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S2第七十五章:東京湾に入港

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

陸奥むつが航行速度を安定させると、甲板を叩く風は不思議と耐えがたいものではなくなった。

風が弱まったわけではない。規則性リズムが生まれたのだ。戦闘前の乱気流と砲震が過ぎ去った後、巨艦は自らの荒ぶる気配を宥めるように、艦首が波を切る音、艦腹に響く低鳴、そして一定の間隔で伝わる甲板の微震だけを残した。まるで誰かが海原そのものを、この老兵の馴染み深いテンポに調整したかのようだった。

そこで俺はようやく気づいた――。

「クソ、腕がパンパンだ……」

殴り合いで蓄積した疲労じゃない。観測室かんそくしつから「第六のアンカー」を抱え、追撃を振り切り、タラップを駆け上がり、挙句の果てに空母の発艦ショーを見せつけられた。この土壇場になって、俺はようやく自分に「肩」という部位が存在していたことを思い出したらしい。懐に押し込み続けていた「第六の栓」は、抱え始めてからかなりの時間が経つというのに、その熱が引く気配はなかった。むしろ陸奥の艦体と共鳴するように温度を安定させ、不快なほどの存在感を放ち続けている。熱いわけではない。ただ、絶え間なく主張してくるのだ。――「俺はここにいるぞ。絶対に離すなよ」と。

俺はそいつを一度見下ろした。

「なあ、お前らもそう思わないか?」俺は口を開いた。「これ、知り合いに無理やり持たされた癖に、紛失したら一生かかっても弁償できないような『超高級品』にそっくりだって」

手摺りに寄りかかっていた老高ラオガオは、顔色がようやく「死人の白」から「いつもの不運な男の白」へと戻りつつあった。俺の言葉を聞き、彼は鼻を鳴らす。

「高級品なら、せめて保険プロトコルくらい掛かってやがる」

「だが、これにはねえ」

「案外、掛かってるかもしれないぜ?」

「掛かってたとしても、それは国家級の賠償よ」

隣でしゃがみ込み、タブレット上の乱高下するデータに目を凝らしていたシキが、相変わらずの毒を吐いた。

「しかも、受取人は絶対にあんたじゃないわ」

「……サンキュ。最高に励みになるよ」

俺はなるべく邪魔にならない場所を見繕い、足元に密封盒コンテナを下ろした。ようやく解放された手首を軽く回していると、一人の亡霊水兵が無意識に近づいてきて、足元の箱をじっと見つめた。

俺は反射的に、そいつを再び抱え直した。

水兵は一瞬だけ虚を突かれたようだったが、表情を変えることなく、ただ静かに一歩だけ後退した。まるで「勝手に緊張してろ。俺は通りがかっただけだ」とでも言いたげに。

「クソ……」俺は声を潜めた。「この船、通りすがりの奴さえプレッシャーが半端ねえ」

弾藥箱だんやくばこの上に腰を下ろしていた林 雨瞳リン・ユートンは、風に乱れたコートの裾を整えながら、平坦な口調で言った。

「あんたが抱えているのは、空母の艦載機で掃射してでも奪い取ろうとする勢力が三つもあるような代物よ」

「プレッシャーを感じるのが正常プロトコルだわ」

「そっちのプレッシャーじゃないよ」俺はさっきの水兵の背中に顎をしゃくった。「俺が言いたいのは、この船の連中が静かすぎるってことだ。その静寂が、かえって圧をかけてくるんだよ」

老高も甲板を見渡し、一度舌打ちをした。

「それは同感だ」

「あそこを見ろ。副砲の横に立ってる野郎、もう十分間も姿勢がミリ単位で変わってねえ。この死人ども、生きてる兵隊より軍紀が徹底してやがる。苛つくぜ」

希は顔を上げず、タブレットの画面をフリックする。

「彼らは今、本当に当直ワッチに就いているのよ。あんたに見せるためのデモンストレーションじゃない」

「それに、見れば見るほど確信に変わるわね。この船は『生きているよう』なんじゃなくて、根本的に自分たちを『現役げんえき』だと思い込んでいるんだわ」

その言葉を聞き、俺は思わず周囲を見渡した。

甲板の灯りは、現代の冷たく清潔なLEDではない。湿り気を帯びた黒い鋼板を、引き潮直後のように鈍く照らし出す、古ぼけた黄色い光だ。手摺りの傍、砲位の影、艦橋の下。至る所に人影がある。決して数は多くないが、隙間なく埋め尽くされているわけでもない。だからこそ「本物」らしかった。立つべき場所に人が立ち、空くべき場所が空いている。この船は、欠けた箇所だらけの骨格だ。古く、一度は沈んだ過去を持ちながら、今は確かに、すべての骨を元の位置へと嵌め直していた。

不意に、煙草が吸いたくなった。

ニコチンを欲しているわけじゃない。ただ、この光景には一本の煙草が必要だと感じただけだ。だが、亡霊戦艦の甲板で火を点けようものなら、旧海軍の規律プロトコルを重んじる連中にその場で叩き出されるかもしれない。そう思うと、すぐに馬鹿馬鹿しくなって止めた。

すると次の瞬間、通りがかった別の亡霊水兵が、四角く丁寧に畳まれた毛布を老高の傍らにそっと置いた。

老高が呆然とした。

俺も、アイツも。

リンさんさえもが、わずかに眉を上げた。

水兵は何も語らず、ただ日常の義務を果たすように、あまりにも自然な足取りで去っていった。老高は足元の毛布を見つめ、珍しく言葉を失っていた。

「……こいつ、今、俺を気遣ったのか?」

希がようやく顔を上げ、彼を見て吹き出した。

「ええ、そうね」

「おめでとう、老高。あんた、今この艦で『低体温症および船酔いに注意を要する人員』として正式にリストアップされたわよ」

「誰が船酔いだ!」

「足元のバケツが、何よりも雄弁に物語ってるわよ」と、俺。

「これは予防的なタクティカル・デプロイメント(配置)だ!」

「戦術装備みたいに言うなよ」

老高ラオガオは俺を怒鳴りつけようとしたが、結局は毛布をひったくるように掴んで肩に羽織った。癪だが、これが妙に似合っている。その瞬間、俺の脳裏に馬鹿げた思考がよぎった。この船、もしかして完璧な後勤ロジスティクスが生きてるんじゃないか? あと十分もすれば味噌汁でも運ばれてくるんじゃないか、と。

すると三分後、本当に亡霊の通信兵が金属のトレイを捧げ、艦橋の下を通り過ぎていった。その上には白磁の湯呑みがいくつか並んでいる。

俺はそのトレイを二秒間、凝視した。

「……」

リンさんが俺の視線を追い、微かに笑みを漏らす。

「今、『この船、サービスが良すぎるんじゃないか』って考えてたでしょ?」

「……この後、『お砂糖はお入れしますか?』なんて訊かれそうで怖いよ」

シキがパチンとタブレットを閉じ、ようやく立ち上がって背伸びをした。

「正直、この旅で一番ムカつくのは、殺されかけたことでも亡霊戦艦に乗ってることでもないわ」

「この船の勤務サービスが、そこらの現代組織よりよっぽど『綺麗』だってことよ」

老高は毛布に包まり、顔色こそマシになったが口の悪さは健在だった。

「旧帝国海軍も、沈んで数十年経ってから接客態度で評価を上げるとは、さぞかし複雑な気分だろうよ」

言い返そうとした刹那、艦首の方から遠く、低い号音が響いた。警報ではない、航行上の確認信号のような響き。船内の亡霊たちは誰も動じず、ただ特定の持ち場の人影がわずかに一歩動いた。まるで「前方に何かがある」ことすら、とっくにルーチン(手順)に組み込まれているかのように。

俺は顔を上げ、そこで初めて前方の大海原を直視した。

さっきまでは背後の追手や左右の空母、そして手元の厄介な「荷」に手一杯で、前方はただの闇だとしか思っていなかった。だが、追撃が止み、船が安定し、甲板に奇妙な日常感が漂い始めた今、俺はその闇が「完全な虚無」ではないことに気づいた。

最前方、水平線の付近に、いくつかの小さな紅い点が見えた。

星じゃない。低すぎる。

船の灯火でもない。動かず、あまりに安定している。

最初は目の錯覚かと思うほど小さかった。世界の果てに細い針で紅い塗料を点したような、まばらな光。目を凝らして見つめるうちに、それが航路標識や灯台、あるいは遠い岸壁の警告灯であることに思い至った。

「見て」リンさんが不意に言った。

彼女の視線を追い、さらに右側へ目を向ける。今度は紅い点だけではなかった。

海面の果てから、白い粒のような光が浮き上がってきた。突如として現れたのではない。船が進むにつれ、一粒、また一粒と、闇の底から芽吹くように現れたのだ。最初は二、三粒。遠くのテーブルに無造作に置かれたガラス玉のように。やがて数は増え、散らばりながらも、それが何らかの規則的な「境界ライン」を形作り始めた。

シキも手を止め、前方を見つめる。

「……街の光害ひかりがいが見えてきたわね」

老高が毛布を肩の上まで引き上げ、鼻で笑った。

「……いかにもお前らしい言い草だ」

「じゃあ何? 『東京の息吹』とでも言えばいいの?」希が毒づく。「私は広告を撮ってるわけじゃないわよ」

だが、彼女の言う通りだった。それは単一の灯台でも、港の作業灯でもない。言葉にするのは難しいが、大都市に住んだことのある人間なら肌で感じるあの感覚――背景が「明るく」なり始めているのだ。特定の点が光るのではなく、天の際全体に、淡く、薄く、遠い灰白色の層が漂っている。夜の闇の裏側に、まだ消灯していない別の世界が隠されているかのように。

俺はその灰白色を数秒間、じっと見つめていた。

海はまだ黒い。

風はまだ冷たい。

足元の甲板は相変わらず重厚に震えている。

けれど、前方の闇は、もはや先ほどのような「果てのない虚無」ではなかった。

ふち」が見え始めた。

そして、その縁の向こうには、光がある。

山口 多聞ヤマグチ・タモンがいつの間にか艦橋から降りてきて、俺たちの少し後ろに立ち、同じ方向を見つめていた。彼は何も言わなかった。ただ立っている。けれど、その沈黙のせいで、徐々に育っていく光の粒はより一層の重量感を伴って迫ってきた。船全体が、前方に何があるかを理解している。ただ、それを俺たち素人にわざわざ宣告するのを、無骨に控えているだけなのだ。

俺はたまらず口を開いた。

「……あれは、まだ違うよな?」

山口が淡々と返した。

「まだだ(まだ、遠いな)」

その声は極めて平坦だった。「焦るな、東京はそんなに軽いものではない」とでも言うように。

それから俺たちは、さらに進んだ。

船の上では時間の感覚が歪んでいく。どれほど経ったのか判らない。甲板の風も、灯も、振動もほとんど変わらないからだ。ただ、前方の光だけが着実に増えていく。まばらな粒だったものが、やがて疎らな線となり、線の背後にはさらに密で、白く、輝かしい層が浮かび上がってくる。理不尽なほどに巨大な何かが、まだその全貌を見せず、そのエッジだけで夜の闇を押し広げているのだ。

左手遠方には、海面に沿って伸びる低い黄色の灯の列。右手には、霧のさらに上空を照らし出し、「その背後に膨大な何かが控えている」ことを予感させる冷たい白光。その光り方は狡猾だった。輪郭をはっきりと見せないことで、逆に突きつけてくるのだ。――前方にあるのは単なる「地点」ではなく、巨大な「領域エリア」なのだと。

老高も、もう何も喋らなかった。

シキはタブレットを抱えたまま、もはやデータに目を落とすことはなかった。

俺でさえ、しばらくは静寂に身を任せ、ただ前方を見つめ続けていた。

別に感傷に浸っているわけじゃない。あんな光景を見せつけられれば、誰だって自然と口を噤むことになる。

海の上から見る大都市メガロポリスは、唐突に姿を現すわけじゃない。

まず、取るに足らないいくつかのあかりを見せ、大したことはないと油断させる。

次に、さらに多くの光をともし、こちらに推測を許す。

そしてようやく気づかされるのだ。灯火ともしびが増えたのではない。

世界の果ての「尺度スケール」そのものが、別の何かに書き換えられているのだと。

さらに進むと、前方左側の霧がわずかに薄まった。

ほんの一瞬。

だが、そのわずかな隙間から、背後の光が奔流となって漏れ出した。幕が片隅から捲り上げられたかのような光景。まず不自然に発光する水平線が見え、次いで高い位置にある光の面、さらにはそれらが単なる光ではないことが朧げに判明していく。――それは建物の外壁であり、橋梁であり、夜の闇にエッジを削り取られたビル群の輪郭だった。

俺は息を呑んだ。

「……ほう」

希が俺を横目で見た。

「『ほう』、だけ?」

「他に何があるんだよ」俺は視線を逸らさずに返した。「本当はクソッタレって罵ってやりたかったが、今は『ほう』と言うのが一番誠実な気がする」

雨瞳リン・ユートンが静かに言った。

「これはまだ、外郭に過ぎないわ」

その一言が、また不快なほどに突き刺さる。

彼女の言うことが正しいと、直感で理解できてしまうからだ。

前方の灯は増殖し続けていた。果てなどないかのように。港の一部や埠頭の一角が光っているのではない。遠方の地平そのものが、自らをゆっくりと点呼するように覚醒させているのだ。高い場所は白く、低い場所は黄色く、さらにその深淵には大気に溶け込んだ灰白色の輝きがある。まるで都市が地上に建っているのではなく、自らの光で夜空を強引に押し上げているかのようだった。

俺は、山口ヤマグチがなぜ「着いた」と急いで口にしなかったのか、ようやく理解した。

こういう場所は、最初の一灯いっとうを見ただけで「見た」ことにはならないのだ。

一粒一粒、光が芽吹くのを見守り。

まばらな光が岸壁となり、岸壁が港湾区となり、その背後からさらに高く、密で、消えることを拒む何かが浮上してくるのを、一つずつ確認しなければならない。

そして、どこからが海辺で、どこからが街で、どこからが大気そのものの発光なのか判別がつかなくなった時。

俺たちはようやく、ある事実に叩き伏せられる。

(……クソが)

(あれが、本物の東京だ)

しかも、奴はまだ巨大化を続けている。

俺は甲板に立ち、「第六のアンカー」を抱えながら、言いようのない非現実感に包まれていた。前面に東京が広がっているからではない。東京がああも鮮烈に姿を現し始めているというのに、足元のこの船は相変わらずの風情を保っているからだ。――重厚で、古く、冷徹。すべてが日常の航海であるかのように静まり返っている。

それが、どうしようもなくしゃくだった。

こういう船に乗っていると、自分まで「すべてを把握している」かのような錯覚に陥りそうになる。

だが、俺は知っている。俺にそんな余裕はない。

今の俺の精神状態を正確に記述するならこうだ。

――亡霊連合艦隊に「特級貨物」として護送されながら、顔面に迫りくる東京という現実をただ呆然と眺めている。

俺は懐の中の釘を盗み見た。

相変わらず、熱い。

投げ捨てたくなるようなねつじゃない。てのひらに張り付いて呼吸を繰り返す、金属製の内臓のような、嫌な熱さだ。抱え方を変えようと少し動かすと、熱は腕を伝って一気に這い上がってきた。俺は慌てて元の位置に押し戻した。

隣で見ていた希が、鼻で笑った。

「その抱え方、今にも客訴クレームが来そうな高級フルーツを持ってるみたいね」

「高級フルーツなら冷蔵室チラーに入れられるんだがな」俺は不機嫌に返した。「こいつときたら、手摺りに置くことさえ躊躇われる代物だよ。転がり落ちたらどうするんだ」

「もし落としでもしたら」

亡霊水兵に渡された毛布に包まり、「死にかけ」から「ただの不運な男」へと復帰した老高ラオガオが、冷たく補足した。

「……海に飛び込んで探す手間は省けるだろうな。その前に、誰かがお前を海へ叩き込んでくれるだろうよ」

「……最高のアドバイス、サンキュ」

林 雨瞳は弾薬箱に座り、どこからか調達した熱い茶を啜りながら、前方の灯を見つめていた。声はどこまでも平坦だ。

「誰かじゃないわ」

「……え?」

「……大勢おおぜいが、そうするでしょうね」

「お前、今日はどうしてもその路線で行くつもりか?」

「今日のあなたは、それに値するわよ」

クソッタレ。

言い返そうとした刹那、前方艦橋から短く鐘の音が響いた。

直立不動だった甲板の亡霊たちが、一斉に一歩だけ動いた。

ただの一歩。

だが、その一歩が、この船の不気味な「現役感アクティブ・プロトコル」を再び引き戻した。

怒号も、喧騒もない。

けれど、すべての持ち場が静かに、そして雄弁に告げていた。

――「我ら、依然として任務ワッチ継続中なり」と。

俺は再び、前方へ視線を投げた。

そこには、さっきよりもさらに膨大な光の群れが、牙を剥いて待ち構えていた。

少し増えたのではない。船が進んだ自覚もないのに、ふと顔を上げた瞬間、水平線の背後にある灰白色の輝きが、さらに一段高くせり上がっていたのだ。まばらだった灯火ともしびは、すでに一部が「線」へと繋がり、ただの線だった場所の奥からは、さらに密で、高く、冷徹な光が透け始めていた。

まるで、都市が闇の中で自らの骨組みを一本ずつ垂直に立て直しているかのようだ。

俺は潮風を吸い込み、沈黙した。

こういう光景は、人間から語彙を奪い、静かに口をつぐませる力がある。


東京・お台場・レインボーブリッジ

お台場の海辺で、夜景を撮りに来ていた一組のカップルが、その「違和感」に真っ先に気づいた。

女のスマートフォンのレンズに収まっていたのは、レインボーブリッジだった。

橋の躯体、海面、遠方のビル群。調整したばかりの夜景フィルタを通したそれは、どこまでも「東京」らしい風景だった。彼女は彼氏の立ち位置が不細工だと文句を言い、後ろの屋形船が入らないようにもっと左へ寄れと指図していた。

彼氏が不満を漏らそうとした時、彼女の動きが止まった。

「ねえ」

「なんだよ」

「……あそこに、あんなのあったっけ?」

彼氏は彼女のスマホ越しにその先を眺めたが、最初はピンとこなかった。

海の上に、巨大な「黒い塊」が横たわっていた。

動くイルミネーションを纏ったクルーズ船でもなければ、工事用の足場でもない。それはあまりに黒く、硬く、完結していた。夜の闇の中に、光を反射することを拒絶する「鉄」が突如として現れたかのようだった。

「映画の撮影か何かだろ?」彼氏が言った。

「なわけないでしょ」彼女はスマホの画面をピンチアウトした。「見てよ、あのシルエット。客船じゃないわよ」

さらに拡大すると、画像が粒子状に崩れ始めた。夜景モードで無理やりピントを合わせようとする画面の中で、黒い影の輪郭に「詳細」が浮かび上がってくる。幾層にも積み上げられた艦橋、理不盡なほどに硬質な舷側のライン。そしてその外側には、通常の船とは思えぬほど長大な甲板の輪郭が、朧げに、しかし確かに存在していた。

彼女の指が止まった。

本当に「見て」しまったのだ。

人間に「似た」点ではない。

甲板の端に、数人の人影が立っていた。揺るぎなく、直立し、岸辺の人間からどう見られているかなど微塵も関心がないかのように。その影は多くはなかったが、それぞれが明確に異なる位置に配置されていた。観光客でもなければ、無秩序に動く作業員でもない。それは――当直、見張り、哨戒。

彼女はゆっくりとスマホを下ろした。

「……あの上に、本当に人がいるわ」

彼氏は二秒間沈黙し、ふざけたような表情をようやく引っ込めた。

「……ああ、わかってる」

彼にも、見えていたからだ。

そしてさらに最悪なことに――。

その船もまた、岸辺こちらをじっと見つめているように感じられたのだ。


俺は陸奥むつの甲板に立っていたから、お台場のカップルが今まさに人生観を揺さぶられていることなんて知る由もなかった。ただ、前方の灯火が加速度的に増えていくこと、そしてそれが尋常な量ではないことだけを肌で感じていた。

左側の海面に浮かぶ低い黄色の線は、今や岸辺の施設であることが判別できるほど鮮明になり、その後方では高層ビルの白い光が側面から滲み出している。右側には、より冷たく、より直線的で、広大な面積を持つ発光面。最初は霧だと思っていたそれは、次第に「壁」としての質感テクスチャを帯び始めていた。

「なあ、お前らも思わないか?」俺は口を開いた。「東京の嫌なところはさ、姿を現す時まで『圧』をかけてくるところだよな」

「あら、少しは詩的なことも言えるのね」シキが言った。

「俺だってたまには、人間らしい言葉を吐くさ」

毛布に包まった老高ラオガオが、鼻を鳴らす。

詩的インテリなんじゃない。お前はようやく、これから自分がどこへ行って、どれだけ無様に恥を晒すことになるかを自覚し始めただけだ」

「東京はお前の元カノじゃないんだからさ、そんなにトゲのある言い方するなよ」

「トゲじゃないわ」林 雨瞳リン・ユートンが茶を啜りながら、淡々と最後の一撃を加えた。「あそこは元々、人を不快にさせるための場所よ。灯が多すぎ、人が多すぎ、手順プロトコルが多すぎる。何でも飲み込めると思い込んでいる場所」

彼女は前方の、輝きを増し続ける天の際を見つめて補足した。

「だからこそ――飲み込みきれなくなった時の悲鳴も、格別スペシャルなものになるでしょうね」

不快なほど、的確な指摘だった。

俺は再び顔を上げた。視界の端々に映るものは、もはや「都市のような」曖昧な光輪などではなかった。

ある地塊セクターはうねるような岸線コーストラインとして識別でき、ある光点は高くそびえ立つビル群としてその実在を確立させている。そして、未だ混沌とした光のよどみとして残る領域の背後には、より堅固で、より重厚な物質が幾重にも積み重なっていることを、俺は直感していた。

東京湾とうきょうわんの最前縁。それはまるで、誰かが極夜の底で巨大な鉄の箱をゆっくりとこじり開けているかのようであり、歴史の灰に沈んでいたはずの俺たちの戦艦は、その「箱」の深淵へと淀みない足取りで突き進んでいた。


東京・お台場・レインボーブリッジ

レインボーブリッジの上を、一台のタクシーが港區みなとく方向へ向けて走っていた。

運転手は深夜ラジオの再放送を流し、客は手元でスマートフォンを弄っている。車内はナビの音声と、タイヤが継ぎ目を拾う微かな震動だけが支配する安穏とした空間だった。橋の中央に差し掛かった時、運転手が不意にボリュームを絞った。

番組が面白くなかったわけではない。

海の上に「何か」がいたのだ。

最初、彼は自分の目を疑い、一度強く瞬きをした。

二度目。その「何か」は依然としてそこに留まっていた。

三度目。彼はついに耐えきれず、短く罵倒を零した。

客が顔を上げる。「どうかしました?」

運転手は答えず、ただフロントガラスの先へと顎をしゃくった。「……あそこを見てください」

客がその方向を望見し、一瞬、呆然と固まった。海面に、異常なほど巨大で黒い船影が横たわっている。岸に近いわけではないが、蜃気樓しんきろうと片付けるにはあまりに現実味がありすぎた。さらに常軌を逸していたのは、その黒い巨軀の左右、少し離れた位置に、さらに長く、平らで、巨大な甲板を思わせる影が海霧を圧するように鎮座していることだった。

車内の二人は、同時に数秒間沈悶した。

客が先に口を開く。「……演習ですかね?」

運転手は前方から視線を逸らさず、しばらく経ってから低く返した。「……そうであってほしいですね」

彼は無意識にアクセルを緩めた。

なぜならその時、中央の黒い船の甲板に、いくつもの「人影」が立っているのを視認してしまったからだ。錯覚ではない。光が作り出した幻影でもない。確かな質量を持った数名の人影が、微動だにせず、見張りや哨戒、あるいは東京が自分たちを見つけるのをずっと以前から予期していたかのような佇まいで、そこにいた。

客は黙ってスマートフォンを掲げ、録畫レコーディングを開始した。

運転手はそれを止めなかった。

彼自身も、それを記録しておきたかったからだ。

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甲板を叩く風が、一段と冷たさを増した。

海が変わったからではない。前方に真実味を帯びた「都市」の気配が迫ってきたせいだ。

今や俺の目にも、光の層が明確に分かれて見えていた。港湾施設の低い光、より内側にある商業区の整然とした高い白光。そしてさらに深奥には、都市の熱量そのものが低雲を押し上げているかのような灰白色の残光。

俺はふと思い当たった。

「なあ」

「何よ?」シキが訊く。

「こんなに近づいてさ、岸の連中、もう撮影始めてるんじゃないか?」

希は一瞬虚を突かれた顔をしたが、即座にタブレットの画面を猛然と操作し始めた。これまで艦内の異常な観測データばかりを追っていた画面を、一般的な通信プロトコルへと強引に切り替える。直後、彼女の表情が劇的に変化した。

「……うわ、最悪」

「どうした?」

「もう出回ってるわよ」彼女はタブレットを俺たちの方へ向けた。「ショート動画、SNS、地域コミュニティ。全部一気に燃え始めてる(バズってる)」

老高ラオガオが身を乗り出し、数秒間画面を凝視した後、複雑な表情を浮かべた。

「……もう少し、時間が稼げると思ってたんだがな」

「東京の連中は節穴めくらじゃないからな」と、俺。

雨瞳リン・ユートンは画面を覗き込むことさえせず、ただ淡々と問いかけた。

「……どこまで撮られているの?」

希は画面をフリックしながら、短く息を呑んだ。

「船が撮られた。シルエットも、甲板の縁に人影がいるのも……。何本かの動画には、左右の沖合にいるあの二つの長い影まで映ってるわ」

「コメントスレッドはもう大荒れよ」

「……何で荒れてるんだ?」と、俺。

「映画、軍事演習、AI、世界の終わり、エイリアン、昭和の復活、艦これの実装……何でもありね」彼女は顔を上げ、俺を一瞥した。「あと、『真ん中の一隻、戦艦じゃないか?』って訊いてる奴らが山ほどいるわ」

老高ラオガオがその場で毒づいた。

「艦これの実装って何だよ、クソが」

「東京の人間に訊きなさいよ」

俺はたまらず、山口ヤマグチの方を振り返った。

あの老いぼれは少し前方に立ち、こちらに背を向けたまま、微動だにしていなかった。

海風が軍服の裾を翻していくが、その佇まいは不気味なほど平坦だ。背後のSNSが燃えようが、東京がパニックに陥ろうが、すべてはこの航海において当然起こるべき些事に過ぎない――。

そんな、ぶん殴りたくなるような静寂しじま

あいつは、最初からこうなることを分かっていたのだ。


二十三時四十七分、一本目の動画がお台場付近のショート動画プラットフォームに投稿された。

タイトルは、たった一行。

『東京湾にいるあの黒いのは何?』

映像は最初、ごく普通の夜景を映していた。レインボーブリッジ、夜の街、海。撮影者は本来、ただの湾岸夜景を撮るつもりだったのだろう。だが三秒後、ズームが作動し、遠方の海上に浮かぶ黒い影が姿を現した。コメント欄は、最初は気楽なものだった。

『クルーズ船?』

『映画の撮影だろ』

『東京でまた何かイベントやってんの?』

『お前のスマホの夜景モードが壊れてるだけだ』

二十三時五十一分、二本目の動画が上がる。

今度は晴海はるみ側からの撮影で、角度はより正確だった。映像には中央の一隻だけでなく、左右のさらに遠く、海霧を圧するように鎮座する二つの極めて長い影も捉えられていた。撮影者は最初は笑っていたが、次第に声が小さくなり、最後にはこんな一言を漏らした。

「え……ねえ、あの上に人、いない?」

コメント欄は急速に熱を帯び、言い争いが始まる。

『俺も甲板で何かが動いてるのが見えた』

『ありえねえだろ』

『ただの影の加減だろ』

『いや、拡大したらマジで人がいる。誰だよ、真夜中に戦艦を東京湾に乗り回してるのは』

二十三時五十四分、三本目の動画がレインボーブリッジ方向から流出した。

撮影者は車の中にいるらしく、手ブレが激しくガラスの反射も酷い。だが視点が高い分、海上のシルエットはより鮮明だった。動画の中、誰かが押し殺した声でこう言った。

「あれ、現代の船じゃないだろ……」

この一言をきっかけに、話題は別の方向へと歪み始める。

『現代の船じゃないってどういう意味だ?』

『昭和の艦隊レガシー?』

『CGにしちゃ出来が良すぎる』

『CGなわけねーだろ、俺は今晴海にいるけど肉眼で見えてるぞ』

『ちょっと待て、左右の二隻、あれ空母くうぼじゃないか?』

零時三分、東京のローカルニュースを扱う速報アカウントが、いくつかの動画を一つに繋ぎ合わせたものを投稿した。

結論は出さず、ただ一つの問いを投げかける。

『東京湾に深夜、不明な大型艦影が出現。複数の目撃者が「甲板に人影が見える」と証言』

五分以内に、リポスト数は千を超えた。

そして、海上の三つの「異常」は、今もなお内側へと圧力をかけ続けていた。

「うわあ……」シキはタブレットのタイムラインを眺め、興奮と頭痛が入り混じったような表情を浮かべた。「勝手に発酵バズり始めたわね」

「これはまだ、始まりに過ぎないわ」林 雨瞳リン・ユートンが言う。

「分かってる、けど――」希が画面をスクロールさせ、目を見開いた。「クソ、本当にこっちの甲板を撮ってる奴がいるわよ」

「……顔は映ってるか?」俺は本能的に訊ねた。

「安心しなさい、そこまでは映ってないわ」彼女は手を止め、拡大された不鮮明な画像を見つめると、不敵に口角を上げた。「でも、あんたがその得体の知れない『棒』を抱えて手摺りに立ってるシルエットは、バッチリ捉えられてるわよ」

俺の全身が、一瞬で凍りついた。

「はあ?」

「ぼやけてるわよ」彼女は笑いを堪えながら画面をこちらに向けた。「でも、戦艦の甲板に潜む『怪しい運び屋』にしか見えないわね」

老高ラオガオが横から覗き込み、その場で吹き出した。

「ハハッ、全くだ。その通りだよ」

「お前ら、いい加減にしろよ……!」

「自分でも見てみなさいよ」シキは肩を震わせて笑っている。「これだけ巨大な船を撮ってるのに、その真ん中に何かを抱えた人影が突っ立ってるのよ。兵器の横流しでもしてるみたい」

言い返そうとしたその時、背後から山口 多聞ヤマグチ・タモンの声が響いた。

淡々と。

揺るぎなく。

そして、この事態を微塵も意外に思っていない響きで。

「――見られたのなら、それでよい」

俺たちは一斉に振り返った。

山口はそこに立ち、俺たちを、甲板を、そして東京港の外郭に広がる異常なまでの光の層を通り越し、さらにその奥に鎮座する「都市」を直視していた。

その声は低かったが、いやになるほど当然だと言わんばかりの響きを帯びていた。

「元より、見せるためにここへ来たのだからな」

海風が吹き抜け、彼の軍服の裾を翻す。背後には、もはや単なる灯火の群れではない、覚醒を始めた東京の輪郭が広がっていた。お台場、港区、橋、ビル、岸壁、内湾。それらが海霧を割って、一塊の巨大な実体として浮上してくる。

令和の夜の海に存在するはずのない亡霊戦艦ゴースト・フリートは、二隻の空母を従え、堂々と自らの影を都市へと刻み込みながら突き進んでいた。

俺はその街を、そして山口を交互に見やり、ついに低く毒づいた。

「クソが……この老いぼれ、人目につくのを怖がってるどころじゃねえ」

隣で老高がその言葉を引き継ぐ。

「人目につかないことを、恐れてやがるんだ」

その一言に、林 雨瞳リン・ユートンでさえ微かに口角を上げた。

希は再びタブレットに視線を落とし、爆発し続ける動画とコメントの濁流を眺めながら、独り言のように呟いた。

「……了解ラジャ。今夜の東京湾は、最高の『お祭り』になりそうね」


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