S2第六十七章 戦術結界
この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。
真壁の宣告が落ちた瞬間、希は背後から突き飛ばされたかのように前へのめり込み、震える指で最終確認キーを叩きつけた。
サブモニターが、一瞬だけ漆黒に沈む。
停電による暗転ではない。主控中樞という巨大な知性が一度だけ「瞬き」をし、改めてこのフロアをその視界に収め直したかのような、重い沈黙。
次の瞬間、会議室内のあらゆるデバイスが一斉に「白」へと跳ねた。キーボード、サイドモニター、門禁ステータス、圧差ウィンドウ、固定栓位の監測図。天井の隅で忘れ去られていたメンテナンス用のインジケーターまでもが、一斉に輝きを放つ。だが、それは照明のための光ではない。「校正」だ。中樞の深部で目覚めた「何か」が、部屋全体の寸法を測り直し、どこまでが内側で、どこからが外側かを再定義していく。
真壁の左後方に立った瞬間、俺は決定的な「違和感」を肌で感じ取った。
風でもなければ、静電気でもない。
それは「距離」の変質だ。
俺と真壁の間の半歩、彼女と弥生を繋ぐ一線、そして弥生から扉へと至る直線距離。それらが突如として、見慣れたはずの尺度を失った。伸びたわけでも、縮んだわけでもない。ただ、「一歩は一歩、一尺は一尺」という平穏な物理法則に従うことを拒絶している。目に見えない場所で、空間の「張り」が書き換えられ、俺は真壁によってその歪みの中心へと引きずり込まれたのだ。
希の声は震えていたが、手順を読み上げる唇だけは止まらない。
「メインハブ、切り替え完了……内場円弧を開放……固定栓位の参照を、メインコアへ接管……」
言葉は途中で途切れた。
サブモニターの右下、三行の白字の下に、新たな宣告が刻まれたからだ。
『固定栓位:成立』
『主線回落:受限』
『残留基値:書き換え(リライト)』
『内場支点:ロック(固定)』
『防禦協議:生效』
山口の表情が、ついに決定的に崩れた。
それは驚愕ではない。物事が規定のレールを外れただけだと思い込んでいた者が、目の前で「レールそのもの」を別の物理法則に書き換えられたことに気づいた者の絶望だ。
「真壁……」彼の声が低く、重くなる。「自分が何に手を染めたか、分かっているのか?」
真壁は奴を見ようともしない。
彼女は背筋を鋼のように伸ばし、自らがこの部屋の第一の「杭」であるかのように毅然と立っていた。
「分かっている」彼女は冷淡に言い放つ。「黙れ」
その時、六度目の衝撃が扉を襲った。
これまでのどれよりも重く、凶悪な一撃。
鎮相柱がドア枠を噛む金属音と、油圧が空間を抉る低鳴。扉全体が鉸鏈ごと引き剥がされようとした刹那――扉は、動かなかった。ほんの僅かな震動を見せた後、校正されたばかりの室内の「空気」が、一気に収縮した。
奇妙な音が響く。
爪でグラスの縁をなぞるような、細く、高い、生理的な不快感を伴う音。
すると、左側の枠で半指ほど裂けていた白光の亀裂が、その場で静止した。
塞がれたのではない。強引にこじ開けようとする力が、どこへ向かえばいいのかを失ったのだ。亀裂は扉の縁で激しくのたうち、光度を増したかと思えば一気に薄れ、最後には指で潰された虫のように、その場に「固定」された。
外から怒号が響く。
「出力を維持しろ!」
「鎮相柱を止めるな!」
「枠の格子化を続行せよ――」
号令が最後まで発せられることはなかった。扉が、凄まじい「呻き」を上げたからだ。
衝撃は、内側から外側へと放たれた。
短く、しかし重い。建物全体の質量を一点に集め、不意に押し返したかのような反動。
直後、廊下から罵声と、重機が床を滑る甲高い摩擦音が聞こえてきた。扉を噛んでいた鎮相柱に何が起きたか、想像するのは容易い。空間を固定しようとしたその牙は、逆転した物理法則によってその力をそのまま突き返され、支柱ごと外へと弾き飛ばされたのだ。
希がモニターを凝視したまま、呆然と声を漏らす。
「外周の格子化、中断……鎮相柱、フィードバックによるオーバーロード……」
老高は一瞬呆気に取られた後、下卑た笑いを浮かべた。
「ほら、もっと叩けよ!」彼は廊下へ向かって吼える。「『分類』がお得意なんだろ?」
外からの返答はない。その代わりに、第二波が間髪入れず襲いかかってきた。
今度は衝撃ではない。UV重光束だ。
扉の隙間が閃光に包まれた。直後、先ほどよりも倍は太いUV重光束が、空間を強引に抉りながら突っ込んできた。それはまるで、白熱した鋼鉄の棒を闇雲に部屋へ突き刺したかのような、暴力的な直進性。光条はまず門前の掩体を掠め、ひっくり返った天板を焼き焦がして黒煙を上げた。そのままの勢いで俺たちを薙ぎ払うはずだった。
だが、そうはならなかった。
その白束は、室内に三尺ほど侵入した地点で、あたかも「見えない何か」に衝突したかのように停滞した。
爆発もしなければ、霧散もしない。
ただ、その場に唐突に固定されたのだ。
その一瞬の「静止」は半拍にも満たなかったが、俺の背筋を凍らせるには十分すぎた。俺は確かに見た。光は遮られたのではない。強制的に「路」を書き換えられたのだ。真っ直ぐに進むはずの白束は、宙で不可視の指に弾かれたように震え、歪み、最後には右側のガラス壁へと無様に逸れていった。――パキィン! と、蜘蛛の巣状の亀裂が派手に鳴り響く。
雨瞳が身を翻し、その瞳に鋭い光を宿らせた。
「……入ってこれない」
「拒まれてるんじゃない、」俺は乱反射を繰り返す光条を睨みつけながら言った。「ここから先は、光が進むべき『物理』が書き換えられてるんだ」
真壁が、ここで初めて僅かに首を巡らせた。
「希、数値を読め」
希の声は依然として震えていたが、その速度は極限まで高まっていた。
「内場支点、安定……外来相の入射偏折を確認……主要担体の圧差、回圧中……」
そこまで一気に読み上げると、彼女自身が自分の言葉を信じられないといった様子で一拍置き、最後の一節を絞り出した。
「……会議室、内場拒止成立」
会議室に、凍りついたような静寂が落ちた。
それは安全が確保されたからではない。自分たちが口にしたその言葉が、現実に何を引き起こしたのかを理解するために、脳が数秒の猶予を求めたのだ。
「拒止」の成立。
それは防護壁でも、ただの壁でもない。
この狭小な空間そのものが、外部から持ち込まれる「理」を、その根源から拒絶し始めたことを意味していた。
山口がついに一歩踏み出し、サブモニターを食い入るように凝視した。
「……ありえない」
俺は彼を冷笑し、吐き捨てた。
「何がありえないって? あんたのその腐った目で見ている現実が、唯一の正解だとでも思ってたのかよ」
彼は俺を無視し、ただ弥生だけを見つめていた。
プロトコル起動から現在に至るまで、彼女はほとんど身じろぎ一つしていなかった。背筋を伸ばし、膝の上に白手套を添え、透き通るような青白い顔で座っている。だが、その白さはもはや圧殺された者のそれではない。混沌としたこの部屋の中で、最も強固に固定された「基準」の色だ。外の白線、紅い霧、UVの閃光、そして不快な重撃――全てが揺れ動く中で、彼女だけが恐ろしいほどに静止している。
だが、代償がないはずもなかった。
彼女の呼吸は先ほどよりも浅く、肩のラインは限界まで張り詰めている。会議室の防衛を支えているのは、壁でも、扉でも、システムでもない。その負荷の核心は、間違いなく彼女という存在の深淵にのしかかっている。
外側から、第三波が放たれた。
今度は衝撃でも、光でもない。
御幣網だ。
以前一度だけ見たことがある。普段は束ねられた白紙の束に過ぎないが、圧縮空気で射出されると、瞬時に極薄の網状に展開される。各格子には電子符片が貼り付けられ、狭い空間にいる標的を「捕獲」するのに最適化された兵器だ。霊務局が好んで使うこのガジェットは、一見すれば文明的に見えるが、実際には獲物を「モノ」として処理するための、最も効率的で卑劣な道具だった。
扉の隙間から白い影が広がった瞬間、俺は心の中で毒づいた。
「上だッ!」
雨瞳が顔を上げた刹那、御幣網は門扉の裂け目と天井の通風孔から、獲物を追い詰める蜘蛛の糸のように滑り込んできた。白紙の呪符が空中で「シュルルッ!」と音を立てて展開し、俺たちの頭上を覆い尽くそうとする。
真壁は動かない。
弥生もまた、静止したままだ。
動いたのは、空気。
いや、この会議室内に定義された「内側」そのものだ。
網が降り注ぐ直前、あの「爪でグラスをなぞるような」高い共鳴音が再び室内に響き渡った。先ほどよりも鮮明に、そして近く。まるで自分の奥歯の神経を直接弾かれたかのような不快感。直後、御幣網は何もない虚空の「斜面」に接触したかのように、その軌道を不自然に歪ませた。本来俺たちを包み込むはずだった角度は、物理的な力に捻じ曲げられ、そのまま入り口の扉へと逆流していく。
弾け飛んだのではない。
「折れ曲がった」のだ。現実に。
その光景は、単なる爆発よりも、遥かに「異常」だった。
宙を舞う御幣網が、目に見えない巨大な掌に撥ねのけられたかのように一瞬でしなり、逆方向へと引き戻された。
廊下から「退け!」という絶叫が上がるが、既に手遅れだ。網の前半分が猛烈な勢いで逆流し、先頭にいたUV制圧盾を正面から飲み込む。貼り付いた瞬間、シールド中央の発光スロットが過負荷で激しく明滅し――パシャッ! という破裂音と共に、内部の定電圧モジュールが完全に吹き飛んだ。
直後、廊下から二つの呻き声が重なる。
一人はシールドを保持していた男。
もう一人は、おそらく傍らで網を展開していた補助員だ。
重量物が崩れ落ちる音に混じり、護目鏡か面罩が砕け散る乾いた音が響く。続いて、統制を失った混乱の号令がなだれ込んできた。
「シールド喪失!」
「後退しろ!」
「御幣が逆流しているぞ!」
「前方の負傷者を回収しろ!」
老高が肩を揺らし、喉の奥で下卑た笑いを漏らす。
「ざまあみろ。壁にぶち当たった気分はどうだ?」
「黙れ、」真壁が制する。「……まだ終わっていない」
口ではそう言いながらも、その声にはわずかな安堵が混じっているのを俺は聞き逃さなかった。勝ったからではない。この瞬間、「弥生防禦協議」が少なくとも一つの真実を証明したからだ。
外から持ち込まれた白線、光束、御幣、そして鎮相柱。それらはもはやこの部屋に侵入できないか、あるいは侵入した瞬間に「主」を失い、牙を剥いて飼い主に襲いかかる。
これほど致命的な事態もない。
サブモニターには、新たな外囲監測データが次々と流れていく。希がそれを見て、喉を詰まらせるように声を上げた。
「……外、第一陣が後退を開始しました……」
俺も画面を覗き込む。
監視映像の中では、S.A.T現場班の連中が明らかに浮き足立っていた。先頭で盾を構えていた男は床から引きずり起こされ、胸元のシールドは真っ黒に焦げ付いている。かつて直進していた白い発光スロットは、今やへし折られた骨のように無残な形に歪んでいた。隣の補助員はさらに悲惨だ。顔の半分に逆流した呪符が張り付き、首筋を押さえながらよろよろと後退していく。
最後方で榴射器を構える男は踏みとどまっているが、即座に次を撃つ気配はない。ただ、廊下の向こうから信じられないものを見るような目でこの扉を凝視していた。自分たちが事態を収拾するために使い慣れた「道具」が、今夜に限って逆に自分たちを仕留めにかかったという事実を、ようやく飲み込み始めたのだろう。
山口もまた、その光景を目の当たりにしていた。
その顔は、深く、暗く沈んでいた。自分が脅していた相手は、単に「手順」を盾に抗っているだけの人間ではなく、より古く、より制御困難な「規格」へと事態を叩き込んだのだと、ようやく理解したのだ。
その表情を見て、俺の心は不思議と平穏を取り戻していた。
小気味いいからではない。
物事が「奴の台本」を離れ、「奴自身にも予測不能な深淵」へと墜ちていったからだ。
真壁が監視映像から目を離し、弥生を振り返る。
「……状態は?」
二秒の沈黙の後、弥生が答えた。
「……まだ、撐てるわ」
その声はあまりに細く、乾ききっていた。
その三文字を聞いた瞬間、俺の胸の奥にざらついた不快感が広がった。大丈夫だと言っているのではない。ただ余計な言葉を費やす気力がないだけなのだ。本当の「代償」は、今も彼女の全身に重くのしかかっている。ただ彼女は、外の犬どもにそれを見せるつもりがないだけだ。
雨瞳が右のガラス壁の側で手首を軽く振り、ナイフの先に付着した紙符の焦げカスを床に落とした。
「外の連中、初めて本当の『壁』にぶつかったみたいね」
廊下で態勢を立て直そうとする霊務局の連中を横目に、俺は言葉を継いだ。
「壁じゃない」
俺は視線を上げ、照明の下で氷の欠片のように青白く透き通る弥生を見つめた。
「彼女が、道を譲るのを拒んでいるんだ」
扉の外に、一時的な静寂が訪れる。
それは先ほどの衝撃音よりも不快な沈黙だった。それは諦めを意味するのではなく、最初の「試行」が惨敗に終わったことを奴らが認め、この扉の向こうにあるのが見慣れた会議室でもなければ、ただの内控で抗う職員でもないことを、ついに確信した証拠だった。
奴らは、初めて「拒絕」されたのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




