S2第七十三章:提督
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
白霧が這い寄っている。
霧が散る気配はない。むしろ、ひび割れた床や壁の隅、断裂した手摺りや剥がれた鋼板の隙間を縫うように、奥へ奥へと浸食していく。まるで基地全体が、海の方から逆流した呼吸を始めたかのようだ。遠方からは、佐伯の封鎖線が無理な負荷に耐えかねて上げる金属的な悲鳴が響き、真白の重装儀軌が残した紫白の光紋は、断線した神経のように不規則な明滅を繰り返している。
俺はそっちを呆然と眺めていた。どうせこの山口 多聞とかいうジジイは、次に口を開けば「大日本護国結界」だの「六本の魂釘(リベット)」だの「国門の綻び」だのといった、今は到底消化しきれない壮大なレガシー・システムの話を始めるんだろうと思っていた。だが、彼はただ無造作に首を巡らせ、俺を一瞥しただけだった。
「ついてこい」
たった二文字。
俺は半拍ほど呆然とした。
「どこへだよ?」
彼は俺の問いが愚問だと言わんばかりに、足を止めることすらしなかった。士官用長靴が水溜まりを叩き、苛つくほど安定した足音を響かせる。
「観測室だ」
そこでようやく俺の脳細胞が現状に追いつき、心臓が跳ね上がった。
そうか。
密封盒は、こいつの手元にはない。
それは、真壁が持っている。
さっきまで、箱を盾に値交渉を持ちかけ、「これに触れたきゃ俺の機嫌を損ねるな」と言わんばかりの態度で商談をふっかけていた「商人山口」は、もういない。今ここに立っているのは、後輩どものおままごと――封印貼りやノコギリ遊び、家督争いに業を煮やし、自ら戦場の掃除に乗り出した本物の提督だ。
「ちょっと待てよ」
俺は慌ててその後を追った。剥き出しになったケーブルの端に足を取られそうになる。
「つまりあんた、これから真壁のところへ乗り込んで、箱の中の『あれ』をぶんどるつもりか?」
山口多聞は振り返りもしない。
「他に何がある?」
「いや、てっきり年寄りの説教タイムがもう一巡くらいあるのかと」
「戦時に道理を説くのは、敗者のすることだ」
クソが。
最高に筋が通っているが、今の俺にはそれを認める余裕なんて一ミリもありゃしない。
俺たちは主控區の外縁を直線的に切り抜けていった。「歩く」というより、空間を「穿つ」ような感覚に近い。白霧の中からは時折、旧海軍の亡霊たちの輪廓が浮き上がってくる。湿りきった軍服、塩に塗れた小銃、水死体特有の膨張した青白い顔。だが、彼らは山口の姿を認めるなり、モーゼの十戒のように整然と左右へ分かれた。幽霊の真っ只中を歩く方が、生者の間を歩くより安全だと感じるなんて。少なくとも、この死人どもは規律正しく、唐突に襲いかかってきて「またバカな真似をしたのか」なんて説教を垂れることもない。
問題は、生きている連中の方だった。
左側の通路の突き当たりに、突如として白線が走り、光を放った。佐伯の部下どもが封鎖網を再構築しようとしているらしい。山口は歩みを緩めることなく、ただ軽く手を掲げた。直後、霧の奥の視認できない位置から、艦砲の装填ミスのような重苦しい鈍音が響く。その瞬間、白線は激しく震え、見えない波に打たれたかのように強引に歪められた。
「……あんたの部下か?」俺は声を潜めて尋ねた。
「わが海だ」
クソ、その答えは「イエス」よりも百倍は傲慢だ。
さらに二つの角を曲がると、観測室エリアの照明が数箇所だけ生き残っていた。冷徹な白光が防爆ガラス越しに漏れ出し、床の水溜まりを「捌かれた魚の腹」のように白々と照らし出している。その奥に、真壁が立っているのが見えた。
あいつは退いていなかった。
実にしぶとい男だ。不快なほどに。外が沈没寸前の大嵐だというのに、彼は観測ガラスの裏側で端末を叩き、観測台の縁を掴んで、まるで部屋そのものをその場に釘付けにしているかのようだった。そして彼の右側――金属製のテーブルの上には、あの密封盒が置かれていた。黒く、長方形の、飾り気のないその塊は、この部屋にあるどんな発光体よりも「問題そのもの」としての質量を放っている。
真壁は、とっくに俺たちの接近に気づいていたらしい。
彼はまず山口を見、次に俺を見、最後に俺たちの間の極めて短い距離に視線を落とした。一瞥だけで、事の次第を七、八分通りは察したようだった。
「ついに化けの皮が剥がれたか」彼が言った。
山口多聞はドアの向こうで、海霧そのもののような平坦な表情を浮かべていた。
「貴殿も、そろそろその箱を差し出す刻だ」
真壁は鼻で笑ったが、すぐには応じなかった。
二人の視線が交差する。
一秒。
たった一秒の静寂。
次の瞬間、真壁は信じられないことに、密封盒からそっと手を離した。
屈服したからではない。専門家として、彼はもう理解していたのだ。もはや商品を囲い込み、価格を競り、手順を遅延させていい段階は過ぎ去った。これ以上引き延ばせば、第六の栓を門に届ける前に、この場全体が魏斯曼に食い荒らされる。
彼は俺を見た。
「周 士達」
「なんだよ」
「……受け取ったら、さっさと消えろ」彼の声は、もはや生理的な嫌悪すら感じさせるほど冷たかった。「廊下で野垂れ死ぬなよ。二度手間になるのは御免だ」
俺は何か言い返してやりたかったが、指先が密封盒に触れた瞬間、全身に走った痺れがそれを阻んだ。
電撃じゃない。
かつて一度だけ経験し、今もなお細胞が記憶しているあの共鳴だ。まるで何かがずっと中で俺の手の平の温度を待っていたかのように、触れた刹那、匣の奥底に沈殿していた周波数が骨を伝って這い上がり、胸の奥へと直接ノックを叩き込んできた。
山口が傍らで、淡々と短く告げる。
「……それは貴殿を、覚えているな」
「知ってるよ」
俺は奥歯を噛み締めながら、匣のラッチを跳ね上げた。
「毎回、こんな野蛮な挨拶を寄越してくるのか?」
蓋が跳ね上がった瞬間、中に収められた「それ」がようやくその姿を現した。
大きくはない。
むしろ、最初に度肝を抜かれた時の記憶よりも、ずっとありふれたものに見えた。くすんだ黒色の金属。どこか沈没船の竜骨から無理やり引き剥がしてきたような古びた質感を備えているが、そのエッジには理不尽なまでの「完結」の気配が宿っている。それは骨董品でも、兵器でも、ましてや神の遺物でもない。ただ最後まで残され、誰もが不用意に触れることを恐れた、システムの最後の構成部品だ。
だが、俺が手を伸ばすと、それは熱を帯びた。
熱いのではない。
「覚醒」だ。
俺が第六の栓を掴み上げた瞬間、観測室内の照明が一斉に明滅した。遠くの霧の向こうから、空間の最後の一片が嵌まり込む直前の、深い溜息のような長い低鳴が響き渡る。
真壁の端末には、俺には解読不能な数理モデルが滝のように流れ落ちた。彼女はそれを一瞥し、さらに顔色を悪くする。
「……同期完了」
山口が、当然の帰結だというように頷いた。
「よろしい」
俺はその栓を握りしめたまま、自分の腕がまるで他人のものになったかのような、まだ冷めやらぬ「船の骨」を掴んでいる奇妙な感覚に陥っていた。
「それで、次はどこだ?」俺は尋ねた。
「どの地獄へ行けばいいか、そろそろ教えてくれるんだろうな?」
山口多聞は、ここで初めて「笑い」に近い表情を浮かべた。
小さく。
だが、この上なく不敵な笑みだ。
「死にゆくのではない」
彼は背を向けた。軍服の裾が白霧の中で翻り、まるで海そのものが道を開けるかのように霧が割れていく。
「――出航だ」
背中を見送る俺の脳裏に、とてつもなく馬鹿げた予感がよぎる。
そして案の定、奴は次の言葉を繋げやがった。
「第六の栓を手にした以上、もはや陸で切り刻まれる理由はなかろう」
「ついてこい」
「――『陸奥』が待っている」
俺は一拍の間、完全に思考を停止させた。
真壁は目を閉じ、もはやツッコミを入れる気力すら失った様子だ。
俺の脳裏に真っ先に浮かんだのは、極めてシンプルな独白だった。
(クソが。俺が前世でどれだけ悪逆非道を働けば、東北の朽ちかけた基地で、発熱する得体の知れない魂釘(リベット)を抱え、旧帝国の提督から『戦艦がお待ちだ』なんてエスコートを受ける羽目になるんだ?)
俺は奴を凝視し、半開きになった口からようやく一言を絞り出す。
「……旧海軍のカスタマーサービスってのは、随分と至れり尽くせりなんだな」
山口多聞は俺の皮肉など一顧だにせず、歩き出した。
「ついてこい」という誘いではない。一歩でも遅れれば、そのまま背後の闇に取り残されて野垂れ死ぬだけだ――という、無言の強制力。白霧は奴の足元で自動的に分かれ、基地そのものが提督の進軍を邪魔してはならないと理解しているかのようだ。俺は第六の栓を握りしめ、密封盒を抱え、観測室から飛び出した。
扉が開いた瞬間、氷のような冷気と強烈な海塩の匂いが肺に流れ込む。
ただの海風じゃない。そこには塩、錆、朽ちた木材、そして軍港の底で七十年以上も澱んでいた重油の腐臭が混ざり合っている。鼻の奥がツンと痛み、くしゃみが出そうになった。通路の照明は半分が死に、霧の中で点滅する非常灯は、まるでいまわの際の人間が必死に目を閉じまいとしているように見えた。
背後からは、主控區の崩壊する不協和音が、依然として追いすがってきていた。
それは、もはやまともな戦闘音ではなかった。
白線の軋む音、儀軌の摩擦、金属塊の重圧――そして遠くから響く、ひび割れた号令の残響。それらがすべて綯い交ぜになり、沸騰寸前の「工業的なスープ」となって空間を攪拌している。佐伯、真白、琉璃の三人のうち、誰が優勢なのかなんて考えるのも馬鹿らしい。どのみち、あそこはもう俺が振り返るべき場所じゃない。今、俺を引き留めようとする奴がいるなら、まずは目の前の旧帝国海軍の亡霊提督に「不許可」を突きつけられるかどうか、試してみるこった。
「こちらだ」
山口が低く短く告げる。
俺たちは主控區の正道を避け、側廊へと深く切り込んだ。半分めくれ上がった防火扉を潜り抜け、粉砕されたガラスと水浸しの書類を軍靴で踏み荒らしながら、より海に近い区画へと疾走する。道中、霧の向こうから旧海軍兵の影が次々と浮かんでは消えた。湿って鈍く光る革靴、ボロボロの脚絆、黒ずんだ小銃。彼らは通路の両脇に整然と整列し、魚の腹のように青白い顔で山口を直視し、直立不動の敬礼を捧げ、道を開ける。
走りながら、俺の脳裏には自嘲気味な独白が去来した。
(クソが。俺は今、逃げているのか? それとも、いつの間にかとっくに解散したはずの連合艦隊司令部に編入されてるのか?)
前方の壁から、突如として耳を劈く裂傷音が響いた。
右側の壁面から一本の白い封鎖線が猛然と突き出し、俺の進路を遮断しようとする。佐伯の手の者が、まだ俺を逃がすまいと足掻いているらしい。俺が急制動をかけ、危うくその光線に突っ込みそうになった瞬間、山口は眉一つ動かさず、ただ軽く手を掲げた。
直後、霧の奥の「何か」が動いた。
人ではない。
それは、物理的な質量を伴った漆黒の影。あたかも目に見えぬ場所から押し寄せた「海」そのものが、岸を叩いたかのような衝撃。次の瞬間、佐伯の白線は激しく震動し、歯の浮くような高周波音を立てながら強引に押し曲げられ、壁伝いに粉々に砕け散った。
俺は喘ぎながら、隣を走る男に問いかける。
「……今のは一体何なんだ?」
「外周の援護だ」山口は淡々と、呼吸一つ乱さず答える。
「誰の外周だよ」
山口は、ようやくこちらを振り返った。その眼差しは、船に乗っておきながら「これは木でできているのか」と訊ねる救いようのない愚か者を見据えるかのようだった。
「――わが、艦隊の(わが、かんたいの)だ」
クソ。
その言い草、無性に腹が立つほど格好いいじゃねえか。
最後の側門を蹴破り外へと飛び出した瞬間、視界は壁のような濃霧に塗り潰された。
埠頭はすぐ目の前にあるはずだが、その全貌は窺い知れない。ただ、水の音だけが聞こえてくる。それは波の音ではない。もっと重く、鈍く、深淵から響くような「移動」の音。まるで海の一角が、霧の向こう側でゆっくりと位置を変えているかのような。風が霧を裂いた刹那、そこには巨大な、あまりにも巨大な漆黒の輪郭が浮かび上がった。
艦首、側舷、そして写真や模型でしか見たことのない、天を突くパゴダ・マストの艦橋。
俺の脚は、無意識のうちにその場で凍りついた。
足を止めたかったわけじゃない。人間の脳が「あまりに理外な代物」を認識した時、脚の方が先に「嘘だろ」と拒絶反応を示したのだ。
それは、単なる船影ではなかった。
陸奥。
記録映画に映るモノクロの姿でも、博物館に並ぶスクラップの残骸でも、ましてやゲームの画面で砲火を散らすデータでもない。目の前にあるのは、夜の海そのものが凝固し、海底から這い上がってきたかのような実体だ。湿り気を帯びた黒い艦体、歳月に蝕まれた装甲板の錆と塩の結晶。だが、主砲塔は不遜なほどに真っ直ぐ前方を睨み据えていた。たとえ数十年の間、深淵に沈んでいようとも、この巨獣は「頭を垂れる」という作法を学習しなかったらしい。
艦橋に、一つ、また一つと灯が灯る。
現代のLEDではない。黄色く、古びた、戦時下の「灯火管制」を想起させる鈍い光。それらは甲板から艙窓、マストへと伝播し、船の輪郭を霧の中から彫刻のように切り出していく。甲板には無数の人影が立っていた。旧式の軍服、鉄帽、ヘッドセット、手旗、そして砲位。全艦の死者たちは、あたかもこの瞬間を七十年もの間、一秒たりとも欠かさず待っていたかのように静まり返っていた。
俺は第六の栓を握りしめた。手の中は、冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「……さっき言ってた『陸奥』ってのは、比喩じゃなかったのかよ」
山口 多聞は埠頭の端に立ち、海風に軍服の裾を翻しながら、タクシーの到着でも告げるかのように平然と言い放った。
「――私が、冗談を言っているように見えたか?」
その時だ。
右前方の霧の上空から、空気を物理的に押し潰すような、重苦しい轟鳴が響き渡った。
見上げてみた光景に、俺の脳内の防衛本能はついに白旗を上げた。
海霧の深淵から、さらに巨大な二つの影が左右に展開していく。それは並走して近づいてくるのではない。一左一右から海原そのものを門扉のように押し開き、空間を強引に拡張しているのだ。霧の向こうでまず点ったのは甲板の誘導灯。続いて、視神経を逆撫でするほど長大な飛行甲板の輪郭が浮上する。風が吹き抜けるたび、信号旗の索やマストの灯、艦側に刻まれた艦番号の残影が次々と顕現した。それは、戦艦陸奧を中央に奉戴する、海上の漆黒なる祭壇だ。
翔鶴。
瑞鶴。
俺の足は、そこで完全に凍りついた。
大きな船を見たことがないからじゃない。こんな光景、俺のような人間が見ていいはずがないからだ。二隻の空母が霧の海を左右に支え、その中心に座す戦艦のために、死者と狂人しか通れぬ航路を切り拓いている。頭上遥か、霧の天井からは翼が空を裂く音が響く。零戦の残影か、あるいは艦載機群の怨念か。奴らは姿を現さず、雲の底に幾筋もの暗い線を刻んでいく。まるで何者かが、夜空を刃で研ぎ澄ましているかのように。
「……マジかよ」俺は呻いた。「これ、もう『顔を立てる』なんてレベルじゃねえぞ」
山口の口角が、わずかに吊り上がった。
極めて微かに。
だが、この上なく不敵に。
「貴殿にとっては、そうだろうな(君にとっては、な)」
「……あんたにとっては、どうなんだよ?」
「通常出航だ」
クソ。
この老いぼれ、本当に一言で人を田舎者に仕立て上げるのが上手い。
埠頭の端で、整然とした足音が響いた。霧の向こうから二列の亡霊水兵たちが駆け出し、リハーサル済みの機械のような動きで、係留索を投げ、タラップを架け、接舷フックをコンクリートの地面に叩き込む。その一連の動作は不気味なほどに静寂を保ち、ただ鉄と鉄が噛み合う際の短い硬質な音だけが、現実の感触を繋ぎ止めていた。陸奥の側舷は埠頭よりも遥かに高く、俺の前にそびえ立つ。それは砲火を吐くために造られた鋼鉄の壁だ。甲板の端では、士官の制服を纏った亡霊が山口に向かって敬礼を捧げた。
山口はそれに対し、過酷なまでに完璧な動作で敬礼を返す。
そして、彼は首を巡らせ、俺を射すくめた。
「乗艦せよ」
俺は手の中の「第六の栓」を見つめ、目の前のタラップを仰ぎ見た。脳裏には、あまりにも場違いな思考が浮かび上がっていた。
「……待て。俺がこれに乗った後、東京の靈務局から『無賃乗船だ』なんて請求が来ることはないだろうな?」
山口 多聞は、今度こそ本気で笑った。
海霧の中でその笑みは、主砲の砲口よりも遥かに危険な気配を孕んでいた。
「案ずるな」彼は淡々と、しかし確信を込めて告げた。
「――この船が、いかなる海の伝説よりも速く、目的地まで届けてやることを保証しよう」
あいつが海賊映画のパール号でも意識しているのかは知らないが、俺の脳内に真っ先に浮かんだのはそれだった。問題は、あっちの黒い船がどれだけ速かろうと、左右に空母を従えてボディーガードに就かせるなんて芸当はできやしないってことだ。
俺は塩と錆、そして旧軍港特有の死臭が混じった冷気を深く吸い込み、「第六の栓」を懐へ強く押し当ててからタラップに足をかけた。
タラップが、微かに震えた。
俺が重いからじゃない。陸奥という巨大な質量が、その瞬間に理解したのだ。
――「荷」が積み込まれた、と。
遠方の基地内部で、突如として刺すような白光が爆ぜた。続いて紫白の紋様が、抉られた傷口のように天へと翻る。佐伯、真白、琉璃たちが、俺が視界から消えたことに気づいたのだろう。局勢はいよいよ破滅的な爆発を迎えようとしていた。だが、その光が空を焦がすと同時に、翔鶴と瑞鶴の両翼でも、さらに冷たく長大な誘導灯が一斉に点灯した。海原の境界線を鋭く引き直す二振りの刃のように。
霧の中から、極めて長く、重苦しい汽笛が響き渡る。
「ヴォォォォォォォォォォンッ――!」
それは警告ではない。
「宣告」だ。
天上の雲さえもがその震動にたじろいだように見えた。
山口 多聞が俺の背後に立ち、汽笛の轟音を縫うようにして、しかし確実に俺の鼓膜へ声を届けた。
「周 士達」
「なんだよ」
「これより先、断じて振り返るな」
俺は足を止めた。
「……振り返れば、死ぬからか?」
「いや。振り返る様は、敗軍に似るからだ」
俺は思わず、奴を振り返って見た。
霧と戦艦、空母、そして旧帝国の亡霊たちのただ中に立つその老将は、帰港すべき船を呼び戻し、出航すべき船を送り出すだけの、至極平坦な表情を浮かべていた。その瞬間、ようやく理解できた。――こいつは、誰かを助けに来たわけでも、誰かの味方をするために現れたわけでもない。
ただ、「国の門」が綻んでいるというのに、その命運を懸けて「ままごと」に興じている奴らに、我慢がならなかっただけなのだ。
だから、船を出した。
俺はそれ以上何も訊かず、奥歯を噛み締めて陸奥の甲板へと駆け上がった。
背後で海霧が狂おしく渦を巻く。左右に展開した翔鶴と瑞鶴という二つの巨大な沈黙の影が、外海を圧するように、この荒唐無稽極まりない撤退作戦のために東京へと続く航路を強引にこじ開けていた。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




