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S2第七十四章:戦艦陸奥

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

俺が甲板に足を踏み入れ、「クソ、本当に乗っちまいやがった」という独白を脳内で完結させる間もなかった。右前方から、聞き覚えがありすぎて背筋が凍る声が飛んできた。

「ようやく来たわけ?」

勢いよく振り向くと、そこにシキが立っていた。

第二主砲塔の傍らで、片手にタブレットを抱え、もう片方の手で手摺りを死守している。海風に煽られた髪はスクリューに巻き込まれた直後のような惨状で、顔色は甲板の亡霊どもといい勝負だったが、その眼光の鋭さだけは健在だった。

俺は言葉を失った。

「……クソ、なんでお前までここにいるんだよ」

「自分だけがVIP招待客ゲストだとでも思ってた?」

彼女は盛大に目を逸らした。

「浸水してブヨブヨになった水兵二人に両脇を抱えられて、恭しくエスコートされた時は、本気で詰んだと思ったわよ」

「……で、今はどう思ってるんだ?」

「あんたが詰んだと思ってるわ」

彼女はタブレットのペン先で、俺が抱えた「第六の栓」を指した。

「全艦の死人どもが、あんたのことを『歩く主砲弾』みたいな目で見てるわよ」

俺が言い返すより早く、反対側の手摺りから不機嫌そうな咳払いが聞こえた。

老高ラオガオが鉄柵に縋り付くようにして、顔をこれでもかと歪ませていた。足元にはいつの時代のだか判らないホーローのバケツが転がっている。その姿を見た俺の第一印象は「なぜここに」ではなく、「うわ、こいつさっき吐いたな」だった。

案の定、俺が視線を向けた瞬間に睨み返してきた。

「何を見てやがる」

彼は奥歯を噛み締め、絞り出すように言った。

「漁船も運兵車も、果ては霊柩車まで乗りこなしてきた俺だが、海底から浮上してきた『鉄の亀』に揺られるのは初めてなんだよ」

俺は思わず吹き出した。

「どんな修羅場も見てきたって、いつも自慢してただろ?」

「こういう場面を見た奴は、大抵海の底で眠ってんだよ」

筋が通りすぎていて、反論の余地もなかった。

さらに視線を後方へ移すと、林 雨瞳リン・ユートンが弾薬箱を椅子代わりにして、亡霊士官よりも堂々とした佇まいで座っていた。手にはいつの間にか熱い茶の入った湯呑みを握っている。どこから調達したのかなんて、もう訊くのも馬鹿らしい。彼女は視線だけをこちらに向けた。その表情は、旧帝国の亡霊戦艦の上にいるとは思えないほど平坦で、まるで駅のホームで電車を待っているかのようだった。

「……来たのね」と、彼女は言った。

「リアクションが薄すぎだろ、あんた」

「他に何をしろと?」

彼女は茶の表面をフッと吹いた。

「悲鳴でも上げればいいのかしら」

「せめて驚くふりくらいしてくれよ」

「今日の驚愕サプライズのノルマは、山口ヤマグチが霧の中から陸奥むつを引っ張り出してきた時点で使い切ったわ」

彼女は言葉を切り、俺の腕の中の「第六の栓」に視線を落とした。

「船よりも、あなたの持っているそれの方が気になるわ。今のあなたは、まるで出荷待ちの荷物タグを貼り付けられた状態ね」

すかさずシキが合いの手を入れる。

「『みたい』じゃなくて、事実プロトコルそうでしょ」

老高も鼻を鳴らした。

「荷物番号、周 士達ジョウ・シーダー。引火性あり、取り扱い注意だ」

「お前ら、いい加減にしろよ。……これでも死ぬ思いで上船したんだぞ」

俺は「第六の栓」を抱きしめ、怒りと可笑しさが混ざったような気分になった。

「ええ」

希が深く、殊更重々しく頷いた。

「あんたが上がってくるのを、みんなで楽しみに待ってたのよ。……笑い飛ばすためにね」

クソ。

この連中、本当に期待を裏切らない。

二、三歩踏み出して周囲を見渡すと、彼らだけではなかった。甲板の端では亡霊水兵たちが、こちらのアホな騒ぎなど眼中にないといった様子で淡々と持ち場をこなしている。タラップは収容され、左舷では錨の鎖が重々しく巻き上げられていく。主砲塔のキャンバスはすべて剥ぎ取られ、艦橋の上下では伝令と復唱の声が絶え間なく響く。陸奥むつという艦体は死んでいるはずなのに、今やこの場にいる誰よりも「秩序システム」として生きている。

俺が他の連中の安否を問おうとすると、先にリンさんが口を開いた。

「葉 錡安イェ・チーアンとアイストリッドは乗っていないわ」

「ああ、電話したから知ってる」

「ええ」

彼女は頷いた。

「亡霊の通信兵が持っていたあの野戦電話、あなたの声が大きすぎて、全部聞こえていたわよ」

俺の口角が引き攣った。

「……つまり、お前ら全員盗み聞きしてたわけか?」

希が吹き出した。

「当たり前じゃない。『幽霊じゃなくて、旧帝国海軍の艦隊だ』なんて真顔で言ってるあんたの声を聞いて、聞き耳を立てない奴がどこにいるのよ?」

老高さえも、堪えきれずに口角を歪めていた。

「葉 錡安イェ・チーアンが、あんたの言う通りに新幹線に乗ってくれたんだとしたら、よっぽど性格が良かったんでしょうね」

「アイストリッドの方が、よほどいさぎよかったわよ」リンさんが追い打ちをかける。「あんたより大人ね」

「……お前ら、今日はどうしても俺を叩かないと気が済まないわけ?」

「今日のあんたは、叩かれるに相応ふさわしいわよ」

言い返そうとした瞬間、前方艦橋から金属質の鐘の音が響いた。

――カンッ。

整った船内の空気が、一瞬にして凝縮される。

さっきまで俺たちが軽口を叩き合っていられたのは、この船が親切心で親睦会を開いてくれていたからじゃない。その鐘の音を合図に、陸奥むつの上下に配置された亡霊乗組員たちが、一斉に、かつ有機的に動き出した。伝令へと走る者、副砲の傍らに付く者、索を絞り、角度を校正する者。すべての動作は、七十年の時を経て凍結されていた巨大な歯車が、再び完璧に噛み合ったかのように滑らかだった。

山口 多聞ヤマグチ・タモンは、すでに艦橋前方の高みに立っていた。

海風が軍服の裾を吹き抜け、背後の霧と前方の黒い海、そして左右に控える翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくの巨大な影を支配している。その光景を目にした老高ラオガオが、低く毒づいた。

「クソが。あの老いぼれ、登場の仕方を心得てやがる」

シキが即座に同意する。

「そう、それ! 私も言おうと思ってたの。あれはもう現身あらわしみじゃないわ、ただの『グラビア撮影』よ」

吹き出しそうになった俺を置き去りにして、山口の号令が全艦のテンションを極限まで引き上げた。

出航準備しゅっこうじゅんび!」

声は低かったが、全艦の隅々にまで浸透した。

左舷の錨鎖びょうさが、海底から山を引き摺り出すような重苦しいうなりを上げ始める。甲板が微かに震え、陸奥むつという質量が再び浮力ということわりに身を委ねた。艦橋から各部署へと伝播する命令、艦底深部から突き上げてくる機械の振動、ロープの摩擦音、金属の咬合、蒸気の吐息。すべてが同時に「起動オン」になった。

俺の足元の甲板も、震え始めた。

無秩序な震えじゃない。重厚で、巨大で、どこまでもクラシックな振動だ。まるで一本の巨大な竜骨が、海底でゆっくりとこうべをもたげたかのような。

シキが足元を見やり、次に俺の手の中の「第六の栓」に視線を走らせた。

「……繋がったわ」

「何がだよ?」

「あんたの手にあるそれと、この船よ」彼女は唾を飲み込んだ。「私のデバイスがめちゃくちゃな数値を叩き出してる。でも、デタラメじゃない。整列アライメントされてる。この船は、それを『欠落していた構造材』として認識し始めたわ」

老高ラオガオが吐き捨てるように言った。

「専門用語はいい。翻訳しろ」

白話わかりやすく言うなら――」希は息を吸い、俺を直視した。「あんたはもう、ただの乗客パッセンジャーじゃないってことよ」

雨瞳リン・ユートンが、淡々とその先を補完する。

「あなたは『貨物カーゴ』よ」

俺は盛大に目を逸らした。

「……サンキュ。俺もさっき、そんな気がしてたところだ」

「なら、しっかり抱えておけよ」老高が俺の胸元を指差す。「そんな『荷』を落としでもしてみろ。東京湾ごと、あの世行きだぞ」

「縁起でもないこと言うな」と返そうとした瞬間、外海の左右が同時にひらめいた。

翔鶴しょうかくが先んじた。

飛行甲板の縁に並ぶ誘導灯が、刃紋のように霧を切り裂く。続いて瑞鶴ずいかく同調リンクした。左右の空母の甲板上では、無数の亡霊たちが最短の手順で持ち場へと回帰していく。牽引、校正、誘導、チョーク解除、放飛前点検。その流麗な動作は、死者たちがこの数十年、深海で片時も欠かさずリハーサルを繰り返してきたのではないかと錯覚させるほどだった。

希は呆然と立ち尽くし、次の瞬間には手摺りに身を乗り出していた。

「ちょっと、嘘でしょ……! 見せびらかしてるだけじゃないわ。本当に『出す』つもりよ!」

「当たり前だろ」老高は顔を青くしながらも、口だけは動かし続けた。「空母が飛行機を飛ばさねえで、花火でも上げるってのか?」

次の瞬間、一機の機影が翔鶴の甲板の果てへと滑り出した。

完全な実体ではない。霧と旧い油煙、そして残留した殺意とアルミ合金の記憶で組み上げられた「残像ファントム」だ。だが、それが離艦し、翼を傾け、海面すれすれをかすめて飛翔した際、そのあまりにも古びてしわがれたエンジン音は、風の音を物理的に圧殺して俺の鼓膜へと突き刺さった。

続いて二機目、三機目、四機目。

翔鶴が放てば、瑞鶴が即座に応じる。

刹那、二隻の空母は、歴史の闇に葬られたはずの夜間攻撃隊を現世へと吐き戻した。それらの機影は高度を上げず、霧の天蓋と海面の隙間を縫うようにして散開していく。それは、獲物の眼球と喉元を食い破るためだけに放たれた、夜の化生けしょうの群れだった。

傍らの三人が同時に二秒間、沈黙した。

そして、老高ラオガオが真っ先にその静寂を打ち破った。

「……前言撤回ぜんげんてっかいだ」

「どの言葉だよ?」俺は訊き返した。

「これは送迎エスコートなんてチャチなもんじゃねえ」彼は夜空へと次々に吸い込まれていく機影を見つめ、喉仏を一度、重苦しく動かした。「――ただの御駕親征ぎょかしんせいじゃねえか、クソったれ」

シキが即座に言葉を繋ぐ。

「しかも、空母二隻をチアリーダーに従えてるタイプね」

「チアリーダーじゃないわ」林 雨瞳リン・ユートンが冷淡に訂正を入れる。「第一波艦載機による掩護カヴァーよ」

彼女が言い終えるのとほぼ同時に、基地方向から物理的な反応が返ってきた。霧の中から数本の白線が猛然と立ち上がる。空域に臨時封鎖線を展開し、退路を断つつもりだろう。だが、先頭の数機は高度を変えることすらなく、その白線を低空で強引に切り裂いていった。次の瞬間、節点ノードに沿って無理やり削り取られた白線から、遠く離れた俺たちの奥歯まで響くような耳障りな高周波音が鳴り響く。

さらに後方の霧の中で、短く、そして苛烈な火光が連続して爆ぜた。

花火じゃない。

誰かが掃射を受け、術式を中断され、強制的に地に這わされた――明確な「制壓せいあつ」の火光だ。

希の瞳が興奮で輝く。

「ちょっと、このバックアップ、過剰接待オーバーキルすぎない?」

老高が手摺りに縋りついたまま、青白い顔で補足する。

「『翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくが後ろ盾』なんてのが、単なるコピーだと思ってたのか? ……あれは、軍令オーダーそのものなんだよ」

俺は思わず、山口ヤマグチの方を振り返った。

あの老いぼれは艦橋に立ち、最初から姿勢一つ変えていない。ただ第一波の機群が発進したのを確認し、微かに手を掲げただけだ。それだけで艦橋からは新たな口令が怒号のように降り注ぎ、戦艦 陸奧むつは全速へと加速を開始する。風は一気に牙を剥き、目を開けていることすら困難なほどの圧力をぶつけてきた。

「……なんだか、とてつもなく不吉な予感がしてきたんだが」俺は言った。

林 雨瞳は、いつの間にか調達してきた茶を一口啜った。驚いたことに、まだ温かいらしい。

「あなたが『トラブルメーカー』から、『戦艦と空母の護衛を要する国家級の災厄ディザスター』に昇格した件についてかしら?」

「……お前のその、急所を的確に突いてくる物言いはどうにかならないのか?」

「無理ね」

希が「へへっ」と笑い声を漏らす。

「あんたのこれ、もう『主人公補正』じゃないわよ。ただの『主人公専用セキュリティー・プラン』ね」

老高は、俺が抱えた「第六の栓」を、全東京都民が束になっても払えない請求書でも見るかのような目で見つめていた。

「俺が知りたいのはただ一点だ。東京に着いた時、一体誰が説明するんだ? ――なぜ旧帝国の戦艦一隻と空母二隻が、周 士達ジョウ・シーダーを護衛して入港してきたのかをな」

二秒ほど考え、俺は誠実に答えた。

「……誰も説明なんてしたくないだろうな。とりあえず、全員が俺のことを真っ先に罵倒するはずだ」

「その点に関しては、立派な自覚があるみたいね」希が言った。

その時、前方から再び、さらに長く、重厚な汽笛が響き渡った。

「ヴォォォォォォォォォォンッ――!」

その音圧に押し出されるように、海霧がさらに一掃される。

左右の翔鶴と瑞鶴の甲板灯が、一本の線となって前方へと伸びていく。第二波の機影が、すでに射出準備を終えようとしていた。陸奧むつの艦首の正前方には、東京へと続く漆黒の、そして一直線の、亡霊艦隊ゴースト・フリート専用航路が強引に抉り出されていた。

山口 多聞ヤマグチ・タモンがようやく首を巡らせ、こちらを一瞥した。

視線はまず、俺の握る「第六の栓」を、次に希、老高、林を掃き、最後に極めて平坦な一言を投げ捨てた。

「――吐槽つっこみが終わったのなら、しっかり掴まっておけ」

希が反射的に軽口を返す。

「提督! この船、もう少し現代の安全基準プロトコルに適合した手摺りとかないんですか?」

山口は足を止めず、即答した。

「――無いな(いっさい、ない)」

老高が短く、むせ返るような笑い声を漏らした。

林 雨瞳は冷静に茶器を弾薬箱の上に置き、改めて手摺りを掴み直す。

俺は懐の中で熱を帯び続ける「第六の栓」を見下ろし、それから前方の黒い海、両脇の空母、頭上の夜間爆撃隊を仰ぎ見た。この一連の出来事が、もはや荒唐無稽という次元を超えて、新たな世界の物理ルールになりつつあるのを感じながら。

荒唐無稽バカげているという点を除けば、船は現実に進んでおり、東京も確かに前方にある。

そして俺たちは、どういうわけか揃ってこの「船」に乗せられてしまった。

俺は冷たく塩辛い潮風を吸い込み、思わず低く呟いた。

「クソが。もし生きて東京に着けたら、真っ先に夜食を食いに行ってやる」

シキが即座に反応する。

「あんたの奢りね」

老高ラオガオが冷笑した。

「これだけの護衛エスコートを従えてるんだ。全都民に奢っても罰は当たらないぞ」

雨瞳リン・ユートン亡霊艦隊ゴースト・フリートがこじ開けた航路を見つめ、淡々と最後の一撃を食らわせた。

「……生きてから、言いなさい」

陸奥むつは彼女の言葉が落ちると同時に海面を切り裂き、東京へと突き進む。翔鶴と瑞鶴の上空では、第一波の夜間攻撃隊が基地側の追撃を霧の向こうへと押し戻し、この理不尽なまでに巨大な旗艦のために、真の「パス」を食い破っていた。


陸奧むつがその艦首を外海へと突き出した刹那、霧の向こうから追撃が始まった。

直接船を出してくるような無策な真似ではない。もっと執拗で、いかにもあいつらがやりそうな手口だ。

最初に動いたのは佐伯サエキだった。

基地側から白光が次々と立ち上がり、埠頭、外堤、消波ブロックに沿って海面へと伸びていく。それは単なる光の線ではない。水霧の上に編み上げられた封鎖面シール・グリッドだ。まるで出港航路そのものを「封印」で縫い合わせようとしているかのようだ。陸奥が押し開いたはずの霧が白線によって強引に引き直され、外海に発光する巨大な「肋骨」が突き出したかのような異様な光景が広がる。

シキは一目でそれを見抜き、手摺りから身を乗り出した。

「嘘、海面封鎖シー・ブロック!?」

「船を止めるんじゃないわ、」彼女はタブレットの上で乱高下するチャートを見つめ、顔色を失った。「航路そのものを『成立不可能な領域(Invalid Area)』に書き換えようとしてるのよ!」

「翻訳しろ」老高が歯を食いしばって吠える。

「つまり――」希が顔を上げた。「この先の海を『船が通ることは許されない場所』にしようとしてるの!」

「いい度胸だな、」俺は視界を埋め尽くす不快な白光を睨みつけた。「亡霊戦艦を相手に交通規則の議論をふっかけようってわけか」

言い終える間もなく、今度は真白マシロが仕掛けてきた。

埠頭の右側、濃霧の中から紫白の儀軌ギアスが猛然と展開される。正面突破ではない。もっと陰湿な一手。数十人の抜魔巫女たちが外堤や半壊した橋の上に立ち、御幣、注連縄、魂釘(ソウルネイル)、呪札を一斉に海へと投げ入れた。それらは水に沈むことなく、海面上に不可視の骨組み(フレーム)を形成し、陸奧の行く手を阻むように侵食していく。

「水路を釘付けにしているのね」リンさんは茶器を置き、今度こそ立ち上がった。「陸奧を沈めるためじゃない。『航行可能なタイル』を物理的に解体しようとしているわ」

「わかったよ、一人は封鎖、一人は解体だ。……なら、最後の一人は?」

その問いを待っていたかのように、左後方の埠頭の縁から探照灯を凌駕するほどの刀光が爆ぜた。

琉璃(るり)だ。

彼女は主控區コントロール・セクターの乱戦にも、佐伯や真白との術式争いにも見向きもしなかった。この女の選択は極めてシンプルだった。――陸奧が距離を離す前に、第六のアンカーを抱えた俺という疫病神を、船ごと引きずり降ろす。

外堤の断崖に立つ彼女は、黒髪とコートを海風に翻し、それ自体が海に突き立てられた一本の「刃」のようだった。次の瞬間、彼女の手から放たれた冷たい閃光が海面を横断した。

狙いは人ではない。航路そのものの切断だ。

水面を削り取るように伸びるその一撃は、海霧さえも上下二層に両断した。その剣気が艦体に届くより早く、足元の甲板が嫌な共鳴音ハウリングを上げた。

「クソ、あいつ本気かよ!」俺は本能的に後ずさる。

山口 多聞ヤマグチ・タモンが、ようやく目を細めた。

艦橋に立つ彼は微塵も動じず、ただ淡々と口を開いた。

「右舷副砲、警告射撃」

刹那、陸奧むつの右舷二基の副砲が旋回した。

近代的な自動砲塔のような軽薄な動きではない。もっと重厚で、巨大な獣が自らの肩を回すような「質量」の移動。砲口が持ち上がる瞬間すら視認できぬ速さで、胸の奥を抉るような鈍い衝撃音が二度響いた。

ドンッ。

ドンッ。

直撃はさせていない。

一発は琉璃(るり)の前方の海面に、もう一発は彼女の背後の防波堤の断裂面に叩き込まれた。炸裂した水柱と砕石が同時に噴き上がり、強引に彼女の姿をその中央へと切り離す。その水は、ただの飛沫ではない。戦艦の砲火によって海底から引き摺り出された「黒い水」だ。貝殻、赤錆の欠片、朽ちた木材、そして湿った塩の塊――それらが降り注ぐ様は、旧軍港のドロドロとした歴史そのものを顔面に叩きつけられているかのようだった。

刀光が、物理的にひん曲がった。

琉璃は依然として立ち尽くしていたが、追撃のルートは完全に遮断された。

彼女は水霧の向こう側に立ち、その表情は窺い知れない。ただ、あの琥珀色の瞳だけが、黒い濁流の向こうから俺を真っ直ぐに射抜いていた。それは断念などではない。「次に見つけた時は、ただでは済まさない」という宣告が、その眼差しにこれでもかと刻まれていた。

隔たった距離を越えて、俺のうなじに冷たい戦慄が走る。

「……あのツラ、本当に趣味じゃねえな」俺は零した。

「あんたにはお似合いよ」リンさんが横から淡々と追い打ちをかける。

その時、翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくの放った第一波の機群が、ついに基地の上空を制圧した。

海面すれすれを掠めて飛ぶ機影は、霧の中で三層に分かれた。下層は海面に沿って掃射を浴びせ、佐伯サエキが展開した白線のノード(節点)をピンポイントで叩き潰していく。中層は真白マシロが水路に打ち込んだ儀軌ギアスの骨組みを容赦なく引き裂き、そして上層の機群は、亡霊のように霧の天蓋を旋回しながら、地上で頭を持ち上げようとする者を監視し続けていた。

基地側も、即座にさらに苛烈な白光の閃撃ストロボで応戦する。

佐伯サエキも追い詰められていた。封鎖線シールはもはや「柵」ではなく「矛」へと変貌し、防波堤から突き出した数条の刺すような白光が、先頭の機影を貫こうと躍り出る。霧の中で短く火花が散り、二機の艦載機の残影がバランスを崩した。翼から長い黒煙を引きずり、海面を滑るようにして、最後は海そのものに飲み込まれるように霧の底へ消えていく。

シキが、息を呑んだ。

「……当てやがった!」

「当たり前だろ」老高ラオガオが鼻を鳴らした。「伊達にあの椅子に座ってねえよ」

だが、佐伯が当てたところで、勝ち目が薄いことに変わりはなかった。

何故なら、瑞鶴ずいかくの第二波がすでにその後詰めとして控えていたからだ。

空を埋め尽くす夜間攻撃隊のファントムたちは、殺害そのものではなく、「追撃に必要な足場をすべて攪拌かくはんし、粉砕する」ことのみを目的としていた。機群が白線の外縁を鋭く旋回し、その機腹から俺には名前も判らぬ「暗影」をばら撒いていく。爆弾でもミサイルでもない。それは旧き戦場の「制圧」という概念をそのまま現代に投射したような代物だ。その影が海面に触れた瞬間、水霧は焼かれたかのように黒く反転し、白線のノードが連鎖的に爆ぜた。完璧だったはずの封鎖網は、一瞬にして砕け散った魚の骨へと成り果てた。

真白マシロの側も、状況は芳しくなかった。

抜魔巫女たちが二巡目の御幣と釘を放とうとした瞬間、翔鶴の別働隊が彼女たちの頭上を掠めるほどの超低空で突っ込み、巫女たちは地面に伏せることを余儀なくされた。それは「当たらない」のではない。明確に「これ以上手を出せば、次は削り取る」という無言の恫喝だった。

霧の向こうから、真白マシロのあの、笑っているようでいて奥歯を噛み締めているような声が響いた。

「いいわ……本当に、やってくれるじゃない」

「ロートル(レガシー)の分際で、とんだ大盤振る舞いね」

口では強がっているが、その手はすでに止まっていた。

水路を釘付けにしていた儀式のフレームが一つ、また一つと消灯していく。海に伸ばしていた指を、一本ずつ引き抜くかのように。彼女は屈服したのではない。ただ計算したのだ。――これ以上強硬策を続ければ、外海でこの亡霊艦隊に完全に磨り潰される。そんなリスク、今の盤面では割に合わない、と。

最後まで抗ったのは佐伯サエキだった。

彼女の白線は、未だ霧の中で最後の一線を死守するように張り巡らされ、俺たちを逃がすまいと足掻いている。だが、陸奥むつはこの時、主砲の一撃すら放っていない。副砲の警告と機群による蹂躙、そして空母二隻による外周の圧殺。それだけで、現場指揮官レベルの封鎖プロトコルが太刀打ちできる領域を、とっくに超えていたのだ。

ついに、彼女は撤収の命を下した。

怒鳴り散らすような無様な敗走ではない。実に佐伯らしいやり方だ――白線は一条ずつ自動的に解除され、堤防と基地の外縁へと整然と収束していく。外科医が患部からメスを静かに引き抜くような、冷徹な撤退。敗北は敗北だが、そこには一切の乱れがない。これ以上の追撃は無意味。むしろ内郭の防衛に戦力を戻さなければ、真白や琉璃に盤面ごとひっくり返されかねないと判断したのだ。

霧の向こうから、彼女の氷のような声だけが遠く響いてきた。

『――海上追撃を中止。内郭封鎖へ移行する』

シキが即座に翻訳した。

「……鼻面はなづらひっ叩かれて、すごすご退散したみたいね」

「鼻面どころじゃないわよ」林 雨瞳リン・ユートンが、回収されていく白光を見つめながら淡々と言った。「これ以上続けても、ただ無様に映るだけだと悟ったのよ」

「……まあ、似たようなもんだろ」俺は肩をすくめた。

琉璃(るり)が、最後までその場に残っていた。

彼女は堤防の断裂面に立ち、眼前からゆっくりと水霧が晴れていく。その手に握られた冷徹な光――刀は、未だ鞘に収まってはいなかった。追いたくないのではない。この海域のルールが、山口率いる艦隊によって完全に書き換えられてしまったのだ。これ以上踏み込めば、それは単なる追撃ではなく、神代じんだい家の長女がその身を呈して戦艦の副砲と夜間機群の暴力に挑むという、あまりに分の悪い賭けになる。

この女、狂ってはいるが、愚かではなかった。

最後、彼女は遥か彼方から俺を一瞥し、唇を微かに動かした。

聞き取れなかった。

だが、間違いなくろくな言葉じゃない。

それから、彼女は背を向けて去っていった。

基地側から押し寄せていた追撃の喧騒が、潮が引くようにゆっくりと退いていく。白線が消え、儀軌ギアスが縮小し、刀意が霧散する。外海には再び、陸奧むつの艦腹から響く振動と、空母の甲板に並ぶ誘導灯、そして霧の天蓋で旋回を続ける艦載機群の、あの古びて重く、執拗なエンジン音だけが残された。

老高ラオガオがようやく、溜めていた息を吐き出した。

「……よし、今ので信じたよ」彼は手摺りに縋り、顔色はまだ青いままだが、ようやく皮肉を言える程度には気力を取り戻していた。「これは送迎エスコートなんかじゃない。ただの護送ごそうだ」

「国家級の護送ね」シキが補足する。

「棺桶級の護送だよ」と、俺。

雨瞳リン・ユートンは先ほどの茶を一口啜った。

「おめでとう、周 士達ジョウ・シーダー。あなたは今、二隻の空母に従えられ、戦艦の副砲による警告射撃を経て、ようやく平安に運ばれるに値する『厄介事トラブル』へと正式に昇格したわ」

言い返してやろうとしたが、前方艦橋から二度目の金属鐘が響いた。

――カンッ。

今度は戦闘前の緊張感ではなく、一つの区切りを告げる音だ。

甲板の亡霊乗組員たちは動きを止めなかったが、そのリズムは「交戦」から「航路維持」へと明らかに切り替わった。副砲の傍らに付いていた士官たちが持ち場へ戻り、伝令の声も短く鋭い戦術命令から、落ち着いた航行指示へと戻っていく。翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくの上空にある機群は全機撤収せず、一部を外周の哨戒に残し、残りは一機、また一機と遠方の霧へと消えていく。牙を半分収めつつも、剥き出しのまま威嚇を続けているような状態だ。

山口 多聞ヤマグチ・タモンが、ついに艦橋から降りてきた。

彼が近づくと、周囲の亡霊士官たちは自然と道をあけ、風さえもが規律正しく凪いだように感じられた。俺の錯覚かもしれないが、この老いぼれは船全体を自分の延長線上にある器官のように扱う才能があるらしい。

彼は俺たちの前に立ち、まず俺の懐の「第六のアンカー」に視線を落として無事を確認すると、淡々と口を開いた。

「追撃は終了した」

「見てれば判るよ」俺は背後の引き揚げられた白線の名残を指差した。「あんたの相手をするのは割に合わないって、あいつらも気づいたんだろ」

「相手をするのが難しいのではない」山口が言った。「今、ここで戦うことは、あちらにとっても『不採算』なのだ」

(……その言い方、最高に癪に障るな)

老高が腕を組み、手摺りに寄りかかりながら奴を睨んだ。

「それで、これからどうするんだ?」

「本気でこれ(ブツ)を――」彼は俺の手にあるせんを顎で指した。「――東京まで運び込むつもりか?」

山口は彼を一瞥した。

「……すべてではない」

俺たちは揃って面食らった。

山口は、海霧の向こうで一直線に伸び始めた航路を見据えた。

「東京は終着駅ではない」彼は言った。「――交差ジャンクションだ」

俺は眉をひそめた。

「わかりやすく話せ」

白話わかりやすく言うなら」彼はようやく俺を振り返った。「私が貴殿らを届けるのは、東京に安全に接近できる外周までだ。都市まちへ入る者は都市の道を、結界けっかいへ入る者は結界の道を往くことになる」

林 雨瞳が目を細めた。

「……東京は何を待っているの?」

山口はすぐには答えず、俺たちを観察するように眺めた。この連中が一度にどれほどの「真実」を飲み込めるか、秤にかけているようだった。やがて、彼は迷いなく告げた。

「三つの要素だ」

「第一に、先着する者」

「貴殿が先ほどかけた電話は無駄ではなかった。仲間に陸路で東京へ向かわせたのは、正しい判断だ」

「生者の足が、先に都市の境界ラインを踏んでおく必要がある」

シキがそれを聞いて頷いた。

「……つまり彼女たちはバックアップじゃなくて、先遣隊さきがけなのね」

しかり」山口は言った。「死者は海路をひらけるが、生者はまず陸の門を押し開かねばならん」

彼は二本目の指を立てた。

「第二に、匣座こうざだ」

「……何だって?」俺は訊き返した。

「第六のアンカーを手に提げ、東京まで揺られていけば済むという話ではない」山口の語気は、工具の収納場所でも説明するかのように淡々としていた。「東京には、六本の栓を一時的に対位アライメントさせる真の『座』がある。商人が品評会で使うような箱でも、真壁マカベの観測室にあったような過渡的なはこでもない。旧都が遺した、未だ完全に死に絶えてはおらぬ承座じょうざのことだ」

老高ラオガオが眉をひそめて聞き入る。

「……つまり、東京の街の中には、もっとバカでかい『箱』が眠ってるってことか?」

山口は彼を一瞥した。

「貴殿がそう理解したいのであれば、それでも構わん」

俺の口角が引き攣った。

「その比喩、急に気分が悪くなってきたんだが」

「貴殿の手にあるそれは、元より人を安らげさせるための物ではない」山口は言い放つと、三本目の指を突き出した。

「第三に、自らがとうに守りきれなくなっていることを、認めねばならぬ者たちだ」

その言葉に、林 雨瞳リン・ユートンでさえ半秒ほど沈黙した。

「……誰のこと?」彼女が問う。

山口は淡々と答えた。

「東京の、名を美しく記し、手順プロトコルを完璧に整えさえすれば、門の綻びは防げると信じ込んでいるやからのことだ」

俺は瞬時に理解した。

東京に神様が待っているわけでも、華やかな歓迎式典があるわけでもない。

――東京側がようやく、「護国結界ごこくけっかいは本当に破綻しており、もはや六本の魂釘(ソウルネイル)(リベット)で継ぎ接ぎするしかない」という現実に直面させられるということだ。

シキは手元のタブレットで乱高下する線図を睨み、舌打ちを漏らした。

「……つまり、私たちは援軍を呼びに行くんじゃないのね」

「違う」山口は言った。

「なら、私たちは一体何をしに――」

「誰も受け取りたがらぬ負債の請求書を、しかるべき者の机の上まで届けに行くのだ」

クソが。

老高ラオガオはそれを聞き、二秒ほど沈黙した後、唐突に俺を振り返った。

「周 士達ジョウ・シーダー

「なんだよ」

「……お前、最近の仕事内容がどんどん『運び屋』に近づいてる自覚はあるか?」

俺は第六のアンカーを抱え、陸奥むつの甲板に立ち、左右を空母の掩護に固められ、前方に東京への亡霊航路を、背後に叩き伏せたばかりの追撃部隊を配している。この状況下でそう言われ、俺の口から出たのは結局こんな一言だった。

「ああ。それも受取拒否不能、返品不可、紛失すれば亡国確定っていう、最高にタチの悪い特急便だ」

シキがその場で吹き出した。

雨瞳リン・ユートンは冷静に結論を下す。

「高リスク特殊物件。時間厳守。本人受領必須、といったところね」

山口の口角さえも、微かに動いたように見えた。

海風が甲板を吹き抜け、遠方の翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくの誘導灯が霧の上に浮かぶ二条の光の線となって流れていく。後方の基地側の追撃は完全に沈黙し、ただ霧の底でまばらな白光が明滅しているだけだった。一局負け越し、潔くカードを片付けることもできぬ敗北者たちの未練のように。

そして、歴史の闇に沈んでいたはずのこの戦艦は、手放すことの許されぬ「魂釘(ソウルネイル)」と、自らが乗客なのか貨物なのかも判らぬ連中を乗せ、東京という名のさらなる巨大な厄介事へと向かって、着実に進んでいた。

俺は手の中の第六の栓を見下ろし、それから未だ果ての見えぬ夜の海を仰ぎ見て、最後の一言を吐き出した。

「……いいだろう」

「なら、今から説明を始めてくれ」

「東京が一体何を待っているのか。そして、船を降りた後に真っ先に死ぬのは誰なのかをな」

山口 多聞ヤマグチ・タモンは風の中に立ち、前方の航路を見据えたまま、あらかじめ決められていた予定を告げるかのような平坦な口調で言った。

「案ずるな」

「――船を降りるまで、まだ存分に吐槽つっこみを繰り広げる時間は残されている」

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新青森発、東京行きの新幹線内。

トンネルに入った瞬間、窓の外には自分たちの車窓の反射だけが残された。

錡安イェ・チーアンはシートに深く身を預け、スマートフォンを掌の中で弄んでいた。乗車して以来、彼女の眉間のしわが解けることは一度としてなかった。車内は極めて安定しており、暖房は過剰なほどに心地よい。駅名を告げるアナウンスは清廉で、正確。この国が今まさに亡霊戦艦ゴースト・フリートによって航路をこじ開けられ、どこかの馬鹿が国家級の厄介事を抱えて東京へ向かっているなど、微塵も感じさせないほどに文明的だった。

その時、スマートフォンが震えた。

着信ではない、メッセージだ。

短く、簡潔。一目見て、周 士達ジョウ・シーダーが死に物狂いの、それでいてまだ死にきっていない極限状態で捻り出したものだと判る内容だった。

『乗った。』

『マジだ。』

『海に近づくな。先に街へ入れ。東京で会おう。』

イェはその三行を二秒間凝視し、やがて口角を微かに引き攣らせた。

隣に座っていたアイストリッドが、彼女の表情の変化に気づき、顔を向ける。

「……彼?」

イェは無言でスマートフォンを差し出した。

アイストリッドは内容を確認し、二秒間沈黙した。

「……この『乗った』というのは、私の理解している意味かしら?」

「一般人の言う『乗船』なら、違うわ」イェはスマートフォンを奪い返し、シートに背中を預けて長く重い溜息をついた。「もしあんたが訊いているのが、『あの馬鹿が本当に旧帝国亡霊海軍に拾い上げられた』という意味なら、……大正解よ」

アイストリッドは窓に映る自分の影を見つめ、その情報を脳内のプロトコルに翻訳しているようだった。数秒後、彼女は意外にも短く頷いた。

「わかった。……思っていたより早かったわね」

「あんたの『早い』の定義、少しガバガバすぎない?」イェは彼女を横目で睨んだ。「せいぜい軍用トラックか貨物船、あるいは霊柩車にでも揺られてるんだと思ってたのに、いきなり戦艦ドレッドノート級にジャンプアップよ。次の連絡は『左右に空母を従えて護送されてます』なんてオチじゃないでしょうね」

アイストリッドは平坦な口調で返した。

「――可能性はあるわ」

イェは一秒間、沈黙した。そしてもう一度、画面の三行を見つめた。

「……クソ。あいつなら、マジであり得るのが一番ムカつくわ」

列車がトンネルを抜けた瞬間、窓外が不意に白んだ。遠方に広がる東北の夜の灯火はあまりに疎らで、先ほどまでの会話とは別世界のように静まり返っている。車内前方では誰かが小声で通話し、後排では子供が母親の肩に頭を預けて眠り、ワゴン販売の車輪の音が隣の車両からゆっくりと近づいてくる。

それらの音は恐ろしいほどに「日常」で、だからこそ逆説的に理解できてしまう。周 士達ジョウ・シーダーがいま身を置いている場所は、決してこちら側の世界ではないということが。

アイストリッドが先に口を開いた。

「東京に着いたら、まず何をすべきかしら?」

錡安イェ・チーアンの返答は早かった。道中、ずっとシミュレーションを繰り返していたのは明らかだ。

「三つあるわ」

「第一に、拠点の確保。海からも港からも離れ、高すぎず、かといって辺鄙すぎない場所」

「第二に、東京の市街地と湾岸線を切り離して考えること。あの馬鹿がわざわざ『海に近づくな』と言ってきた以上、本当の厄介事の入口は海側に集約されているはずよ。都心じゃない」

「第三に、彼が東京に入った直後、即座に『消失』できる場所を用意すること」

アイストリッドが微かに眉をひそめる。

「……消失?」

「ええ」イェはスマートフォンを裏返し、その背面を指節で軽く叩いた。「まさか、あいつが東京に着いて堂々と下船できるなんて思ってないでしょうね? あの『釘』がそれほどの重要物件なら、今のあいつは人間じゃない、『貨物』よ。受取人がサインを一つ書き間違えただけで、国ごと吹き飛びかねないような特級のね」

アイストリッドの瞳に、かすかな理解の光が宿る。

「……まずは人を探すのではなく、地点ポイントを確保するということね」

「その通りよ」イェは飛速で後方へと過ぎ去る窓外の闇を見つめた。「安全で、清潔で、内陸にあり、最低でも二つ以上の撤退ルートが交差する場所。公式(お上)にも、港湾局にも、霊務局れいむきょくが真っ先に踏み込んでくるような場所にも頼らない。まずはあいつに呼吸を整える場所を与えてから、その後の引き渡しを考えるわ」

アイストリッドは沈黙し、それから問いかけた。

「今の東京は、どこまで把握していると思う?」

イェは、温度の伴わない失笑を漏らした。

「『穴』が開いていることは知っているでしょうね。

何かが漏れ出していることも。

自分たちではもう抑え込めないかもしれない、という予感も。

……でも、まさか台湾から来た不運な運び屋が、亡霊戦艦に揺られて釘を抱えながら乗り込んでくるなんて、夢にも思ってないでしょうよ」

今度はアイストリッドも、微かに口角を上げた。

「……まるであいつが、ただの宅配便デリバリーみたいね」

「事実、そうでしょ」

イェはスマホに視線を落とし、あの馬鹿のためにあらかじめ路を敷くべく、指を走らせた。口調は相変わらず刺々しい。

「高リスク、壊れ物注意、遅延厳禁。紛失すれば大惨事ディザスター確定の特急物件よ」

彼女はメッセージを送信した。返したのは、極めて短い一文。

『了解。東京の拠点は私が確保する。生きてさえいればいいわ』

送信後、彼女はスマホを膝の上で裏返し、前方の電子掲示板を仰ぎ見た。列車はひたすら南下を続け、その速度は極めて安定している。まるで鉄道が「生者」を定刻通りに都市へ送り届ける役割を担い、一方で海上の「死者」たちが、さらに古く、決して遅延の許されない「もう一つの線」を処理しに向かっているかのようだ。

アイストリッドはその視線を追い、低い声で尋ねた。

「……もし、東京に着くのが彼一人ではなかったら?」

イェが怪訝そうに首を傾ける。

「どういう意味?」

アイストリッドは一瞬言葉を切り、自分の問いがあまりに荒唐無稽に聞こえないよう、言葉を選んだ。

「船よ」と、彼女は言った。「あるいは……艦隊丸ごとだったら?」

イェは二秒間、彼女を凝視し、やがて溜息とともに眉間を揉んだ。

「……その時は、まず確保するわ」

彼女は一呼吸置き、自分でも馬鹿げていると思いながら言葉を繋いだ。

「――戦艦の入港ごときに、動じないような場所をね」

アイストリッドが、今度ははっきりと笑った。

淡い、しかし確かな笑みだった。

新幹線は滑るように東京へと向かう。窓外の夜景は、何も起きていないかのように平穏を保っているが――二人は確信していた。街に入って最初に迎え撃つべきは、「人間」などではない。

それよりも、遥かに厄介な「何か」であることを。


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