S2第七十章 神代 琉璃
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
その場の全事象が、半拍ほど凍りついた。
静寂ではない。
前進しようとしていた全てのベクトルが、その「三文字」によって強引にブレーキをかけられたのだ。
佐伯 冴子の通信回線からは依然として座標の報告が流れていたが、語尾には明らかな淀みが生じていた。天井の裂け目に吊り下げられた観月 真白は、プラズマ・ソーの高頻度ノイズを響かせたまま、それ以上の侵食を止めている。真壁ですら、その視線を初めて扉や機材から逸らし、弥生へと向けた。
だが、この場で最も不運なのは、他でもない俺だ。
その半拍の猶予は、呼吸を整えるためのものではない。――クソッ、これで本当におしまいだ――という絶望を噛み締めるための時間だったからだ。
琉璃の刀尖が、一寸にも満たないほど微かに下がった。
たった一寸だ。
だが彼女のような「規格外」にとって、その一寸は部屋全体の空気を書き換えるには十分すぎる。つい先ほどまで、彼女は神代家の影侍隊長であり、壁を砕いて現れた重装の「暴力」であり、俺を屠りに来た「姉貴」だった。だが、弥生が「お姉ちゃん」と呼んだ瞬間、彼女はもはや単なる神代家の兵器ではなくなった。
彼女は「身内」だ。
そして俺は、立ち位置を間違えた「外敵」に他ならない。
「なるほど、そういうことですか」
観月 真白が、狐面の下から平坦な声を漏らした。それは施工の変更を告げる現場監督のように冷ややかだった。「主要担体と外部回収ユニットの間に、高度な親縁識別を確認。現場のリスクレベルを、上方修正します」
「黙りなさい」
佐伯 冴子は彼女を見向きもせず、刀鞘のように硬い口調で突き放した。「霊務局は依然として、接管を継続中よ」
「あんたは報告書の心配でもしてろよ、」俺は琉璃の刀を睨みつけ、頭皮の痺れを感じながら毒づいた。「……こっちは、俺の『命』を接管されそうなんだからな」
誰も、笑わなかった。
弥生もまた、それ以上の言葉を紡がない。
先ほどの一声は本能から漏れ出たものだったのだろう。しかし、その一言を零してしまったが最後、彼女の顔色は一層蒼白になった。口にしてはならない真実を、もはや隠し通せない場所まで引きずり出してしまったのだと、自分自身が一番理解しているかのように。
琉璃が、ついに動いた。
俺への斬撃を再開したわけではない。
彼女はまず、微かに首を巡らせ、真っ直ぐに弥生を見つめた。
それは、刀身を返した時に放たれる冷光のような、刹那の眼差し。
だが、その一瞬だけで理解できた。彼女の琥珀金の瞳の奥で、何かが一階層ほど沈み込んだ。それは慈悲ではない。躊躇いでもない。ただの「盤面」を解体しに来たはずが、その盤上に、どうしても無視できない「駒」を見つけてしまった者の沈黙だ。
そして、彼女は再びその視線を俺へと戻した。
……おい。
俺としては、そのまま弥生を見ていてほしかったんだが。
「よくもまあ、あの子の隣に立っていられたものね」
彼女が口を開いた。その声は先ほどよりも低く、そして致命的なまでに危険だった。
「……話せば長くなるんだがな」
俺は大鎌を半寸ほど外側へずらし、彼女の命を吸い取らず、かつ刀を確実に防げる「死角」に柄を固定した。「だが、あんたには手短に済ませることを勧めるぜ。俺のこの獲物は、今のあんたの表情以上に、失控(暴走)には向いてないんでね」
彼女は俺の屁理屈を無視し、刀鋒を滑らせるようにして再び俺の胸元を指した。
「――離れなさい」
「俺だってそうしたいのは山々だ」俺は正直に答えた。「だが、あんたは部屋に入ってくるなり俺の首を刎ねようとしただろ。今ここで背中を見せてみろ、二太刀目には確実に俺の頭がすげ替えられてる」
彼女の眼光には、微塵の揺らぎもなかった。
「……なら、立ったまま死になさい」
「お姉さん、そいつはあまりに不健全な対話だぜ」
口では軽口を叩いているが、俺の手の平は汗でびっしょりだった。
分かっている。彼女はブラフを吐いているんじゃない。本気でそう思っているのだ。壁を砕いて現れてから現在に至るまで、彼女の判断は常に一貫して「清潔」だった。まず俺を斬り伏せ、弥生の側から「異物」を排除する。それから、後のことを考える。
他の連中が「場」を奪い合っている中で、彼女だけが「清算」をつけに来ていた。こういう手合いが一番厄介だ。脇見をする理由がどこにもないのだから。
……皮肉なことに、俺にはあったが。
彼女の刀路を警戒しながらも、俺の脳細胞は、あの黒い装甲と胸甲が作り出す圧倒的な「圧迫感」に、またしても不甲斐なくジャックされていた。
クソッ、これは俺のせいじゃない。格闘戦において相手の肩、腰、脚を見て重心を測るのは生物としての本能だ。だが彼女の規格は、それら全ての判読ロジックをエラーに叩き込むために設計された「戦術的災害」そのものだった。
脳内の「クズな俺(老周)」が、また勝手に這い出してきて囁きやがる。
(流石は姉貴だぜ。規格の次元が違いすぎる……)
……自分を絞め殺してやりたい。
佐伯が、自身のコントロールから事態が逸脱し続ける状況に耐えかねたのか、冷徹な声を割り込ませた。
「神代琉璃。霊務局は現在、レベル2の封鎖執行中よ。あなたの介入は通報されていない。直ちに身分、所属、および現場での目的を明示しなさい」
琉璃は、振り返ることさえしなかった。
「……貴女ごときに答える目的など、あると思って?」
その一言で、佐伯の側さえも一瞬で静まり返った。
凄まじい。
あまりに「神代」らしい傲慢さだ。
一方、観月 真白は愉快そうに狐面を僅かに傾けた。声は依然として平坦だ。
「身分は既に明白ですね。神代家・軍工衛隊、影侍指揮官級。目的を推測するのも難しくありません。現場の接管ではなく――『不当に接近された所有物』の奪還。そうでしょう?」
「所有物」――その三文字が放たれた刹那、弥生の肩が明確に強張った。
俺はそれを見逃さなかった。
そして、琉璃もまた。
彼女はついに、刀の先をわずかに逸らした。対象を俺一人から、この場全体へと広げる。それは弛緩ではなく、明白な「宣告」だ。ここから先、一歩でも踏み出す者は等しく斬り伏せるという意志。
「弥生、」彼女が口を開いた。先ほど俺に向けていた凶刃のような鋭さは影を潜めたが、逆らわせない威嚴は増している。「……こっちへ来なさい」
弥生は動かなかった。
動きたくないのではない。動けず、そして動いてはならないのだ。
彼女の背後には、依然として真壁が起動した防禦協議が接続されている。主控区というシステムによって内場の支點に釘付けにされた彼女は、透き通るような蒼白な顔で、しかし乱れそうになる呼吸を必死に繋ぎ止めていた。彼女が琉璃に向ける瞳には、あまりに多くの感情が混濁していた。――近づきたい。けれど、近づくのが怖い。誰を信じるべきか、そして今の自分は、果たして「連れ出してもらえる人間」の範疇に留まっているのか。
真壁 宗一郎が、ついに口を開いた。
「……彼女は今、動かせない」
琉璃の冷徹な視線が彼を射抜く。
「動けなくしたのは、貴方?」
「生かしていると言った方が正確だ」真壁の声は平坦だった。「意味は、天と地ほど違うがな」
空気が再び、窒息するような密度で凝固した。俺と琉璃の間に流れていた殺伐とした空気とは質の違う、より忌々しい対峙。互いの正当性を認めつつ、互いを障害と見なし、それでいて容易に手を出せば取り返しのつかない破局を招くと理解している者の沈黙。
そして俺は、その均衡のど真ん中に立たされている。
一太刀たりとも当ててはならない死神の鎌を手に、琉璃を弥生に近づけさせず、かといって彼女を傷つけることも許されない。
四面楚歌という言葉に、これほど重層的なバリエーションがあるとは知らなかった。
「……分かったよ」俺は息を吐き出し、鎌の柄を横に構えて二人の間に割り込んだ。努めて平然とした口調で告げる。「家務事の相談をするなら、まずこのビルを解体しに来てる連中を片付けてからにしないか?」
琉璃の眼光が、再び俺を捉える。
「――黙りなさい」
「さっきも聞いたぜ、その台詞」
「なら、まだ学習できていないということね」
「あいにく天賦が偏っててね。生き残る術以外は、なかなか覚えられないんだ」
彼女は答えなかった。
その代わりに、動いた。
刀身が翻り、黒い装甲が前圧する。あの忌々しいまでの「規格感」が再び正面から衝突してくる。俺は頭皮の痺れを感じながら、鎌の背で受け、石突で弾き、横へと身を躱す。――勝つためではない。彼女を弥生から、あと半歩、遠ざけるために。
だが、二度目の激突が始まる直前、主控区の奥底からシステム再起動を思わせる鋭い電子音が響き渡った。
「内場支点の過負荷、再上昇! 外部から経路が書き換えられてます……!」希の悲鳴。
佐伯 冴子が即座に翻り、号令を下す。「第二班は正門、第三班は西側を封鎖せよ! 第四班は――」
「――手遅れよ」
観月 真白が、その言葉を冷ややかに切り裂いた。
(またかよ……!)
混乱が再燃する寸前、琉璃は俺を凝視し、刀よりも冷徹な一言を吐き捨てた。
「――周 士達。以後、あの子に一歩でも近づくことは許さないわ」
俺は口角を歪め、大鎌を構え直した。
「……なら、俺に斬られるような隙は見せないことだ、お姉さん」
言い放つと同時に、俺は後退を開始した。
英雄のような撤退ではない。文字通りの「逃走」だ。左足で砕けたガラスを蹴り、右肩を半壊した壁に擦らせながら、鎌の柄を斜めに掲げて琉璃の次なる一太刀を廊下へと誘導する。彼女は俺の誘い(デコイ)を察知しながらも、その追撃を緩めなかった。
俺が弥生から遠ざかるなら、彼女にとってはそれでいいのだ。
この女、自分の「偏愛」を一点の曇りもなく貫きやがる。
俺は後退しながら、大鎌を最も不自由な角度で維持し続けた。刃を向ければ危険すぎ、引きすぎれば防げない。鎌の背、柄、そして石突を使い、彼女の刀を――逸らし、弾き、絡め取る。
まるで葬儀用品を手に、極めて精密な外科手術を強行しているような感覚。
……クソッ、憋屈すぎて死にそうだ。
俺はサブモニター上で同時に点滅を始めた三つの赤枠を睨みつけた。胸の奥に澱のように溜まっていく不快感は、今や形を伴う「確信」へと変質している。正門の外では、霊務局の連中がいまだに茶番を演じていた。鎮相柱を床に擦り、UV白線を張り直し、電子御幣を次々と門枠に貼り付けていく。先ほどよりも騒々しいその音響は、俺たちの意識を正面に釘付けにするための「重し」に過ぎない。
本当の殺招は、別の路から忍び寄っている。
希の指先は震え、監視映像を次々と切り替えていく。西側設備室の保守灯が明滅し、資料室裏のサービススロットからは圧差が失われ、そして何より天井裏――。何も見えない漆黒の闇こそが、あらゆる不吉を飲み込んでいる。
「西側設備室の権限がオーバーライトされました……」希が声を潜める。「資料室裏のメンテナンスハッチに微細な振動。……天井裏の温度分布も変容しています」
老高が金属製の支柱を床に突き立て、奥歯を噛み締めた。「……で、今度は『化け物』退治か?」
「化け物じゃない、」俺は画面を凝視しながら答えた。「報告書を完璧に仕上げる、タチの悪い『猟犬』だ」
言葉が落ちた瞬間、外部通信が強制的に主控層の公衆回線へと割り込んできた。
通知音も、無駄な挨拶もない。
ただ、薄いナイフの背でガラスをなぞるような、冷徹で硬質な女の声が、廊下の騒音をすべて圧殺して響き渡った。
「――山口。そこまでにしなさい」
会議室にいた全員の視線が跳ね上がった。
当の山口ですら、一瞬呆然と立ち尽くしている。
サブモニター右上の廊下監視映像が自動的に拡大された。画面の中、散開していたS.A.T行動員たちが、まるで定規で線を引いたかのように左右へと整列し、中央の道を空けていく。
そして、彼女が画面の中に「現れた」。
高く、白く、どこまでも真っ直ぐな存在。
墨色の低めなポニーテールは残忍なまでに整えられ、銀縁のフレームレス眼鏡が冷たい照明を薄く反射している。纏っているのは山口のような反吐が出るほど清潔なスーツでも、前衛班のような重苦しい防護服でもない。指揮官と処刑人の中間に位置するような異質な装束――。しなやかな導霊圧力衣の上からタクティカル・プレートを纏い、極限まで絞られた腰にタクティカルベルトを締め上げたその姿は、一発の、装填済みの精密ライフルそのものだった。
佐伯 冴子。
本人を見るのは初めてだったが、俺には一目で分かった。
この手の手合いに自己紹介は不要だ。そこに立っているだけで、「これからの発言がこの場の絶対的なスタンダードになる」という、胸の悪くなるような確信を周囲に押し付けてくる。
山口が、ようやく言葉を絞り出した。「佐伯隊長、現場は今――」
「あなたは二線へ下がりなさい」
佐伯 冴子は一瞥だにせず、有無を言わせぬトーンで断じた。「窓口としての役目はここまでよ。これより、主控層の封鎖執行は私が引き継ぐ」
山口が必死に維持していたあの慇懃な仮面に、ついに決定的な亀裂が走った。
それを見て、俺は口笛でも吹きたい気分だった。
真壁は笑わず、ただ冷徹にモニターを睨み据えている。
佐伯 冴子は廊下の中央に立ち、釘を打ったかのように不動の構えを見せた。彼女の鋭い視線がまず俺たちの扉を射抜き、次に技術員のタブレットを精査し、そして再び口を開く。
「正門は圧制のポーズを維持。これ以上の器材投入は無用よ。第二班はそのまま突破を偽裝し続けなさい。第三班は西側設備室を保持。第四班は天井裏を、第五班は資料室の背面スロットをロック。全員パッシブ・センサーに切り替え。正門への直線入射は禁じます」
命令の一つ一つが短く、そして硬い。
それは指揮というより、フロア全体の「定義」を一つずつ書き換えているかのようだった。
希は手汗で滑る指で、その命令を平面図へとマッピングしていく。老高は毒づき、雨瞳は冷めた瞳で監視映像の女を見つめていた。
山口が耐えかねたように声を上げる。「佐伯隊長、内場の防禦協議は既に起動しています。主要担体が――」
「見れば分かるわ」
佐伯 冴子が短く切ると、山口は口を閉ざした。
俺は思わず吹き出しそうになった。
最高だ。ようやくあの小丑を、相応しいゴミ箱へ叩き込んでくれる奴が現れたわけだ。ついさっきまでこのフロアの支配者然としていた奴が、隊長が現れた途端にただの「伝書鳩」に成り下がった。
佐伯 冴子が会議室の方向へ視線を向けた。扉を、監視カメラを、そして現実の障壁を超えて、彼女の眼光は最深部へと突き刺さる。
「真壁」彼女が初めて名指しした。
真壁は扉の前に立ち、微動だにしない。「……言え」
「防禦協議を内場の杭として利用する……。あなたは今、この事故を『より高い次元の災厄』へとエスカレートさせているわ。分かっているの?」
俺は無様に身を縮め、鎌の背で彼女の刀鋒を受け流した。衝撃で腕全体が痺れ、感覚が消失していく。琉璃は対話など端から拒絶し、俺の動揺を突いて間合いを詰めてきた。黒い装甲が裂け目を踏み越え、一歩で距離を食いつぶす。
――近すぎる。
後退し、後退し、さらに後退する。俺は必死に彼女を設備エリアの深部へと誘導した。
「……少しは落ち着けよ、お姉さん」俺は歯を食いしばりながら言った。「後ろの二人は、今にも弥生の前で殺し合いを始めそうだぜ」
「それは彼女たちの問題よ」琉璃の刀勢は衰えない。「あなたは、私のもの(獲物)よ」
……言い方が不穏だ。
致命的に不穏だが、今の俺にそれを突っ込む余裕はない。
俺は横へと跳んだ。直後、彼女の刀が元いた場所の壁を叩き割り、コンクリートの破片が顔に降り注ぐ。咳き込みながら距離を取る俺の脳内で、あのクズな「老周」がまたしても不謹慎に囁いた。
(……流石は姉貴だぜ。追殺にまで『所有欲』が滲み出てやがる)
自分を殴り殺してやりたい。
主控区では、ついに佐伯と真白が激突していた。
UVの折線が先んじて空を裂く。定規のように冷徹な白光が、真白の頸部と電漿鋸の間を精密に狙い撃つ。対象を殺すのではなく、人間と工具を異なる「欄位」へと強制的に分解する。実に行政的(霊務局的)な、佐伯らしい手口だ。
だが、真白は半歩だけ身をずらしてそれをやり過ごした。
回避ではない。計測だ。
間髪入れず、電漿鋸が横一文字に振るわれ、紫白色の光刃がUVの折線と交差する。爆発も、派手な衝突音もない。ただ、異なる年代の法則が無理やり擦り合わされるような、耳障りな共鳴音が響き渡る。次の瞬間、絶対的であるはずの白線は一寸ほど軌道を歪められ、隣の支柱を無残に焼き焦がした。
佐伯の瞳に、初めて冷徹な驚愕が宿る。
分かったのだ。
神楽の「幽霊」は口先だけではない。彼女は本当に、物理法則を「切断」できる。
「素人はすぐに、封鎖を『升目の塗りつぶし』だと思い込む」真白が淡々と告げる。「残念ながら、相はあなたの書類フォーマットには従わないわ」
「少なくとも、私たちは人間を『部品』として扱いはしない」佐伯もまた、鋭く言い返した。
「……なら、今の彼女を『項目化』しようとしたのは、修理とでも言うつもり?」
「それは保全よ」
「神楽はそれを『切離』と呼ぶわ」
「神代家は――『回収』と定義する」
衝突寸前の空気の中に、真壁の凍てついた声が割り込んだ。
「――そして俺は今、それを『お手を触れないように』と宣告しているんだ」
彼女は片手を弥生の前にある操作台に置き、もう片方の手で内場のインターフェースを掌握していた。サブモニター上の白字が再び明滅する。
『固定栓位:成立』
『主線回落:受限』
『残留基値:書き換え(リライト)』
防禦協議は、周囲の圧力を糧にするかのように、さらに強固に、そして冷酷に場をロックしていく。
弥生は、その支点の中で立ち続けていた。砕けそうなほど蒼白だが、まだ倒れてはいない。
彼女は佐伯も見ず、真白も見ず。
ただ、俺と切り結んでいる琉璃だけを見つめていた。
「……分かった」俺はさらに一歩退き、設備ラックの影に身を隠しながら角度を変えた。「お姉さん、相談だ。俺を斬るのは勝手だが、せめてあの子の前でバラバラにするのは勘弁してくれないか?」
琉璃は冷たく俺を射抜き、一瞬だけ動きを止めた。
聞き入れたのではない。俺のどの発言から斬り刻むべきかを選定していたのだ。
彼女が出した答えは――問答無用の一太刀だった。
火花が散り、俺は鎌を盾にスライディングするように外側の通路へと逃れる。背後の主控区では、白光、紫光、警報音、そして金属の鋸鳴が混濁し続けている。だが、この一歩で少なくとも一つの目的は果たせた。
琉璃を、弥生の視界から遠ざけること。
そうでなければ、姉妹が見つめ合い続けた末に崩壊するのは、壁でも俺でもなく、真壁が命懸けで守っているあの「支点」になってしまうからだ。
設備エリアの通路は、主控区よりも狭く、そして不快だった。
ここは戦場ではない。左には剥き出しの配線溝、右には壁を這う冷却管、頭上には振動で脱落しかけた光ファイバー。長兵器を振るう余地などなく、視界は死角だらけだ。そこに琉璃という「過負荷な軍工機」が踏み込んでくれば、通路全体が軋みを上げて悲鳴を上げる。
彼女は適応の時間すら与えない。
刀が肌に張り付くような勢いで、第二ラウンド――「圧殺」が始まった。
狙いは、俺に「ミス」をさせること。
どの瞬間に、俺が我慢できずに鎌の刃を突き出してしまうか――彼女はその一点を、冷酷に、そして確実に追い詰めてくる。
俺は鎌の柄を横に構え、彼女が斜めに切り下げてきた刀線を強引に冷却管へと弾き飛ばした。――ガギィン! という衝撃音と共に金屬管が震え、裂けた接続部から白い蒸気が噴き出す。その霧に紛れてサイドへ滑り込んだが、息を整える暇さえ与えてはくれない。琉璃は冷凝の水飛沫を纏った黒装甲と共に、追尾する壁のごとき質量で間合いを詰めてくる。
「……いい加減にしろよ」腕の痺れに耐えながら、俺の口が勝手に動く。「こっちは大人しく外に転がり出たはずだぜ」
「足りないわ」
彼女の返答はあまりに簡潔で、そしてその言葉以上に簡潔な一撃が、俺の顎下へと突き出された。
仰け反るしかない。
刀鋒が喉仏をかすめて通り過ぎ、背筋に凍りつくような戦慄が奔る。踵で配線溝の縁を蹴り、転倒寸前のところで鎌の石突を地面に突き立て、強引に体勢を立て直した。彼女は既に俺の弱点を見抜いている。――勝てないのではなく、刃を当てる(吸う)ことができないという致命的な制約を。だからこそ、彼女はあえて間合いを潰し、俺が反撃できない距離で一方的に蹂牲しに来るのだ。
これは剣技の競り合いじゃない。
彼女は自分自身を「罠」に仕立て上げ、俺に禁忌を犯させようとしている。
「――防ぐだけ?」彼女の眼光は極寒の海のように冷たく、踏み込みと共に重心が圧しかかる。
「あんた、自分の言ってること分かってんのかよ」後退しながら鎌の背で刀を固定する。「俺のこの獲物が一度でもあんたを喰ってみろ。今夜はあの子の『頭七(初七日)』に予定変更だぜ」
彼女はその警告を、微塵も顧みない。
いや、むしろその逆だ。――ならば、二度とその手であの子に触れるな――という苛烈な意思が、その刃に宿っている。
彼女の手首が翻り、刀の柄頭が俺の胸骨を直撃した。肺の空気が強制的に押し出され、俺は二、三歩よろめいて設備ラックの角に背中を強打する。視界が火花で霞む。苦悶する俺の隙を逃さず、彼女の左膝が、胃袋に溜まった鬱屈をすべて叩き出すような勢いで食い込んできた。
「ガハッ……!」
身体が折れ曲がった瞬間、背後から刀が振り下ろされる。反射的に鎌の柄を背負うように掲げ、肩のすぐ横で火花を散らした。紙一重、いや、文字通り命を削るような攻防だ。俺は刀が柄に食い込んでいる一瞬を利用してサイドへ転がり、彼女の足元を潜り抜ける。地面を二周ほど転がり、泥臭い立ち上がりで半跪の姿勢を取った。
ああ、最高に楽しいぜ。
姉貴に追い回され、無様に転げ回り、その手には「絶対に斬ってはいけない」死神の鎌。俺の人生、デタラメさにも程がある。
「……周 士達」
名前を呼ばれた。
頭皮がチリつく。この女が真っ当に俺の名前を呼ぶ時、その後に続くのは決まって「ロクでもないこと」だ。
「……もし次、その不躾な視線で私を見たら、」彼女はゆっくりと歩み寄り、刀先を下げた。だが、その静止こそが、振り上げられた刃よりも死に近い。「まずその眼を抉り出し、次にその腕を斬り落とすわ」
「……どんな視線だよ」
口にした瞬間に後悔した。
彼女は半歩立ち止まり、俺の視線が――回避の際に本能的に追っていた場所を、冷徹に射抜いた。黒い装甲の合わせ目、胸甲の隙間、長大な肢体が踏み出す重心線。近接戦闘者としての習性で判読すべき急所。だが、今のこの状況で「戦術的観察」だなんて言い訳、屁理屈にさえ聞こえやしない。
「戦術的な……観察だ」俺は精一杯の誠実さを顔に貼り付けた。「極めてプロフェッショナルなやつだぜ」
彼女は、短く冷笑した。
「……その口、永遠に閉じさせてあげるわ」
間合いが消失した。
今度は距離を置く隙さえ与えない。俺の死角へと直接入り込み、短く、鋭く、そして苛烈な連撃。刀、肩、肘、膝――その全身を「一塊の暴力」として叩きつけてくる。これはもはや剣術ではなく、規格外の質量による圧殺だ。接近されすぎた長柄の鎌は、もはや無用の長物と化し、俺は最短の握りでそれらを必死に受け流すしかない。防ぐたびに、鎌の刃から「飢餓感」にも似た共鳴が掌に伝わってくる。主人の意気地のなさを、獲物が嘲笑っているかのようだ。
「……我慢しろ」俺は鎌に、あるいは自分自身に言い聞かせた。「今日だけは、吸っちゃダメなんだ」
琉璃は、その呟きを聞き逃さなかった。
琥珀金の瞳が沈み、刀勢はさらに残酷さを増す。
「――まだ、その『悍ましいもの』で私に触れるつもり?」
「じゃあ、顔面で受ければ満足かよ」俺は維修梯子に追い詰められながら、それでも口だけは閉じなかった。「お姉さん、あんた本当に……付き合いにくいぜ」
彼女の刀が、俺の言葉ごと空間を切り裂いた。
「――付き合うつもりなんて、微塵もないわ」
「知ってるよ。殺すつもりなんだろ?」
「――理解っているなら、大人しくしなさい」
刀鋒が、また迫る。
俺は今度は正面から受けず、身を捻って斬線を半身で躱した。同時に鎌の石突を引っ掛け、傍らにあった整備用カートを彼女の膝元へ蹴り飛ばす。琉璃は視線すら向けず、その肢体を一閃させるように足を振り抜いてカートを粉砕した。スパナやボルト、金属製のクランプが床に散らばり、耳障りな音を立てて跳ねる。その喧騒を背に、俺は外側の維修分道へと逃れ、ようやく彼女をさらに遠くへと引き離した。
一方、主控区では、ついに「本職」たちの火蓋が切って落とされた。
佐伯 冴子は、警告を重ねてから動くような甘い手合いではない。彼女が「接管」を宣言した瞬間、その意志は霊務局の冷徹なプロトコルへと変換された。右手を鋭く振ると、二枚の電子標定片が弾丸のように放たれ、主控区前方の支柱へと吸着する。刹那、極細のUV折線が虚空を走り、内場の前縁を強引に区切る「檻」を形成した。
殺傷ではない。
対象を「定義」し、位置を「固定」し、項目へと閉じ込めるための処置。
真白はその檻の前に立ち、狐面の下の紫瞳を凍らせた。彼女は回避の素振りすら見せず、ただ手にした破魔電漿鋸を掲げる。機械的に翻訳された神楽の祝詞が、耳を劈く高周波のノイズとなって室内に充満する。
佐伯のUV折線が、彼女の肩を狙って収束する。
真白は、ただ鋸を振り下ろした。
両者が接触した瞬間、轟音ではなく、鼓膜を酸で焼くような尖った共鳴音が響いた。それは相容れない二つの規則が、空気の中で互いを削り合っている音だ。現場を「管理可能な升目」へと変えようとする霊務局と、その格子を「不必要な不純物」として切断しようとする神楽。紫白色の鋸光が白線を撫でるように滑り、檻の軸をわずかに歪ませる。行き場を失った光条が隣のコンソールを焼き、黒い焦げ跡を残した。
「……あなたの線は、あまりに硬直的ね」真白が淡々と告げる。「現場はとっくに、二次元の図面を逸脱しているわ」
「少なくとも、私の線は『封鎖』を理解している」佐伯が一歩踏み込み、二条目の折線を編み出す。「……切断することしか知らず、後始末さえできない誰かさんとは違ってね」
「……余計なものを取り除くのが私の仕事よ。後始末なら、公務員であるあなたの得意分野でしょう?」
「いいわ、」佐伯の声が一段と冷える。「……なら、あなた自身を『処理待ち』のリストに加えてあげる」
白線が、三条同時に奔る。
上段、中段、下段。真白の視界、得物、そして下盤を正確に三分割しようとする非情な斬線。真白がついに動いた。彼女は床を滑る影のように身を伏せ、狐面を僅かに傾けて上段を回避。中段を電漿鋸で叩き落とし、下段の光を誘導して足元の通信ケーブルへと流し込んだ。
パチィィン! という破裂音と共に、サブモニターの半分が消失する。
「そっちを切るな! 内場のフィードバックが……!」希が悲鳴を上げる。
「私が切ったのではないわ」真白の口調は変わらない。「彼女が、無軌道に線を引くからよ」
「……貴女っ」
佐伯は即座に、硃砂色の小型標定弾を放った。それは真白の足元で砕け、微細な紅い粉塵を撒き散らす。粉が靴底と鋸の刀身に付着した瞬間、副控台上に短促な定位枠が躍り出た。神楽の「侵入源」が、霊務局のシステムに捕捉されたのだ。
「……捕まえたわ」佐伯が低く呟く。
真白は、自分を囲む赤い光の輪を、出来の悪い落書きでも見るかのような目で眺めていた。
「……本気で、そう思っているのですか?」
次の瞬間、彼女の腰背部にある黒い匣が弾開した。三本の定相釘が飛び出し、床、壁、天井へと突き刺さる。物理的な破壊ではなく、局所的な「構造」の改書き。紫白色の薄光が三点を繋いだ瞬間、佐伯の定位線は底が抜けたかのように消失し、紅い枠は無残に霧散した。
佐伯の瞳に、深い陰り(シャドウ)が差す。
「神樂機關・重裝儀軌班、班長――觀月 真白」彼女はここで初めて、礼儀を欠いたままで手順を履行した。「……公式に告知します。主控区内場の支点は過負荷状態にあり、霊務局の封鎖モデルは適合しません。――退きなさい」
佐伯の返答は、硬く、揺るぎない。
「S.A.T行動隊長――佐伯 冴子。私も告知するわ。次に一歩でも踏み出せば、あなたをその儀軌ごと封鎖項目へ叩き込む」
二人の女は、それ以上の言葉を費やさなかった。
直後。
白線と鋸光が、主控区の中央で正面から衝突した。
もはや、そこに手加減や牽制の余地はない。UVの格子は鋭い剃刀となり、電漿鋸は荒れ狂う祝詞の刃となって空間を削り取る。ぶつかり合うたびに火花が散り、コンソールの縁を焼き、耳を劈く不快な焦げ臭さが立ち込める。
その狂瀾の只中で、真壁だけは半歩も退かなかった。
彼女は弥生の肩に手を置き、崩壊しかけている支点をその意志だけで繋ぎ止めていた。もう片方の手は、操作パネルの深部へと潜り込み、狂い始めた防禦協議をねじ伏せる。モニター上の白字は激しく跳ね続け、その後に夥しい数の赤い小文字が連なっていく。
『内場支点、負荷上昇。フィードバック遅延。局所的な書き換え(衝突)を検知』
彼女の唇からは色が消え、額には大粒の汗が浮かび始めていた。
傍らで立ち尽くす希の手は、制御不能な状況に震えていた。それでも、プロトコルを読み上げる唇だけは止まらない。
「……主線の回落が停滞……二番接続部に逆圧を確認……真壁さん、これ以上外の二組を喰い込めさせたら、主控システムそのものが過負荷で自壊します!」
「……なら、外の連中を叩き出せ」
真壁は振り返ることさえせず、冷徹に言い放った。
「無理です、蹴り出せません!」雨瞳が、ノイズまみれの監視モニターを凝視しながら声を荒らげる。「佐伯と真白が接続権を奪い合ってる……。単一のアクセス源じゃないわ――」
「――分かっている」
真壁のその言葉はあまりに静かだったが、その実、奥歯が砕けるほどに噛み締められていた。
彼女の身前半歩に据えられた弥生は、光を透かす薄い紙のように蒼白だった。抗うことも、叫ぶこともない。ただ、呼吸が一つ、また一つと浅くなっていく。それでも彼女の瞳は開かれ、現実を視界に収め続けていた。外側の設備区へと引きずり出された琉璃の背中を追い、真壁がインターフェースを握りしめるその手を見つめる。
彼女は理解していたのだろう。今この場に、真に自分を案じている者などいないことを。誰もが自分なりのやり方で彼女を「保全」しようとし、そのあらゆる手法が、自分を「人間ではない別の何か」へと変質させる危険を孕んでいることを。
真壁はその視線に気づいたのか、彼女の肩を左手で強く押さえつけた。
「……動くな」
「……動いて、いないわ」
弥生の声は、風に舞う灰のように儚かった。
「……なら、そのまま動かないでいろ」
真壁がそう告げた刹那、彼女の右手甲に鋭い青筋が浮かび上がった。主控区全体が痙攣するように震動し、内場の境界線から溢れ出した白光が、佐伯と真白を同時に半歩、後退させた。
彼女たちが自ら退いたのではない。
「場」そのものが、異物を排斥したのだ。
「……彼女、もう限界よ」
真白は乱反射する光の向こう側から弥生を見やり、初めて冷徹な分析以外の色を声に混ぜた。
「これ以上支点に縛り付ければ、彼女の方が先に『壊れる(クラック)』わよ」
「……放せば、貴様らが今すぐ彼女を『解体』するだろうが」
真壁の声は、絶対零度の殺意を帯びていた。
「解体されるのと壊れる(割れる)の。……少なくとも前者なら、後に『修復』可能なパーツが残るわ」
「貴様に直させるつもりなど、毛頭ない」
そこへ佐伯が割って入る。
「……無駄口を叩くな。内場支点は霊務局が封鎖執行し――」
「封鎖だあ? 抜かしてんじゃねえよ!」老高がついに我慢の限界を迎えて吠えた。「あんたのその汚ねえ線、そこの白髪の狐面に今にも切断されそうじゃねえか! よく言うぜ!」
佐伯の視線が彼を射抜き、その極寒の威圧感に老高は一瞬たじろいだ。
一方、俺の方はといえば、設備エリアの通路でまたしても姉貴の一撃に首を飛ばされそうになっていた。
主控区の様子を伺うために一瞬意識を逸らした隙を、琉璃は見逃さなかった。刀が俺の肋の下から斜めに跳ね上がる。強引に腰を捻って回避し、大鎌の柄を盾にして刀身を滑らせる。衝撃が骨を伝って肩まで駆け抜け、全身がガタガタと震えた。俺はその反動を利用して背後の半開きだったメンテナンスパネルを体当たりで突き破り、さらに一段階深い設備室の闇へと転がり込む。
「……見物は、もう済んだ?」
彼女は俺を睨み据えた。呼吸は乱れ一つなく、その精密さはもはや生物の域を超えている。
「……いいや」俺も喘ぎながら答えた。こっちはしっかり人間らしく息が切れている。「……今夜はメインディッシュが多すぎて、目が回るぜ」
「なら、先に自分の『幕』を演じなさい」
彼女は再び一歩を踏み出す。
分かっている。これ以上退けば、そこはもう退路のない「デッドエンド」だ。
背後では爆発寸前の主控区が白と紫の閃光を放ち、目の前では神代家の長女が俺の命を奪うべく刀を構えている。その間に挟まれた、斬ることもできない大鎌を抱えた不運な男。
……全く、賑やかでいい。
俺は鎌の柄を握り直し、血の混じった唾を吐き捨てて彼女を見据えた。
「……いいぜ、姉貴」俺は告げる。「……なら、もう一回だ」
彼女は答えず、ただ刀を返した。
そして主控区でも。
佐伯と真白が、再び正面から激突した。
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