第十章:国道一号(こくどういちごう) ―― 狂気(きょうき)の茶番劇(ちゃばんげき)
俺は肉の腐臭がこびりついた番刀を提げたまま、厚顔無恥にもプレジデンシャル・スイートの手織り羊毛絨毯を踏みしめた。
足裏から伝わる感触が妙に柔らかい。……疲れのせいじゃない。この絨毯が、笑えるほど高級すぎるせいだ。
卓マネージャーは顔を土気色にさせながらも、五つ星の職業訓練で本能を抑え込み、無言で隠しアロマシステムを起動させてから入り口へと退いた。大理石のバスルーム、ベルベットのソファ。窓の外には、不気味なほど整然と光を放つ行政院と警政署がそびえ立っている。
俺は窓の前に立ち、数秒間呆然とした。
まさか人生で、自分が「国家資産」として台北で最も霊圧の安定した聖域に住まわされる日が来るとは、夢にも思わなかった。
「周さん」
官世恆は扉の境界線に爪先を揃え、一センチたりとも室内へ踏み込もうとしなかった。俺たちが空間を汚染したことを嫌悪しているのか、あるいは単なる行政的な本能か――任務の引き継ぎ(ハンドオーバー)は終わった、ここからは自分の管轄ではないという明確な意思表示だ。
「着替えと食事は五分後に。まずはシャワーを浴びて、身なりを整えてください」彼は眼鏡を押し上げた。「その後、異課の処長があなたとお話ししたいそうです」
俺はソファに深く身を沈めた。
その感触が、あまりに優しく俺を包み込むものだから、危うく泣きそうになった。
「勘弁してくれよ」俺は目を閉じたまま、喉の底から声を絞り出した。「国安局だの九科だの一課二課だの……お前らの組織図なんて、まだ暗記できてねえんだ。今日はもう営業終了だ。その処長とやらには、整理券でも配って明日まで待たせとけ」
官世恆に、反応はなかった。
その顔は精密に校正された行政用インターフェースのようで、何をインプットしても同じ表情しか出力されない。
「周さん、ご不便をおかけして申し訳ありません」彼の口調は施政方針演説のように平坦だった。「改めて紹介しましょう。私は法務部九科。これからお会いするのは、行政院異常環境調査課の処長です」
彼はそこで言葉を切り、静かに付け加えた。
「あまり世知辛い言い方はしたくありませんが――彼は、あなたのこれからの生活が『平穏』であるかどうかを決定できる、唯一の人物ですよ」
――カチリ。
扉が閉まった。
俺は天井のシャンデリアを凝視した。あの灯り一つで俺の年収十年分は下らないだろうが、今の俺の心境には、そんなことは一ミリも関係なかった。
「……反吐が出るほど、情けねえな」
毒づいてから周囲を見渡し、客室から一人の気配が消えていることに気づいた。
「おい、葉綺安は? 雨瞳、あいつはどこに行った?」
林雨瞳は無表情に顎をしゃくり、バスルームの方向を指し示した。そこからは絶え間ない水の音が聞こえてくる。
「葉綺安、一晩に何回洗えば気が済むんだよ――」俺はソファから飛び起き、曇りガラスの扉を乱暴に叩いた。「皮まで剥げちまうぞ!」
「周士達!」
曇りガラスの向こうから、少し動揺を孕みつつも強がった声が響く。
「度胸があるなら入ってきなさいよ! 四十前の一口男(口だけ野郎)!」
「ふん、言ったな? 教えてやるよ、男ってのは――」
俺が調子に乗ってベルトに手をかけた瞬間、ふと正気に戻った。
(……待てよ)
俺はその向こう側が透けそうな扉を凝視し、今のやり取りを脳内でリプレイした。
あいつ、今……俺に入れと言ったか?
クソッ、今日という今日はこの生意気なガキにお仕置きをしないと、俺がどれだけ飢えた狼(ただの社畜)か分かってないらしい。俺はベルトを緩める仕草をしつつ、足を一歩踏み出した。
「周士達」
たった三文字。
背後から響いた林雨瞳の声は、低く、落ち着き払い、いかなる感情の揺らぎもなかった。それは怒りよりも遥かに処理が難しい「平穏」――かつて深く付き合った者にしか調整不可能な、呪いの周波数。
俺の足が中空で停止した。
……そして、ゆっくりと地面に下ろされた。
俺はギチギチと音を立てそうなほど不自然な動きで振り返る。「……は、はい。入るわけないじゃないですか」
彼女は魔法瓶を抱えたまま、凪のような瞳で俺を見つめていた。その視線は、判子を押されるのを待つだけの行政処分通知に似ていた。
「まだ、入るつもり?」
「……滅相もございません」
俺は黙ってベルトを締め直した。
一晩十数万もするプレジデンシャル・スイートで、俺は一つの真実を確信した。
国安局も裏台北も、俺を縛ることはできない。だが、この部屋にいる元カノと、彼女が抱える「二柱の鬼入り魔法瓶」だけは、俺の自由を完全に奪い去る。
それからどれほどの時間が経っただろうか。
俺たち三人が交代でシャワーを浴び、ホテルの用意した「新品すぎて指先が切れそうなほどパリッとした服」に着替え、ベッドに崩れ落ちて思考停止しかけていた頃――。
扉が開いた。
ノックすらなかった。
五十代半ばほどの、柔和な笑みを浮かべた中年の男が、巨大なワゴンを押して入ってきた。スモークサーモン、和牛、三段のデザートタワー。まるで披露宴のフルコースだ。
「いやあ、申し訳ない! お待たせしてしまいましたね!」
俺はベッドの上で、片方の瞼だけを持ち上げた。
「……おじさん、誰だよ」
意地悪な姑のようなトーンで尋ねる。
「ノックもなしに入ってきて。ここには独身の女連れだぞ。手続き上のコンプラ、アウトだろ」
「いやあ、面目ない。何せ、興奮してしまいましてね!」
その男は厚かましいほど人懐っこく、スモークサーモンの皿を俺の前に差し出した。その口ぶりは十年来の知人のようだ。
「この道三十年ですが、現場に(外勤)出るのは今日が初めてなんです。時々、自分は国民の血税を盗んでいるだけじゃないかと不安になるんですが……今日ようやく貢献できている実感が湧きましたよ!」
「おっと、自己紹介が遅れました」
彼はポカリと額を叩いた。
「行政院災害防救公室所属、“異常環境調査処”処長、沈建宏です。以後、老沈と呼んでください。お堅い官僚儀礼は抜きにしましょう」
俺は彼を観察した。
少し太めの体格、色褪せた黒のジャンパーにチェックのシャツを合わせ、裾はスラックスからだらしなくはみ出している。金縁の眼鏡をかけた丸顔は、まるでジャンパーを着た弥勒菩薩だ。
こいつが……官世恆が言っていた「俺の運命を左右する大物」なのか?
まあ、いい。
偽物に遭遇してから、まともな食事は一度もしていない。林口で食ったカップ麺なんてとっくに消化済みだ。目の前の五つ星料理に背を向けるのは、自分の生存本能に対する裏切りだ。
俺は鶏のドラムスティックを掴み、豪快に齧りついた。
老沈は悠然と腰を下ろすと、ゆっくりと探りを入れてくる。
「どうだい、最近の調子は?」
「最悪だ」俺は口の中をパンパンにしながら吐き捨てた。「前世でよっぽど酷い罪でも犯したんじゃないかってくらい、ツキに見放されてるよ」
断言してもいいが、こいつはここに来る前に俺の家系図から初恋の相手まで調べ上げているはずだ。今さら取り繕う必要なんてない。
「見ての通り、しがないサラリーマンが、わけのわからん怪異に巻き込まれたんだ。家は消え、仕事は失い、挙句の果てにキチガイアイドルと元カノに付きまとわれてる。泣きたくても泣く場所がねえよ」
「ちょっと周士達! 誰がキチガイ(蕭婆)よ!」
葉綺安が真っ先に飛び上がった。
「自覚がある奴が返事するもんだろー」俺は彼女に向かってアッカンベーをしてやった。
彼女がフォークを逆手に取って突っ込んでこようとしたが、林雨瞳がそれを制した。表情一つ変えず、まるでそよ風でも受け流すような自然な動作だ。
「それらの問題はすべて解決可能です、周さん」老沈は悠然と眼鏡を押し上げた。「金で解決できる問題は、我々にとって――問題ではありませんから」
「へえ、政府の予算ってのはそんなにザルなのか? 立法院の連中が黙っちゃいないだろ」俺は皮肉を込めて言った。
老沈が、微かに微笑んだ。
その瞬間、あの柔和な弥勒菩薩の仮面が――剥がれ落ちた。
徐々にではない、一秒の狂いもなく「中身」が入れ替わったのだ。体制の深淵で三十年を過ごした者だけが纏う、冷徹な重圧が部屋中に拡散していく。
「与党も野党も、どこの政治家だろうと、我ら『裏政府』の予算に指一本触れられる者はおりませんよ。文句があるなら表の政府へ行けと言ってある」
彼は一拍置き、淡々と続けた。
「私の予算を削る? ……そんな真似をすれば、その男の来世は保障できません。行政院の降霊科も予言処も、二度とその者のためには稼働しませんから」
直後、またあの柔和な笑みが戻ってきた。何事もなかったかのように、継ぎ目なく。
「とにかく、衣食住の心配はいりませんよ」
「……で、見返りは?」俺は先を促した。
老沈はきまり悪そうに鼻の頭を掻いた。見透かされた、という顔だ。
「普段、あなたが何をしていようと干渉しません。人助けだろうが遊び歩こうが自由です」彼は眼鏡の奥で瞳を鋭く光らせた。「ですが、時折……政府が『直接手を出しにくい』案件が発生します。その際は、力を貸していただきたい……」
「給料は?」俺は食い気味に遮った。
「……え?」
「『え?』じゃないだろ」俺は鶏肉を置き、真剣な眼差しで彼を射抜いた。「あんた、ボランティアで仕事してるのか? 報酬もなしに誰が命を張るんだよ」
「あ、ああ……それなら、この数字ではどうでしょう?」老沈は少し慌てた様子で電卓を取り出すと、ある数字を叩いて差し出してきた。
俺はそれを受け取り、一瞥してから後ろに「0」を二つ書き足して、突き返した。
「これくらいが妥当だ」
「これ、は……」老沈は液晶画面を凝視し、額に薄っすらと汗を浮かべた。「少々、やりすぎではありませんかね?」
「そうか?」俺はナプキンで口を拭った。「不満なら、自分で牛頭馬面と交渉してくれ。あいつらの医療費がいくらかかるか、聞いてみるんだな」
俺はテーブルの上の魔法瓶を指さした。
その瞬間、音もなく青い煙が瓶の口から溢れ出した。
馬三娘の顕現だ。彼女は大半の霊力を回復させたようで、灯りの下で堂々と立ち上がった。その馬の貌はどう見ても不気味だったが――いや、正確には、脳が必死に人間に分類しようとして失敗し続ける、あの独特の不気味な谷だ。
「周士達は地府の大貴人、未来の城隍神候補だぞ!」彼女の声がスイートに轟然と響き渡った。「陽間の端金を要求して何が悪い。政府というやつは、これほどまでケチなのか!」
老沈は危うく椅子から転げ落ちそうになった。
「ま、馬将軍閣下……あなたまで……」彼は俺に向かって、泣き言と絶望の混じった目配せを送ってくる。
「……ま、その辺にしておけよ、三娘」
俺は不敵な笑みを収め、沈建宏を真っ直ぐに見据えた。
「条件は三つだ」
「一つ。戦力が欲しいなら、まずは牛将軍を完治させろ。牛頭が欠けてちゃ偽物どころか、あんたの案件なんて回せやしない」
老沈は壊れた玩具のように頷いた。
「二つ。車を用意しろ。俺のベンツは林口に置き去りだ。当分、あの傷心地には戻りたくない」
「そして三つ目」俺は一呼吸置いた。「情報の共有だ。協力関係を築くなら、公文書で煙に巻こうなんて思うな。あんたが知っていることは、俺も知る権利がある」
老沈は絶句し、しばらく固まっていた。
やがて、彼は教え子に難問を突きつけられた教師のように、苦笑しながら首を振った。
「周くん……」彼は眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭いた。「君が外交官か政治家にならなかったのは、国家にとっての大きな損失だよ」
彼は眼鏡をかけ直し、俺を静かに見つめた。
「……逸材だ。まさに逸材だよ」
老沈は額の冷汗を拭い、電卓の液晶に並ぶ「0」が二つ書き足された数字を凝視した。
心が血の涙を流しているのは明白だ。だが、その官僚的な笑みの仮面は微塵も揺るがない。顔の筋肉だけが別の独立したシステムで制御されているんじゃないかと疑いたくなるほどに。
「よかろう」彼は立ち上がり、色褪せたジャンパーを軽く叩いた。その口調からは、太っ腹なのか、それとも身を切るような痛みを感じているのかは判別できない。「周くん、長期的な協力関係を築く以上、私としても出し惜しみはせんよ。この報酬は『国土安全緊急応急費』の名目で計上する。これなら誰にも嗅ぎつけられん。車は地下二階の専用駐車場にある。鍵は官世恆から受け取れ」
彼は椅子に座り直すと、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「さて……では君の『最初の任務』について話そうか」
俺は冷え切ったピザを掴み、口に放り込もうとしたところで――。
「げほっ、ごほっ……げほおっ!」
危うく老沈の顔面にピザの残骸を噴射するところだった。
「おい、入社したばかりだぞ」俺は胸を叩きながら抗議する。「まだ【十二厨】の朝食券がどんなツラしてるかも見てないんだ。それなのにもう出撃かよ?」
「仕方がないのだ」
老沈が眼鏡を直すと、レンズの奥の光が先ほどとは一変した。弥勒菩薩の仮面は健在だが、その後ろに潜む「執行者」がワークモードへと切り替わったのだ。
「気象署観測庁から報告があった。――君が林口に置き去りにしたあのベンツだ。現在、あのアセットが中心となって、裏台北の封鎖領域が外側に向かって凄まじい勢いで拡張を続けている」
彼は一拍置き、残酷な事実を告げた。
「このまま放置すれば、あと三時間以内に林口という街そのものが、地図から消失する可能性がある」
「……そこまで重症なのか?」俺はピザを置いた。「いや、でもさ……あの車、林雨瞳のだぜ。別れた時に譲ったもんで、俺は運転席に数回座ったくらいで――」
「周士達」
「……分かったよ。行けばいいんだろ」
終わりのない戦いがあるように、終わりのない残業もまた存在するらしい。
「牛将軍の医療チームはすでに出発した。閣下はこのフロアの秘密診療所で処置を受けていただく」
老沈はテーブルの上の魔法瓶を指さした。
「君は彼女たちを連れて、国道一号が完全に封鎖される前に林口へ戻り、あの車を始末してくるんだ。……『清掃』を頼むぞ」
俺はもう何も言わなかった。
脳内での愚痴すら省いた。言葉を巡らせたところで何の意味もないと気づけば、それは自然と霧散していく。俺は残りの料理を胃袋に放り込み、この豪華な晩餐に別れを告げた。五つ星ホテルの冷めたピザは、コンビニのそれと大差ない味がした。
……おそらく、俺の気分のせいだろう。
Sグランドホテル、地下二階、専用駐車場。
整然と並ぶ黒塗りの公用車たちは、まるで受領を待つ棺桶のように死気を漂わせていた。
その中で、俺は「それ」を見つけた。
漆黒の|ダッジ・チャレンジャー《Dodge Challenger》――。
隅の方で低く構えるその車体、ボンネットから突き出したシェイカーフードは、まるで呼吸を止めて解き放たれるのを待つ猛獣のようだった。駐車場の蛍光灯を反射することなく、光をそのまま飲み込んでしまう「漆黒」。
「周さん、鍵です」
官世恆が鍵を差し出してきた。その口ぶりは、まるで遺言を託すかのようだ。
「車内オーディオは一課の内線チャンネルにプリセットしてあります。道中、『存在してはならないもの』に遭遇した場合は――」
彼は一瞬言葉を切り、冷徹に告げた。
「……アクセルを床まで踏み抜く。それがこの車両の唯一の回避策です」
俺は鍵を受け取り、余計な問いは飲み込んだ。
運転席に飛び込み、シフトノブを握った瞬間、アメ車特有のガソリンの臭いと革の温もりが俺の意識に流れ込む。まるで、この瞬間を長い間待っていたかのように。
後部座席では、葉綺安がすでにスマホを構え、フィルターの選別を始めていた。
「ねえ、この車めちゃくちゃ映えるんだけど! ストーリーに上げてもいい――?」
「ダメだ」
俺と林雨瞳の声が完璧に重なった。
林雨瞳はそれ以上何も言わず、シートベルトを引き寄せた。バックルをはめる指がわずかに震え、カチリという音を確認してから手を離す。その音だけが現実であると確かめるかのように。
「出るぞ。舌を噛むなよ」
俺はイグニッションを捻った。
――ドォォォォォンッ!
6.2リッターのV8エンジンが、密閉された地下空間で咆哮を上げた。爆発音ではない。胸腔を直接揺さぶるような低周波の振動。蛍光灯の管が共鳴して震えた。俺はブレーキを解き放ち、アクセルを底まで踏み抜く。
この「チャレンジャー」は、発進したのではない。――射出されたのだ。
機械の悲鳴を撒き散らしながら、黒い砲弾が出口のスロープを切り裂く。地下駐車場の官僚的な死気を置き去りにし、暴力的な加速で忠孝東路へと躍り出た。
インパネの時計に目をやる。午前二時十二分。
「……はぁ。今夜も、安眠は無理そうだな」
エンジンの重低音が車内を満たし、国道一号の街灯が一本、また一本と背後へ吹き飛んでいく。
車列は疎らだ。静寂があまりに深く、不自然だった。
俺の瞼が、俺の意志を無視して重く垂れ下がり始めていた。
その時、バックミラーの中に一台の車両が紛れ込んだ。
青い軽トラック。車体は古びていて、フロントガラスには色褪せた平安符が数枚貼り付けられている。
別段、奇妙なことではない。深夜の国道なら、急ぎの荷を運ぶこの手のトラックに遭遇することは珍しくない。
俺は前方に視線を戻した。
だが、バックミラーの中の軽トラに追い越す気配はない。つかず離れず、一定の距離を保って、ただひたすらに、しつこく、追随してくる。
「……」
俺は車線を変えた。
すると、あいつも車線を変えた。
「何のつもりだ?」
俺は元の車線に戻る。
あいつも戻ってきた。俺の車のテールランプに張り付くような距離。一センチの狂いもなく、正確に。
それは「追走」というより、背後からこちらの寸法を測っている(メジャーを当てている)かのような不気味さだった。
道路標識が横を通り過ぎる。――【林口 30KM】。
俺はそこで初めて、バックミラーの中の「それ」を凝視した。
車体の側面には、一面に朱砂で書かれた赤い呪符が貼り付けられていた。符紙は風に煽られて激しく震え、その縁はなぜか黒く焼け焦げている。バンパーには白い布の垂れ幕が揺れており、そこにはこう記されていた。
『一路好走 萬事如意 中華民国里隣互助救済会 |敬輓《謹んでお悔やみ申し上げます》』
荷台には、一基の棺が載っていた。
漆黒で、重厚な、固定すらされていない棺。時速百五十キロで疾走する車体の上で、それは物理法則を完全に無視し、微塵の揺れもなく均衡を保っている。荷台の両脇には人影が並んで座っていた。顔は見えない。彼らは手に持った鑼や太鼓を、一定のリズムで叩き続けている。
――ジャン、ジャン、ジャン……。
整然としたそのビートは、まるでこれから始まる凄惨な儀式の、号砲のようだった。
そして俺は、そのトラックの屋根の上に「それ」を見た。
蛍光イエローのボランティア・ベストを纏った、一体の乾涸びた死体。ベストの背中にはこう印字されている。
『中華民国里隣互助救済会 第七分会 外勤ボランティア』
それは屋根の上に胡坐をかき、胸のジップロックから一掴みの冥紙を取り出すと、一枚一枚、丁寧に夜空へとバラ撒いていた。その所作はあまりに几帳面で、真面目に職務を遂行するボランティアそのものだった。
「士達、あの車の荷台……」左後方から林雨瞳の声が響く。彼女の両目は、すでに黄金色の霊光に満たされていた。「棺があるわ」
彼女は、中に何が入っているかは言わなかった。
窓の外で、乾屍の首が不自然に伸び始めた。
一段、二段、三段――。
乾ききった顔面が、過度に引き伸ばされた皮のように、音もなく俺のサイドウィンドウに張り付いた。俺の顔との距離は、五センチもない。
悲鳴は上げなかった。だが、右足が反射的にアクセルを蹴った。
「お兄さん」乾屍の口が動き、ガラスの隙間から声が漏れ出す。近所の住人が共同購入(シェア買い)でも誘ってくるような、奇妙な親切さを孕んだ響き。
「彼女とドライブか? こんな夜更けに」
「……」
「お寺に寄付していかないか?」そいつは首を傾げた。「今は『陽寿』しか受け付けてないんだ。現金もカードもいらない。直接引き落とすから、とても便利だぞ」
そいつは笑い出した。その笑い声は、廟会(お祭り)が引けた後の寂れた広場で響くような、疲れ切った歓喜。それが時速百五十キロの風に切り裂かれ、断片となって消えていく。
「霊車がドリフト、棺桶が飛ぶ! 母ちゃん見てな、親父が飛んでるぜ――!」
乾屍が狂ったように絶叫した。
発財車が蛇行を始める。
荷台の棺がドリフトの慣性で外側へと大きく振られた。漆黒の鉄球のごとき質量。荷台に乗った儀式隊の重量をすべて乗せ、それは俺の車のテールに向けて叩きつけられた。
「周士達! 加速してっ!」葉綺安が悲鳴を上げる。彼女の端正な顔は恐怖で歪み、スマホはいつの間にか床に転がっていた。
「……舌を噛むなよ」
俺はシフトレバーの脇にある、あの紅いカスタムボタンを親指で押し込んだ。
――ドォォォォォンッ!
シェイカーフードの吸気口が野獣のような咆哮を上げ、排気管から二条の湛藍の炎が噴き出した。朱砂の金光を孕んだ炎が、夜の闇に焦げた弧を描く。暴力的なGが俺をシートに叩きつけ、リアタイアがアスファルトを削りながら刺すような白煙を上げた。
棺が激突するコンマ一秒前、チャレンジャーは前方へ百メートルあまり跳躍した。
バックミラーの中で、標的を失った棺が路面に叩きつけられ――。
次の瞬間、それは「爆発」した。
木材が砕ける音ではない。「紙」が弾ける音だった。数十体もの白い紙人形が裂け目から溢れ出し、時速百五十キロの夜風に引き裂かれ、国道の灯火の下で翻りながら霧散していく。
まるで、主催者のいない葬儀が、そのままお開きになったかのように。
結局、棺の中には何もなかった。
最初から、何も入っていなかったのだ。
「とても面白い」★四つか五つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★一つか二つを押してね!




