。半分は漆喰塗りの石造り、もう半分は温室のようなガラス張りでつくられた、大きな建物だ。
その入り口で二人を出迎えた蛙頭の男は、やはり襟の詰まった長衣を着ていた。
「やあ、兄さん」
彼は親しげに握手の手を差し出すが、ギャロは自分を惨めな、それこそ本物の蛙のようなみすぼらしい生き物のように感じていた。
ギャロは勉強が嫌いなわけではない。むしろ幼いころの夢は科学者であった。若い頃、母に渡した金も、本来ならば全寮制の学校に入るための学費としてためていたものだ。あの金があれば、長衣を着てここに立っていたのは自分のほうだったやも知れぬ。そう思うと、この弟に対するやっかみの気持ちが湧いた。
弟のほうは何を気にする風もなく、二人を奥へと案内する。
「いやあ、家に帰るのが面倒でね、ここに僕専用の仮眠室があるんだよ」
通された部屋は狭かったが、仮眠室と言うよりは『巣』だった。足元にはだらしなく広がったままの寝袋、その周りには丸めた総菜屋の包み紙、脱ぎ捨てた着替え、雑誌に書類、食べかけの菓子……ともかく雑然としているのだ。
それらを掻き分けて、弟は寝袋を座布団代わりに差し出した。茶も出さずに、ギャロの隣に座った美也子に鼻先を寄せて顔を覗きこむ。
「まあ、大体のあらましは手紙をもらったよ。これが兄さんの奥さん?」
その不躾なしぐさに、ギャロは思わず声を荒げた。
「おい! 人の顔をそんなにじろじろ覗きこむモンじゃない」
怒鳴られた弟は、くすぐったそうに肩をすくめる。
「なんか懐かしいな。兄さんには、良く、そうやって怒られた気がするよ」
ギャロは鼻の奥がツーンと甘酸っぱい痛みに満たされるのを感じていた。
(たしかに、良く叱ったっけな)
母は赤ん坊の世話で忙しく、この弟の子守はギャロの仕事だった。村の悪たれ同士でちょっとした探検に行くときも一緒に連れて行ったが、年上の子供が年下の面倒を見るのは当然の事であり、特に珍しいことではない。
ただ、この弟は少々変わっていた。
年上の子供がする事を、何でも真似たがる。幼い子供は誰でも、大なり小なりそういう質があるものだが、あまりに手余しなことには恐怖を感じるものである。だが、この子には恐怖心というものが無かった。
ガキ大将の真似をしては池に落ちる、木から降りられなくなる。おまけに何か気になる虫でも見つけると、座りこんで観察など始めてしまうのだから迷子になることも多く、ともかく目が離せない。好むと好まざるとにかかわらず、ギャロは村で一番面倒見のいいお兄ちゃんであった。
「ああ、懐かしいな」
ギャロが低く喉を鳴らせば、すっかり大人になった弟が屈託なく笑う。
その光景の暖かさに、美也子もふわりと笑った。
(やっぱり、ギャロの弟だ)
数十年の時を隔てても、同じ腹から生まれたという血の絆は消えるものではない。パンパンと幾度か肩を叩き合い、言葉を交わせばすっかり子供のように笑いあえる。二人のおっさんが少し喉を膨らませて腕を絡ませる姿は、むしろ愛くるしい。
この姿をずっと見ていたいと、美也子は願った。子供のように笑う、蛙頭のこの男を、ずっと、一番近くで……
(この義弟に、異界人だと気づかれなければいい)
ギャロにこっそりと伝えよう、帰りたくないと。そう思って夫の袖を引いた美也子を凍りつかせたのは、義理の弟の鋭い一言だった。
「ところでさあ、君、異界人だよね」




