S2第六十九章 役者、舞台へ
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
サブモニター上で三つの赤枠が同時に明滅しているのを見て、俺の胸の奥にある不快感は確信へと変わった。
正面の扉の外では、霊務局の連中がいまだに芝居を続けている。鎮相柱を床に引きずり、UV白線を張り直し、電子御幣を次々と門枠に貼り付けていく。先ほどよりも騒々しいその音響は、俺たちの意識をここに釘付けにするための「重し」に過ぎない。
本当の殺招は、別の路から忍び寄っている。
希の指先は震え、監視映像を次々と切り替えていく。西側設備室の保守灯が明滅し、資料室裏のサービススロットからは圧差が失われ、そして何より天井裏――。何も見えない漆黒の闇こそが、あらゆる不吉を飲み込んでいる。
「西側設備室の権限がオーバーライトされました……」希が声を潜める。「資料室裏のメンテナンスハッチに微細な振動。……天井裏の温度分布も変容しています」
老高が金属製の支柱を床に突き立て、奥歯を噛み締めた。「……で、今度は『化け物』退治か?」
「化け物じゃない、」俺は画面を凝視しながら答えた。「報告書を完璧に仕上げる、タチの悪い『猟犬』だ」
言葉が落ちた瞬間、外部通信が強制的に主控層の公衆回線へと割り込んできた。
通知音も、無駄な挨拶もない。
ただ、薄いナイフの背でガラスをなぞるような、冷徹で硬質な女の声が、廊下の騒音をすべて圧殺して響き渡った。
「――山口。そこまでにしなさい」
会議室にいた全員の視線が跳ね上がった。
当の山口ですら、一瞬呆然と立ち尽くしている。
サブモニター右上の廊下監視映像が自動的に拡大された。画面の中、散開していたS.A.T行動員たちが、まるで定規で線を引いたかのように左右へと整列し、中央の道を空けていく。
そして、彼女が画面の中に「現れた」。
高く、白く、どこまでも真っ直ぐな存在。
墨色の低めなポニーテールは残忍なまでに整えられ、銀縁のフレームレス眼鏡が冷たい照明を薄く反射している。纏っているのは山口のような反吐が出るほど清潔なスーツでも、前衛班のような重苦しい防護服でもない。指揮官と処刑人の中間に位置するような異質な装束――。しなやかな導霊圧力衣の上からタクティカル・プレートを纏い、極限まで絞られた腰にタクティカルベルトを締め上げたその姿は、一発の、装填済みの精密ライフルそのものだった。
佐伯 冴子。
本人を見るのは初めてだったが、俺には一目で分かった。
この手の手合いに自己紹介は不要だ。そこに立っているだけで、「これからの発言がこの場の絶対的なスタンダードになる」という、胸の悪くなるような確信を周囲に押し付けてくる。
山口が、ようやく言葉を絞り出した。「佐伯隊長、現場は今――」
「あなたは二線へ下がりなさい」
佐伯 冴子は一瞥だにせず、有無を言わせぬトーンで断じた。「窓口としての役目はここまでよ。これより、主控層の封鎖執行は私が引き継ぐ」
山口が必死に維持していたあの慇懃な仮面に、ついに決定的な亀裂が走った。
それを見て、俺は口笛でも吹きたい気分だった。
真壁は笑わず、ただ冷徹にモニターを睨み据えている。
佐伯 冴子は廊下の中央に立ち、釘を打ったかのように不動の構えを見せた。彼女の鋭い視線がまず俺たちの扉を射抜き、次に技術員のタブレットを精査し、そして再び口を開く。
「正門は圧制のポーズを維持。これ以上の器材投入は無用よ。第二班はそのまま突破を偽装し続けなさい。第三班は西側設備室を保持。第四班は天井裏を、第五班は資料室の背面スロットをロック。全員パッシブ・センサーに切り替え。正門への直線入射は禁じます」
命令の一つ一つが短く、そして硬い。
それは指揮というより、フロア全体の「定義」を一つずつ書き換えているかのようだった。
希は手汗で滑る指で、その命令を平面図へとマッピングしていく。老高は毒づき、雨瞳は冷めた瞳で監視映像の女を見つめていた。
山口が耐えかねたように声を上げる。「佐伯隊長、内場の防禦協議は既に起動しています。主要担体が――」
「見れば分かるわ」
佐伯 冴子が短く切ると、山口は口を閉ざした。
俺は思わず吹き出しそうになった。
最高だ。ようやくあの小丑を、相応しいゴミ箱へ叩き込んでくれる奴が現れたわけだ。ついさっきまでこのフロアの支配者然としていた奴が、隊長が現れた途端にただの「伝書鳩」に成り下がった。
佐伯 冴子が会議室の方向へ視線を向けた。扉を、監視カメラを、そして現実の障壁を超えて、彼女の眼光は最深部へと突き刺さる。
「真壁」彼女が初めて名指しした。
真壁は扉の前に立ち、微動だにしない。「……言え」
「防禦協議を内場の杭として利用する……。あなたは今、この事故を『より高い次元の災厄』へとエスカレートさせているわ。分かっているの?」
「先に鎮相柱で門を叩きに来たのは、そっちの方だ」
佐伯 冴子はその反論を一蹴し、淡々と宣告した。
「二分あげる。内場の支点を撤去し、資料ケースを渡しなさい。主要担体の拒止を解除すること。二分後、私はもはや、あなたがこの件を基地内部で収める意思があるとは見なさなくなるわ」
真壁に迷いはなかった。
「……見なさなくて結構よ」
佐伯は彼女を一秒間だけ見つめた。その表情に、さざ波ほどの動揺すら浮かばない。
「了解」
彼女はそれ以上の説得を試みなかった。
この手の手合いの恐ろしさはそこにある。脅しをかけないのではない、脅すこと自体を無駄なコストだと切り捨てているのだ。拒絶されれば、ただ即座に「次の段階」へ移行するだけだ。
彼女は耳の後ろの通信機に指を添えた。
「全外囲班、二次進場の準備を。目標は変わらない。内場と主控中樞の柔性連結を切断しなさい。――『縁』を探せ。標的を優先しなくていい」
その指示を聞き、俺の胸の底にある不快感はさらに深く沈殿した。
「縁を探せ、標的を優先するな」。
それは、俺たちを人間としてではなく、単なる「場の構成要素」として処理するという宣言に他ならない。
希が西側設備室の異変を報告しようとした瞬間、天井裏の監視映像が突如としてノイズ(スノー)に覆われた。
回線切れではない。
信号が高周波の「何か」によって洗浄され、鳥肌が立つように一斉に霧散したのだ。
俺は顔を上げた。
頭上の、普段は誰も意識することのない通風管の奥から、かすかな音が響いてきた。
――チリン。
風鈴でもなければ、金属の衝突音でもない。
細い赤い紐の先に結ばれた小さな鈴が、歩行の律動に合わせるのではなく、ある特定の角度で壁面に触れた瞬間にだけ放たれるような、虚ろで澄んだ響き。
希の顔から、ついに血の気が失われた。
「……天井裏の識別コード、S.A.T(警備班)のものじゃないわ……」
老高も頭上を仰ぎ、眉間に深い溝を刻む。「……何だ、今の音は?」
俺は答えなかった。二度目の「音」が、既に来ていたからだ。
今度は鈴の音ではない。鋸だ。
建設現場のような耳を劈く騒音ではない。頭皮を逆立たせる高周波の嘶き。その中には、幻聴と見紛うほどに淡い「誦声」が混じっていた。古の経文を電流に変換し、金属の隙間から無理やり押し出しているかのような、悍ましい響き。
雨瞳が真っ先に、その正体を看破した。
「――神樂機関」
その二文字が放たれた刹那、会議室の右上、天井パネルに青白い電弧が奔った。次の瞬間、高熱と高精度な切断によって隔壁が綺麗に抉り取られる。粉塵と破片が舞い落ちる中、その裂け目から一筋の細い人影が滑り落ちてきた。
いや、落ちてきたのではない。
それは「吊り下げられていた」と言うべきだろう。
その姿はあまりに白く、そして静止していた。紅白の戦術装束の上から経文が刻印された胸甲を纏い、顔全体を覆う狐面。病的なまでに白い長髪がヘルメットの背後から垂れ下がり、末端に結ばれた鈴付きの赤紐が、空中で微かに揺れた。着地の衝撃は皆無。ただ、外骨骼の関節が重心をミリ単位で調整する際、精密機械特有の細かな「カチカチ」という駆動音だけが響いた。
そこに立っているのは、生身の人間ではない。
神棚に鎮座する、あまりに重く、白く、清潔すぎる「何か」が、不意にその場から歩み出してきたかのような異質さ。
老高が、思わず吐き捨てた。「――クソが」
希は全身を硬直させている。
外部モニターに映る佐伯 冴子の動きすら一拍止まった。神楽がこれほど強引に介入してくることは、彼女の計算にもなかったのだろう。
狐面の女はまず顔を上げ、面を正門の監視カメラへと向けた。フロアの壁を超え、佐伯の位置を正確に射抜くかのように。そして、彼女は口を開いた。
「神樂機關、重裝儀軌班班長――観月 真白」
声は大きくはなかったが、金属の芯から響くような、空虚で透徹した響き。
名を告げ終えると、彼女は追い打ちをかけるように言葉を添えた。
「――ここまでで結構です。これより先は、あなたたちの手に負える位相ではありません」
会議室に、凍りついたような静寂が落ちた。
あまりに無礼、そして圧倒的な宣告。
単に霊務局の仕事を奪いに来たのではない。佐伯 冴子という一級の指揮官が構築した「冷徹な接管」すら、技術的レベルが不足していると断じたのだ。
モニターの中、佐伯が眼鏡の奥で板岩色の瞳を鋭く光らせた。怒りを見せることはなかったが、その気配は先ほどよりも遥かに殺気立っている。
「霊務局による外囲封鎖は現在進行中よ。神楽の独断による介入は許可されないわ」
「あなたたちは、介入すれば『壊す』だけであることを、たった今証明したではありませんか」
観月 真白は、その反論を冷淡に遮った。
……最高だ。
俺は吹き出しそうになるのを堪えた。
今夜はどいつもこいつも毒舌が過ぎる。
山口が佐伯に二線へ追いやられ、今度はその佐伯が神楽に「手際が悪い」と切り捨てられる。主導権を握ろうとした者が、次の瞬間にはより上位の刃で削り取られていく。この場で一番の被害者は、閉じ込められている俺たちではなく、プライドをズタズタにされているあの官僚どもかもしれない。
観月 真白はゆっくりと向き直り、室内を見渡した。
その視線は真壁を通過し、弥生の上で止まる。それは昼間の複核員たちよりも冷酷で精密な眼差しだった。人間を見ているのではない。理想値から逸脱し、しかし破棄するには惜しい「検體」を値踏みしているのだ。
「主要担体の圧差異常。防禦協議による過負荷が進行中ですね」
真壁が、一歩踏み出して彼女と弥生の間を遮った。
「……これ以上近づいてみなさい。あんたをそこから叩き落としてやるわ」
観月 真白は立ち止まらず、かといって急ぐ風でもなかった。
ただ一歩、前へ。彼女が会議室の床に足を踏み入れた瞬間、弥生の防禦協議によって展開されていた淡白い紋様が、微かに、しかし明確に震動した。
破られたのではない。
より細く、より冷徹な「施工ロジック」に接触し、共鳴させられたのだ。
「彼女……内場のアルゴリズムを読み取ってる……!」
希の悲鳴に近い声。
俺の胸の奥で、嫌な汗が流れた。
この女は、扉を壊しに来たのではない。
壁の設計図を読み取り、その「数式」の隙間に直接刃を差し込もうとしているのだ。
観月 真白は右手を翻し、短型の破魔電漿鋸を展開した。藍白色の電弧が爆ぜ、刃の縁からはノイズ混じりの読経を伴う高周波音が響き渡る。その音は、俺の奥歯の神経を逆撫でするように不快だった。
「拒止は有効ですが、完全な閉鎖回路ではありませんね」
その一言に、真壁の眼光が、かつてないほどに険しくなった。
その指摘は、残酷なまでに「正解」だった。
弥生の防禦協議は、確かに霊務局の連中を力技で叩き返した。だが、それはプロトコルが完璧だったからではない。相手が「標準的な封鎖手順」という枠組みの中でしか動いていなかったからに過ぎない。だが、神樂という異質が介入した今、彼女たちが狙うのは「門の破壊」ではなく、支點そのものの「定義の書き換え」だ。
雨瞳が半歩身を乗り出す。ナイフの先端を低く構え、今にも弾け飛びそうな極薄の弦のように全身を研ぎ澄ませている。
老高は金属の支柱を握り直し、喉の奥で呪詛を吐き続けていた。
ただ一人、弥生だけが依然として座り続けている。
だが、俺には分かった。彼女は先ほどよりもさらに、限界まで「張り詰めて」いる。觀月真白という個体を恐れているのではない。神樂の手口が、霊務局のように自分を「格子」へ閉じ込めるのではなく、自分を「格子」そのものへと解體しようとしていることを、本能で察知したのだ。
外部モニターの中、佐伯 冴子は退くことも、即座に命令を下すこともしなかった。天井裏の裂け目を二秒間だけ冷徹に見据え、言い放つ。
「霊務局は外囲の封鎖を継続する。神樂の介入によって構造的な失陥が生じた場合、我々が即座に事態を接管し、善後策を講じるわ」
觀月 真白は一瞥もくれない。
「……まずは、扉だけが正解だというその固定観念から卒業することですね」
反吐が出るほど不遜な女だ。
俺が代わりに罵倒してやりたいくらいだった。
だが、声を上げるよりも早く、資料室の背面モニターが突如として漆黒に染まった。
ノイズでも、干渉でもない。
外部から物理的に、あるいは論理的に、視覚情報そのものを「切斷」されたのだ。
希が短く悲鳴を上げ、キーボードを叩く。「資料室裏の回線がロスト……! こっちの不具合じゃない、外から強制的にシャットダウンされたわ……!」
真壁が鋭い視線を側壁へと向けた。
俺もそれに続く。
会議室の中に、異様な静寂が満ちる。
正門の外で鳴り響く重機のノイズ、天井裏から漏れ出る高周波の誦音、佐伯の冷徹な号令――。それら全ての騒音を底辺で圧殺するように、新たな「音」が這い込んできた。
より重く、より鈍く。
そして、この場の「スケール」そのものを根底から叩き潰すような響き。
――ドォォォン。
低い地響き。
遠方の重機がその質量を地面に叩きつけたかのように、フロア全体の鋼骨が「ンン……」と呻きを上げた。
続いて、二度目。
今度はより近く。
床だけでなく、会議室の側壁そのものが微かに震動した。資料室の背面にあるサービス通路から、何かが這い出てこようとしているのではない。そこにある「路」そのものを、強引に押し広げようとしているのだ。
「……また別の奴らか!?」老高が吠える。
觀月 真白が、ここで初めて足を止めた。
入室以来、初めての「静止」。
彼女は資料室の壁へ向き直り、無言のまま、その「質量」の規格を測り取ろうとしていた。
モニターの中の佐伯 冴子の瞳が、初めて一寸だけ険しさを増す。
そして山口は、もはや全身を硬直させることしかできなかった。もはや「今夜は他には誰も来ない」などという欺瞞が通用する局面ではない。
三度目の震動が落ちた瞬間、資料室背面のメンテナンスハッチが、乾いた爆音と共に吹き飛んだ。
こじ開けられたのではない。内側から、その「質量」によって物理的に排斥されたのだ。
めくれ上がった金属板が壁に激突し、火花と粉塵が舞い散る。その霧の向こうから、これまで対峙してきたどの影よりも高く、厚く、そして圧倒的な重量感を伴った黒影が、ゆっくりと照明の下へ踏み出してきた。
俺が最初に捉えたのは、その顔ではない。
「規格」だ。
単に背が高いのではない。
周囲の空間比率を、その存在だけで歪めてしまうような異常なスケール感。
まず脚が踏み込まれた。黒色の難燃・耐圧スーツが、理不盡なまでに長い肢体を包み込み、金属製の胸甲が上半身を威圧的に突き出す。その姿は兵器というより、神代家が「規格」という概念をそのまま人の形に鑄造し、壁の向こうから現実へと叩き込んだかのようだった。
粉塵が彼女の肩から滑り落ち、その琥珀金の双眸が、満室の人間を飛び越えて、俺の顔へと正確に釘付けにされた。
その瞬間、俺は悟った。
こいつは参戦しに来たのではない。ただ「落とし前」をつけに来たのだと。
彼女は、誰一人として視界に入れていなかった。
真壁も、佐伯も、天井から吊り下げられた觀月ですらも。その瞳の中に会議室は存在せず、三方の対峙も、霊務局や神楽のメンツも存在しない。
彼女の眼底にあるのは、俺。
そして、俺の背後で空間の支點と化した、弥生だけだ。
そして彼女は口を開いた。その声は、凍てついたナイフの背で骨の表面を削り取るかのように冷酷だった。
「――周 士達。私の弥生の側から、失せなさい」
……クソが。
その一言で、この場はもはや公務でも、封鎖執行でも、技術的な接管でも、軍工的な回収作業でもなくなった。これは「姉」による実力行使だ。妹の側に立ちすぎ、長く生き残りすぎ、あろうことか「俺」であるという不運を背負った不届き者を、叩き出すための粛清。
俺の口は脳より速く、その悪癖は命よりもしぶとい。
(……流石は姉貴だ。規格が違いすぎる)
最初に目に飛び込んできたのは、刀ではない。殺意に満ちたその美貌でも、左耳で微かに輝く通信ピアスでもない。俺の視界を暴力的にジャックしたのは、黒い装甲と胸甲の隙間から溢れんばかりの、戦術的判断を根底から侮辱するような「分量」だった。
そのサイズ、普通の女なら「色情」と呼ぶだろうが、彼女が纏えばそれは「圧制」と化す。なぜなら、それを半秒でも長く眺めれば、即座に「死」が確定するからだ。
そして、彼女に三度目の視線を与えるつもりなど毛頭なかった。
彼女は右手を翻した。塵煙の中から一閃、刀線が虚空を切り裂く。試射も挨拶もない。初太刀から俺の頸動脈を正確に狙い済ました一撃。俺は反射的に上身を反らし、砕けた床の上で靴底を鳴らして後退する。同時に右手を外側へ振り抜くと、掌骨に沿って影が引き伸ばされ、死神の鎌(大鎌)が「ガギィッ」と音を立てて形を成した。鎌の背を掲げ、その一太刀を真っ向から受け止める。
金属が衝突した瞬間、俺の腕は肩から先が完全に痺れた。
刀が重いのではない。彼女の「存在」そのものが重いのだ。技術が届くより先に、規格が届いている。その一刀を支えているのは人間ではなく、人の皮を被って室内に踏み込んできた「軍工機」だと錯覚するほどの質量だった。
さらに最悪なのは、俺は彼女に刃を立てることができないという点だ。
死神の鎌の刃が一度でも食い込めば、吸い取るのは血ではなく「命」そのものだ。普段なら「斬られた奴が不運だった」で済む話だが、今日ばかりはそうはいかない。ここで弥生の姉の命を半分でも吸い取ってみろ。この場は即座に、収拾不可能な親族間惨劇へと爆発する。
だから、俺は最も屈辱的で不自由な戦い方を強いられる。
「斬る」ことは許されず、ただ「受け流す」のみ。
「命を奪う」ことは許されず、ただ「軌道を逸らす」のみ。
「勝つ」ことは許されず、ただ彼女を弥生の側から「引き離す」のみ。
彼女の二太刀目はさらに速かった。俺が鎌の刃を当てるのを躊躇っていることを見透かしたかのように、退く歩法に合わせて斜めに斬り下げてくる。俺は鎌の柄でそれを受け止めるしかない。一度、二度、三度。火花が顔のすぐ傍で弾け、俺はサイドステップで彼女の斬線を会議テーブルの外側へと誘導する。
彼女の一歩ごとに床が呻きを上げ、その理不尽なまでに長い四肢が、地を這うような安定感で間合いを詰めてくる。黒い装甲が回転し、胸甲の前縁に宿る冷光が、俺の鎌を掠めるように通り過ぎた。
心の中で、俺は猛烈に毒づいた。
(クソッ、こんな時にまで集中を乱しやがって!)
見たくて見ているわけじゃない。あの規格が、勝手に視界に衝突してくるのだ。格闘戦において、相手の肩、腰、重心を観察するのは定石だ。だが、彼女の装備は、あろうことか上半身の圧迫感そのものを対戦相手の判読ロジックを嘲笑うためのデコイ(囮)に仕立て上げている。
次の太刀がどの角度から来るかを予測しようとすれば、視線はどうしてもあの胸甲を通過せざるを得ない。そして通過した瞬間、脳内の「クズな俺」が勝手にこう呟くのだ。
(……流石だぜ、姉貴)
そして次の刹那、俺はその戯言のツケを「命」で支払わされることになる。
彼女もまた、俺が「戦い」ではなく「逃げ」に徹していることに気づいたらしい。
「――避けるだけ?」
冷たく吐き捨てられた言葉。それと同時に刀勢がさらに苛烈さを増す。鎌の背を滑るように刀鋒が迫り、手首を返して鎌の石突で彼女の肘を外側へ弾く。そのまま右へと誘おうとしたが、彼女は腰を落とし、そんな小細工には目もくれずに一歩踏み込んできた。
俺の警戒領域に、彼女の質量が直接叩き込まれる。
近すぎる。
唇に引かれた深紅のラインさえも鮮明に見えるほど。彼女の纏う金属、オイル、そして祭祀の香料が混じり合った「冷たい匂い」を嗅ぎ取れるほど。
美しく、危険で、規格過剰。おまけに弥生の姉だ。本来なら遠くから眺めて運命の不条理を嘆くための対象であって、半歩の距離で俺を殺しにかかってくる存在じゃない。
「――畜生、」俺は後退しながらついに罵声を上げた。「なんで真っ先に俺を斬るんだよ!」
彼女は答えることさえ微塵も惜しみ、ただ刀を返した。下から上へと跳ね上げる斬撃。それは俺の胸ではなく、俺という存在そのものを弥生の動線から「剥ぎ取る」ための軌道だ。俺はさらに一歩退かされ、鎌の背を外側に翻して刃を強引に上方へ受け流す。その勢いのまま横へと移動し、ようやく彼女を弥生から会議室の半分ほど引き離した。
その時ようやく、背後から弥生の乱れた呼吸の音が届いた。
そして、今にも砕けそうな、掠れた声。
「……琉璃、お姉ちゃん……」
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




