S2第六十八章 現場指揮
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
扉の外の静寂は、長くは続かなかった。
正確に言うなら、それは「静寂」ではない。
外の連中が、ようやくその足りない脳みそを使い始めたのだ。
先ほどの一撃は、実に見事な「壁」だった。UV重光束は逸らされ、御幣網は自分たちに張り付き、鎮相柱は過負荷で自壊した。霊務局の犬どもとて、そこまで無能ではない。目に見えない障壁に正面からぶち当たった以上、これまでのリズムで突撃を繰り返すのは、もはや封鎖執行ではなく公金の無駄遣いでしかない。
希は監視モニターを凝視したまま、声を潜めた。
「……三メートルほど後退しています。前衛が下がり、器材車も後ろへ……」
老高が息を吐き出し、デスクの脚に添えていた手を緩めた。「……ようやく、痛みが分かったようだな」
「痛みが分かったんじゃない、」俺はサブモニターに映る廊下の様子を睨み据えた。「これ以上突っ込めば、痛い目を見るのが自分たちだけじゃ済まないと気づいただけだ」
モニターの中では、第一ラウンドで煮湯を飲まされたS.A.T現場班の連中が、廊下の中ほどまで撤退していた。盾持ちの男はモジュールを交換し、傍らでは焼けた発光スロットの解體作業が続いている。さらに奥では、二人の技術員が歪んだ鎮相柱を床に並べ、こちらを忌々しげに盗み見ていた。突入時のあの傲慢な確信は、もはや見る影もない。
そして、さらにその後方から、一人の男が歩み出てきた。
山口ではない。
見たことのない男だ。小柄な体躯に、外勤用の防護衣の上から灰白色の識別ラインが入ったショート丈の指揮用ベストを羽織っている。耳の後ろには、他者よりも一回り分厚い通信モジュール。手にはタブレットを携えているが、その立ち位置は誰よりも後方だ。
俺はこの手のタイプをよく知っている。真っ先に踏み込むこともなければ、真っ先に殴られることもない。前線の連中が弾き出した「損耗」や「責任」という名の数値を冷静に精査し、次に行くべき地獄の場所を決定する男だ。
外部指揮官。
本物の「難敵」が姿を現したことを、俺は直感した。
廊下の中央に立つその男は、急いで命令を下す風でもなかった。まず会議室のドア枠を眺め、次に技術員から差し出されたタブレットへと視線を落とす。その動作はあまりに緩慢で、火花を散らす封鎖戦の最中というより、予算オーバーの工程表をチェックしている工場の監査員のようだった。
山口も奴を知っているらしく、その顔色がさらに険しくなる。
「誰だ?」俺は問う。
希が監視映像を拡大する。その声はまだ震えていた。「……S.A.T外囲封鎖指揮官……コードネーム、佐伯……」
雨瞳が、ひび割れたガラスの傍らで淡々と吐き捨てた。「……他人を死なせるのが、いかにも得意そうなツラね」
俺は答えず、ただその佐伯という男を凝視していた。
突入班の連中との決定的な違いは、装備でも站位でもない。先ほどの「異常事態」を目の当たりにしても、奴は驚きもせず、怒りもしなかった。ただ、観察し、計算し、そして「正面突破」という選択肢を、一寸ずつ脳内から排除している。
こういう手合いが一番厄介だ。
勝つことを証明しようとするのではなく、俺たちが「効率的に負ける方法」を模索しているのだから。
真壁もまた、無言でモニターを見つめていた。
真壁は無言のまま、しかし指先をわずかに動かして合図を送った。希に廊下の拾音器を接続しろと促したのだ。
希が操作すると、外部通路の音声が室内に流れ込んだ。ノイズが走った後、あの佐伯の、温度のない平坦な声が響く。
「……第一ラウンドの結果を」
傍らの技術員が即座に報告する。
「正面の格子化、内場支点の干渉により失敗。鎮相柱のフィードバック過負荷が一組、UV重光束の偏折、御幣網の逆流。前衛二名が戦闘不能、一名が中度の火傷です」
佐伯はタブレットに目を落としたまま、微塵も動揺を見せない。
「原因は」
「内場にて未知の防禦協議が起動。会議室の空間参照点が書き換えられ、門枠および直線入射の計算値が全て失墜しました」
「……未知、だと?」
「……はい」技術員は一瞬言葉を濁した。その事実を認めることが、自分の専門性を否定するように感じたのだろう。「……一般的な結界でも、標準的な防壁でもありません。主要担体を支点とした、局所的な『空間拒止』に近いかと」
会議室の中では、誰も口を開かなかった。
その報告は、あまりに的確だったからだ。外面の連中も理解したのだ。自分たちが先ほど激突したのは、急造の電子防壁などではなく、弥生という存在そのものだったのだと。
佐伯は短く頷いた。
「了解した。正門からの強襲案を破棄する」
その六文字を聞き、老高が口角を吊り上げた。
「……ようやくか」
だが、俺の背筋に走る悪寒は消えなかった。
こういう手合いの語る「破棄」は、決して諦めを意味しない。ただ――このルートは「コストに見合わない」と判断し、別の侵入口を探し始めただけなのだ。
案の定、佐伯の次なる命令が続いた。
「これより正門への硬攻を中止。――迂回接続に切り替えろ」
希の顔色が変わり、指先がキーボードを叩きつける。
真壁の声が、ナイフのように冷たく響いた。「……どこを狙うつもりだ?」
希が答えるより早く、モニター越しに佐伯の指示が飛ぶ。
「メインハブの電力を遮断するか?」
「……否だ。彼女たちは既に主灯を切っている。会議室の内場とメインハブが同調している今、強引な遮断は支点をより純化させ、杭を強固にするだけだ」
その言葉に、俺は思わず真壁を見た。
あの男、やはりキレる。
会議室の「核心」――防禦協議によって空間支点と化した弥生そのものに下手に触れれば、かえって拒絶の強度が上がることを瞬時に見抜いたのだ。
佐伯は淡々と続命を下す。
「正門を捨てろ。メインハブにも触れるな。正面の圧差を維持しつつ、次の三ルートを洗え。――還風道、メンテナンス用空隙、および副控台背後のサービス配線だ」
俺が抱いていた不快な予感が、最悪の形で輪郭を現した。
奴らはもはや、会議室の「正面」をこじ開けるつもりはない。
「回り込み」を始めたのだ。それもアクション映画のような窓からの突入ではない。還風道、メンテナンス通路、サービス配線……。基地という巨大な機構の隙間に潜む、無機質で血の通わない死角。そこから、壁の裏側から、俺たちの領域を侵食しようとしている。
希が基地の平面図を展開し、その声は悲鳴に近くなっていく。
「還風道……会議室上部のメインダクトが副控台層と共用……転換点は西側の設備室。メンテナンス空隙は天井裏を通って……副控台背後のサービス配線は、資料室の背面に繋がってる……!」
老高がその名を聞いて、表情を強張らせた。
「……資料室の裏だと? あそこは去年、封鎖したはずだろうが!」
「封鎖したのは人間が通る場所よ」希が叫び返す。「配線スロットは生きてる……普段は通れないだけで……!」
「……普段は通れないからといって、奴らが通れない理由にはならないわね」雨瞳が冷ややかに付け加えた。
監視モニターの中で、佐伯は淡々と人員を分散させていく。
「第二班は正門に留まれ。圧制のポーズを維持し、彼女たちの『視線』をここに釘付けにしろ」
その一言で、俺は全てを理解した。
正面の連中は、もはや本気で踏み込んでくるつもりはない。
ただ、踏み込む「フリ」をしているだけだ。ドアを叩く音、白線の明滅、UVの照射、そして重機の曳航音。それら全てのノイズを駆使して、俺たちの注意力を正面へと釘付けにする。その裏で、真の刃は別の三つのルートから音もなく忍び寄っていた。
佐伯の冷徹な指揮が続く。
「三班は西側の設備室へ向かえ、還風道を接管しろ。四班は副控層の天井裏だ。まずはプローブ(探針)を差し込め、人員の突入は急がなくていい。五班は資料室裏の配線スロット。サービス走線が内場へ直通しているかを確認しろ。技術員はパッシブ・センサーを携行。主動的な相干渉は避け、まずは内場の境界を『なぞる』んだ」
その命令を聞き、壁際に立つ山口の立ち姿が、初めて微かに揺らいだ。
奴は、佐伯がどこまでも自分の面子のために動いてくれるとでも思っていたのだろう。だが局面は変わった。これはもはや「不祥事の揉み消し」ではない。主控層という堅固な殻を、最短効率で解体するための「作業」へと移行したのだ。外囲の指揮権こそ霊務局にあるが、もはや現場のタクトを振っているのは奴ではない。
俺は山口を射すように見やり、皮肉を投げつけた。
「どうした、あんたが呼んだ助っ人だろ? 今じゃ自分も順番待ちのリストに並んで、報告書を眺める側か?」
山口は憤怒に顔を歪めたが、言い返す言葉を持たなかった。
それが、俺の推測が的中している何よりの証拠だった。
真壁がここで重い口を開く。その声は、極限の緊張感の中でも岩のように揺るがない。
「希。西側設備室、資料室裏、そして天井裏。全監視窓を並列展開しろ」
「了解!」
サブモニターが即座に三分割された。
西側設備室は保養灯が寂しく明滅する闇の中。資料室の背面は一見静かだが、配線スロット上部の点検口付近で既にアラートの赤枠が躍っている。そして最も厄介なのは天井裏だ。普段は誰も見向きもしないその暗黒には、配線、空調ダクト、ケーブルタイ、支柱が複雑に絡み合い、侵入者を隠匿するための低層迷宮と化していた。
「……本当に、潜り込んでくる気だわ」希が戦慄する。
老高が汚い言葉を吐き捨てた。「ドブネズミ共が」
「ネズミじゃない、」俺は監視映像を凝視しながら言った。「報告書の書き方を知っている、タチの悪い駆除業者だ」
正門側では、依然として騒乱が続いていた。
わざとらしく鎮相柱を床に擦り、金属音を響かせる。ドアの前で二重の御幣網を展開し、俺たちの意識を正面へと縛り付ける。その喧騒が大きくなればなるほど、それが単なる「陽動」であることを裏付けていた。
本質的な脅威は、もはや正面にはない。俺たちの認識できない死角へと移動したのだ。
弥生は座ったまま、その透き通るような白い顔を上げ、モニター右上の天井裏の映像を見つめていた。
彼女が口を開いた時、その声は凍てつく風のように細かった。
「……学習が早いわね」
俺は彼女を横目で見やり、言葉を返さなかった。
その評語は、残酷なまでに正確だったからだ。霊務局という組織の最も反吐が出る点は、最初の一撃の威力ではない。失敗を喫した直後、それを即座に「フローの修正」へと変換し、次なる獲物へと牙を研ぎ直すその冷徹なシステム性にある。
真壁が頷く。
「ああ。もはや、門だけを守っていれば済む段階ではない」
その一言が、会議室内の全員の思考を加速させた。老高は資料室の方向を睨み、雨瞳は天井の通風孔へと殺意を研ぎ澄ます。希は震える指を走らせ、侵食されるサービスラインの権限を死守しようと足掻く。
俺は真壁の左後方で、モニターの中の佐伯を凝視し続けた。
奴は依然として後方に立ち、自ら手を下すことはない。時折タブレットを確認し、淡々と前線に指示を飛ばすだけだ。還風道に這い入ることもなければ、鎮相柱を担ぐこともない。
奴の仕事はただ一つ――この「内場拒止」が通用しない、最も脆弱な侵入口を見つけ出すこと。
そして奴は今、その「答え」を掴みかけていた。
希が奥歯を噛み締めながら、悲鳴のような報告を上げる。
「西側設備室の門禁、外囲権限によってオーバーライト……! 資料室裏のサービススロット、圧損開始……天井裏、温度反応あり……!」
老高が金属製の支柱を床に叩きつけた。――ガツン! という鈍い衝撃音が、重苦しい空気を震わせる。
「……で、どうすんだよ? このままドブネズミ共が壁から這い出してくるのを、指をくわえて待ってろってのか?」
真壁は三分割されたモニターを凝視したまま、その瞳を氷のように研ぎ澄ませていた。
外の正門では、依然として「突入」の演劇が続いている。だが、真の駒は既に別の盤面へと移されていた。
監視映像の中、佐伯が淡々と、今夜の幕を引くための「定説」を告げる。
「正門の第二班、引き続き突破の偽装を維持。開扉の必要はない」
「……他班は門禁を放棄。別ルートより、侵入を開始せよ」
その宣告が落ちた瞬間、サブモニター上の三つの赤い枠が一斉に明滅した。
俺の脳裏には、ただ一つの冷徹な確信だけが浮かんでいた。
先ほどまで死守していたあの重厚な扉は、もはや今夜の「門」ではない。
本当の「入り口」は、俺たちの足元、頭上、そして背後の壁の向こう側に――無数に開かれようとしていた。
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