S2第七十一章 三方大乱戦
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
大鎌の柄を横に構え、彼女の猛攻を真っ向から受け止める。その一撃の重さに、俺の身体は設備室の奥へとさらに半歩押し込まれた。踵がメンテナンス用のキャビネットに激突し、奥歯がガチガチと鳴るほどの衝撃が走る。彼女は微塵も手加減などしていなかった。その一刀一刀が、俺という存在をこの世界から「減数」しようとする明確な殺意に基づいている。対する俺は、彼女を傷つけるわけにはいかない。鎌の背、柄、石突を駆使して凌ぐその様は、さながら棺桶の蓋を振り回して精密な軍用サーベルと対話しているような滑稽さだ。
だが、決定的な変調は、俺の戦場ではなく主控区から始まった。
佐伯 冴子が、ついに真白の儀軌における「結節点」を捉えたのだ。
当初、誰もが二人は速さを競っているのだと思っていた。白線、鋸光、定相釘。どちらが先に主控区を己の領域へと塗り替えるか。だが、違った。佐伯のこれまでの二手三手は、制圧のためではなく「計測」のための布石だった。真白が鋸を振るう直前の視線の落とし所、三本の定相釘が描く幾何学的な角度、神楽の技術がどの内場回報を「骨格」として利用しているのか。
それら全てを精査し終えた彼女は、もはや正面から切り結ぶのをやめた。
「第二班、南角の支柱。第四班、天井の吊架。赤線を補完しろ」
佐伯の号令が飛ぶ。外部チャンネルから短く、冷徹な了解が返る。
直後、主控区内に散乱していたはずのUV白線が、突如として緻密なパターンを形成した。
拡散ではない。収束だ。
二枚の新たな電子御幣が天井とサイドパネルに吸着し、極細のUV折線が三点から六点へと瞬時に拡張される。目に見えない定規が空間を支配し、主控区という「場」を別の座標系へと強制的に書き換えていく。真白の打った三本の定相釘は依然として輝いていたが、それらが展開していた紫白色の薄光は、外側から白線によってパッケージングされ、閉じた「檻」へと変質させられた。
観月 真白の眉が、初めて微かに動いた。
ほんの僅かな変化。
だが、登場以来一度も崩れることのなかった「貴方たちに私の理屈は理解できない」というあの絶対的な静寂に、コンマ数ミリの亀裂が走った。それだけで、佐伯の手が「骨」に届いたことを確信させるには十分だった。
「……逆向標定ですか」
真白が口を開く。声は依然として平坦だが、そこにはもはや余裕はなく、代償を計算し始めた者の冷徹な響きがあった。
「今さら気づいたの?」
佐伯が一歩踏み込む。眼鏡の縁で踊る冷光は、彼女が操る白線と同じほどに薄く、鋭い。
「あなたの三つのアンカーは儀軌ではない。それは『門』よ。門である以上、封鎖は可能だわ」
言葉が落ちるのと同時に、主控区の両翼から三本の細い白光が射し込まれた。重火器ではない。短距離用の「欄位光束」。それは貫通を目的とせず、床、壁、接続ポートへと執拗に張り付いていく。白光が接地した瞬間、真白の定相釘の一本が、力なく半格ほど輝きを失った。
傍らの希が息を呑む。
「真白さんの防衛線を、無理やり抑え込んでる……」
「抑え込んでるんじゃないわ、」雨瞳がモニターを凝視し、声を強張らせる。「神楽の局所的な『位相』を、霊務局の『案件』へと強制変換してるのよ」
その一言に、設備区で戦う俺の頭皮さえもが痺れた。
なるほど、真白が動きを止めたわけだ。
神楽の技術の本質は「切断」にある。現場を分解し、修理可能な状態へと切り離すメスのような機能だ。だが、佐伯が今行っているのは、その「手術台」を「公的な事件現場」へと戻す行為だ。
一度変換が完了すれば、真白の電漿鋸は「不当な侵入具」と定義され、彼女の打った釘は「汚染源(証拠品)」として、法という名の封印で完全に沈黙させられる。
もはや強弱の問題ではない。
これは「話語権」の奪い合いだ。
誰が先にこの場を定義(定義)し終えるか。その一点で、相手の戦術を「行使」から「違法行為」へと格下げできる。
真白は、もはや鋸刃で佐伯の線を切り裂こうとはしなかった。
彼女は半歩だけ後退した。
たった半歩。
狐面の下の紫瞳が、初めて佐伯から離れ、主控区の四隅、弥生の足元の境界線、そしてインターフェースを握る真壁の手をなぞり、最後に最も暗く沈んだ自分の定相釘へと落とされた。
彼女は計算している。
そして佐伯はそれを察知し、一秒の猶予も与えない。
「全ライン、檻を圧殺せよ」
彼女の非情な号令が下される。それに応じ、外囲のS.A.T行動員たちはもはや支援要員ではなく、彼女の「手足」へと変貌した。正門の残存部隊、天井裏、西側設備室――。動員可能な標定片、御幣、UV光束の全てが主控区の核心部へと注ぎ込まれる。派手な衝突音はない。ただ、凍りつくような「秩序」が、部屋中の混沌を無理やり一枚の報告書へと捏ね上げていく。
真白の左側にあった定相釘が、パシィィン! と音を立てて消失した。
紫白色の薄光が、無残にその一角を欠く。
彼女の身体は揺らがなかったが、主控区を満たしていた神楽の「施工気配」が目に見えて薄れていく。電漿鋸の唸りは健在だが、もはや現場を支配する音ではなく、閉じられつつある箱の中で空しく反響する断末魔のようだった。
佐伯は、その機を逃さない。
「観月 真白、投降しなさい」
その声に興奮の色はなく、ただ研ぎ澄まされた刃のように冷たい。
「選択肢は一つよ。今退けば、神楽の技術的誤入として処理してあげる。……これ以上踏み込めば、あなたの介入を『現場破壊』と断定し、身柄と装備を共に列管するわ」
えげつない。
ただ叩くのではなく、相手に「体面のある敗北」という逃げ道を用意してやる。公務員組織の最も陰湿な毒だ。相手を打ち倒しながら、その失敗の「筋書き」まで代筆してやるのだから。
俺は琉璃の刀を捌きながら、心の中で毒づいた。
(……この女、接管のやり方がえげつなすぎるぜ)
琉璃も潮目が変わったことに気づいたのだろう。だが、彼女は主控区を一瞥しただけで、その刀勢をさらに一段階重くした。
彼女にとって、佐伯と真白の勝敗など、道端の石ころの転がり方と同じだ。
彼女が守るべき「規格」は、いまだ俺が立っているという一点のみ。
「……あんたたち、俺が死にそうな時に公文書の話をするのが趣味なのかよ!」
維修梯子の死角に追い詰められ、鎌の柄で刀を支える。衝撃で肩の感覚が麻痺し始めていた。
「――喋る余裕があるなら、」彼女は冷酷に告げる。「まだ斬り込みが足りないということね」
「そいつは不健全だぜ、お姉さん――!」
直後、彼女の肘打ち(エルボー)が俺の言葉を喉の奥へと叩き込んだ。
背中を梯子の鉄枠に強打し、ガシャン! と不快な音が響く。大鎌を落としそうになりながらも、歯を食いしばって刀を上方へ受け流す。視界の隅で、真白が沈黙を守っているのが見えた。
彼女は、収束していく白線の檻の中で、消えかけた自分の釘を見つめていた。まるで、自分が修復しようとした道が、公権力によって舗装され、封鎖されていくのを眺めているかのように。
そして、真壁の声が上がった。
もはや、彼も限界だった。
「希、フィードバックの遅延速度は!?」
左手で弥生の肩を抑え込み、右手でインターフェースを掌握するその腕は、激しく痙攣していた。
「0.87……まだ上昇しています……!」希の声が裏返る。「真壁さん、主控区は今、霊務局のフィールド化、神楽の局所切断、そして防禦協議の反発――その三つを同時に受けています! 私たちのシステムじゃ、これ以上は……!」
「……耐えろ。耐えるしかない」
「……手が、血が出てます……!」
そこで、俺も気づいた。
インターフェースを握りしめる真壁の右手指の隙間から、鮮血が滲み出していた。一滴や二滴ではない。過負荷なシステムに神経を逆流され、無理やり搾り出されたような細い筋。それがコンソールの縁を伝い、床へと滴り落ちている。
彼はたった一人で、システムを物理的に「繋ぎ止めて」いた。
弥生の防禦協議、内場支点、そしてこの主控区が今すぐ爆発しないための、最後の人力安定装置。
その血を、弥生が捉えた。
彼女は、身を乗り出すように僅かに動いた。触れようとして、しかし自分の異質さが彼を傷つけることを恐れ、指先を空中で凍らせる。
「……真壁……」
「動くな、と言っただろう」
彼は彼女を見ようともしなかったが、その声は先ほどよりも深く、静かだった。
そこで、真白が、不意に口を開いた。
「――佐伯 冴子」
その声は、決定を下した後の機械的なアナウンスのように平坦だった。「……自分が今、なぜ勝てているのか、理解している?」
佐伯は答えない。
彼女の操る白線は、冷酷にその輪を縮め続けていた。
真白が自ら、その「答え」を口にした。
「……線で勝っているのではないわ。私がまだ、手順を遵守しているからよ」
その一言に、佐伯の眼光が鋭く変質した。
彼女は理解したのだ。そして、俺も。
これまでの真白は、電漿鋸や定相釘を振り回しながらも、神楽という組織の「規律」の枠内に留まっていた。情報を全面開示せず、重装儀軌を完全に展開せず、他者の主控システムに不可逆な損害を与えない――。彼女は技術者として、リスクを計算しながら「切除」を行っていたに過ぎない。
だが、佐伯の冷徹な接管は、彼女をその「境界線」の向こう側へと叩き出した。
退けば、弥生を失う。
退かぬなら、技術介入という建前を捨て、神楽という怪物を白日の下に晒すしかない。
――重大な決断。
真白は左手を、腰背部で沈黙していた大型儀軌匣へと伸ばした。
――カチリ。
その小さな駆動音は、荒れ狂う主控区を一瞬で静止させるほどの重圧を伴っていた。
「観月 真白、装置から手を離しなさい!」佐伯の鋭い制止。
「……遅すぎるわ」
宣告と共に、漆黒の重匣が開放された。
現れたのは三本ではない。六本。
それも先ほどまでの細身なタイプではなく、より重厚で、基部には禍々しい符紋導線が絡みつく重装型。それらが露わになった瞬間、大気中の電漿臭は肺を焼くほどに濃密になり、本来なら神社の奥深くに秘匿されるべき「禁忌」が、この無機質な部屋へと引きずり出された。
老高が、戦慄と共に叫ぶ。
「……バカ言え、鎮魂旗級だと!?」
「重儀軌を下ろすつもりよ……!」雨瞳の顔から、さらに色が失われていく。
佐伯はもはや言葉を費やさず、物理的な排除に転じた。
白線はもはや檻を作るためのものではなく、対象を「両断」するための刃へと変わる。三条のUV短束が、真白の手、匣、そして足元へ殺到する。それは行政的な接管ではなく、現場での「即時処刑」そのものだった。
だが、匣を開いた真白に、退くという選択肢は存在しなかった。
彼女は重装型定相釘の一本を、逆手に握り、主控区の床へと力任せに打ち込んだ。
――ドォォォンッ!
爆発ではない。フロア全体が、その質量に耐えかねて一階層分沈み込んだかのような、重層的な共鳴。
紫白色の雷紋が釘を起点に四方八方へと這い回り、儀式的な電子回路図を描き出す。それは佐伯が構築したばかりの「檻」を無残に食い破り、主控区の中央を、別の理が支配する異界へと変貌させた。
(……終わったな)
俺の脳裏には、その言葉だけが響いていた。
この一釘で、真白は明確に一線を越えた。
彼女はもう「修正」になど来ていない。
神楽の重儀軌をこの場に降ろし、霊務局と正面から袂を分かってでも、弥生を強引に接管する道を選んだのだ。
そして佐伯もまた、手順を演じる余地を奪われた。
ここが、転換点。
これまでは「現場の混乱」として処理できた。だが、この瞬間から――神楽が正式に、この戦争に「下場」した。
操作パネルを握る真壁の右手が激しく震え、滴る血の量が増していく。重儀軌の一打という過剰な刺激を受け、弥生の足元の境界線が眩い光を放ち始めた。防禦協議が、あらゆる外部規則を食い殺そうと本能的な反撃を開始する。
「内場支点、暴走開始ッ!」希の絶叫。
佐伯 冴子は、真白を凝視したまま。その声を、かつてないほど無機質な「殺意」へと押し殺した。
「――よろしい(いいわ)」
佐伯は手袋を無造作に引き剥がし、掌の中に隠されていた、いまだ沈黙を守っていた「指揮官級標定片」を露わにした。
「……ならば、もはや『接収』ではないわね」
親指が、その冷徹なスイッチを押し下げる。
直後。
白光が、フロア全体を暴力的に焼き尽くした。
照明ではない。
それは「判定」だ。
主控区全体が、巨大な氷の海へと沈められたかのようだった。乱れ飛んでいた光線、符紋、残留波形、さらには警報のノイズまでもが、一瞬にして同一の「規格」へと強制的に圧縮される。副控台の生き残ったモニターが全て白一色に染まり、黒い活字の羅列が、死刑宣告のように高速で流し落とされた。
『現場、昇格』
『指揮官級封鎖、有効』
『敵対源、マーキング開始』
『観月 真白――未認可の技術的侵入を確認』
『現場敵対対象として登録』
希が息を呑み、操作パネルから弾き飛ばされそうになりながら戦慄する。
「……本当に『敵対』を付けた……!」
警告でも、窓口業務でも、技術的誤認でもない。
「敵」としての認定。
佐伯 冴子は、その無慈悲な白光の中に毅然と立っていた。銀縁眼鏡の奥の眼光は、向けられた刃よりも鋭く、冷たい。指揮官級マーカーを握りしめたその手は、まるでフロア全体の「意思」そのものを掌握しているかのようだった。天板、支柱、床の継ぎ目、そして半壊したコンソールの残骸――。先ほどまで配置されていた全ての御幣と標定片が、一斉に再起動し、網を形成する。
拡散ではない。
完全な「包囲」だ。
「――全フェンス、閉鎖」
彼女の声は、先ほどよりも平坦に、そしておぞましいほどの静寂を伴って響いた。
「敵対源の進入、後退、および中枢への干渉を一切禁ずる」
それは真白へ向けられた言葉ではない。
この場を統制する「システム」そのものへの絶対命令。
次の瞬間、白線が四方八方から一気に収束した。
上下左右、さらには真白が切り裂いた天井の亀裂までもが、極薄のUVフィールド線によって封印される。それはもはや網ですらなく、壁ですらない。肉眼では捉えられないほどの透明な「檻」。大気中を漂う粉塵や光屑が、その見えない境界線に触れた瞬間に整然と切り落とされ、主控区は一つの「透明な証拠品箱」へと変貌を遂げた。
その箱の中央に、観月 真白は立っていた。
狐面は雪白。
紫の瞳は、さらにその冷徹さを増す。
だが、彼女は退かなかった。
足元で、今にも消え入りそうな自分の定相釘を見下ろし、それから佐伯へと視線を戻す。それは、もはや対話の余地など残されていない「施工通知」を眺める者の眼差しだった。
「……なるほど。私を封印するのではなく、私そのものを『処理可能な項目』へと書き換えるつもりですね」
「気づくのが遅すぎたわね」佐伯の返答は、あまりに簡潔だった。「観月 真白。現場指揮権はオーバーライトされた。直ちに工具を下ろし、儀軌を解除しなさい。両手を内場から離せ」
真白は従わなかった。
彼女は、あの重装儀軌匣を、ゆっくりと持ち上げた。
防衛ではない。
さらなる「侵食」のための予備動作。
「神樂機關・重裝儀軌班、班長――觀月 真白」
彼女はまるでおさらいをするかのように、自らの名を一文字ずつ刻みつけた。
「私も公式に宣告します。主要担体は既に過負荷支点状態にあり、霊務局の封鎖モデルにこれを修正する能力はありません。これより、神楽が事態を接管します」
「抜かしやがれ、この」老高の罵声は、雨瞳に肩を強く抑え込まれて遮られた。
真白が、二本目の重装定相釘を床へと打ち込んだからだ。
――ドォォォォォンッ!
今度はフロアが沈むだけでは済まなかった。
主控区の空気そのものが、中央から叩き出された紫白色の震動波によって、肉眼で見えるほどに歪んだ。その紋様は床を這い、デスクを舐め、佐伯が展開したばかりの白いフェンスを嘲笑うかのように、規則そのものを物理的に引き裂きながら拡張していく。
設備区の通路で姉貴の刀を受け流しながら、俺の頭皮は総毛立った。
「……おいおい、神社出身の連中は、どいつもこいつも喧嘩の最中に『ご祈禱』を始めるのが趣味なのかよ!」
歯を食いしばり、大鎌の柄で刀鋒を跳ね上げる。腕の骨が軋み、衝撃が全身を震わせる。
琉璃は、俺の皮肉など一瞥だにせず、ただその「獲物」を屠ることに没頭していた。
彼女はただ、二本目の重装型定相釘が床を穿ったその瞬間、一度だけ主控区の方へと視線を流した。
ほんの半秒。
だが、その直後、刀の速度がさらに跳ね上がった。
彼女も理解したのだ。向こうで致命的な何かが起きていることを。
だからこそ、余計な懸念を断ち切るために、まず俺を「完遂ける」ことを選んだ。
……全くだ、この最高級の家庭倫理劇のせいで、俺の命はもう風前の灯火だぜ。
主控区では、佐伯の構築したフィールドの白線が、初めて目に見えて歪み始めていた。
破壊されたのではない。
「定義」を歪められたのだ。
真白が打ち込んだ二本の重装釘が、彼女の周囲わずかな領域を、別の施工ロジックへと強制的に塗り替えていた。霊務局の「平面的で、整列され、管理可能なグリッド」とは異質な――深度を持ち、位相差を孕み、内層と外層が複雑に錯綜する儀式空間。佐伯の白線がそこに触れた瞬間、定規が生き物に触れた時のように不自然にしなり、本来の測量距離を完全に失墜させた。
「……三点展開」
真白が呟く。
その宣告と共に、重匣から残りの四本が射出された。
二本が左右の壁角へ。
一本が天井の裂け目へと突き刺さる。
そして最後の一本――。
あろうことか彼女はそれを、弥生の足元の境界線へと叩き込んだ。
「――っ、やめて!」希が悲鳴を上げる。
だが、真壁はその釘が接地することを許さなかった。
彼は右手をインターフェースに沈めたまま、左手を払うようにして、デスク上にあった黒い標定片の残骸を弾き飛ばした。黒い破片が重装釘と空中で激突し、火花を散らす。軌道を一寸だけ逸らされた釘は、弥生の足元、わずかに外側の床へと深く突き刺さった。
たった一寸の狂い。
だが、内場は既に狂乱の渦に飲み込まれていた。
繃りすぎた神経に、焼きごてを押し当てたかのような過剰な刺激。
弥生の足元にある不可視の境界線が眩い光を放ち、床の白光が収縮と拡散を繰り返す。直後、不自然な「空間のズレ」が発生した。テーブルの脚が天板より近くに見え、壁面が奥へと遠ざかり、動いていないはずのコンソールの縁が、ありえない角度で「折れ曲がって」見える。音の伝播さえもが歪み、希の叫び声が、全く別の方向から響いてくる。
「内場拒止、暴走中! 防禦協議が侵入口をすべて書き換えています!」
「書き換えじゃないわ、」雨瞳がモニターを凝視し、顔を引き攣らせる。「……失控(暴走)よ。システムが、あらゆる外部規則を『敵対(侵入)』だと認識し始めたのよ」
最悪の事態だ。
なぜなら現在、外部規則は「二つ」存在している。
佐伯の指揮官級封鎖。
真白の重装儀軌。
その二つの巨大な暴力の合間に、真壁と弥生は挟まれているのだ。
真壁の右手甲から溢れる血が、一気にその量を増した。主控区という「システム」そのものが、彼の指先から神経へと逆流し、その肉体を内側から食い荒らしている。彼は呻き声一つ漏らさず、ただ奥歯を噛み締め、発狂し始めた「獣」の首を素手で絞め続けていた。
「真壁さん、回報が逆流してます! このままじゃ右手が――」
「……耐えろ。まだだ」
「腕が壊れちゃいます!」
「壊れるなら、壊れればいい」
真壁は冷徹に言い捨て、瞳だけは弥生の足元の白光を見据え続けていた。「……まず、あの子を。あの子を生かさなければ」
白光の中に立つ神代 弥生は、もはや実体を失いそうなほどに透き通っていた。
反応がないのではない。
彼女は今、全存在を懸けて「支え」ているのだ。
呼吸を一つするたびに肩が震える。それは、四面八方から押し寄せる不可視の質量が、彼女の肺を、心臓を、一滴の猶予もなく圧搾しているからだ。瞬き一つさえも不自然に遅い。自分の身体を制御することさえ、暴走する防禦協議との過酷な「交渉」を必要としているかのようだった。
彼女は動きたいのだ。
だが、動くことは許されない。
彼女という支点が今ここで揺らげば、この空間全体が「破口」へと転じ、全てを飲み込むだろうから。
「弥生、外を見るな」真壁の声は、荒っぽいが確かだった。「……俺を見ろ」
彼女は、ゆっくりと視線を戻した。
だが、その視線が彼に届くより先に、主控区に配置された四本の重装釘が一斉に共鳴を開始した。
真白が、ついに重儀軌を最大出力で開放したのだ。
それは単なる発光ではなかった。
光の洪水ではない。そこにあったのは、空間そのものに刻み込まれた「第二の骨格」だった。
紫白色の雷紋が床、壁、天井から同時に中心へと収束し、目に見えない「神輿」が主控区を丸ごと包み込む。それは霊務局のフェンスを破壊するためのものではない。それを内側から飲み込み、さらに巨大な「神楽の理」で上書き(オーバーライト)するための儀式。
佐伯の白線が、かつてないほど激しく乱れ始めた。
切断されたのではない。全ての線が、無理数の座標系へ強制的に再計算させられているのだ。
彼女の瞳から、ついに一切の温度が消失した。
それは怒りではない。――これ以上の「出力」を惜しめば、現場そのものを神楽に奪われる。そう認めた者の冷徹な決断。
「――敵対源、最終段階へ昇格」
外部回線が、一斉に呼応する。
直後、主控区の壁面、天井裏、そして正門の封鎖柱が、硃砂色の短脈衝を一斉に放射した。爆発ではない。それは「局部位相抑制」。霊務局のフォーマットに従わぬあらゆる技術を「ノイズ(エラー)」として圧殺するための、官僚組織的な暴力。
真白が、電漿鋸を正門へと向け、真っ向から迎え撃つ。
彼女もまた、もはや何も隠してはいなかった。
鋸刃を横に薙げば、その音は祝詞と金属の咀嚼音が混じり合う異様な轟鳴へと変貌する。彼女の足元の六点の儀軌が眩く輝き、神楽の重儀軌工法が主控区を「解体予定の巨大構造物」へと定義し直した。
「佐伯 冴子」真白の声が、ノイズの合間を縫って響く。感情は死んでいる。「……これ以上の加圧は、担体を完全に『砕』くわよ」
「……圧さなければ、彼女は貴様の手に堕ちる」佐伯の返答は、あまりに速く、硬い。
「……少なくとも、私は『解体』の手順を知っているわ」
「……そして私は、彼女を『保全』する法を知っている」
「それは保全ではないわ」真白が断じる。「――蓋をして、殺すだけよ」
白線と紫紋が、正面から激突した。
もはや、光の切り合いなどというレベルではない。
二つの「現実」が、現場という名の領土を奪い合っていた。主控区の中央は、あたかも不可視の巨人に両端から折り曲げられたかのように歪んでいる。白光は全てを平坦な記録へと変えようとし、紫紋は全てを位相の断片へと切り離そうとする。モニターの文字は意味をなさぬ乱数となり、壁の亀裂からは白いプラズマの火花が噴き出し、空気中の粉塵さえもが、二つの引力に引き裂かれて迷走していた。
そして、その激突の真ん中に、弥生の暴走する防禦協議があった。
それはもう、門を守るためのものではなかった。
この世界に存在する「全て」を、拒絶するための盾。
佐伯の線も、真白の紋様も、外からの視線も、内からの命令も。
そして、インターフェースを通じて彼女に触れ続けている真壁の手さえも、システムは「外敵」として排除し始めたのだ。
真壁が、低く呻き声を漏らした。
俺の耳は、その小さな異変を逃さなかった。
操作パネルを握る彼の右手首には、灼けたような鮮紅の紋様が浮かび上がり、滴り落ちた血が床の白光に触れた瞬間、吸収されるように消失していく。
「……連結媒介を『捕食』してる」希の顔が土色に染まる。「……防禦協議が、真壁さんを侵入口だと認識し始めた……!」
「手を引け!」雨瞳が絶叫する。「……このままじゃ、システムに飲み込まれるわよ!」
「……引けるかよ」真壁の声は既に枯れ果てていた。だが、その眼差しだけは不気味なほど安定している。「……俺が引いた瞬間に、この支点は崩壊する」
「引かなきゃ、あんたが死ぬんだよ!」老高が吼えるが、誰もその「戦場」へは一歩も踏み込めない。
そこはもはや、人間が立ち入って良い場所ではなかった。
白線、紫紋、そして防禦協議。三つの巨大な歯車が噛み合う「無慈悲な中心点」。
あの中に手を伸ばせば、存在ごと粉砕される。
俺は設備区の通路で琉璃の刀に追い詰められ、背後の冷却管を強打した。噴き出した白霧が視界を遮る。彼女もまた、主控区の異常事態を察知していた。もはや「失控(暴走)」という言葉では生温い、全てを飲み込むブラックホールのような拒絶。彼女は俺を釘付けにし、その地獄へと近づかせないように立ち塞がっている。
「……余裕だな、お姉さん」俺は水滴を拭い、荒い呼吸を繋ぐ。「……あっちで神様たちが喧嘩してるってのに、俺に構ってる暇なんてあるのかよ」
「……貴方がここにいる限り、あの子は不浄のままよ」琉璃の琥珀色の瞳は、白霧の中でも美しく、そして残酷に輝いていた。
その言葉に返す言葉を持たなかった。
なぜなら。
主控区の支点の中で、弥生が――。
音もなく、前方の深淵へと崩れ落ちたからだ。
倒れたのではない。
担体としての彼女が、内場の深淵へと強引に引き摺り込まれようとする、空間的な「揺らぎ」だった。
真壁が咄嗟に左手で彼女の肩を掴む。だが、その重心の偏移により、インターフェースに沈めた右手はさらに深く、システムに「喰い破られ」た。手甲の血線は瞬く間に腕へと広がり、指の節々は白磁のように色を失っていく。
「弥生ッ!」希の悲鳴が裏返る。
弥生からの返答はない。
彼女は、他の誰にも聞こえない「聲」を聞いているかのようだった。焦点は虚空を彷徨い、唇の色は完全に消失している。足元から這い上がる白光は、もはや彼女を支点として扱うことをやめ、彼女そのものを「境界」へと造り替えようとしていた。
真白の瞳に、初めて本物の焦燥が走る。
「佐伯、ラインを止めなさい!」彼女は鋭く吠えた。「担体の『境界化』が始まっているわ!」
「儀軌を解け」佐伯は一歩も退かない。「さもなくば、このまま圧殺する」
「これ以上圧せば、彼女はこの空間の『拒止核』に成り果てるわよ!」
「神楽に奪われるよりはマシだわ」
「貴女――!」
真白の罵声が響くより早く、弥生の足元の白光が暴発した。
外側へではない。
内側へと、全てを吸い込むような「収縮」。
主控区から、中央の空間が「消失」したかのような錯覚。
デスクが歪む。
白線が折れ曲がる。
紫の紋様が掻き消える。
真壁の身体が前方へと強く引き込まれ、不可視の「内側」へと飲み込まれそうになる。
「真壁ッ!」佐伯の声さえもが恐怖に震えた。
だが、真壁はその絶望的な状況下で、なおも手を離さなかった。
左手で弥生を繋ぎ止め、右手はシステムに喰らわれながら、三方向から引き裂かれるような負荷に耐え、血を吐くような思いでその言葉を絞り出した。
「――誰も、こいつに触れるなッ!
」
直後。
主控区の全ての灯火が、断末魔のような音を立てて消失した。
残されたのは、白。
そして、紫。
闇の中で、もはや人の世のものとは思えぬ弥生の足元の境界線だけが、悍ましく輝き続けていた。
その瞬間、俺は悟った。
もはや、誰が優位に立つかなどという次元はとっくに通り過ぎている。
この「場」が、主を含めた全員を飲み込み、跡形もなく消し去る前に――。
誰が、この地獄を止められるのかという、絶望的な持久戦が始まったのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




