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第九章:裏政府《うらせいふ》 ―― 真なる国家支配者

リビングの床では、先ほどまで「母親」の形をしていた紫色の肉漿にくしょうが、今もジズジズと音を立てていた。それは冷却の音ではない。腐食の音だ。死という終着点を超え、さらにその先へと崩壊が進んでいくバッドステータス(異常状態)の継続。大理石の床は吐き気がするほど高価だったが、もはや粗大ゴミ以下の価値しかない。

 葉綺安(イェ・キアン)は鉄パイプを握りしめたまま荒い呼吸を繰り返し、その瞳の焦点は完全にログアウトしていた。アイドルの勝負服であるはずのセットアップには、どこの次元から漏れ出したかも知れない粘液(ノイズ)がべったりと付着している。

「もういい」俺は胃からせり上がる嘔吐感(エラー)をこらえ、声を絞り出す。「これ以上叩いたら、お前の『お袋さん』がマジでミートソースになっちまうぞ」

 俺が彼女の腕を引こうとした、その時だった――。

 室内のすべての灯りが、示し合わせたように消失(シャットダウン)した。

 停電ではない。停電なら窓の外のネオンや街灯がわずかに差し込むはずだ。だがこれは別物だ。純粋な「無」。窓の外に渦巻いていた暗紫色の濃霧さえもが、光という概念ごとこの空間から一括削除(デリート)されたかのようだった。

 ――ピーーーーーーーー。

 鼓膜を劈くような高周波のエレクトロニクス音が、空気そのものから炸裂した。スピーカーからではない、四方八方の空間そのものが振動し、直接脳の皮質に突き刺さる。

 その時、壊れて数年経つはずのテレビが、給電すらされていない暗闇の中で突如として発光した。

 ブルーバックに白文字。人間味というデータを一切持たない行政文書のフォント。画面は死体安置所の蛍光灯のように、不気味なほど冷たく発光している。

【警報:非合法な界域侵透(バウンダリ・リーク)を検知(Level 5)】

【事案:林口区(リンコく)界域侵透事件 ―― 現場臨時管束処分令を発動】

 続いて放送が流れた――壁の中から。建物のスピーカーではない、このビルよりも古く、より深淵に近い場所にある「何か」から発せられる声。抑揚のない合成音声が、延々と官職名を読み上げていく。国家安全局【后羿(ほうげい)】に始まり、気象署観測庁、調査局九科、そして最後は――警政署鍾馗組(しょうきぐみ)

 組織名が一つ増えるたび、俺の胃は一目盛りずつ絶望の底へと沈んでいった。

「登録外の全霊体、物質、および肉塊は、五秒以内に行政的な帰位(リセット)を完了せよ」

「五――四――三――」

 ドォォンッ!

 防火扉が「物理的に」破壊されたわけではない。それは金属が緩慢にねじ切られるような、理不尽な叫びだった。扉の向こうにいる「何か」は、焦ることなく一定の圧力で内側へと押し入ってくる。隙間から淡い青色の蛍光が染み出し、門枠を伝って、室内の「非合法な霊圧」を一画一画、論理的に中和していった。

 扉が、内側へ滑り落ちるように開く。

 サーチライトの暴力的な光柱が突き刺さり、床一面の肉塊が無残にスキャン(照らし出)された。俺は眩しさに目を覆い、指の隙間からその光景を覗き見る。

 入り口には特務警察(タクティカル・ポリス)が整列していた。全身黒の最新装備、そのヘルメットのバイザーには、京劇の鍾馗(しょうき)の隈取りがプリントされている。

 だが、先頭に立つ男だけは決定的に異質だった。

 灰色の背広。二十年は着古したかのように白っぽく褪せている。胸元のIDカードには、標準的なフォーマットで、およそ国家公務員とは思えない不吉な内容が記されていた。

『法務部調査局 国家安全維持処 第九偵防科』

 彼は入室すると、眼鏡を無造作に押し上げた。床で蠢く「葉ママ(はは)」の成れの果てを一瞥し、それから俺を見て、標準的な公務員の微笑を浮かべた。――区役所や税務署の窓口で誰もが目にする、プロフェッショナルで無菌、共感能力を完全に欠いたあの微笑だ。

 彼は事務的な動作で、林口地方裁判所の強制捜査令状を提示した。

周士達(ジョウ・シーダー)さんですね。私は九科の専員、姓を(グァン)と申します」彼は言った。「公務執行中につき、ご容赦を」

 官専員の合図で、特警たちが室内に散らばり、家宅捜索を開始した。彼は床の惨状を二度と見ず、それが誰のなれの果てかを聞くこともなかった。

 彼の丁寧さは、工場の精密機械で裁断されたかのように冷たく、完璧だった。

「周さん、混乱されているのは重々承知しております」

 彼は掌を広げ、会議の議事録を読み上げるような平坦なトーンで告げた。

「ですが、まずは説明を聞いてください。この邸宅にはもう住めません。台北の住所もすべて管制区(クローズド・ゾーン)に指定されました。それから――」彼は一拍置いた。

「お勤めの会社には、こちらで停職(サスペンション)の手続きを済ませておきました」

「……は?」

 俺の脳が完全にフリーズ(ハングアップ)した。

 停職。休暇届すら出していないのに、国家が俺の代わりにすべてを「決定」していた。

 どうやら俺の日常メインシステムは、俺の知らないところでとっくに上書き(オーバーライト)されていたらしい。

「周さん、台北市で一年にどれだけの霊異事件が公式記録されているかご存知ですか?」

 俺は無意識に首を横に振った。

「ゼロです」彼は満足げな笑みを浮かべた。「我々のような勤勉な公務員が、皆様の代わりに事前にお引取り(デバッグ)しているからです」

 彼はそこで言葉を切り、重いため息をついた――そのため息だけは、演技ではない本物の疲弊感(ダメージ)を帯びていた。

「ですが、あなたが現れてからというもの……」彼は顔を覆った。「一日の目撃通報だけで数千件。空間の歪み、虚実の交錯、裏北市(うらぺいし)との接続異常が爆発的に増え、我々の人員は過労死寸前です。……ですから、単刀直入に申し上げます。政府はあなた、そしてそちらのご友人方を『一時的に保護』することを決定しました」

「保護、か」俺は反芻した。「どっちかと言えば、不当拘留って響きに聞こえるんだが」

 官専員は怒らなかった。ただ、また事務的な動作で眼鏡の位置を直した。

「穏便に済ませることもできますが」彼は言った。「あなたを袋詰めにして強制執行することも可能です。……公務員のアドバイスとして言わせてもらえば、前者をお勧めしますよ」

 俺は葉綺安(イェ・キアン)林雨瞳(リン・ユートン)に視線をやった。葉綺安はまだ震えており、林雨瞳はゆっくりと首を横に振った。――『今は抵抗するな』、その瞳はそう告げていた。

「……分かった、ついていくよ」俺は番刀を下げた。「ただし、人道的な扱いを要求する」

 その言葉を吐き出しながら、俺は脳内で「特級肉」の判子を押された出荷待ちの豚を幻視した。その豚は、俺とそっくりなツラをしていた。

 官専員は笑った――嘲りではなく、純粋にこちらを興味深い対象として見る笑みだ。

「周さん、私はあなたを逮捕しに来たわけではありません。最高ランクの『賓客』としてお招きするのです。最高級の接待は保証しましょう」

 だが、彼の目は笑っていなかった。

 その裏にある『余計な真似をしたらタダじゃ済まさない』という無言のプレッシャーが、精密に研磨された刃のように俺の肌を刺す。

「いいでしょう、約束だ」

 彼は俺の手を熱烈に握り、二度振った。掌は乾燥し、握力は正確。相手に完全に主導権を握られていることを分からせる、洗練された握手だ。直後、彼の視線が俺の肩越し、林雨瞳が持つ魔法瓶へと向けられた。

 彼は一秒間、完全に静止した。

 そして、官専員は背広を整え、二歩前に出ると、恭々しく九十度の敬礼を捧げた。

「下官、お迎えが遅れましたこと、伏してお詫び申し上げます。牛・馬(ごず・めづ)両将軍閣下」

 魔法瓶から青い煙が噴き出し、サーチライトの白光の中で、ゆっくりと人の形を成していく。深青色の古式甲冑、馬三娘の姿をしたその神霊(アバター)は、現代的なリビングにそぐわない山岳のごとき威圧感を放っていた。

グァン殿」馬三娘将軍の声が、空気そのものを震わせる重低音となって響く。「貴殿の組織に事前通報しなかったのは、こちらの不手際だ。牛将軍(ごずしょうぐん)が不詳の徒に襲われ、原神(げんしん)が散逸した。……貴殿の側の医療設備を拝借し、処置をお願いしたい」

「もちろんでございます」官専員は直立し、俺に一瞥をくれた。その瞳に一瞬だけ、計算高い光が走る。「ホテルに専門の医療チームを待機させましょう」

 彼は腕時計を確認した。

 それは三十年以上前の代物と思われる古い機械式時計だった。戦術装備や電子機器に溢れたこの空間で、そのアナログ(遺物)は不気味なほど「リアル」な存在感を放っている。

「時間がありません。気象署の界域安定儀が保つのはあと五分です」

 彼が虚空に向かってパチンと指を鳴らす。

 その瞬間、リビングの床が振動を始めた。

 地震の揺れではない。地下からせり上がってくる規則的で重厚なリズム。遠くから列車がホームに滑り込んでくるような、逃げ場のない地鳴り(振動)が空間を支配していく。

 官専員は背広の内側から黒い磁気キーを取り出した。表面には「九科」の紋章が刻まれている。彼はそれを、壁に設置された何の変哲もない火災報知器にかざした。

 ――カチリ。

 小さな音。だがそれは、扉が開く音ではなく、世界を繋ぎ止めていた「何か」が外れる音だった。

 そして、壁が動き出した。

 動いたのは壁全体ではなかった。パズルのピースを裏返すように、壁の一部が精密な矩形に回転し、その裏側に潜んでいた無機質なステンレス製の防火扉が姿を現した。

 扉の向こうから吹き抜ける空気――。乾燥し、カビの臭いとコンクリートの湿り気を孕んだそれは、地下道の最深部でしか味わえない、世界から隔絶された死臭(におい)だった。

「この通路は桃園空港MRT・A9林口駅の保守用区画に直結しています」

 官世恆グァン・シーハンは振り返ることなく、暗い通路へと足を踏み入れた。

「深夜、機捷(MRT)が止まるのは一般人パンピーにとっての話です。我々にとって、軌道は常に開かれています」

 俺たちは非常階段を駆け下りた。果てしなく続くコンクリートの構造体。一歩踏み出すごとに反響エコーが闇に重なり、まるで背後から「何か」がついてきているような錯覚に陥る。俺は決して、後ろを振り返らなかった。

 最後の重い扉を押し開けると、視界が唐突に開けた。

 ――A9林口駅、ホーム。

 だが、俺の知っている駅ではなかった。紫色の案内灯はすべて減光され、消えかかった蝋燭のように並んでいる。高架駅全体が林口特有の濃霧に飲み込まれ、ガラスの壁の向こうには何もない。ただ、重厚で密実な霧だけが広がり、この駅を雲海に漂う幽霊船フライング・ダッチマンのように見せていた。

 ピーーーーーーーー。

 EAS(緊急警報)の音が再び鼓膜を突き刺す。

 ――列車が、来る。

 窓がない。全身が消光マットブラックに塗装され、光さえも吸い込むような死角の塊。先頭車両に行き先表示はなく、ただ鮮血のような赤い文字が闇の中で明滅していた。

【特急:国安】

「乗りなさい」官世恆が促す。「この車両は民間の監視網をすべてバイパスし、台北へ直行します。速度は少々出ますよ。空間が歪む感覚があるかもしれませんが、それは正常な物理的排斥です。……目を閉じていればすぐ終わります」

 俺は葉綺安(イェ・キアン)を庇い、林雨瞳(リン・ユートン)が魔法瓶を抱えて後に続いた。

 ドアが閉まった瞬間、A9駅の鉄骨構造が悲鳴を上げて振動し始める。窓の外の濃霧が車速によって紫色の光影へと引き伸ばされ、ガラスの上を猛烈な速さで後退していく。まるで世界そのものが解体されていくような光景だ。

グァンさん」俺は彼を呼び止め、飛散する眼球のような光影を凝視しながら尋ねた。「……この列車の終着点はどこだ?」

 官世恆は青いプラスチックの座席に、まるで行政院の会議にでも出席しているかのように背筋を伸ばして座っていた。揺れる漆黒の車内において、その姿は決定的に異質だった。彼は指先で眼鏡を押し上げ、レンズに冷たい反射を宿す。

「Gホテルです」彼の口調は観光パンフレットを朗読するように平坦だった。「完璧な霊圧中和設備と、二十四時間体制の特務警備。周さん、安心してください」

 俺は一秒間、沈黙した。

 それから、絞り出すように言った。

「……俺、金持ってないぞ」

 それは、口をついて出た本音だった。タイミングが最悪なのは分かっている。死体の山から這い上がってきた直後に、最初に心配するのが金だなんてどうかしている。

 だが、Gホテル(超高級五つ星)だぞ。あの宿泊費に、俺たちの「非物質資産メンテナンス費」とやらが加算されたら――。

 正直、クトゥルフに食われていた方がまだ安上がりだったんじゃないかと思えてきた。

 官世恆グァン・シーハンの口角が、わずかに吊り上がった。それは極めて危うい、ある種の「支配」を確信した者だけが浮かべる笑みの形だった。

 彼は背広のポケットから一枚の黒いルームキーを取り出し、俺の目の前でひらつかせた――国家安全局の紋章が刻印され、裏面には部屋番号すら記されていない。

「政府が全額負担しますよ」と、彼は言った。「結局のところ、周さん……」

 彼の声が、オクターブ低く沈む。

「……あなたが外で勝手気ままに問題バグを振りまき、そのたびに発生する『行政修復費』に比べれば、ここ数日の宿泊費など、国家予算という分母においては切り捨てられる程度の誤差(四捨五入)に過ぎないのですよ」

 そのタイミングで、車内放送が低く「ピー」と鳴り響いた。

『列車はまもなく、台北駅私設引き込み線に到着します』

 俺はその黒いカードキーを凝視した。

 部屋番号はない。有効期限もない。情報という情報が削ぎ落とされた、ただの「鍵」。ある扉を開くための物理的な許可証。――だが、その扉の向こうに何が待っているのか、俺には全く想像がつかなかった。

「政府持ちの招待フルコース

 俺は脳内でその言葉を何度も反芻し、裏表をひっくり返して眺めてみた。

 分かっている。

 この世に、タダほど高いものはないということを。


「ええ……はい。承知いたしました。……彼には伝えておきます」

 官世恆グァン・シーハンが、出し抜けにスマートフォンで秘密回線の通話に応じた。その顔は職業病とも言える死人顔(デッドパン)を貫いていたが、何か不測の事態が起きたことくらい、俺の社畜としての嗅覚シックスセンスが告げていた。

 彼は通話を終えて席に戻ると、会議室の変更でも告げるような平坦なトーンで言った。

「周さん、予定変更です。次の駅で降りますよ」

「当初予定していた信義区のGホテルで少々『小さなトラブル』が発生しましてね。急遽、中正区のSグランドホテルに変更します」

 彼は一拍置き、無意識に現れたのかも知れない微かな安撫のニュアンスを込めて付け加えた。

「そこは中正区。……この国家の最高権力機構(セントラル・ドグマ)の所在地です」

 誰も答えなかった。

 肉漿にくしょう鬼差(きさい)、そして番刀(ブッシュナイフ)を載せたこの幽霊列車の空気は、おそらく彼の予想よりも数段重苦しかったはずだ。

「……最も安全だとは断言しませんが」官世恆は表情を消し、標準的な公文体テンプレートの語りに戻った。「少なくとも、あなたの築四十年になるボロ家よりは、現実空間としての構造的安定性において圧倒的な優位性を持っています」

 言い終わるか否かのタイミングで、車内放送が低い電磁的なビー鳴音を発した。故障ではない。既存のいかなる音とも似ないよう、意図的に設計された周波数だ。

『列車はまもなく到着します ―― 善導寺(ぜんどうじ)駅。私設引き込み線』

 俺は防弾仕様の窓に張り付いて外を窺った。

 本来なら地上を走るはずの空港MRTの軌道が、激しい転轍ポイントの振動の後、音もなく見知らぬ地下プラットホームへと滑り込んでいた。

 灯りは暗赤色。装飾ではない。光源そのものがこの色を選択していた。壁面には広告も路線図も存在せず、ただ巨大な青い梅花の紋章(エンブレム)と、お堅い明朝体の文字が並んでいる。

【行政院専用 位相転送拠点ディメンション・ターミナル

「周さん、降車してください」

 官世恆は優雅に背広の襟を整えた。その口調は、ホームの灯りと同じように不気味なほど落ち着いている。

「ここからSホテルの専用エレベーターへ直結しています。行政院と警政署に隣接するこのエリアは、我々が『核心維度防禦区(コア・ディメンション)』と定義している聖域です」

 彼は、何でもないことのように付け加えた。

「あなたがその門を一歩も出ない限り、閻魔大王(えんまだいおう)ですらあなたを連れて行くには、内政部に公文を提出して許可を仰がねばなりません」

 俺は血に汚れた番刀を提げ、顔色の悪い葉綺安(イェ・キアン)を支え、魔法瓶を抱えた林雨瞳(リン・ユートン)を連れてホームに降り立った。タイルの床は人影が映るほどに磨き上げられ、塵一つなく、目地すら見当たらない。空気は乾燥し、強力な空調循環の臭い――そして、何とも形容しがたい「書類、判子、絶え間ない残業」が混ざり合ったような行政の気配(オーラ)が漂っていた。

 俺は黄金色に輝く秘密のエレベーターを前にして、やはり言い知れぬ不安を感じていた。

「……グァンさん」俺は口を開いた。「ここに泊まるの……マジでタダなんだよな?」

「安心してください」

 官世恆グァン・シーハンは、無機質なマットブラックの感應カードを俺に差し出した。その手つきは、精密機械のように澱みがない。

「【九科】が皆様のために『国家特殊資産維持予算』を申請済みです。宿泊費、および【十二厨(キッチン12)】での食事代は、すべて国庫から精算されます」

 彼は言葉を止めず、淡々と続けた。

「……あなたが外で勝手に『問題バグ』を誘発した際のコストに比べれば、この程度の宿泊費など、安いものですよ」

 エレベーターの扉が閉まる。

 フロアインジケーターは、B1、1階、2階を無慈悲にスキップし、一気に目的地で停止した。

17F|行政貴賓階層エグゼクティブ・フロア

 俺は鏡の中の自分を見た。腫れ上がった目の隈、袖にこびりついたままの紫色の肉漿。密閉された空間で、あの不快ななまぐさい臭いがより鮮明に主張を始める。

 これは避難などではない。軟禁だ。ただ、そのランクが俺の想像を数段飛び越えた行政レベルにあるというだけのことだ。

「……ああ、周さん」

 上昇する階数表示を見つめたまま、官世恆が天気の話題でも出すような軽い声で言った。

「Gホテルの方は――ある『外籍宗教団体』がプレジデント・スイートに強行侵入エントリーしましてね。それで急遽、場所を変更したのです」

 彼は最後までこちらを振り返らなかった。

「……お食事の邪魔にならないことを祈りますよ」

 扉が緩慢に滑り開く。

 目に飛び込んできたのは、廊下の果てまで続く柔らかなシャンパンゴールドの絨毯。空気には、それ自体が高価であることを雄弁に物語るウッド系のフレグランスが満ちていた。

 ここはSグランドホテル十七階、ロイヤル・エグゼクティブ・スイート。各国の元首やハリウッドスター、あるいはグランドスラムを制したアスリートたちが羽を休める場所。公式サイトには『至高の栄誉、期待を超える体験』と謳われている。

 エレベーターの前には、一人の男が立っていた。仕立ての良いスーツを纏い、胸元のネームプレートが金色に輝いている。

宿泊部長ホスピタリティ・マネージャー 卓鴻濤(ジェイソン・ジュオ)

 彼はセーム革の布で丁寧にネームプレートを磨いていた。その所作には、十数年のキャリアで培われた職業的プライド――相手が何者であれ三秒の微笑を絶やさない訓練の賜物――が宿っていた。

 そして、彼はエレベーターから降りてきた「客」の正体を確認した。

 三秒、持たなかった。

 セーム革がプレートの上で止まり、手の動きが凍りつく。彼の視線は俺の顔からゆっくりと下がり――番刀(ブッシュナイフ)へ、そして刃に付着した乾きかけの紫色の粘液へ、最後は絨毯に広がり始めた一筋の染み(エラー)へと注がれた。

 卓マネージャーの右目蓋が、ピクリと跳ねる。

「身なりが悪い」なんて言葉では生ぬるい。葉綺安(イェ・キアン)のセットアップは無残に破れ、林雨瞳(リン・ユートン)は魔法瓶を家宝のように抱えて難民のような形相をしている。そして先頭に立つ俺は、血と紫の粘液に塗れた番刀を提げ、死臭を振りまいているのだ。

 卓マネージャーの瞳が、凄まじい速度で「思考のチャンネル」を切り替えていくのが分かった。

復讐劇(リベンジ)』、『強盗致傷(レジスタンス)』、『緊急通報(110番)』――。

 だが最終的に、彼の思考は「いかなるマニュアルにも存在しない空白」に突き当たって停止した。

「おやおや、(ジュオ)の兄貴じゃないですか」

 官世恆グァン・シーハンがエレベーターの死角から、背広を着た悪霊のごとく音もなく現れた。彼は卓マネージャーと俺たちの間に割り込むと、あの感情をパージした職業的微笑を貼り付けた。

「申し訳ない。こちらの客人のことは――ひとまず、気にしないでいただきたい」

「貴様は……」卓マネージャーは半秒ほど硬直した後、鼻から重苦しい溜息を漏らした。「官世恆グァン・シーハン!」

 その名は、名前というよりは罵倒の響きを持って彼の喉から放たれた。過去、このグァンという男に相当な煮え湯を飲まされてきたのだろう。

「ここは厳格な規律を誇る五つ星ホテルだぞ」卓マネージャーは声を押し殺し、無意識に半歩後ずさった。革靴が絨毯と擦れ、鈍い音を立てる。「貴様の浮浪者収容所(シェルター)ではないんだ」

 彼の手の中のセーム革は、握りつぶされ、自制心によって解かれ、また握りつぶされていた。

 官世恆に、いかなる感情の揺らぎもなかった。

 彼は背広の内側から一枚の公文書を取り出すと、卓マネージャーの目前に突きつけた。悠遊カード(イージーカード)でもかざすような、あまりに淀みのない動作だ。

「本日は公務です」彼は声を潜め、条文でも朗読するかのような平坦なトーンで告げた。「卓マネージャー、あなたが拒絶すれば、私はひどく悲しむことになりますよ」

 彼は一拍置き、淡々と続けた。

公務執行妨害こうむしっこうぼうがい……。中で数年過ごすのは骨が折れます。ですが、あなたは賢明な方だ。そう信じていますよ」

「……官世恆」卓マネージャーは歯を食いしばり、絨毯の粘液から視線を外せずにいた。彼は大きく息を吸い込み、胸を波打たせる。何らかの心理的な防壁(ビルド)を構築しているようだった。

「……本当に政府が支払うんだろうな? ここのスイートは一晩で十数万だぞ」

「ホテル内でのすべての消費は、国家が全額負担します」官世恆は、大口の契約をまとめたばかりの営業マンのように微笑んだ。「ご安心を」

「……この、官僚(ゲス)め……」

 卓マネージャーは、その二文字を歯の隙間から一つずつ絞り出した。

「ふふっ。お褒めに預かり光栄です」官世恆は公文書を収め、平然と言い放った。それから、些細な用件を思い出したかのように手を叩く。「ああ、そうだ。後で客人たちに着替えを届けてやってください。サイズは、その熟練の目(スキル)で目測していただければ。……頼みましたよ」

 卓マネージャーは、もう何も言わなかった。

 彼はその場に膝をつくと、あのかつては高価だったセーム革を、紫色の粘液のすぐ脇にある絨毯の縁に、そっと押し当てた。触れることはせず、ただ隣に添える。それはまるで、変わり果てた愛すべき空間への、無言の弔意(レクイエム)のようだった。

 俺は番刀を提げたまま、心筋梗塞のデッドラインが迫っているであろう彼の横顔を眺めていた。

 その時、胸の奥から奇妙なほど「軽やかな感覚」が込み上げてきた。

 歓喜ではない。もっと別の何かだ。

 食物連鎖のピラミッドにおいて、初めて自分が「一つ上の階層」に立っていることに気づいた時の、あの感覚。

 たとえそれが、刹那の偽り(バグ)に過ぎないとしても。


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