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朝、目覚めれば、空はどんよりと曇っていた。雨を孕んだ分厚い雲は低くに垂れ込め、濡肌種であるギャロにとっては、この上とない好天である。
しかし、いつものように気分が踊らない。朝飯を食いながら美也子を見ていれば、気分は雨雲よりも低く、黒く、どんよりと沈む。
(たった一言じゃねえか)
弟に会いに行ったら、美也子の帰界を打診するつもりである。その前に彼女の気持ちを確かめておくべきだろう。もしかしたら美也子は、こっちの世界に残る、と言ってくれるかも知れないではないか。そうすれば、彼女が異界人なのだとわざわざ弟に知らせる必要はない。ただ妻として紹介すればいい。
ただ一言、「いくな」と言えばすむ話なのに、覚悟はつかない。
朝食を済ませて顔など洗い、外出の用意を整えてもまだ、ギャロは悩んでいた。髪を梳く美也子を見やれば、ずくずくと体の奥が沸く。
(やばいな)
ギャロはあの不細工人形を、何の気無しにこね回していた。
しばらくシテいないからだ、と言ってしまえば身も蓋も無いが、この肉欲を寂寥感と混同しないようにしなくてはならない。美也子に伝えたいのは本当に純粋な思いなのだから。
「美也子、そろそろ行こう」
シャツの胸ポケットに不細工人形を落とし込んで、ギャロは美也子の手を引く。
王都のメインストリートへ出れば、朝も早いと言うのに、パン屋の店先から香ばしい香りが漂ってきた。車道を走る乗合馬車は通勤の足なのだろう、零れ落ちそうなほどに人を乗せて行き交う。コロ石を敷き詰めた歩道を行く人波は誰もが足早だ。
その波間に頼りなく漂うように、ギャロと美也子は指を絡めたまま、ゆっくりと歩いた。二人とも無口であった。
特にギャロの足取りは重い。ふと鼻先を上げれば、風の中に雨の香りを強く感じる。水を吸い込もうとする土が放つ、少しひねた匂いだ。
(やばいな)
つないだ手のひらにくっきりと感じる美也子の体温。それがじんわりと指先を侵して、体内にしみこんでくる。この暖かさを全身で感じたのが、なんだか遠い昔の事のように感じた。
「なあ、美也子」
もう一度だけでいい、このカラダを抱くことを許して欲しいと、そう彼は希うつもりだったのだが、自分を見上げる美也子のまなざしに、そんな気は失せた。なぜなら、あまりに無防備すぎるのだ。
往来の真ん中に立ち止まった美也子は、小柄な体で精一杯に首を後ろに曲げ、まっすぐにギャロを見上げている。その瞳は一点の曇りすらなく、ただ信頼しきったように凪いだ色味で、ギャロの心の奥底までをストンと射抜いた。
「なあに?」
「いや、何でもない……」
今朝から何回、こんなやり取りを繰り返しただろう。本当にただ一言を伝えたいだけなのに、やっかいだ。
「迷子になるなよ」
つないだ手に力をこめる。空の遠くでは、ゴロゴロと低い音が鳴っている。それはギャロのカラダの中にも不穏な肉欲を呼びこんだ。
(今夜は、美也子を抱いてしまうかも知れない)
無論、本意ではないが、その時になら言えそうな気がする。たった一夜の交わりや、『夫』という呼称が欲しいわけではない。どれほど意地汚いと思われてもいい、これから先の美也子の人生、晴れの日も、雨の日も、全てを独占する権利が欲しいのだから。
喧騒を巻き込んで風が吹く。つめたい、湿気をたっぷりと含んだ風だ。
もうすぐ、雨が降る……