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 どこかの板目が少しずれているのだろうか、冷たい風が頬を撫でる。美也子が目を覚ませば、辺りはまだ暗かった。馬車の中は眠りの音で満ちている。

 いくつかのいびきと歯軋り、それに、もくもくと誰かが呟く寝言。耳元にある夫の胸も、小さないびきで鳴っている。

 その胸元に鼻先を強く擦り付けて、美也子はぼんやりと考える。

(甘える……か)

 美也子が甘えベタなのは生まれ持った性質である。いや、女一人で生きてきた母の、しゃんとした背中を見て育ったから、というのもだろうが。

(……母さん)

 その背中も、小さくなった。幼い頃は見上げるほどだったのに、最近では見下ろす高さに細い肩がある。思い出すだけで泣きたくなるほど、頼りない肩だ。

 ぴゅう、とまた一つ、風があたる。ごそもそとギャロに身を擦り付けて、美也子は思った。

(冬になる前に、修理してもらわなくっちゃ)

 しかし、それがおろかな考えだと思い出す。美也子の頬に苦い笑いがのぼった。

(そうか。家に帰るんだっけ)

 徒に手を伸ばし、呼吸と共に膨らむギャロの喉に触れる。「がふっ」と一つ鳴って、いびきは止まった。美也子の笑いは、ため息に変わる。

 その決断はギャロにとっても不本意である。それでも彼は、愛する妻のためを思って別れを決めた。そんな事は美也子も良く心得ている。それでも腹は立つ。

(なんでよ、ここはファンタジーの世界なのに)

 獣頭の人間たちが暮らし、魔法もある。美也子の世界の常識で考えれば、十分に物語的だ。

(なのに……)

 眠っている彼の口の端に、そっと唇を押し付ける。瞳を閉じて、そのまま軽く息を吸えば、ちゅっと小さな音が鳴った。

「ふう? 美也子?」

 幸せそうな寝言を聞きながら唇を離す。瞬きの音さえ立てずに目を開ける。だが、彼は相変わらずに小さないびきを立てていた。

……キスの魔法が有効なのはお話の中だけ。彼は王子様に変わったりしないし、目も覚まさない。

(あたりまえよね、現実だもん)

 そんな事は、ここで数ヶ月を過ごした美也子が一番良く知っている。彼女はこの世界で物の重さを感じ、風の匂いを嗅ぎ、味覚を感じ、そして……彼の肌に触れて暮らした。それは間違いのない現実だ。

 だからこそ、キス一つでズルする事は許されない。全てを『そして幸せに暮らしました』で解決する事はできないのだ。

 美也子は、選ばなくてはならない。夫と別れて母の傍で暮らす幸せか、母を捨てて愛する夫と人生を歩む幸せかを。

(本当はね、ギャロ……)

 美也子にも、憧れの結婚の形があった。平凡な夫と、平凡な家庭、それに何よりも。『里帰り』だ。

 友人の何人かは結婚している。幸せそうに子供を抱いて帰省する彼女たちを見るたび、自分もいつかは夫を得て子を産み、幸せを手土産に母のもとを訪ねるのだろうと、そんな親孝行を朧に夢見ていた。ただそれだけの、ひどく現実的な夢だ。

 しかし、ギャロが夫である限り、実家は軽自動車でちょっとそこまで、の距離ではない。親不孝だとも思う。

(それでも、本当は……ね)

 将来も、現実も捨てて、ただ身を寄せ合って眠る夜に溺れていたい。それは、ひどく、甘い夢。あと少しだけ、その夢の続きを見ようと、美也子は静かに目を閉じた。

 絶対に叶わない夢なら、せめて睡間の絵空事でいい。彼を連れて母の元を訪ねる、完全なハッピーエンドを……。


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