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S2第七十七章:個人的な依頼

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

陸奥むつの周辺では、潮風が先ほどよりも一層その硬さを増していた。

船は速度を落とし、前方の東京の灯はさらに広範囲へと滲み出していく。一気に都市の全貌が眼前に叩きつけられるのではない。一層、また一層と、緩やかに「成長」してくるのだ。遠方のまばらな紅い点や白い点、続いて連なる光の帯、そしてようやく高層ビルの窓や橋梁のライン、岸壁の作業区域が放つ、あの黄色く、疲弊した工業的な光が露わになる。東京という巨大な怪物が、まずその骨を、次いでその皮を剥き出しにしているかのようだった。

そして俺たちの船は、その喉元のどもとをめがけて突き進んでいる。

山口 多聞ヤマグチ・タモンは、短艇カッターを下ろすための副棧橋ふくさんきょうの前に立っていた。その佇まいは、海も風も自らのリズムに従わせるかのように揺るぎない。彼は急いで人を動かそうとはせず、ただ前方にある、作業灯に照らし出された一角の暗い埠頭を見つめていた。あたかも入港の儀式において、最後に残された「信用に値せぬ生者の気配」が完全に排除されたかどうかを確認するかのように。

やがて、彼は口を開いた。

「改めて、三つの規矩ルールを言い渡す」

声は低かったが、甲板の風音や鋼索の摩擦音を不思議なほどに貫いて響き、聞こえなかったフリをすることさえ許さない。

「第一に。船の者は、街へは下りぬ。今宵、船を見せ、旗を見せ、甲板の人影を見せた。それで十分だ。旧軍の入港は、街への侵入を意味せぬ。それが規矩だ」

その一言で、俺はすべてを察した。

意味は単純だ。この腐れ果てた旧海軍の亡霊どもは、船を東京の喉元まで進め、堂々と旭日旗サンライズ・フラッグを掲げ、旧時代のツラがまだ腐りきっていないことを誇示してもいい。だが、亡霊の水兵たちが実際に陸地を踏むことだけは許されない。もしそれをやれば、事態は政府のパニックどころか、世界のプロトコルが崩壊する。

傍らにいたシキが、腕を組んで冷淡に吐き捨てた。「……危険廃棄物の管理マニュアルみたいね」

老高ラオガオが即座に頷く。「いや、高リスクな『宅配便デリバリー』の取り扱い説明書だ」

雨瞳リン・ユートンは俺の懐を一瞥し、さらに正確な補足を加えた。「……あなたが、その荷物カーゴそのものよ」

一路いちろ熱を帯び続けている「第六のアンカー」を抱え直しながら、俺は言い返す気力も失っていた。山口がすでに二つ目を告げていたからだ。

「第二に。生者が下りた後は、振り返るな。留まるな。岸壁で野次馬を決め込むことも許さん」彼は前方を見据えたまま、航海日誌を読み上げるような平坦な語気で続けた。「下船せば、直ちに内陸へ向かえ。埠頭、岸壁、そして来たみち――それらはいずれも、貴殿らの居場所ではない」

「……随分と厳しいホテルのチェックアウト規定だな」俺は思わず口を挟んだ。

山口は俺を一瞥だにせず、ただ淡々と付け加えた。

「――貴殿は、旅客パッセンジャーではないからな」

クソ。

苛つく言い草だが、言い返せるほど気の利いた罵詈雑言が思いつかない。

「第三に。第六のアンカーは決して手放すな」

今度は彼がこちらを向き、その眼差しが直接俺を射抜いた。

短艇カッターに乗る際も、接岸の際も、入街の際もだ。何者かが引き渡しを求めても応じるな。検分を求めても待たせよ。そして、もし無理に触れようとする者がおれば――」

彼は、言葉を止めた。

その刹那、甲板の風が物理的に「規律」を取り戻したかのように凪いだ。

「――私に訊け(わが砲に、問わせよ)」

俺は懐の中の不気味な代物を見下ろした。乗艦してからというもの、こいつはまるで焼きやきごてのように、服の上から俺の骨へと熱を浸食させ続けている。今の俺の姿は、およそ宝を抱く英雄などではなく、超高温のガスボンベを抱え込まされ、一歩の失策も許されない哀れな物流員そのものだ。

前方の副棧橋の輪郭が、低照度の作業灯の下で徐々に鮮明になっていく。三つの灯火ともしび――二つは黄色く、一つは青白い光が、埠頭の縁を剥き出しの古い骨のように白々と照らし出していた。岸辺に人影は見えない。だが、それは無人という意味ではない。そこにいるすべての生者が、亡霊の気配を察して、目視はできるが「見られてはならない」死角へと賢明に身を隠しているのだ。

一隻の短艇カッターが、陸奥の舷側から下ろされた。滑車を伝う鉄の鎖が、短く鋭い摩擦音を鳴らす。二人の亡霊水兵がすでにふねの上に立ち、左右から艦体を安定させていた。その動作はあまりに流麗で、沈黙し、完璧な規格スタンダードに則っていた。死してなお、彼らはスケジュール通りに勤務ワッチをこなしているのではないか。そう思わせるほどの精密さだった。

俺が艇に飛び移ろうとしたその時、山口が不意に呼び止めた。

「――周 士達ジョウ・シーダー

俺は振り返った。

彼は軍服の内側から何かを取り出し、俺の前へと差し出した。

それは掌に収まるほどの小さな塊で、古びて黄ばんだ布に包まれていた。布からは湿気と潮の香り、そして微かな防虫剤ナフタリンの匂いが漂ってくる。何年も誰にも触れられず、箪笥の奥底に眠っていたような気配。中身は硬く、角張っている。キーのようでもあり、印章のようでもあり、あるいは――今の俺が、決して知るべきではない種類の名残レガシーのようでもあった。

俺は眉をひそめ、それを黙って受け取った。

「これは?」

「私に代わって、返してきてくれ」山口は言った。

「どこへだよ?」

本家ほんけだ」

俺は呆然とした。「……あんたの家にか?」

「然り」

「随分と気楽に言ってくれるじゃないか」俺は手元の薄汚れた包みを見つめ、呆れを通り越して笑いそうになった。「今や東京中があんたのせいで脳血管がち切れそうなほどパニックになってるってのに、船を降りる直前になってお使い(パシり)の任務を追加するのか?」

山口は笑わなかった。

彼はただその包みを、どこか遠くを見るような、自分でもそれがまだ現世に存在しているのか確信が持てないといった、奇妙に淡い眼差しで見つめていた。

「見つかったならば、置いてきてくれ」彼は言った。

俺は半拍待った。「……見つからなかったら?」

「捨ててしまっても構わん」

その言葉はあまりに平坦で、本当にどうでもいいと言っているように聞こえた。

だが、平坦すぎた。だからこそ、本心ではないことが透けて見えた。俺は奴の死人のようなつらから何らかの感情を読み取ろうとしたが、そこには何もなかった。この老いぼれは、艦隊を引き連れてこれ見よがしに東京の喉元まで乗り込んできた挙句、身内の遺品らしきものを、俺のような「部外者」に預け、見つからなきゃ捨てろと言い放った。どんな軍令よりも、そっちの方がよっぽどたちが悪い。

「せめて住所くらい教えろよ」

山口は俺を一瞥した。

もんがまだ山口やまぐちを覚えているならば」彼は淡々と告げた。「住所など不要だ」

クソ。

住所を教えないことよりも、さらに鼻につく言い草だ。

俺は手元の包みを見つめ、結局それをジャケットの内ポケットへとねじ込んだ。肌に直接触れる位置に収めると、そいつは第六のアンカーの熱とは正反対に、凍りつくほど冷たかった。一方は灼熱、一方は極寒。肋骨を挟んで両側から俺を侵食してくる感覚は、持ち出すべきではない二つの異物を同時に密輸しているような、最悪の気分だった。

山口は俺が確実に収めたのを確認し、ようやく頷いた。

「下りるがいい」

俺が短艇カッターに足を踏み入れた瞬間、左右の亡霊水兵たちは同時に身を引き、荷物を抱えた人間が通るための空間を鮮やかに作り出した。その慇懃な動作は不気味なほど洗練されており、もし俺が抱えているのが「第六の栓」ではなく、単なる東京への高級な手土産だったとしても、奴らは同じように完璧な所作で道を開けたのではないか――そんな馬鹿げた思考が頭をよぎった。

短艇が舷側げんそくを離れ、海面に揺られた時、俺は初めて陸奥むつの巨大さを真の意味で理解した。

甲板で感じていた「デカい船だな」という認識ではない。低い位置から見上げると、漆黒の艦腹かんぷくが東京の外海を物理的に圧迫しており、幾層にも重なる甲板の灯りが、そこに立つ人影を鮮明に浮き彫りにしていた。それは観光客でも作業員でもない。ニュース番組がどんなに言葉を尽くしても誤魔化しようのない、圧倒的な異物の顕現だった。

マストの旗が、夜風を切り裂いて重く鳴る。

東京は、すぐ目の前だ。

背後に控えるのは幽霊譚ゴーストストーリーなどではない。数千万の生者に目撃される、動かぬ実体としての軍艦だ。

そして俺は、さらに小さな舟に揺られ、懐に「第六の栓」を、内ポケットに山口から押し付けられた「名残」を隠し持ち、すべてを飲み込まんとする光り輝く大都市へと運ばれていく。

不意に、底知れぬ予感が俺を襲った。

このまま下船するということは、単に「荷物」を東京へ届けるだけではない。

本来ならば海の底に沈み、腐り果て、時の奔流に飲み込まれて消え去るべきだった「旧時代」そのものを、俺は今、現世へと連れ出そうとしているのだ。


短艇が副棧橋ふくさんきょうに接岸した際、映画のような格好いいSE(効果音)は鳴らなかった。

金属が噛み合う小気味よい音も、まばゆい探照灯の列も、俺の英雄的登陸を待ち構える観衆もいない。ただ、船底が防舷材ボラードのゴムを擦る鈍い音が響き、次いで投げ上げられた係留索が誰かの手で掴まれ、ピンと張られただけだ。その音は小さかったが、不思議なほどに、先ほどまで陸奥の艦体から感じていた威圧感よりも切実な「現実」を俺に突きつけてきた。

俺は自分自身の姿を見下ろした。

懐には「第六の栓」。胸の内側には、焼きごてを押し当てられたような熱。ジャケットの内ポケットには山口がねじ込んだ「冷たい牙」のような小包。その相反する感覚が、俺を、ストーブと氷塊を同時に抱えて密入国しようとする哀れな運び屋のように仕立て上げていた。

「着いたぞ、貨物カーゴさん」背後に立つ老高ラオガオが、声を潜めながらも相変わらずの追い打ちをかけてきた。

「あんたを先に海へ放り込んで、東京湾がそのツラを受け取るかどうか試してやろうか?」俺は振り返らずに吐き捨てた。

「それは困るわ」シキが背後で冷淡に言葉を継いだ。「今のあんたは、全艦を挙げても賠償プロトコルしきれない超高額物件なんだから」

雨瞳リン・ユートンが最後に短艇カッターへ降り立った。その動作は羽のように軽く、音一つ立てない。彼女は岸壁の暗がりに潜む数人の人影を一瞥し、平坦な口調で言った。「――生者が、すでに怯えているわ」

俺はその視線を追った。

岸には、確かに人間がいた。

数は多くない。五、六人といったところか。濃色の防水ジャケットを羽織り、立ち位置は一般の作業員にしては作為的すぎた。港湾地区の夜勤担当を装っているようだが、全員が身を固くし、あまりに必死にこちらを注視している。赤色灯を消した黒い車両が、すぐに出発できるよう車首を外に向けて停まっているのも、あまりに「意図的インテンショナル」だった。

そのうちの一人が無意識に手を挙げ、インカムに話しかけようとして、強引に思い止まった。もう一人は、俺たちの背後の海面を凝視している。

振り返って、俺はようやく彼らが何を見ているのかを理解した。

陸奥むつが、そこにいた。

物語の中のように「闇の彼方に佇んでいる」のではない。物理的な質量として東京の外海を圧殺し、そこに「存在」しているのだ。黒い艦腹、幾層にも点る甲板の灯火、手摺りの傍らに整然と整列する亡霊の人影――マストの旗までもが、夜風を切り裂いて硬質な音を立てている。さらに遠方では、翔鶴しょうかく瑞鶴ずいかくが、より広く、より平坦な暗影となって、海面の夜闇を狭く深い廊下のように押し潰していた。

ようやく分かった。

岸の連中は、俺たちを見ているんじゃない。

彼らは必死に、自分たちを説得しようとしているのだ。――あの三隻の異物が、現実にそこに存在しているのだということを。

短艇が桟橋に接した瞬間、俺が最初に足を踏み出した。

東京の地を靴底で踏みしめた時、「ようやく着いた」という安堵感は微塵もなかった。むしろ、連れてきてはいけない「何か」が、俺の足音と共にこの街へ侵食を始めたような、嫌な感覚がした。桟橋のコンクリートは冷え切り、潮風には軽油と鉄の臭い、そして大都市の縁から漂うエアコンの排気臭が混ざっている。この匂いは、船の上とは決定的に違った。船の上は古く、死に、規律プロトコルに従っていたが、ここは生きて、乱れ、すべてが正常であるかのように「擬態」している。

岸辺の男たちが、ようやく動き出した。

責任者らしき中年の男が半歩前へ出、一度足を止めた。彼の視線はまず俺の懐の「物体」に落ち、次いで多大な恐怖を伴って即座に引き剥がされた。多すぎる情報に触れれば、それだけで「破綻」すると本能が告げているかのように。

「……周さん、ですね?」と、彼は問うた。

「呼び名だけは正確だな」俺は言った。

彼は喉を鳴らし、俺の皮肉には応じず、ただ声を潜めて告げた。「……車は後ろです。ここは長居できる場所ではありません。直ちに――」

男の言葉は、海面から響き渡った低く重厚な音に遮られた。

それは警笛というより、巨大な鉄の器が、溜まった熱を一度に吐き出したような――戦艦 陸奥の、魂を震わせる「汽笛」だった。

その音(汽笛)が響いた瞬間、岸辺にいた全員が石像のように硬直した。

俺は振り返った。

陸奥むつはそれ以上近づくことも、新たな人員を下ろすこともしなかった。ただそこに、全都市から見られていることを自覚しながら、あえて動かぬ巨獣のように鎮座していた。手摺り沿いの直立した人影は、灯火の下でさらに鮮明さを増している。それはぼやけた塊でも、都市伝説にありがちな半透明の輪郭でもない。紛れもなく「人間」がそこに立っているという実在感。整然とし、静謐で――今の時代とは決定的に乖離した佇まいだ。

山口ヤマグチが再び姿を現すことはなかった。

だが、俺には判る。あの老いぼれは、見ているのだ。

東京という街が、自分をどのような眼で見つめ返すのかを。


こちらの死んだような「平和」とは対照的に、ネットの海は完全に沸騰していた。

数分もしないうちに、大小あらゆるプラットフォームのショート動画が狂ったように拡散され始めた。

書き込みの初期には、まだ強がる者もいた。

『クルーズ船だろ』

『何かのイベントじゃないの?』

『CG合成。今のAIなら何でも作れるし』

だが、十分も経てばそれらは恐怖の叫びへと塗り替えられた。

『あんなきょくじつきを掲げるクルーズ船がどこにいるんだよ!』

『CGなわけねーだろ。レインボーブリッジからも見えてんだよ、実体だ!』

『晴海にいる友だちが、肉眼で甲板を歩く「人」が見えるって言ってる』

『結局、今の東京湾には何が停まってるんだ?』

『そんなことより、たった今、誰かが船から降りてきたぞ(じょうりくした)!』

さらに時間が進むと、テレビのニュース番組までもが、無様なまでの「専門家モード」へと突入した。

キャスターは声を震わせながら、この異変をどうにか通常の突発事件として語ろうと必死に言葉を紡ぐ。しかし、画面下に踊るテロップは、すでに彼らの混乱を隠せていなかった。【東京湾に不明な大型船舶群】【港区周辺での異常目撃】【湾岸エリア緊急規制】。画面は、民衆が撮影した夜景、海面、黒い軍艦、そして橋の上で立ち往生する車と人の群れを交互に映し出す。

最後、一箇所の画像が拡大された。ノイズで粒子が弾け飛びながらも、手摺りの傍らに立つ「人影」を確かに捉えた、そのスクリーンショットが。

車に乗り込むと、シキはスマートフォンを凝視したまま、感情を削ぎ落とした声でネットの書き込みを読み上げた。

「『海軍の亡霊が帰還したのか』」

「『今夜、東京に名乗りを上げたのは何者だ』」

「『じいちゃんが動画を見た後、テレビを消して一言。あり得ん、と言った』……」

後部座席に深くもたれかかった老高ラオガオが鼻を鳴らす。「『あり得ん』。それこそが最高に面白い反応レスポンスだな」

「政府は今頃、頭を抱えてるだろうな」と、俺。

「痛がっているのではないわ」林 雨瞳リン・ユートンは、窓の外でなおも海辺へ押し寄せようとする群衆と、連なる赤いテールランプを眺めながら、淡々と言った。「目に見えているのに、『見えていない』と言い張らねばならない。その不条理プロトコルを思い知らされているのよ」

車が港湾地区を離れる際、俺はたまらず車窓からもう一度海の方を振り返った。

陸奧むつは、依然としてそこにいた。

接岸もせず、威嚇もせず、ただそこに在る。だが、その「ただ停まっている」という事実こそが、強烈なメッセージを放っていた。――「私は密入国などしていない。貴様ら全員の目の前に、堂々と現れたのだ」と。

クソ。

山口ヤマグチの狙いは、東京入りなんてチャチなものじゃない。

東京湾そのものを、奴の「誇示デモンストレーション」のための鏡として利用しているのだ。

そしてさらに厄介なことに、俺はこの老いぼれたちの「お使い」まで引き受ける羽目になっている。

「これは……船の上で託されたものだ」

シキ帆布筒キャンバスの外側に括り付けられたメモを一瞥し、そのまま読み上げた。

「――陸奧。靖國。今夜」

老高は一秒ほど沈黙し、それから極めて誠実な響きで呪詛を吐き捨てた。

俺は帆布筒をわずかに開き、中を確認した。そこには、古びて脆くなった日章旗にっしょうきが丸められていた。縁はひどく摩耗し、色も褪せている。だが、俺の動きを止めたのは旗そのものではなく、その裏面だった。

裏面は、文字で埋め尽くされていた。

公式な揮毫でも、偉人の墨宝でもない。一つ一つが重なり合い、歪み、色褪せた、無数の記名サイン。丁寧な筆致もあれば、急いで書き殴ったような乱れたものもある。震える手で書かれたのか、あるいは船の揺れの中で記されたのか、判別もつかぬ半端な筆跡。それは装飾などではない。一隻の船に乗った者たちが、自らの「生」の証を最後の一片にまで凝縮し、一枚の布に叩きつけた記憶の塊だった。

車内の空気から、言葉が消えた。

数秒後、俺は旗を丁寧に丸め直し、筒の中へと戻して低く呟いた。

「……クソ。本物の遺品じゃねえか」

「届けるのか?」助手席の男が小声で訊ねてきた。

俺はジャケットの内ポケットに触れた。

山口から預かったあの小さな包みが、冷たく俺の肌に張り付いている。一瞬、俺の脳裏に「いっそまとめて片付けてしまおうか」という誘惑がよぎった。一つは神社へ、もう一つはあいつの本家へ。今夜中に済ませてしまえば、これ以上こんな厄介事を背負い続けずに済むのではないか。

だが、その思考はすぐに自分自身の手で握りつぶされた。

なぜかは判らない。

山口が言った「見つからなければ、捨てて構わん」という言葉があまりに嘘臭かったからか。あるいは、その小包が、あまりに小さく、冷たく、誰かの机に無造作に放り出していいような「句読点」には思えなかったからか。

俺は最終的に、ポケットから手を引き抜いた。

「こっちを先に届ける」帆布筒を軽く叩き、「もう一つの方は、あんたらの知ったことじゃない」

俺たちは大々的に神社へ乗り込んだりはしなかった。正門すら通っていない。

九段くだんの周辺を二周ほど旋回した後、人目を避けた脇道に車を停めた。夜は深まりつつあったが、今夜の東京が眠りに就けるはずもなかった。遠方からはパトカーのサイレンやヘリの爆音、そして海の方を指差して騒ぐ群衆のノイズが、濁流のように流れ込んでくる。

俺は帆布筒を抱えて車を降り、夜風の中に立った。

その瞬間、言いようのない荒唐無稽な感覚フィーリングが、全身を包み込んだ。

数時間前まで、俺は幽霊船ゴースト・シップの上にいた。それが今や東京に立ち、歴史の底に沈んでいるはずの戦艦からの「遺品」を届ける準備をしている。

「あんたが行きなさいよ」と、シキ

「なんで俺なんだよ」

「今のあんたが、一番そういう貧乏くじを押し付けられた人間デリバリーに見えるからよ」

彼女の返答は無駄に早かった。クソ。

俺は中へ入り、余計な言葉は一切交わさず、渡すべき相手にそれを手渡した。相手は最初眉をひそめたが、外側のメモを読み、今夜という異常な状況下でどう見てもカタギには見えない俺のつらを見て、賢明にも何も訊かなかった。ただ、沈黙のままそれを受け取った。

手が離れた瞬間、気のせいか肩の荷が少しだけ軽くなったような感覚があった。

この時代に属さない「何か」の一部が、ようやく、辛うじて許容されるべき場所へと還された――そんな感覚だ。

外へ出た際、俺はもう一度内ポケットに触れた。

山口から預かったあの小さな包みはまだそこにある。

取り出さなかった。

捨てもしなかった。

ただ、そいつを俺の身体に貼り付けたままにしておいた。「第六のアンカー」と共に、一方は氷のように冷たく、一方は灼熱を帯びて。まるで、俺を放免する気のない二つの厄介事のように。

ここからが本番だ。

遺品を届け終えた後、車は安全圏セーフハウスへも、駅へも、ましてや「今夜はここまで」と言わんばかりの休息場所へも向かわなかった。車はただひたすら内陸へと切り込み、未だ明かりの消えぬオフィスビル、半ば封鎖された交差点、交通規制でズタズタに引き裂かれた幹線道路を横切り、九段から市ヶ谷にかけての、静まり返り、不気味なほど沈黙した闇の中へと滑り込んでいった。

「第六の栓」を抱えたまま、俺は言いようのない違和感に襲われていた。

こいつが、さっきよりも明らかに熱を増している。

ただの温度変化じゃない。何かに近づいている、という感覚だ。磁石を手に持ち、壁の裏に隠された鉄の塊へと歩み寄るような――あるいは、胸の中の炎が自らの還るべき場所を嗅ぎつけ、脈動パルスを始めたかのような。

「――反応したわね」林 雨瞳リン・ユートンが先に口を開いた。

「わかってるよ」俺は奥歯を噛み締めて応じた。

老高ラオガオが身を乗り出し、観光地でも高級住宅街でもない、窓外の殺風景な景色を睨みながら眉をひそめた。「……安置場所ポイントが、こんな場所にあるのか?」

助手席の男が二秒の沈黙の後、答えた。

「地上にはありません。……地下です」

「地下のどこだよ?」

彼は直接答えず、ただ前方の古い建物の輪郭を指し示した。黒く、低く、特徴のないその建物は、昼間に見かけたとしても誰も二度見などしないであろう、古い官公庁の附屬施設アネックスに見えた。だが、車が近づくにつれ、俺の腕の中の「第六の栓」は、悲鳴を上げたくなるほどの熱を放ち始めた。

シキがタブレットの波形を凝視し、ようやく声のトーンを変えた。

同期シンクロしたわ」

「何とだよ」

「六本の魂釘(ソウルネイル)を受け入れる『承座じょうざ』の周波数よ」彼女は顔を上げ、俺を射抜くように見た。「――白話わかりやすく言うなら、あんたのデリバリーの、本当の『届け先』に着いたってことよ」

車が止まった。

周囲は静寂に包まれていた。東京という巨大な装置が、外側から不意にボリュームを絞られたかのように。遠方の風の音、都市の深淵から響く不満げな地鳴り、そして、俺の手の中で一回ごとに力強さを増していく「脈動」。

俺はドアを押し開け、車を降りた。

地面を踏んだ瞬間、「第六の栓」が手の中で微かに、だが確かに震えた。

古い建物の背後、地下へと続く旧い入口が見えた。鉄の扉が半分だけ開き、まるであらかじめ誰かを待っていたかのように。その隙間からは、電灯の光とは異なる、淡く、幽かな光が漏れ出している。地下に長く沈殿し続け、最後の一片ラスト・ピースによってようやく覚醒させられた「何か」の光だ。

俺は入口の前に立ち、腕の中の「熱」を見つめ、それから内ポケットにある、未だに冷たい山口の私物に触れた。

クソ。

一つは届けた。

一つはまだ持っている。

そして最高に厄介な「三つ目」が、今まさに門を潜ろうとしている。

俺は息を吸い込み、地下へと続く闇のみちを仰ぎ見た。

「いいだろう」と、俺。

「――この、国を滅ぼしかねない『特級貨物』を、あるべき場所へ収めてやるとするか」


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