S2第七十二章:亡霊艦隊
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
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佐伯、真白、そして俺を殺しにかかっている琉璃。この三者が基地内で形成していた、滑稽なまでに歪んだ膠着状態が。
いや、正確に言うなら、真白の展開した重装儀軌が世界の理を書き換えようとした、その刹那のことだ。
白光を放っていた重装儀軌が、まるで安物の家電がブレーカー落ちでも起こしたかのように、唐突にその軸を揺らした。
次の瞬間、それは呆気なく崩れ落ちた。
爆発もしない。
神の威光もない。
主控區を道連れにするような、期待通りの壮絶な破滅シーンすら用意されていない。
ただ、錆びついた機械が噛み合った時のような、不快な異音だけが響く。
ギ、ギギ、ギ。
悪趣味な冗談のような、耳障りな音だ。
俺はプロとしての倫理観を総動員して、吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
だが次の瞬間、笑い事じゃない現実に直面することになる。
「ヴォォォォォォォォォォォンッ――!」
この世のものとは思えない、巨大な汽笛の音が轟いた。
その響き一つで、全員の動きが完全に凍結した。
佐伯の手元で収束しかけていた術式の白線は中空で静止し、真白の足元で暴れていた紫白の儀軌は、見えない手に押さえつけられたかのように沈黙する。琉璃の刃は俺の喉元数寸の場所で止まったまま、一ミリも動かない。基地全体が静まり返ったのではない。
その汽笛の音が、「暫時、不動」という物理的な命令を空間そのものに刻み込んだのだ。
そして、霧が這い寄ってきた。
どれほどの時間が過ぎたのか。十数秒だったかもしれないし、肺の中の空気が毒物に変わるほど長い時間だったかもしれない。とにかく、視界を白く塗り潰すほどの海霧が、金属の摩擦音と旧式エンジンの重苦しい喘ぎを伴って、海の方から押し寄せてきた。
それに引きずられるように、船が現れた。
とてつもなく古い船だ。
燃料が重油なのか石炭なのかすら判別できないほど古びているが、その臭いだけは強烈だった。煤煙、赤錆、海水、腐った木材――それらに、死体と旧式の軍服を十数日間も密閉して発酵させたような腐臭が混ざり合い、四方八方から流れ込んでくる。シュールストレミングの缶詰を鼻の奥に突っ込まれ、さらに踵で踏み抜かれたような暴力的な悪臭だ。
前方に立っていた靈務局の隊員が二人、その場で胃袋の中身をぶちまけるのが見えた。
その時、誰かが叫んだ。
「総員!! 戦闘態勢!!」
それは単なる悲鳴ではなかった。
その号令と同時に、旧日本帝国海軍の軍服を纏った無数の死者たちが、床から、壁の隅から、影と霧の境界から、まるであらかじめプログラムされていたかのように一斉に「上浮」してきた。
幻覚ではない。
それは、腐敗した死肉の塊だ。
軍帽はボロボロに崩れ、剥き出しの頭蓋には皮肉が中途半端に張り付き、眼窩は虚無のように黒く落ち込んでいる。軍服に染み付いた海塩と古い血痕が、湿った光を放つ粘膜となって死体を包んでいる。先ほどから漂っていた吐き気を催す屍臭の正体は、この「熟成」しきっていない旧海軍の成れの果てだったわけだ。
続いて、革靴の音が響く。
コツ。コツ。コツ。
緩やかで、迷いのない足取り。床を叩くその音は、周囲の腐乱した亡霊たちよりも、遥かに「生者」に近い質感を備えていた。
小太りの体型に旧海軍の将官服を纏った男が、霧の向こうの老朽艦からゆっくりと降りてくる。
彼が一歩進むたびに、腐り果てた亡霊兵士たちは、機械的な正確さで一斉に敬礼を捧げた。
誰も、声を出すことすら許されなかった。
男はそのまま佐伯、真白、琉璃、そして俺が構成する歪な円陣の中心まで歩を進めると、足を止め、ゆっくりと周囲を睥睨した。
最後、その視線は俺のところで固定された。
あろうことか——彼は俺に向かって、微かに、だが確かに頷いてみせたのだ。
俺の脳内回路は、その瞬間たった一つの単語で埋め尽くされた。
「は?」
男は、今にも爆発しそうな基地内の衝突など微塵も気にかけていない様子で、平然と袖口を整えてから口を開いた。
「遅くなり申し訳ない。少々手際が悪かったようで」
声は低かったが、霧を、腐屍を、そして主控區に残留する光の残滓を物理的に圧殺して響いた。
「第六の『栓』を、受け取りに参った」
佐伯 冴子は、この異常すぎる登場に気圧されながらも、辛うじて声を絞り出し、半歩前へ出た。まるで彼女が立ち続けている限り、法執行官としてのプロトコルは死なないと証明するかのように。
「来訪者よ。識別名と目的を申告せよ」
男は彼女を一瞥し、微かに微笑んだ。
その笑みは、驚くほど慇懃なものだった。
「不才の身ながら、私は一介の敗軍の将に過ぎません」
彼は一度言葉を切り、その場にいる全員がその「名」を処理するためのタイムラグを置いた。
そして、告げた。
「山口 多聞」
名が落とされた瞬間、現場はさらに深い静寂に包まれた。
全員が反射的に脳内のデータベースを検索し、その名をどのカテゴリー、どのシステム、どの敵我識別(IFF)に分類すべきか必死に探っているのがわかる。だが、いくら検索をかけたところで、既存の枠組みにはどこにも収まらないのだ。
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最初に笑い出したのは、真白だった。
普通の笑いではない。
回路のどこかがショートしたかのような、狐面の裏から漏れ出す失真した笑い声。その響きに俺の背筋が粟立った。ついにこの女、この土壇場で完全に壊れやがったか。
「ボロボロになった旧帝国の腐朽物が」
彼女は笑いながら、狐面の奥の紫の瞳で霧の中の老朽艦を睨みつけた。
「貝殻と海草まみれの錆びた銃で、私を撃ち抜くつもり?」
手にした短型破魔プラズマノコギリを持ち上げると、刀身に残留していた紫白の雷光が不規則に跳ねる。それは、彼女がその言葉を完全な挑釁として叩きつけるには十分な光量だった。
「やりたいなら、来なさいよ」
彼女は顎を突き出し、一瞬で声を凍りつかせた。
「祓魔巫女、集結!」
真白の号令が落ちるのとほぼ同時だった。基地の影、崩落しかけた壁の隅、天井の隙間、そして海霧の境界線――まるで最初からそこに埋め込まれていたかのように、巫女たちが次々と姿を現した。
白衣、緋袴、破魔具、符束、短兵器。整列した彼女たちが放つ乾いた「神楽」の気配は、海から漂う屍臭を物理的に切り裂いていく。
その中に、見覚えのある影を見つけて俺は目を凝らした。
篝原 朱音。
あの顔が視界に飛び込んできた瞬間、脳内のフォルダから「蔵王樹冰」での記憶が強制的にロードされる。まさか、こんな場所で、こんなタイミングで再会するなんて。詳しいことは番外編「蔵王樹冰」に書いてあるからね☆
だが、佐伯も黙って主導権を渡すほど甘くはなかった。
彼女の手元にある指揮官級標定デバイス(ポインター)が再点灯する。汽笛に圧殺されていた白線が、彼女の執念によって強引に引き戻され、一刻一刻と収束を再開していく。彼女は山口 多聞を射すくめるように見つめた。その瞳は冷徹すぎて、もはや白濁しているようにさえ見える。
「貴殿が何者であろうと、ここは靈務局が封鎖・管理する案件現場です。許可なくコアターゲット、および管理対象構成体に接触することは認められません」
山口多聞は、まるで教科書を丸暗記してきた優秀な後輩を見るような眼差しを彼女に向けた。
「案件現場、ですか」
彼はその言葉を静かに反芻し、薄く笑った。
「現代の言葉は、実にお綺麗ですな」
佐伯の表情は動かない。だが、デバイスを握る指先には明らかな力が籠もっていた。
一方、琉璃は刀をわずかに下ろしたが、鞘に収める気配はない。黒い装甲、タクティカル・ターミナル、そして琥珀色の瞳。海霧と白光の中に立つ彼女は、未だ抜き放たれたままの刃そのものだった。
「誰であろうと関係ない」
彼女が口を開く。その声は金属が骨を削るような冷たさを帯びていた。
「ここにあるものを、あなたに先に渡すつもりはないわ」
山口多聞は、今度は彼女を長く見つめた。
それは彼女の美貌や、刀の重厚さに惹かれたからではない。極めて精巧に造られた「新しい道具」を眺め、それがどこの工房で打たれたものかを瞬時に見抜く――職人のような視線だ。
「神代の者か」
琉璃は答えない。それは肯定を意味していた。
「なるほど。口調が回収伝票にそっくりだ」
山口が淡く言い放つと、琉璃の瞳の温度が一段階、確実に沈んだ。
そしてその時だ。俺は最悪の事態に気づいた。
さっきまで俺の正面にいたはずの山口多聞が、いつの間にか、俺の背後に回り込んでいたのだ。
「坊主」
俺の全身の産毛が逆立った。反射的に横へ数歩飛び退き、危うく死神の鎌を振り回しそうになる。
クソが。
この老いぼれの幽霊、足音が一切しねえ。
彼は相変わらずの微笑を浮かべ、周囲の連中など眼中にもないといった様子で、俺にだけ聞こえる低い声を投げかけてきた。
「いいか。後で第六の『栓』を手に取ったら、すぐに走れ」
俺は彼を凝視した。脳の演算処理が追いつかない。
は?
こいつ、自分は第六の栓を受け取りに来たって言わなかったか?
なんで今、俺に取って逃げろなんて指示してやがるんだ。
俺のツラに書いてある「困惑」があまりに露骨だったのだろう。山口多聞は少しだけ笑みを深め、こう補足した。
「ヴァイスマンを処理するには、六本の魂釘(リベット)が揃う必要がある。そうして初めて、結界が力を完全に喰らい尽くせるのだ」
ヴァイスマンという名は、初めて聞くわけじゃない。
だが、問題はそこじゃない。
俺は眉をひそめ、彼を睨んで問い返した。
「……何の結界の話だ?」
俺はさらに言葉を重ねた。
「弥生が今、踏んでいる……あのシステムのことか?」
その瞬間、山口 多聞は堪えきれないといった風に吹き出した。
先ほどまでの懃懃な作り笑いではない。
今度は本気で、目の前の事象を「面白い」と感じている人間の反応だった。
「ははっ」
彼は、何とも愉快な後生を見守るような眼差しを俺に向けた。
「君は本当に面白い」
そう言い残すと、彼は真白、佐伯、そして琉璃のいる方へと背を向け歩き出した。軍靴が床を叩く音は決して重くはないが、立ち込める霧と屍臭、そして金属音の喧騒の中で、異様なほど鮮明に響き渡る。
二歩ほど進んだところで、彼はふと思い出したかのように、わずかに首を傾けて言葉を投げた。
「あんな未熟な代物と、一緒にしてもらっては困るな」
霧の中に佇む腐乱した海軍、真白の背後に並び立つ抜魔巫女たち、佐伯が展開したままの術式白線、そして琉璃の抜き放たれたままの刀。その場にいるすべての存在が、彼の「後半の言葉」を待つように沈黙した。
そして、彼は告げた。
「もちろん、大日本護国結界の話だ」
その五文字が落とされた瞬間、真白の狐面から漏れていた笑い声さえもが完全に消失した。
佐伯 冴子が維持し続けていた端正な「公務員」の仮面は、ここで初めて、本物の焦燥と不快感によって崩れた。琉璃は刀の柄をさらに強く握りしめたが、それ以上前へ踏み出すことはしなかった。目の前の現象が、もはや神代家の回収プロトコルごときが気安く介入できるレベルではないことを、彼女もまた理解したのだ。
山口多聞は、三者の反応をすべて見透かすように観察した。
そして、笑った。
その笑みは、決して親愛などではない。
もう「見飽きた」という、冷徹なまでの突き放しだった。
山口多聞は、まず佐伯を一瞥し、次いで真白に視線を移した。最後に、未だに収められぬ琉璃の刀へとその冷徹な眼差しを落としてから、静かに、しかし重厚な声で宣告した。
「『門』からは今も『異象』が漏れ出しているというのに……。貴殿らはここで、一方は封印貼りに奔走し、一方はノコギリを振り回し、一方は家督争いに明け暮れている。……ふむ。日本は滅びたのか? でなければ、これほどまでに不甲斐ない守門人が揃うはずもあるまいて」
その言葉が落とされた瞬間、場にいた誰もが即座に言葉を返せなかった。
返せなかったのではない。
その一撃が、あまりにも正確に急所を射抜いていたからだ。
俺はといえば、勝手に人を斬れない「死神の鎌」を提げたまま傍観していたわけだが、真っ先に浮かんだ感想は「うわ、きっつ」ではなく――「おいおい、このクソジジイ、最高に効く場所に砲撃をぶち込みやがったな」という確信だった。
何せ、彼は一人を狙ったわけじゃない。
佐伯、真白、琉璃。この三人の顔面を、一斉に、かつ公平に張り倒したのだから。
しかも、その叩き方が実に嫌らしい。
佐伯はただ封印を貼るだけの事務的な機械。
真白は現場をノコギリで解体するだけの技術屋崩れの狂人。
そして琉璃にいたっては、現場を私的な家督争いの場に変えた世間知らず。
この罵倒が最も毒として効く。
「お前らは弱い」と言っているのではない。
「強いのは認めるが、その方向性が絶望的に間違っている」と突きつけたのだ。
最初に沈黙を破ったのは、佐伯 冴子だった。
公務員然とした彼女の冷徹な仮面は砕けていない。だが、その皮膚は火に炙られた紙のように薄くなり、内側の熱を隠しきれなくなっていた。彼女は手に持った指揮官級標定デバイス(ポインター)をわずかに掲げる。すると、霧と異音に抑え込まれていた主控區の境界線が、再び冷たい光を放ち始めた。
「……言い終えましたか?」
その口調は、まるで懲戒処分書を読み上げるかのように平坦だった。
「貴殿がどの時代の、いかなる敗軍の残響であろうとも。ここに立っている以上、貴殿は我ら靈務局の封鎖管理下にあります」
彼女が半歩踏み出すと同時に、光の線が山口を圧迫するように前進する。
「年功序列を振りかざすのも、幽霊を演じるのも勝手ですが。」
「死人の一味を引き連れて上陸した程度で、この現場の管轄権が移譲されることはありません」
これこそが佐伯だ。
罵倒されても、感情では返さない。
彼女が返すのは、常に「法執行手順」だ。
「お前に罵られる筋合いはない」と言う代わりに、彼女はこう告げたのだ。
「お前は依然として、私の管理する『書類の項目内』に過ぎない」と。
思わず拍手してやりたい気分だった。
旧帝国の生き霊に目の前でド直球の毒を吐かれてなお、この女が真っ先に考えるのは、相手をどうやって既存のフォーマット(欄)に押し込めるかということなのだ。もはや敬業精神を通り越して、恐るべき職業病の域と言っていい。
山口多聞はそれを聞き、ただ笑みを浮かべるだけで、即座に反論はしなかった。
だが、真白は違う。
彼女は山口の「ノコギリ」という揶揄に触れ、狐面の裏側で漂わせていた不気味な笑みを完全に消し去っていた。そこにあるのは、より純粋で冷徹な何かだ。彼女は短型破魔プラズマノコギリ(プラズマ・チェーンソー)を持ち上げる。刀身の紫白の残光は明滅を繰り返し、今にも死にそうでありながら、隙あらば牙を剥こうと待ち構えている。
「『守門人』……?」
彼女はその古臭く、不快な響きの言葉を噛みしめるように呟いた。
そして、彼女は首を傾け、霧の中に浮かぶ老朽艦と、その傍らで敬礼を続ける腐乱した海軍を見やった。その声には、薄い軽蔑が再び浮かび上がってくる。
「沈没船と、死人の兵隊。それに、敗戦後も消え去ることのできない旧国家の幻影。……そんなものを引っ提げて守門人を自称するなんて、いかにもあなたの世代が言いそうなことね」
彼女はノコギリの先端をわずかに回転させ、それを山口ではなく、彼の足元に渦巻く霧へと向けた。
「私がノコギリを振り回していると言ったわね」
「けれど、少なくとも私は知っているわ。腐り果てたものは切り捨てるべきであって、恭しく供え奉るものではないということを」
彼女は、言葉を止めた。
狐面の裏にある双眸――紫色の瞳が、冷徹に持ち上がる。
「門に関しては――」
「老いぼれが守りきれなかったからこそ、後の人間が修理に駆り出されているのよ」
実に真白らしい切り返しだ。
それはただの言い争いではない。
純然たる「技術的な屈辱」の提示だ。
彼女は山口と資歴を競うことも、幽霊の数で勝負することもしない。
ただ一言、「あんたのシステムは時代遅れで、腐っていて、廃棄されるべき旧式だ」と断じたのだ。
俺は心の中で、彼女の言葉に勝手な補足を加えた。
(いいぞ。これで海軍の亡霊と工学系巫女の全面戦争が確定したわけだ)
そして、琉璃。
彼女が口を開いたのは、最後だった。
遅れたわけではない。
彼女にとって山口の説く「守門人」というロジックは、自分と同じ地平に置く価値さえないものだったからだ。
構えすら変えず、ただ刀を水平に持ち上げる。その姿は、海霧や術式の光、屍臭といったノイズを一切寄せ付けない、直立した「軍工兵器」そのものだった。琥珀色の瞳が山口を冷淡に射抜く。そこには「長輩に訓戒された」という反応など微塵もなく、ただ明確な不耐だけがあった。
「門は、貴殿の問題だ」
わずか数語。
山口が背負う大義を、物理的に両断するかのような潔さだった。
続けて彼女は視線をわずかに逸らし、主控區の深部で真壁によって支点に固定されている弥生を見やった。
「私は日本を守るためにここへ来たのではない」
「私は、妹を連れ戻しに来た」
再び視線を山口へと戻す。今度の眼差しには、真の「鋭利さ」が宿っていた。
「……貴殿が言った家督の話だが」
「もし貴殿が本当に『家族』というものを理解しているなら、門の話など持ち出して私を説得しようとはしないはずだ」
うわあ。
その一言を聞いた瞬間、俺は危うく手に持った鎌を落としそうになった。
反論ですらない。
それは山口が掲げる「国門、結界、旧秩序」といった概念を横に払い除け、こう告げたのだ。
国家はあんたの領分だ。
血縁は私の領分だ。
門を守りたければ勝手に守れ。
だが、その門の重みで私の妹を圧し潰すことは許さない。
これこそが神代琉璃だ。
大局を理解していないわけじゃない。
理解した上で、一歩も譲る気がないのだ。
一人は法執行の手順で返し。
一人は技術の優劣で返し。
一人は血縁の純度で返す。
三人の女たちの傍らに立ちながら、俺は山口多聞の先ほどの罵倒が「酷すぎる」のではなく「的確すぎた」のだと思い知らされた。彼女たちの切り返しは、見事なまでに自分の専門領域に固執している。まるで誰かが意図的に仕組んだ「教材」を見せられている気分だ。
俺の脳裏には、毒混じりの独白が浮かぶ。
(おいおい。これは対話じゃねえ。三つの異なる時代、異なるシステム、異なるルールを背負った女たちが、海軍の老いぼれ幽霊に『お前の指図は受けない』と順番に宣言してるだけだ)
山口多聞はそれを聞き終えても、怒りを見せることはなかった。
霧の中に立ち、佐伯を見、真白を見、最後に琉璃を見た。その姿は、あまりに長く生きすぎたせいで「想定外」という概念さえも礼儀に変えてしまった老人のようだった。
そして、彼は笑った。
「よかろう」
ただ一言、そう応じた。
だが、その一文字は、さっきまでの罵詈雑言よりも遥かに厄介な響きを孕んでいた。
俺はこの手の「声」を嫌というほど知っている。
突っぱねられたから退く、という声じゃない。
これは。
「こいつら、本当に何を言っても無駄なんだな」と、彼が最終的な結論を下した合図だ。
(……なるほどな)
俺は内心で、この最悪な相関図に注釈を加えずにはいられなかった。
佐伯は彼を管理に放り込もうとし。
真白は彼を解体しようとし。
琉璃は弥生を連れ戻すついでに、俺を細切れにする算段を立てている。
そして山口多聞は、おそらくこう考えているはずだ。
この小童ども、門も直せんくせに口だけは達者なことだ、と。
最高にファンタスティックな地獄絵図だ。
一瞬、自分が爆発寸前の基地にいることを忘れ、死人が出るタイプの「親戚の説教現場」に立ち会っているような錯覚すら覚えた。
違いがあるとすれば。
普通の長輩は説教中にせいぜい茶器を投げつける程度だが。
目の前の連中は、白線に電磁鋸、日本刀、挙句の果てには軍艦を率いて死体ごと上陸してきている。
俺の人生、どれだけ口が災いしようとも、これ以上に「詰んでいる」布陣には二度とお目にかかれないだろう。
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山口多聞は三者三様の反論を聞き終えてなお、相変わらずの薄笑いを浮かべていた。
だが今度の笑みは、慇懃さとは無縁のものだ。
老練な将校が、戦場、士気、兵科、そして各々の悪癖をすべて査閲し終え、ようやく「道理を説く」のを止めた時の顔だ。
彼は短く、頷いた。
「よかろう」
再びの一言。
そして彼は、佐伯、真白、琉璃の顔をゆっくりと掃くように見つめた。まるで、それぞれ用途はあるが、使い道を決定的に間違えている「三振りの兵器」を検分するかのように。
「……人の言葉が通じぬというのなら、これ以上の勧告は無用だな」
声は低かった。
だがその瞬間、霧の中に佇む腐乱した海軍たちの背筋が、物理的に一段階伸びた。
「これより、貴殿らの手順も、技術も、身内の事情も、一切合切聞き入れるつもりはない」
「ここには靈務局の現場も、神樂の工区も、神代の回収任務も存在せん」
「あるのはただ一点『門』の修復のみだ」
その言葉が落とされた瞬間、戦場の重心が強制的に中心点へと釘付けにされた。
佐伯の白線はそれ以上進まず。
真白の電磁鋸も即座に振り上げられることはなく。
琉璃の刀でさえ、俺の首元数寸の場所でピタリと静止した。
(クソが。この老いぼれ、本気で全場を自分の艦橋か何かだと思って命令を下してやがる)
さらに最悪なのは。
その命令に、無意識に従いたくなるような「重圧」がそこにあることだった。
山口多聞は海図の上に線を引くように、無造作に手を振った。
「佐伯」
名を呼ばれた佐伯 冴子の瞳に、冷徹な不快感が走る。
一介の法執行官を部下のように扱うその無礼に、彼女は明らかに憤っていたが、それでも言葉を遮ることはしなかった。
山口は、彼女の不快感など視界にも入れず続けた。
「貴殿の封印、白線、御幣、それらすべてを外周へと展開せよ。これ以上、内場を圧迫することは許さん」
「霧、船、屍、海風外から滲み出す『異象』をすべて封じ込め。貴殿は管理化が得意だったな? ならば今すぐ、門の外にある不確定要素を欄に叩き込め。門の内側にいる者には、以後、指一本触れるな」
(……毒ねえな)
それは佐伯の否定ではない。
彼女を「外郭の門番」へと強制的に格下げする命令だ。
だが、これ以上なく合理的でもあった。
佐伯の真髄は、封鎖、列記、管理による「秩序化」にある。今まで彼女はその力を弥生や真白、そして主控區を抑え込むために使っていた。山口はそれを一言で「正位置」に戻したのだ。――内側ではなく、外側の脅威を封じろ、と。
佐伯はすぐには答えなかったが、その唇のラインは硬く結ばれていた。
山口はすでに真白へと視線を移している。
「観月」
狐面の裏の紫の瞳がわずかに持ち上がる。電磁鋸の刀身では、紫白の雷光が今にも噛み付こうとする機械獣のように不安定に跳ねていた。
山口は彼女の足元にある、崩れ落ちた重裝儀軌を一瞥し、薄く笑った。
「勝手に倒れて恥を晒すような大きな玩具は、半分片付けろ」
「残りの半分も、主控區を切り刻むためではなく、支点に触れるためでもなく――『縫い目』を断つために使え」
真白が、初めて即座に言い返せなかった。
山口は、逃げ場を塞ぐように言葉を継ぐ。
「ヴァイスマンは正門からは来ん。漏れ、残り、接合部、そして貴殿らがぶち壊した『綻び』を伝って這い寄ってくる」
「ノコギリを振り回すのが好きなら――よかろう、奴の路を切り捨てろ。人を切るのではない。路を、切るのだ」
思わず指笛を吹いてやりたい気分だった。
その一撃は、さらに正確だった。
山口は真白に黙れと言ったわけでも、退けと言ったわけでもない。
彼は彼女を「弥生を奪取しようとする技術狂」から、「浸透経路を専門に断つ戦闘工兵」へと、その場で再定義したのだ。
しかもこの任務、真白には驚くほど適任だった。
彼女が何かを斬る際、対象が「人」なら事態は泥沼化し、「主控區」なら自爆を招く。
だが、ヴァイスマンが滲み出してくる「接合部」を断つというのなら――この女、おそらくこの場の誰よりも精密にやってのけるはずだ。
真白は電磁鋸を握ったまま、一瞬だけ沈黙した。
それから、冷淡に言い放つ。
「……外周の公務員が、私の切断ポイントまで一緒に封印しさえしなければね」
佐伯が即座に反応し、氷のような声を投げた。
「貴女こそ、この建物に二つ目の入口を勝手に増設しないことね」
いいぞ。
口先では相変わらず噛み合い続けているが、少なくとも両者とも山口が引いた座標軸の上に立ち始めている。
山口は、彼女たちの小さな火花など歯牙にもかけなかった。
彼は三人目として、琉璃を見据えた。
正直に言おう。俺はその瞬間、本気で冷や汗をかいた。
何せこの女、さっきまで刀を振り回して俺を追い回していたんだ。山口の言い方が少しでも癪に障れば、その腹いせに俺が真っ二つにされるんじゃないかと気が気じゃなかった。
だが、山口が彼女に向ける語気は、意外にも最も平穏なものだった。
「神代の娘」
琉璃は応じない。ただ、その琥珀色の瞳の温度がさらに下がる。
「連れ戻したいのだろう?」山口が言った。「……よかろう」
……え?
耳を疑ったのは俺の方だ。
山口は続けた。
「ならば連れ戻せ。あの娘を、死を招く支點の淵から呼び戻してやるがいい。今すぐ引き抜くのではない。力任せに引き摺り出すのでも、強奪するのでもない。……あの子の目に映り、あの子の心を支えられる場所に立て。外側から押し寄せる線や魂釘、霧や死人に押し潰されれば、第六の栓を手に取る者などいなくなる」
老獪な一手だ。
彼は弥生を琉璃に明け渡したわけでも、強奪を許可したわけでもない。
ただ一点――今、弥生の精神的な境界線を繋ぎ止められるのは琉璃しかいないという事実を、冷徹に突きつけたのだ。
琉璃もまた、その真意を汲み取った。
刀を握る手は緩めなかったが、その切っ先はついに、わずかに地へと向けられた。
「……連れて帰るわ」彼女が低く、拒絶を許さぬ声で言った。
「門を塞いだ後の話だ」山口はさらに冷静に返す。「今、無理に引き抜けば、貴女が手にするのは妹の骸だけだぞ」
その言葉に、琉璃は二の句を継げなかった。
屈服したのではない。その指摘が「正解」であることを、彼女自身が理解していたからだ。
傍らで見ていた俺は、頭皮が痺れるような感覚に襲われていた。
この老いぼれ幽霊が真に恐ろしいのは、罵詈雑言そのものではない。
全員を叩きのめした後、彼女たちが最も認めたくない、それでいて「最も適した役割」を、一つ一つその手に握らせていくその手腕だ。
そして、案の定、俺の番が来た。
山口 多聞が、ついに俺の方を振り向いた。
俺の脳裏には、たった一言だけが浮かんでいた。
(クソが。来やがった)
彼は俺に向かって手招きをした。まるで甲板の上で一番ずる賢く、一番信用ならないが、どういうわけか足だけは速い兵卒を呼びつけるかのように。
「周 士達」
「……何だよ」俺は本能的に応じた。
「来い」
「どこへ?」
「第六の『栓』を手に取る」
その場でもう、罵詈雑言をぶちまけてやりたくなった。
「いや、ちょっと待て。なんでまた俺なんだ?」俺は死神の鎌を提げたまま、今日のツキの無さを呪わずにはいられなかった。「あんた、さっきそれは自分のもんだって言わなかったか?」
山口 多聞は俺を見つめ、至極当然といった風に笑った。
「あの三人は、誰一人として適任ではないからな」
彼は指を立て、一巡させる。
「あれは、まず封印を貼り、報告書を書き上げることに腐心する」
彼は佐伯を指した。
「あれは、路を切り開くついでに、栓そのものまで切り刻みかねん」
彼は真白を指した。
「そしてあれが手に取れば、真っ先に妹と刀を抱えて逃げ出すだろう」
最後に、琉璃を指した。
そして、その指が俺に戻る。
「お前だけだ。十分に卑しく、立ち回りが上手く、そして……今、何に触れてはならないかを理解しているのは」
(最高の褒め言葉だな。死ねばいいのに)
だが、さらに最悪なのは――俺にはそれを反駁する術がないということだった。
山口多聞は、俺の脳内の毒づきを見透かしたように笑みを深めた。
「案ずるな」彼は言った。「貴殿は主将ではない」
「ただの、門に魂釘を届ける役目を負った『貧乏くじ』に過ぎん」
クソったれ。
この老いぼれ、本当に言葉選びが秀逸すぎて反吐が出る。たった一言で、俺の今夜の運命を完璧に要約しやがった。
彼はそう告げると、ついに最後の一言を放った。
それは俺にだけではなく、場にいる全員に向けられたものだった。
「任務の割り振りは済んだ」
「これより先、私情や身内の掟を優先し、本分を疎かにする者がいれば――」
彼は、言葉を切った。
霧の中に潜む腐乱した海軍たちが、一斉に銃床を床へと叩きつける。
ドンッ。
音自体は大きくはなかった。
だが、基地全体がその振動に共鳴し、物理的な震えとなって伝わってきた。
山口多聞が、後半の言葉を繋ぐ。
「容赦なく、ヴァイスマンの同調者として処理する」
全場が、ついに完璧な静寂に支配された。
俺はその静寂の中に立ち、死神の鎌を握りしめていた。目の前には山口多聞、側方には未だに刀を収めきらぬ琉璃、遠くには佐伯の白線、真白の儀軌。そして、崩壊の極点にある主控區の支点には、真壁と彌生が。
心の中に残ったのは、極めてシンプルで素朴な感想だけだった。
(クソが……)
この老いぼれは、参戦しに来たんじゃない。
「門を開けておままごと」を楽しんでいた俺たちを、全員まとめて強制的に持ち場へ引きずり戻しに来たんだ。
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