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S2第七十六章:旭日旗

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

前方ぜんぽうともしびが、加速度かそくど的にしていく。

一気に押し寄せるのではない。一層ずつ、うみうえへと「成長せいちょう」していくのだ。ひくく、まばらで、黄色きいろみをびたひかり岸線きせん沿ってゆっくりとひろがり、その後方こうほうには、よりたかく、しろく、つめたい発光面はっこうめんひかえている。まるで都市としそのものが姿すがたせるまえに、みずからの輪郭りんかくやみから押し出しているかのようだ。

歴史れきし深淵しんえんしずんでいたはずのこのふねは、よどみのない足取あしどりでそのひかりうずへとかっていた。

おれたんなるみなとかりとはおもえぬほど巨大きょだいひかりかたまり凝視ぎょうししていると、山口 多聞ヤマグチ・タモン不意ふい二歩にほまえて、艦橋かんきょう前方ぜんぽう高所こうしょたたずんだ。

海風うみかぜ軍服ぐんぷくすそひるがえす。

左右さゆうには、翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかく暗影あんえいいま外海そとうみあっするように展開てんかいし、じられぬ巨大きょだい門扉もんぴのように鎮座ちんざしていた。甲板かんぱん亡霊ぼうれいたちはもとより静寂せいじゃくたもっていたが、その瞬間しゅんかんふね全体ぜんたいみずからの呼吸こきゅうめたかのような錯覚さっかくおちいった。

山口ヤマグチ眼下がんかひろがる東京とうきょう見据みすえ、ひくく、しずかなこえはなった。

「――揚旗あげはた

おれ一瞬いっしゅん呆然ぼうぜんとした。

聞き取れなかったわけではない。

そのこえがあまりに平坦へいたんで、大事だいじこすものひびきではなく、当然とうぜんなされるべき手順プロトコルを淡々(たんたん)と指示しじするだけのひびきだったからだ。

つぎ瞬間しゅんかん陸奧むつというシステムが再起動さいきどうした。

艦尾かんびから二名にめい亡霊水兵ぼうれいすいへいが、生者せいじゃよりもあざやかな動作どうさ出列しゅつれつする。たたまれていた旗索はたづなかれ、滑車かっしゃみじか硬質こうしつ摩擦音まさつおんらした。前マストのしたでも、べつ人影ひとかげ同時どうじに持ち場へつく。さらにその外側そとがわ空母くうぼ甲板かんぱんはしでも、かげたちが定位置ていいちへとおさまっていく。

号令ごうれいはない。

余計よけい動作どうさもない。

ただ、軍紀ぐんきという沈黙ちんもくが、儀式ぎしき細部さいぶするどましているだけだ。

そして、はたがった。

まずは、陸奧むつ

そのはた甲板かんぱんかげけ、潮風しおかぜはらんで全開ぜんかいとなった瞬間しゅんかんおれうなじ総毛立そうけだった。はた知識ちしきなどない。だが、その意匠いしょうがあまりに「明白めいはく」すぎたのだ。白地しろじあか日輪にちりんそとへとはなたれる十六条じゅうろくじょう光線ひかり現代げんだいおおやけで堂々(どうどう)とかかげられるはずのない、あまりにふるく、かた意志いし。それは暗示あんじでもなければ、推測すいそくゆるすための記号きごうでもない。展開てんかいされた瞬間しゅんかん、それはみずからの正体アイデンティティ世界せかいへとたたきつけていた。

さらにその上方じょうほう将旗しょうき信号旗しんごうきつづく。装飾そうしょくではない。識別しきべつだ。このふねはもはや、きしの人間に余計よけい推測すいそくゆるすつもりはないらしい。みずからの所属しょぞくを、物理的ぶつりてき旗号きごうとして空間くうかんきざんだのだ。

左右さゆう翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくもまた、同時どうじはたひるがえした。

三隻さんせき巨艦きょかん

三組さんくみ軍旗ぐんき

同一どういつ東京湾とうきょうわん夜風よかぜ

刹那せつな海面かいめんに浮かぶ「かげ」は、たんなる怪異かいいであることをめた。

それは明確めいかく旗号きごう秩序ちつじょそなえ、確固かっこたる所属しょぞくゆうする艦隊ゴースト・フリートへと変貌へんぼうした。

かたわらのシキいきんだ。

「……うそでしょ」

老高ラオガオ毛布もうふ羽織はおったまま、にかけの表情ひょうじょうをかなぐりて、背筋せすじただしていた。

「――本気ほんきか、あの野郎やろう

雨瞳リン・ユートン沈黙ちんもくまもったまま、海風うみかぜらぶるはた上げていた。その眼差し(まなざし)はあまりにあわく、まるでこの老将ろうしょう最後さいごはな一手いってを、とうのまえから予見よけんしていたかのようだった。

おれ山口ヤマグチ背中せなか凝視ぎょうしし、ようやくひくこえしぼり出した。

「……これ、もうたんなる入港にゅうこう儀礼プロトコルじゃないだろ」

山口ヤマグチは振り返らない。

ただ前方ぜんぽうひろがる、みずからの「もん」のほころびにいまだ気づかぬおろかな都市まち見据みすえたまま、淡々(たんたん)とかえした。

入港にゅうこうには報到ほうこく必要ひつようだ」

海風うみかぜはたたたき、おもく、するど破裂音はれつおんひびかせる。

――パァンッ、と。

「……これは、わが通名なのりよ」

クソが。

一瞬いっしゅん理解りかいした。

このいぼれ提督ていとくは、東京とうきょうつかることをおそれてなどいない。

――東京とうきょうが、みずからのあやまちを「理解りかい」できぬことをおそれているのだ。

だからこそ、彼はそのはたかかげた。全世界ぜんせかい視界しかいを、物理的ぶつりてきあか日輪にちりんくすために。

左右の翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくが同時に旗をひるがえした。

東京湾の外海は、海原そのものがその旗印の意味を理解したかのように、一瞬にして静まり返った。

山口ヤマグチは前方の都市まちを見据えた。

「よろしい」

「――これで、奴らも誰を畏怖いふすべきか理解したはずだ」

彼はそこでようやく身を翻した。

点呼てんこだ」

俺は一瞬、呆然とした。

「はあ?」

山口は俺の困惑など歯牙にもかけず、淡々と始めた。

「周 士達ジョウ・シーダー

「……はい」

反射的に応じてしまい、自分でも馬鹿らしくなった。

山口は俺が抱えた「第六のアンカー」を見つめ、航海日誌を読み上げるような平坦な口調で告げた。

「物は手放すな。下船後、他人に渡すことも、袋を移し替えることも、車の中に隠すことも許さん。貴殿の任務は三つだ。――抱えろ、パスを追え、そしての前まで生きて辿り着け」

俺は眉をひそめた。

「……その『座』ってのは何だよ?」

「死なずに辿り着けば、自ずと判る」

クソが。

こういう「半分だけ話す」手合いが、俺は一番嫌いなんだ。

山口はすでに次の標的へと向き直っていた。

「林 雨瞳リン・ユートン

リンさんは弾薬箱に腰を下ろしたまま、茶器を置くことさえせず、ただ視線だけを彼に向けた。

「はい」

「貴殿はくぎに付き従え。人ではない。周 士達が軽口を叩き、愚行に走り、独断で路を外れようとしたならば、説得など無用だ。即座に否決せよ。貴殿は東京内郭インナーの反応を判読せよ。不穏を感じれば、問われる前に告げよ」

林さんは短く頷いた。余計な言葉は一切ない。

「……承知しました」

山口の眼差しが移動する。

シキ

「……はいはい」

希はタブレットを抱えて背筋を伸ばした。口調は相変わらずだが、その瞳からは遊びの色が消えていた。

「全数値、波形、目撃情報の断片、および湾内全域の即時信号シグナルを統括せよ。下船後、世界の意味を解釈しようなどと躍起になるな。ただ、世界の『ズレ』を記録することに専念せよ」

希の口角が微かに引き攣った。

「……研究所の壁にでも貼ってありそうな、高尚なご託ね」

山口は淡く彼女を一瞥した。

「――覚えておけば、それでよい」

希は珍しく言い返さず、懐のタブレットを強く抱きしめた。

最後は、老高ラオガオだ。

ガオさん」

老高は亡霊水兵から渡されたあの恥ずかしい毛布を羽織り、顔色こそ優れなかったが、名を呼ばれると自然と直立した。

「……おう」

「貴殿は人をひきいよ。部隊ではない。自ら死地へ飛び込むこの者たちを、正位置に繋ぎ止めよ。周 士達が脱線すれば引き戻し、第六の栓に近づく者がいれば断て。東京のやからが会議に耽り動かぬならば、貴殿が代わりに動くのだ」

老高はそれを聞き終え、一度眉を寄せると、ゆっくりと鼻を鳴らした。

「……ボディーガードに、ベビーシッターに、鉄砲玉か。随分な分業アサインだな」

山口は頷いた。

「大差ない(さほど、違わんな)」

俺はたまらず割って入った。

「……あんたはどうするんだよ?」

山口は、刻一刻と輝きを増していく東京のスカイラインを見つめた。半拍の沈黙の後、彼は言った。

「――奴らの目に焼き付く距離まで船を進め、貴殿らを送り出す」

「……それだけかよ?」

「他に何がある?」

山口は俺を振り返った。その眼差しは、凪いだ海のように平坦だった。

「――私が都心まで貴殿の使い走りをするとでも思っていたのか?」

(……最高にムカつくぜ、この老いぼれ)

山口は、最後の一言を付け加えた。

「仲間たちは既に東京へ入っている」

山口ヤマグチは言った。

「彼女たちが踏んでいるのは生者のラインだ」

「貴殿らは接岸後、彼女たちと合流せよ。死者が送れるのはここまでだ。残りは生者が引き継げ」

シキがそこでようやく顔を上げた。

「……つまり、上陸して即突撃、っていうわけじゃないのね」

「然り」山口は答えた。「貴殿らは『転送トランスファー』だ」

老高ラオガオが口角を歪めた。

「……へっ、言いおるわ。要は宅配便の受け渡しだろ」

山口は驚いたことに、それを否定しなかった。

「その通りだ。それも、受取拒否の許されぬ『ブツ』だ」

俺は「第六のアンカー」を抱えたまま甲板に立ち、この老いぼれが国家存亡の危機を宅配便のプロセスのように語るのを聞いていた。脳内には罵詈雑言が渦巻いていたが、前方で膨張し続ける都市まちの灯が、その言葉を喉の奥に押し戻した。

山口は俺たち一人ひとりを、順に掃くように見つめた。

人間を見ているのではない。この「貨物」たちに欠損がないか、最終検品を行っているような眼差しだ。

最後に、彼は淡々と付け加えた。

「すべて記したのなら、東京で私の顔に泥を塗るな(恥を晒すな)」

俺は即座に噛みついた。

「待てよ、なんであんたの顔が――」

言い終わる前に、艦橋の上方からさらに長く重厚な号音が響き渡った。

警報ではない。通知だ。

それも、全艦、全海域、そして東京湾全土にまで轟き渡るような、絶対的な宣告。

――ヴォォォォォォォォォォンッ!

山口は俺を無視し、背を向けて艦橋へと戻っていった。

俺はその背中を睨みつけ、引き攣った口角からようやく呪詛を吐き出した。

「クソが……。あの老いぼれ、本気で自分を運送ブランドのオーナーか何かだと思ってやがる」

希が横から口を挟む。

「あんたはクライアントじゃないわよ」

「ただの『展示品ディスプレイ』よ」

反論しようとしたが、彼女の指摘が不愉快なほど芯を食っていることに気づき、俺は沈黙した。



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東京湾臨時危機対策室において、最初に崩壊したのは霊務局れいむきょくではなかった。

一般の行政官たちだ。

壁面に並ぶ六枚のモニターには、混乱を極める映像ソースが映し出されていた。港湾局の監視カメラ、海上保安庁かいほうの報告映像、民間のライブ配信の切り抜き、レインボーブリッジのドラレコ、SNSのショート動画、果てはお台場のカップルが撮った自撮り動画のキャプチャまで。

すべての画面の中央には、同一の事象が刻まれていた。

海上に、存在するはずのない三隻の巨影。それらが、迷いなく東京港へと圧力をかけ続けている。

「……これ、合成フェイクか?」

最初にそう問いかけた者は、口にした瞬間に自らの愚かさを悟り、絶望に沈んだ。

誰も答えなかった。

部屋にある残りの三枚のモニター――海上保安庁、都港湾局、羽田側の目視報告、そして民間から上がってきた映像、そのすべてが一致していたからだ。一本のフェイク動画ではない。東京湾のあらゆる方向から、同一の事象が観測されていた。

「AIS(船舶自動識別装置)反応なし」

別の技術官がモニターを見つめたまま、枯れた声で報告を上げる。

「識別信号、現代の航行灯規、正常な艦籍シグナルすべて未検出」

「なら、あれは何だというんだ!」誰かが怒鳴った。

技術官は数秒間沈黙し、絞り出すように答えた。

「……実体目標じったいもくひょうです」

その四文字が落とされた瞬間、部屋には短い沈黙が流れた。


これまでは「フリ」ができていたのだ。誤信号、合成映像、集団誤認、奇妙な投影、あるいはどこかの映画会社が悪乗りしたプロモーション――。だが、「実体」という言葉が発せられた以上、全員が認めざるを得ない。あれはネットの怪談でも都市伝説でもない。何かが、現実に東京湾へ侵入しているのだ。

さらに最悪なことに、映像は更新され続けていた。


晴海はるみ側からズームされた動画がメインモニターに映し出され、拡大され、静止した。

甲板デッキの位置で。


誰かが画像をさらに拡大する。ノイズで霧散する寸前の解像度で、ついにそれは捉えられた。――甲板に、人影がある。


一人ではない。


そして、その立ち位置が異様だった。現代の船員たちが散開して作業しているような緩さはなく、古風で、硬質で、当直や備位びいに就いているような佇まい。


部屋にいた年配の官員が、その映像を凝視し続け、独り言のように呟いた。


「この艦影……中央の一隻、もし私の気が触れていないのなら、陸奥むつだ」


間髪入れず、別の場所から声が上がる。


「左右の二つの長影、システム判定は翔鶴しょうかく、および瑞鶴ずいかくです」

その瞬間、部屋は爆発したような騒ぎになった。


「何を馬鹿なことを!」


「それは旧海軍の艦名だぞ!」


「これを上に報告しろというのか? どう書くんだ。『東京湾外に旧帝国海軍亡霊連合艦隊らしき影が出現』とでも書くのか!」


「SNSが炎上しています!」


「情報を統制しろ――」


「無理です、目撃者が多すぎます!」


「羽田からも海上大型艦影の目撃報告が!」


「港区の岸壁に野次馬が集まり始めています!」


最後、中央に座り、それまで沈黙を守っていた男がついに口を開いた。


「静かにしろ」


声は低かったが、十分に冷たかった。


全員が瞬時に口を噤む。


彼はメインモニターに映し出される、もはや正体を偽ることもできぬほど鮮明になった黒い戦艦を見つめていた。その眼差しは、深い淵のように沈んでいる。

「問題は、あれが何であるかではない」

「問題は――」

彼は一度言葉を切り、自らも荒唐無稽だと思える問いを口にした。

「――誰が、あれの入港を許可プロトコルしたのかだ」

誰も答えられなかった。

答えは、最悪の部類に属するものだったからだ。

「許可」などではない。誰も止められなかったのだ。

その時、霊務局の内郭から回線が繋がった。モニターが切り替わり、顔色を灰色に変えた中年女性の顔が映し出された。彼女は挨拶すら省き、第一声を放った。

「東京湾外のあの艦隊に対し、通常の海上ユニットを接近させてはなりません」

「……理由は?」会議机の傍らにいた者が即座に問う。

女性は画面の中の船を見つめ、刃物のように唇を噛み締めて答えた。

「こちらの初判定が正しければ――接近した者が最初に出会うのは、船ではありません」

規則ルールです」


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對策室たいさくしつの空気が、再び凍り付いた。


モニター越しの女性官僚は、容赦なく言葉を叩きつける。


「第二に、SNSの統制はもはや不可能よ。動画の削除にリソースを割くのは止めなさい。

第三に、港湾区域の外郭を直ちに区分警戒セクター・コントロール下に置きなさい。これ以上、一般人を岸壁に近づかせないこと。

そして第四――」

彼女は一度言葉を切り、絶望を宣告するように言った。


「旧海軍の艦影を正しく『判読ハンドリング』できる者を、一人残らず招集しなさい」


その一言が落ちた瞬間、現実を拒絶しようとしていた官僚たちの顔色が、一斉に土色へと変わった。


靈務局れいむきょくは、事態を否定しに来たのではない。



これがもはや行政の枠組みで処理できる範囲を逸脱していると、正式に「承認」したのだ。


部屋の隅で、誰かが低い呪詛を吐いた。


ある者は眼鏡を外し、疲弊しきった顔で眉間を強く揉んだ。


またある者は、モニターの中の黒い巨獣が、次の瞬間には幻のように消え去り、すべてが「見間違い」という平穏な日常へ戻ることを、縋るように祈り続けていた。


だが、現実は残酷だった。

それは依然として東京へと圧力をかけ続け。


そして、その輪郭ディテールは、刻一刻と鮮明になっていく。



東京駅への入線前、新幹線しんかんせんは速度を緩め始めた。



車窓の外はもはや、東北の疎らで静謐な灯火ではない。高架、ビル群、さらに高みをゆく高層建築、街路を縁取る白光の列。それらが層を成し、夜の闇を物理的に押し退けている。


錡安イェ・チーアンは手元のスマートフォンに目を落とした。


通知は周 士達ジョウ・シーダーからではない。彼女が普段、即時の異常情報を収集するために運用している裏アカウントのプッシュ通知だ。見出しは、たった一行。


『東京湾に不明な大型艦影が出現、各地で目撃相次ぐ』


彼女はその文字を二秒間凝視し、迷わずリンクをタップした。


動画が再生された瞬間、彼女から言葉が消えた。



隣にいたアイストリッドが、その様子を察して顔を向ける。


「……何があったの?」


イェは無言でスマートフォンを差し出した。


映像は激しく手ブレしていた。レインボーブリッジ付近から撮影されたものだろう。漆黒の海面に、不条理なほど巨大な船影が横たわり、東京湾へと侵攻している。さらにその両翼、遥か遠方には、歪なほどに長大な二つの影が海霧を圧していた。画質は低く、夜景モードのノイズが混じっている。だが、その不明瞭さがかえって「実在感」を際立たせていた。それはCGなどではない。大脳が「あってはならないもの」として認識を拒絶しているだけの、あまりに重厚な現実だ。


アイストリッドはそれを見届け、低い声で尋ねた。


「……彼らね」


「ええ」イェはスマートフォンを奪い返した。その声は乾ききっていた。「しかもあの老いぼれ(レガシー)、隠れる気が一ミリもないわ。甲板の人影まで撮らせる距離まで、堂々と船を寄せてきてる」


アイストリッドは沈黙し、それから問うた。



「……私たちは、まず何をすべき?」


イェの返答は早かった。


「拠点の変更はなし。当初の案通りに進めるわ」


「ただし、二つ条件を加える」


彼女は窓の外に迫る東京の夜景を見つめた。その瞳に、実戦投入された戦術家の鋭い光が宿る。


「第一に、海を見渡せるが、海には面していない場所を探すこと」


「東京湾の外郭を監視でき、かつ公式(お上)の捜索網から即座に外れられる位置が必要よ」


「第二に、港湾、湾岸、および公式の交通結節点ノードに関連する全バックアップ案の優先順位を最低ランクまで落としなさい」


アイストリッドが頷く。


「……ええ。今の東京は、もうパニック(カオス)の渦中でしょうから」


「パニックの始まりじゃないわ」葉 錡安イェ・チーアンは冷淡に言い捨てた。「もう始まってるのよ。ただ、多くの人間がまだ混乱していないフリをしているだけ」


彼女は画面をスクロールさせた。コメント欄の勢いは凄まじい。映画の撮影だと言い張る者、海自の秘密演習だと推測する者、AIによるディープフェイクだと疑う者。そして、中には画面中央、何らかの物体を抱えて手摺り(レール)の傍らに立つ人影を赤丸で囲み、これが「艦上の重要人物」ではないかと問いかける書き込みまであった。


イェはその不鮮明な輪郭を見て、口角を引き攣らせた。


「……クソが」


アイストリッドがその反応を見て、声を落として尋ねる。


「どうかした?」


イェは拡大されたノイズだらけの画像を彼女に見せた。


「私の見間違いじゃなければ、」彼女は言った。「この、得体の知れない物を抱えて手摺りの横に突っ立ってる、最高に怪しい運びキャリアーみたいな人影……これ、周 士達ジョウ・シーダーだわ」

アイストリッドは、もはやシルエットにしか見えないその画面を二秒間凝視し、意外にも短く頷いた。

「……似てるわね」


イェは静かに目を閉じた。


「あいつが目立ちすぎるのか、それとも天性でああいう荒唐無稽な写真に馴染む才能があるのか、もう判らないわ」


列車が再び減速する。


窓外の輝きはもはや遠景ではなく、車窓を舐めるように過ぎ去る東京の外縁部エッジだ。橋梁、道路、ビルの外壁、広告の光、線路脇の白い灯。それらが何層にも重なり、巨大な都市の体温を物理的に押し付けてくる。


アイストリッドはスマートフォンを返し、最後のアカデミックな問いを口にした。

「……もし、あいつらが予定より早く接岸せきがんしたら?」

イェはスマートフォンを収め、長く重い溜息をついた。


「そうなれば、東京のメンツは今夜、私たちが想定していた以上に丸潰れになるってことよ。……そして、私たちのやるべきことは、逆にもっとシンプルになる」


「どういうこと?」


イェは一寸ずつ迫りくる都市を見つめた。その口調は冷たく、そして揺るぎない。


「まず、あの馬鹿を見つけ出すこと」


「そして、この街があいつを奪い去る前に――どこかへ隠し通すことよ」


列車が、より眩い光の中へと滑り込んでいく。


一方、東京湾とうきょうわんの外郭では。


存在するはずのない三隻の影が、より古く、より硬く、より理不尽な「秩序ルール」を、この都市の喉元へと一寸ずつ押し込んでいた。


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