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S2第六十六章 弥生防禦協議

この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件・名称等は一切関係ありません。

扉の向こうで響く金属の曳航(えいこう)音は、着実に近づいていた。あえて俺たち全員にそれを聞き取らせようとするかのように、重々しく、そして一定の速度で。第一ラウンドの白線、呪符、硃砂(しゅしゃ)弾といった「手合わせ」は、もう終わったのだ。

次に踏み込んでくるのは、観測のためでも説得のためでもない。

「解体」のためだ。

希(シキ)の両手はキーボードに押し付けられたままだ。モニター上の権限ウィンドウが、赤、青、白と、まるでシステム内で互いに斬り合っているかのように激しく明滅し、重なり合う。彼女はドアロックのステータスを凝視したまま、声を震わせた。

「外周封鎖(ペリメーター・ロックダウン)がレベル2に昇格……。廊下の北側と西側が切断されました……待って、別の何かが接続(アクセス)してくる……」

「何が来た?」俺(おれ)が問う。

希(シキ)は生唾を飲み込み、指をスライドさせて外部通路の監視映像をサブモニターの隅へと無理やり引き出した。

画面が映し出された瞬間、俺(おれ)は心の中で毒づくのを禁じ得なかった。

廊下の先、最前列には三名のS.A.T現場班。先ほどよりも一階級上の重装備だ。前方の二人は厚みのあるUV制圧盾(サプレッション・シールド)を構えている。盾の中央には縦型の発光スロットが埋め込まれ、葬儀の位牌を防暴盾に作り替えたかのような、不吉な白光を放っていた。三人目は肩に短銃身の硃砂(しゅしゃ)グレネードランチャーを担いでいる。小型だが、この狭い廊下を吐き気のするような紅い霧で埋め尽くすには十分すぎる代物だ。

背後には、さらに二人の影。

一人は細長い台車式の器材を押し、その上には三本の折り畳み式発射ロッドが直立している。ロッドには電子御幣(おんべ)の巻物が幾重にも巻き付き、台座には小型の逆相稳圧器(フェーズ・スタビライザー)が固定されていた。もう一人は、一段と厚い黒灰色の装甲ベストを纏い、油圧式破門機と鎮相柱(スタビライザー・ポスト)を合体させたような重機を両手で提げている。先端の二枚の黒い咬合部がガチガチと開閉する様は、今にもドア枠に食らいつき、構造ごと部屋をぶち壊そうとする獣の顎を連想させた。

希(シキ)が小さく息を呑む。

「中型封鎖(ミドル・ロックダウン)班だわ……」

老高(ラオガオ)が画面を睨みつけ、口角を歪めた。「ちっ、封鎖だと? ――こいつはただの『取り壊し作業』じゃねえか」

雨瞳(ユートン)は右側のガラス壁の傍らに立ち、ナイフの先を下げていたが、その瞳は先ほどよりも鋭い光を帯びていた。それは昂ぶりではなく、相手が本気(ガチ)の獲物を取り出したのを見て、もはや推測する必要もなくなった者の冷徹な眼差しだ。

真壁(マカベ)は画面を長くは見ず、ただ一言だけ確認した。

「外周通路の残存戦力は?」

希(シキ)が指を弾くと、さらに二つの監視窓が跳ね上がった。西側の角には二名の霊務局外囲班が第二のUVグリッドを構築中。北側のエレベーターホールは白線で完全に封鎖され、その先は窺い知れない。つまり、山口(ヤマグチ)は今夜、ここから誰一人として逃がすつもりはないということだ。

俺(おれ)は彼の方を振り返った。

あの野郎は依然として壁際に立ち、動揺の色も見せていない。扉をこじ開けようとしていた時よりも、むしろ落ち着いているようにすら見えた。事態が器材班や重裝班の手に渡れば、彼自身が手を汚す必要はないからだ。奴の得意技は「殴り合い」ではなく、「他人の手を自分の望む角度へ調整する」ことなのだから。

「これがあんたの言う『リスク処置』か?」俺(おれ)は尋ねた。

山口(ヤマグチ)は俺(おれ)を一瞥したが、その表情はどこまでも平坦だった。

「君が先ほど、開扉を拒んだ。だから、彼らが自ら開けに来た。それだけのことだよ」

「てめえ、さっき一回強引に突っ込んで来ただろうが」

「あれは『勧告』だ」と、彼は言った。

俺は思わず吹き出しそうになった。

「霊務局の『勧告』には、もれなく油圧カッターがセットで付いてくるのかよ?」

山口(ヤマグチ)はその皮肉を無視し、視線を真壁(マカベ)へと移した。

「真壁(マカベ)。第一ラウンドまでは現場の誤認で済ませてやる。だが、第二ラウンドでも抗戦を続けるなら、それはもはや誤認ではない。明確な『封鎖執行妨害』だ」

扉の前に半歩踏み出した真壁(マカベ)は、俺たちに背を向けたまま、壁のように冷淡な声を放つ。

「法条(ルール)を盾に語り始めたということは、自分でもやりすぎだと自覚している証拠だな」

扉の外で、カウントが始まった。

怒号ではない。極めて事務的で冷徹な現地コマンド。それが一條ずつ空間に割り込み、俺の奥歯をガチガチと震わせる。

「一番盾、前へ」

「二番、榴射(グレネード)待機」

「三番、鎮相柱(スタビライザー)を扉に接続」

「右側UV、プレヒート開始」

「御幣(おんべ)グリッド、三秒後に敷設」

雨瞳(ユートン)が首を傾げて聞き入り、不意に声を潜めた。「右のガラスは本命じゃないわ」

俺は彼女を見た。

彼女は顎をしゃくり、ドア枠の上部を示した。

視線を辿ると、磨砂(すり)ガラスの外縁を細い白光が這い上がっているのが見えた。ガラスを爆砕するつもりじゃない。扉を枠ごと一つの「標準封鎖区画(スタンダード・グリッド)」としてパッケージングしようとしているのだ。これこそが最も卑劣な手法だ。扉をこじ開けるのではない。まず扉の外側の数センチを『自分たちの領域』として定義し、内側の人間を強制的に押し戻す。

「枠を固めてやがる(フレーミング)……」と、俺は言った。

真壁(マカベ)が短く頷く。

「ああ。奴らの狙いは突入ではなく、俺たちをこの会議室に釘付けにすることだ」

希(シキ)の声が一段と小さくなる。「……もし枠の定格(フレーミング)が完了したら、内場の圧差は強制的に独立区画として切り離される。そうなれば、主控台(メインコンソール)側の固定栓位(アンカー・スロット)参照点は、強制的に再校正(リ・キャリブレーション)させられることに……」

彼女が言い終える前に、弥生(やよい)が副モニターへ視線を投げた。

無言だったが、彼女も理解しているのが分かった。

連中が真に動かそうとしているのは、扉などではない。

この会議室が新しい「区画(グリッド)」として定義された瞬間、中の人間も、物理線も、圧差も、全てが奴らの計算式に従って書き換えられる。今日の午前中に神楽(カグラ)の連中が定標片(マーカー)を使って試みたことと、今夜、霊務局が重機を持ち込んでこの部屋を標本箱に変えようとしていること――呼び名は違えど、奴らの腹積もりは同じだ。

彼女を「扱いやすい場所」へと、強制的に再配置すること。

外側の鎮相柱(スタビライザー)が駆動を始めた。

その音は機械というより、獣の咀嚼音に近い。低い金属の咬合音が響き、続いてドアの左側に鈍い衝撃が走った。何かがドア枠に喰い込んだのだ。二度目の衝撃はさらに深く、扉全体を微かに震わせる。

希(シキ)の顔が、さらに蒼白になった。「枠をロック(鎖枠)してる……!」

老高(ラオガオ)が扉の前へ半歩踏み出し、ひっくり返ったデスクの脚を握りしめた。「……俺が外に一撃ぶち込んでくる」

「無駄だ、出られん」と、真壁(マカベ)が制した。

「じゃあ、このまま箱詰めにされるのを待てってのか?」

「今出れば、お前が格好の『最初の位置決め釘(アンカー)』にされるだけだ」

老高(ラオガオ)は歯を食いしばり、踏みとどまった。

サブモニターに目をやると、ドア周辺の圧差曲線が変容を始めていた。外囲を封じていた白線が、今や首を絞める細い縄のように、この会議室という区画へと収束していく。さらに厄介なことに、右下にある三行の白字の下に、新たな警告(アラート)が点滅し始めた。

『外囲のグリッド化(格子化)進行中』

『固定栓位(フィクスド・アンカー・スロット)参照への干渉』

『付随線(アカンパニー・ライン)反応値、微増』

俺の心臓が嫌な音を立てた。すぐさま弥生(やよい)を振り返る。

彼女は背筋を伸ばして座っていたが、白手套(ホワイトグローブ)に包まれた指先が、膝の上の布地を固く掴んでいた。震えているのではない。もっと悪い。彼女は「耐えて」いるのだ。自分にしか聞こえない、そして他人が触れれば一気に崩壊を招くような、悍ましい共鳴を。

真壁(マカベ)もそれに気づいていた。

彼女は一歩踏み出し、会議テーブルの残骸を扉の前へと押し込み、簡素な二重の遮蔽物(シェルター)を作り上げる。そして振り返ることなく希(シキ)に問うた。

「主控区(メインエリア)の『一号防壁』、あとどれだけ持つ?」

希(シキ)が狂ったようにページを切り替える。声が震えている。「一号防壁は主灯と外部センサー、副台(サブコンソール)に併設されてます……さっき右側の電力を切ったから、あと二十秒、いえ、十七秒しか……!」

「二号は?」

「二号防壁は主控台(メインコンソール)の中枢授権(オーソライズ)が必要で……でも、それには――」

彼女はそこで言葉を詰まらせた。

この場にいる全員が理解していたからだ。今、真壁(マカベ)が問うているのは、単なる防御壁の稼働状況ではない。次に打つべき手として、弥生(やよい)という存在そのものに、禁忌の領域まで踏み込んだ干渉を行うべきかどうかを計っているのだ。

扉の外で、グレネードランチャーの装填音が響いた。

短い金属音。だが、それは室内の静寂を切り裂き、全員の鼓膜に死の予感を刻みつけるには十分だった。

山口(ヤマグチ)が再び口を開く。その声は、あたかも最後に残された慈悲を差し出すかのように、低く、平坦だった。

「真壁(マカベ)、開けろ」

真壁(マカベ)は応じない。

「分かっているはずだ」と、山口(ヤマグチ)が続ける。「これ以上抗戦を続ければ、彼女の『個(ひと)』としての形も、お前が守ろうとしているそのプロトコルも、どちらも保てなくなる。今ここで資料ケースを渡し、彼女を正式な封鎖管理(ロックダウン)下に置け。そうすれば、今夜の事態はまだ霊務局の裁量範囲内で収めてやれる」

その言い草に、俺(おれ)は吐き気を覚えた。

場をここまで追い詰めた張本人が、白線の外側で、あたかも唯一の救い手であるかのように振る舞っている。その偽善が、反吐が出るほど滑稽だった。

雨瞳(ユートン)が、ナイフの背をデスクの縁で弄びながら、冷ややかに言い放つ。

「自分を救急車か何かだと思っているなら、おめでたい頭ね」

山口(ヤマグチ)は彼女を無視し、真壁(マカベ)だけを凝視していた。

「扉を開けろ。少なくとも今夜に関しては、まだ『他(・)の(・)者(・)共(・)』は入り込んではいない」

その一言に、俺(おれ)の思考が跳ねた。

「まだ他の者は入り込んでいない」――それはつまり、山口(ヤマグチ)自身も、今の状況が最終防衛線ではないことを理解しているという証拠だ。霊務局がこのまま手間取れば、神楽(カグラ)、本家(ほんけ)、あるいはそれ以上に厄介な怪異の類が、この甘い腐臭を嗅ぎつけて集まってくる。

真壁(マカベ)もその真意を読み取った。

彼女の瞳が僅かに細まる。視線は山口(ヤマグチ)を通り越し、扉の圧差インジケーター、そして弥生(やよい)へと移った。

三度目の、咬合音が響く。

今度は単なる振動ではない。破壊の音だ。

扉の左上の角が、「パキッ」と細い音を立てて爆ぜた。ガラスの深部で骨が砕かれたような、不快な音だ。続いて、極細の白い光の亀裂が扉の縁に沿って走り出した。向こう側の空間が、この部屋という現実を物理的に「引き裂き」始めたのだ。

直後、硃砂(しゅしゃ)グレネードが発射された。

狙いは人間ではない。扉そのものだ。

紅白が混濁した圧殺の霧が、その僅かな隙間から強引に噴き込んできた。乾いて、焦げつくような血の臭い。希(シキ)が激しく咳き込み、雨瞳(ユートン)は腕で顔を覆う。老高(ラオガオ)は罵声を上げ、反射的に踏み出した足を強引に引き戻した。俺(おれ)の鼻腔と眼球が酸を浴びたように灼けたが、逆に脳は氷水を浴びせられたように冴え渡った。

これは即座に扉を破るための攻撃ではない。

俺たちを混乱させ、扉そのものが構造的に限界を迎えるのを早めるための「前処理」だ。

サブモニターに新たなログが躍る。

『内場(インナー)のエアロゾル汚染、上昇』

『固定栓位(フィクスド・アンカー・スロット)参照点、不安定』

『主要担体(メイン・キャリア)の圧差変動、増幅』

俺は弥生(やよい)を見た。

彼女の抵抗は、もはや指先だけには留まらなかった。

肩のラインが微かに強張り、呼吸が浅くなる。紅い霧と白線が空間を押し潰そうとしたその刹那、彼女の皮膚の下から、何かが「内側」へと突き上げるような衝撃が走った。

それは視覚的には捉えきれないほど微細な変化だった。だが、会議室全体が、彼女の律動に呼応するように、低い、物理的な呻き声を上げた。鼓膜に届く音ではない。胸の奥にある細い弦を、誰かに強引に弾かれたような――嫌な共鳴だった。

壁際に立つ山口(ヤマグチ)の表情が、初めて決定的に崩れた。

それは罪悪感などではない。剥き出しの警戒心だ。

彼もまた、感じ取ったのだ。この部屋に満ち始めた、あってはならない「違和感」を。

外の連中も同様だったのだろう。規律正しかった報数(カウント)が一拍止まり、即座に殺気立った号令へと書き換えられる。

「内場の応答(レスポンス)、急上昇!」

「圧制を倍増させろ!」

「鎮相柱(スタビライザー)、固定完了!」

「第二層、御幣(おんべ)グリッド展開準備!」

「――クソったれが」老高(ラオガオ)が毒づく。

俺は弥生(やよい)の元へ歩み寄ろうとしたが、あと半歩というところで、身体が勝手に動きを止めた。

恐怖ではない。

彼女を包む「空気」そのものが、もはや俺の知る世界のそれとは、決定的に異なっていたからだ。

熱した鉄板に氷水を注いだ直後のようだ。表面は白く煙っているが、その深淵では何かが蠢(うごめ)き、沸騰し始めている。あと一歩でも近づけば、彼女に触れるより先に、この部屋に本来存在するはずのない「何か」に触れてしまうだろう。

弥生(やよい)本人は、俺(おれ)を見ようとはしなかった。

彼女はただ、入り口付近で漂う紅白の霧を凝視している。その声は、自分自身に言い聞かせるかのように、あまりにもか細い。

「……彼らは、私を区画内(グリッド)の基準点(アンカー)として釘付けにするつもりね」

真壁(マカベ)が、ついに正面から彼女と向き合った。

「あとどれだけ、抑え込める?」

弥生(やよい)は答えない。

答えなかったのではない。その回答を口にした瞬間、それが「次の命令」へと直結してしまう。だからこそ、彼女は沈黙を選んだのだ。

扉の外で、五度目の重撃が轟いた。

今度は振動だけでは済まなかった。扉の左側の枠が半指ほど内側へ陥没し、門扉を固定していた金属製のデスクが劈(つんざ)くような摩擦音を上げる。直後、先ほどよりも太いUVの白束が隙間から強引に侵入し、テーブルの角を斜めに切り裂いた。木材が焼ける刺激臭が立ち込める。

雨瞳(ユートン)が毒づき、テーブルを蹴り飛ばして光束の軌道を無理やり逸らした。老高(ラオガオ)はすかさず金属製の支柱を噛ませ、即席の防壁を補強する。

希(シキ)の声は、もはや悲鳴に近かった。

「枠の格子化(フレーミング)、六十パーセント……! 二号防壁を展開するには主控区(メインエリア)との同期が必要です。でも、それには組長の授権と、固定栓位(アンカー・スロット)の外周参照値を使い潰すことに――」

真壁(マカベ)が鋭く言い放つ。

「要点を言え!」

希(シキ)は必死に息を整え、言葉を絞り出した。

「……二号防壁を起動するということは、弥生(やよい)さんを直接『内場の支点(ピボット)』として利用するということです!」

会議室が、一瞬にして静寂に包まれた。

扉の外の喧騒すら、遠い世界の出来事のように感じられた。

その言葉の真意は、明白だ。

真壁(マカベ)がこの第二ラウンドを凌ごうとするなら、もはや扉や家具、システムの権限といった物理的な防衛だけでは足りない。神代(じんだい) 弥生(やよい)という存在そのものを防衛線の中核に据え、彼女を「守るべき対象」から、この空間を支える「核(リアクター)」へと変質させなければならないのだ。

そのプロトコルを実行した瞬間、今夜の事態は単なる霊務局との衝突では済まなくなる。

それは彼女を「人」としての領域から、さらに一歩、引き返せない場所へと突き落とす行為に他ならない。

だが、起動しなければ、外の犬どもにこの部屋ごと標本にされるだけだ。

山口(ヤマグチ)もその意味を察し、今日初めて、決定的に顔色を変えた。

「真壁(マカベ)、よく考えろ」彼は言った。「今ここで彼女を『起動』させれば、もはや基地の内規(コントロール)で収まる範疇を超えるぞ」

俺(おれ)は彼を睨みつけ、怒りを爆発させた。

「てめえがここまで追い込んだんだろうがッ!」

山口(ヤマグチ)は俺(おれ)を無視し、真壁(マカベ)を凝視し続ける。

「彼女が『支点』となった瞬間、次に現れるのは私のような役人だけではない。神楽(カグラ)が直接介入し、神代家(じんだいけ)も黙ってはいないだろう」

真壁(マカベ)は答えない。

彼女はただ弥生(やよい)を見ていた。断崖絶壁まで追い詰められた糸が、あと数インチで断ち切れるのか、それとも自ら踏み出して全てを拒絶するのかを見極めようとするかのように。

弥生(やよい)がゆっくりと視線を上げ、真壁(マカベ)と交差させた。

その瞬間、室内の全てのノイズが消失したかのような錯覚に陥った。

彼女の顔色は透き通るほどに白いが、その瞳は驚くほどに静止していた。恐怖がないわけではない。ただ、物事がどこまで進んでしまったかを理解し、もはや誰とも交渉する余地がないと悟った者の静寂(しじま)だ。

彼女は「いい」とも「嫌だ」とも言わなかった。

ただ平坦な視線で真壁(マカベ)を見つめ、最後の一撃となる選択権を、彼女へと委ねた。

門外で、五度目の重撃が轟音を立てて炸裂した。

ドア枠が深く裂け、UVの白線が半尺ほども室内に侵入する。照明が激しく明滅し、サブモニター上の三行の白字が、ついに一斉に赤く染まった。

『固定栓位(フィクスド・アンカー・スロット):成立』

『主線回落(メインライン・リシード):受限』

『残留基値(レジデンシャル・ベース):書き換え(リライト)』

『内場支点、不均衡警報(アンバランス・アラート)』

希(シキ)が顔を上げた。「――もう、持ちません!」

真壁(マカベ)は、短く、鋭く息を吸い込んだ。

それは今夜この瞬間まで、彼女が必死に引き延ばし、守り、ただの「手順(フロー)」であると偽り続けてきた全ての猶予を、一気に使い潰す決断の音だった。

そして、彼女は口を開く。

その声は決して大きくはなかったが、扉の向こうで鳴り響く重機たちの金属音よりも、遥かに硬く、峻烈だった。

「希(シキ)、中枢制御(メインハブ)を切り替えろ」

「雨瞳(ユートン)、老高(ラオガオ)、二歩下がれ。内場の円弧(アーク)を開けろ」

「周 士達(ジョウ・シーダー)、こっちへ来い。俺の左後方に立て」

俺(おれ)は即座に動いた。

山口(ヤマグチ)の顔色が、一瞬で土色に変わる。俺たちがもはや「防げるか否か」という次元ではなく、全く別の「理(ことわり)」へとゲームのルールを書き換えようとしていることに、奴はようやく気づいたのだ。

真壁(マカベ)は奴を一瞥(いちべつ)だにしなかった。

彼女は扉と弥生(やよい)の間に立ち、背筋を鋼のように伸ばす。それは、今から激流の中に打ち込まれようとする、巨大な杭そのものだった。

「記録に残せ」と、彼女は冷徹に告げた。「責任は、俺が取る」

希(シキ)の指先が、最終確認(エンター)キーの上で凍りついたように震えている。

「……本当に、起動するんですね?」

真壁(マカベ)は、ついに視線を上げた。

サブモニター上で狂ったように明滅する警告灯、ドア枠から毒蛇のように這い入る白線、そして――光の中に溶けてしまいそうなほど蒼白な顔で座る、弥生(やよい)を見据えて。

彼女は、一文字ずつ、その「禁忌」を宣告した。

「――起動(イニシャライズ)」

扉の外で、今日一番の重撃が轟いた。

ドア枠全体が、悲鳴を上げて震動する。

だが、真壁(マカベ)の声は、その轟音を真っ向から圧殺し、室内に響き渡った。

「――『弥生防禦協議(ヤヨイ・ディフェンス・プロトコル)』」


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